【大阪府太子町】二上山・雌岳に実際に登ってみた。山の神の息づかいを濃密に感じた。

おなじ山頂を目指すにしても、そこにいたる登山ルートは幾通りも存在する。

よく整備され、舗装の行き届いたおだやかなルート。山中行軍とでも嘆きたくなるような急勾配のみち。そして文字通りのけもの道…。北から、南から、西からと起点を違えたさまざまなルート。

奈良と大阪の府県境にある二上山は、やさしい山容を見せている。ふもとの穏やかな田園風景ともあいまって、雄岳・雌岳のふたつの峰をもつこの山が、かつて火山であったとは、なかなかすぐには納得できない。

わたしは大阪府太子町側にある二上山登山口から、まず、雌岳にある鹿谷寺跡 (ろくたんじあと) を目指した。

そこからなら、「ろくわたりの道」という整備された登山道を行くのが一般的だ。

しかしわたしは、そこよりもすこし東寄りのルートを選んだ。

登山はよく、人生にたとえられる。

正規ルートではなく、そんな裏道を選んでしまうあたり、これまでのわたしの人生の歩みが、推して知れるというものだ。

鹿谷寺跡

ろくわたりの道をすこし東にそれると、道がふたてに分かれていた。

右手に進めば、岩屋や古代池があるはずだ。そして短い渡し板をこえて左手に進むと、鹿谷寺跡にいたる。

まちがいはない。

ちゃんと標識がでている。

しかし薄暗く、いかにも険しい山中に入っていくかんじだ。気が進まなかった。しかしすぐそばにたつ石仏のありがたい、慈悲深いお姿に後押しされた。

道はいちおう階段状に整備されていた。

しかし、一段一段の幅が広すぎて、一歩では登れない。しかも急勾配だ。

ここは「大阪近郊のファミリー向けハイキングコース」をうたっているが、それはろくわたりの道のはなし。

これは断じてハイキングなどではない。ロッククライミングだ。もう壁をよじ登っているかんじ。

そもそもこの道に入るとき、スマホのナビは「目的地まであと5分」と告げていた。おかしいではないか。もうかれこれ10分は経っているのに、表示はまだあと5分のままだ。たとえ10分のうち、6分は息も絶え絶えにへたり込んでいたにしても。

わたしは振り向いた。

背後に識別不能な石造物がたっていた。

元々はやはり仏が彫られていたのだろうか。

わたしは先を急いだ。

ますます道は険しくなっていき、やがて岩壁が行くてをふさいだ。

 

これを登って行けというのか。

ジャージと安物のスニーカーで来てるんだぞ!

ロープもハーネスも持っちゃいない。

目的はハイキングがてらの仏教遺跡巡りなんだ、ロッククライミングじゃない!

しかしどうやら御仏 (みほとけ) の加護があったようだ。

鹿谷寺跡は、8世紀、奈良時代の石窟寺院跡である。

付近からは、土師器、須恵器や和同開珎などの出土物が確認されている。

詳しい創建年などの由来は明らかではない。しかし、インドや中国の敦煌など大陸で盛んだった石窟寺院が当時のわが国で認められるのは、ここ二上山山麓が唯一であること。また、その時代、この近つ飛鳥周辺 (現在の太子町、河南町羽曳野市)では渡来系豪族が勢力を誇っていたことなどから、かれらの関与は濃厚だろう。

十三重の石塔がまず目にはいった。そして、すぐそばの岩窟に線刻された三尊仏座像。

 

tabinagara.jp

わたしはしばしそれらに見入ったのち、こんどは反対側、ろくわたりの道のほうへと抜けて、山をくだっていった。

あっけないほど簡単に登山口まで戻ることができた。

岩屋と石切り場跡

つぎに、わたしは岩屋へとむかうことにした。

こちらの道は舗装が行き届いている。

しかし、きつい上り坂であることに変わりはない。

ぜいぜい息せき切ってのぼるわたしのうしろから、ヒトの気配が近づいてきた。話し声が聞き取れるようになる。

十代半ばの少年二人だった。

「こんにちは。おとうさん、岩屋ってこの近くですか」

「もうすこし先かな。若いのに仏教遺跡とはやるねえ」

「いえ、ボクたちカブトムシを捕りにきたんです。岩屋のそばにたくさんいるってきいて」

「ああ、それで網なんか持ってんのか」

最近、見ず知らずの年下の者から、おとうさんと呼びかけられることがめっきり増えた。もう孫がいるような歳なのだから、それもさもありなんだ。わたしはそのたびに、いつも何食わぬ顔をして返事を返している。でも、ほんとうはこう言ってやりたいのだ。

「オレはずっと独身や。ただのいちどもパパなんかになったことはない。ましてやおまえさんのパパやない!」

登山道のまわりでは、あちこちでアジサイの花が、いまが盛りと咲き誇っていた。

岩屋まであとすこしのところまで来たとき、石切り場跡が左手にあった。

ぺらぺら、ぼこぼこのブリキ板。

もうすこしなんとかならないものかと思いながら、わたしは石切り場跡へとのぼっていった。

ここから高松塚の石棺をほんとうに切り出したとして、さて、この急斜面をいったいどうやっておろしたんだろう。

この登山道に足を踏み入れて以来、わたしに寄り添うように何者かが森の中でうごめく気配をずっと感じていた。下草をゆらして地面を這いまわり、木の枝から枝へと飛び移っているようだった。先程の少年たちであるはずはない。

それは岩屋が近づいてきたいま、いよいよ数を増やして、濃密に感じられるようになった。

山の神なのか。

まさか山の神がわたしに迫り、わたしと同体になろうとしているというのか。わたし自身がこの山になる!あとはもう、無上の法悦があるばかりだ。

岩屋は鹿谷寺跡とおなじく、奈良時代の石窟寺院跡である。

大小ふたつの石窟からなり、大きいほうには三層の多層塔があり、壁面には三尊立像が彫られている。

すぐ手前には、杉の倒木が横たわっており、近づくにはそこをくぐらなければならない。

わたしは山をおり、クルマに乗り込むと家路についた。

きょうは裏道、けもの道まがいと、いろいろな道を歩いた。

明日からは、王道だけををまっすぐに歩んでいきたいものだ。

二上山山中に眠る古代信仰の跡、N君の思い出、大阪府太子町

休日の朝、庭先の白い花が芳香を放つ。

その花をつけた木は、玄関からガレージにむかうあいだにある。大豪邸ではあるまいにほんのわずかな距離、前日も、前々日も、毎日そのよこを通っていたのに、気づいてやれなかった。

元々、そこには背の高いハナミズキが植わっていた。

リードをつけて、庭でひなたぼっこをするしまこ (愛猫) が、よくそのそばで寝そべっていたものだ。

しかし、しまこが亡くなると、翌年、ハナミズキの木も後を追うように枯れてしまった。

かわりに植えたのがいまの木だ。

ガレージのすみにあったちいさな鉢植え。

最初の数年間は、花をつけなかった。

それがどんどん大きくなり、やがて白い花を咲かせるようになった。

この木の名前をわたしは知らない。

我が家では「しまこの木」と呼んでいる。

「しまこの木に花咲いてる!」

「このこ、白い花を咲かすんやったんや!」

花に顔を近づけてみた。

こんなかおりはいままで知らなかった。どんどんアタマがクリアになっていく。

いつまでもこうしていたかった。

N君のこと

ちょっとした日帰り旅行が好きで、休日にはよくドライブをする。

東に向かうときは針の温泉につかったあとで、名張にまであしを伸ばすことが多い。南なら吉野になる。吉野川のゆったりとした流れを日がな一日眺めている。西なら、何といっても大阪府の太子町だ。陵墳を巡ったあとで、ブドウ畑のなかをきょろきょろして歩く。盗人 (ぬすっと)に間違われやしないかと、すこしだけ不安になりながら。

 

tabinagara.jp

 

tabinagara.jp

N君と知り合ったのは、その太子町にある道の駅でだった。

「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」わたしは赤い軽自動車で。N君は四代目の黒いフェアレディZ (形式名 Z32)で。

Z32 は1989年デビュー。2000年まで生産された息の長いモデルだ。20年以上前のクルマを、30代半ばとおぼしきN君が新車で買えるはずはない。憧れのクルマを、中古車店巡りのすえに手に入れたのか。あるいは親父さんの、アニキのものなのだろうか。

伝統の三連メーターを排して操作系を左右のサテライトスイッチに集約した内装は未来的で、流麗なスタイルの外観と相まって、さながら宇宙船のようだ。

人目を惹くクルマなので、わたしはいつも気になっていた。

そうしてなんどか顔を合わすうち、わたしたちはどちらからともなく、短いながらも言葉をかわすようになっていった。

最初わたしは、きちんとした身なりのN君のことを失業中だと決めつけていた。会社の倒産を家族に告げることができずに、今までどおりに家を出て、夕方、笑顔で帰宅する。そんなかわいそうなヒトの記事を安手の週刊誌で読んだばかりだったせいだが、なんど会っても、N君からはそんな悲惨さは微塵も感じられなかった。ただ、わたしと同様に休みが平日、というだけのことだったのだ。家業の工場を手伝っているのだという。すっかり気心が知れるようになったころ、わたしはN君に、その誤解をあやまりながら打ち明けてみた。すると、かれのほうでもわたしのことを同様に思っていたのだと知らされて、わたしたちはゲラゲラと笑いあった。

大きな笑い声は、広い駐車場にえんえんと響いた。

腹がよじれそうだった…。

快晴。平日の午後、駐車場はいつものようにすいていた。

二上山山中の史跡について

その日、いつものように道の駅にクルマを乗り入れると、さきに来ていたN君が、待ちかねたとばかりに近づいてきた。目にちからがこもっている。

何事だろうか。

「ああ、すいません…。唐突なんですが、すぐそこの二上山登山口、ご存じですか」

「おう、わかるよ。この国道のすぐさき」

「勘弁してくださいよ、国道なんて味気ない言葉は。官道と言ってくださいよ。せめて竹内街道って」

いつものシャイなN君ではない。普段わたしたちは、当たり障りのないことしか話さなかった。天気のこと、コーヒーのこと、タバコのこと、そしてフェアレディZのこと…。会話は面白かった。

「今朝、すごく早くにここに来たもんで、あそこから二上山に登ってみたんですよ。清明な朝の空気に誘われたってところでしょうか。で、この山はすごい。二上山は」

いったいなにを言いたいんだろう。

「この山中には、史跡がいっぱい点在してるんですよ、石造の。ご存じでしたか。この山に入ったこと、おありですか」

「いや、山中にはいったことはないな。でも、すこしは知ってるよ。岩屋とか、ほかにも…」

「そうそう、それに鹿谷寺跡 (ろくたんじあと)」

わたしは二度、小さくうなずいた。

「どちらも奈良時代の仏教遺跡ですよね。見事でしたよ。それにしても鹿谷寺跡、ボクはあれをまぢかに見て、カラダが震えました。あの十三重の石塔。高さは5メートルでしたか。あれはよそで造った塔をあの険しい山中に持ち込んで、組み立てて設置した、そんなもんじゃないんです。それだって途方もないことだ。でもそうじゃなくて、まわりの凝灰岩の岩盤を掘り込んで、掘り下げていって、最後にあの石塔を残したんですよ!つまりあの塔は、足下の岩盤と同体ってわけです。これって人力のなせる業なんでしょうか。なにを想えば、そんなことができるんですかね」

「それは違うと思うよ。最初から石塔の建立だけを意図してたんじゃなくて、そこはもともとは石切り場だったはずなんだ。さんざん石を切り出し、運び出して、最後にのこった部分を石塔に加工したんじゃないかな」

「石切り場。そう、岩屋のすぐそばにも石切り場跡が残っていましたよ。高松塚の石棺はここから切り出されたんだって、プレートがありました。つまりこの二上山は、古墳文化仏教文化のあいだのミッシング・リンクってわけなんですよ」

なぜ、そうなるんだ。

「大阪と奈良の府県境には、山々が連なってますよね。北から、生駒山信貴山二上山葛城山金剛山…。この一連の山系には…」

山中でおかしなガスでも吸ったのかい、などとは言わなかった。

「ちょっとコーヒーブレイクにするか。歴史談義、興味深いよ。なにか買ってこよう」

売店にむかうわたしの背後で、N君の声がした。

「この山系で修験道がおこったこと、これは必然だったんですよ」

屯鶴峰駅を夢見て

わたしはN君にコーヒーを差し出した。N君はブラック一本やりだが、わたしは甘いのを好む。

さあ、Zの話でもしようじゃないか。もうすぐ新型がでる。プロトタイプを見たぞ。すごくいかしてる。

それにしても、いつもピカピカにしているZ32、きょうは埃まみれだ。どうしたんだろう。

N君はひとくち飲むと、言葉を続けた。今日はどうしてもこの山のことを話したいらしい。

「ここには、ひとつ気になることがあるんです。上ノ太子駅二上山駅のあいだに、むかし、もうひとつ駅があったってご存知でしたか」

「屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) だね。最近ウィキで知ったよ」

「ボクもおなじく…、です。それって正確にはどのあたりにあったんでしょうかね。ボクは屯鶴峯の駐車場のあたりじゃないかって思ってるんですよ。ちょうど線路のすぐ横ですしね。あそこに駅があって、にぎやかな家族連れがおおぜいおりてくる。そんなところを想像すると、なんかワクワクしてきませんか。それでみんなして白い岩の上に腰を下ろしてお弁当をひろげるんです。なんか楽しくありませんか」

わたしのほうから誘ってみた。

「いまから行ってみるか、屯鶴峯」

 

tabinagara.jp

ちょうど山の反対側になるとはいえ、20分ほどで二台のクルマは屯鶴峯の駐車場に着いた。

わたしたちはクルマからおりて、あたりを見まわした。ほかのクルマはなかった。道路をはさんだ向かい側に、ちいさなため池があった。

 

すでに日は暮れかけていた。

遠くから、はしる列車の音が近づいてきた。

突然、N君は駐車場の柵を飛び越え、線路のうえに立った。

笑っていた。

「おい、なんの真似だ!」

N君はわたしのほうに向きなおると、右手を腰に当て、左手を真横に伸ばすと、近づく列車のほうを指さした。

「思ったとおりだ。やっぱりここなんだ!」

おい!わたしは叫んだ。

迫りくる列車のライトが、一瞬N君の姿を照らし出す。そしてすぐさま、その強烈で、猛々しい白い光。激烈で、有無を言わせぬ強い光がわたしの視界を覆いつくした。

「みんなどうして気づかないんだ!いまもここが駅なんだ!無くなってなんてなかったんだ!列車はここにとまるんだ!」

しかし、列車はとまらなかった。

 

 

 

屯鶴峯。奈良県のインスタ映えスポット、次に来るのはここだ!

近鉄南大阪線上ノ太子駅と次の二上山駅のあいだは、わずか5キロあまり。その短い距離のあいだに、じつは戦前まで、もうひとつ駅があったとつい最近になって知って、たいへん驚いたものだ。どこにあったにせよ、それは山深いところにポツンと駅があったことになる。いまでは周辺のどこにも、その面影をみいだすことは難しい。

屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) は1937年 (昭和12年) 12月、屯鶴峯 (屯鶴峰とも) を訪れる行楽客の便を図るためにつくられた。しかし1945年 (昭和20年) 運用を停止。そして1974年 (昭和49年) 応神御陵前駅などとともに、正式に廃駅にいたったという…。

奇勝・屯鶴峯

太子町の観光みかん園を眺めながら、穴虫峠をクルマはのぼっていった。

大阪と奈良の府県境を越えて、今度はすぐにくだり坂になる。

ハイキング姿の四人連れが、屯鶴峯の入り口で楽しそうに記念写真を撮っていた。わたしと同年配の男女、夫婦だろうか。そして若い女性ふたり、かれらの娘だろう。

こんなウイルス騒ぎのさなかでも、(だからこそ) ここは根強い人気があるようだった。

雨上がりの曇り空。気温のあがりきらない今日のような日は、歩くには好都合といえる。

わたしはクルマをとめて、かれらのあとに続いた。

屯鶴峯は金剛生駒紀泉国定公園の一角を占める、奇岩群・奇勝地である。
二上山の火山活動 (最終活動期は1400万年前とも) により堆積、その後、隆起して露出し、長い年月の風化、浸食を経た白色の凝灰岩のみせる景観は、まさにまれにみるものだ。そして、これが鶴が屯 (たむろ) しているさまを想わせることが命名の由来だという。

わたしは首をかしげるばかりだった。

いくら目をこらしても、どこにも鶴はいない。

上半身をひねって眺めたり、天橋立よろしく股のあいだからみてみても、おなじだった   (上半身をもとに戻したとき、頭がくらくらした) 。いまもまだらに斜面に雪ののこる春の雪山にしかみえなくて、わたしはくすくすと笑いだした。

しかし、白色が目にあざやかなここの眺望景観がみごとに美しいことに異を唱えるかたは、おそらくおられないだろう。

二上山から切り出された石材は、高松塚古墳の石棺をはじめ、おおくの古墳に使われていることが、近年の調査結果で明らかになっている。
鶴が、石切り場から運んだわけではあるまいが…。

暗闇の中で

その夜、暗闇をみた。

あれは明かりを消した部屋の天井だったのか、タバコを吸うために外へ出たときに眺めた夜空だったろうか。それともわたしの瞼の裏だったのか。

赤茶色の、四両編成の近鉄電車が、左手からななめ上方にゆっくりと、音もなくのぼってきた。そしてぐるぐると、おなじところをまわりはじめた。ぐるぐると、いつまでも…。

自分の停まるべき駅がみつけられなくて、所在なさげに、いつまでも、いつまでも。

 

大阪府太子町、飛鳥戸神社と観音塚古墳に行ってきた。うかつにも子供のころの甘い思い出がよみがえってきた。

「近つ飛鳥博物館」「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」「飛鳥ワイン」「飛鳥橋」…。

遠方から大阪府太子町周辺にはじめて来たヒトのなかには、首をかしげるむきもおられるだろう。

ねえ、飛鳥って奈良じゃなかったかな、飛鳥ナンバーのクルマって奈良だよね、と。

飛鳥という地名自体は全国あちこちにあり、とりたてて特殊な名称ではない。

古事記は、その由来をつぎのように記述している。

いのちを狙われ、難波 (なにわ) から石上神宮に退避した履中天皇のもとへ向かう弟の水齒別命 (みずはわけのみこと・後の反正天皇) が、仮宮をたて最初に宿泊したあたりを近つ飛鳥 (難波から近いほうの飛鳥)、翌日やまと入りし、神宮にむかうまえに泊まったところ周辺を遠つ飛鳥 (現在の奈良県の明日香村) と呼ぶと。

そして、近つ飛鳥を飛鳥戸 (あすかべ) ともいい、近年では河内飛鳥ともいう。

ここは不思議なところだ。

あたりを見回してみる。

遠くの山並みを見ているときには、なんの違和感もない。しかしひとたび視点をちかくに移すと、駅舎、神社、コンビニ、古墳…、薄い膜をとおして風景を見ているような奇妙な気持になる。なにやら退行して母体にまい戻ったような、あるいは前世を見ているような。

tabinagara.jp

だからわたしは、なんども繰り返しこのあたりをよく散策する。

また、ちょっとした驚きに出会いたくて。

飛鳥戸神社に詣でて

太子町に来た。

丘陵地のいたるところ、ビニールに覆われたブドウ畑でしめられている。

遠くに二上山のふたつの峰がはっきりと見えた。あの山を越えると奈良県になる。

わたしは近鉄上ノ太子駅前を通り過ぎ、すぐさきにある飛鳥戸神社 (あすかべじんじゃ) を目指していた。

もう、なんどめかの参拝になる。

駐車場のないことはわかっていたので、近くにクルマをとめて徒歩でむかった。

飛鳥戸神社は創建年は不詳。

元々は飛鳥戸造 (飛鳥戸氏) の祖神、百済の昆伎王 (こんきおう) を祀っていたとされている。延喜式神名帳では名神大社に列せられている格式高いお社だが、明治41年、近隣の壷井八幡宮に合祀された。そして昭和27年、分祀され、以前の社地近くの現在地に再建された。そのような経緯から、いまでは名神大社の格式と結びつかないほどこじんまりとしているが、そこからずいぶんと離れたところにある石造りの鳥居が、かつての広大な神域を偲ばせてくれる。

短い参拝道に咲く花が、わたしを出迎えてくれた。

石段のさきで、わたしと同年代の夫婦が、ほうきを持って落ち葉を掃いていた。

「こんにちは」

「ごくろうさまです。ようお参りで」

拝殿の奥に引き戸があり、本殿にすすむには、そこを通らなければならない。わたしはなぜかしら引き戸を開けるのがためらわれ、いつも拝殿で柏手を打って、そこを辞する。

本殿のまわりに、幾本かのちいさな木が植樹されていた。

数年前、夕刻にここの参拝をおえて背後から流造の本殿を見返したとき、ぎょっとしたものだ。

鎮守の杜のないむきだしのそれは、まるで墓標のように、卒塔婆のように見えた。

いつの日か、植えられた木々が大きく成長し、杜となって、その見事さにわたしは息をのむことになるのだろうか。

観音塚古墳

飛鳥戸神社をあとにして、わたしはすぐ近くにある観音塚古墳にむかった。

めったにない経験だった。ナビゲーションをたよりに進んで、道に迷うのは。

南河内グリーンロード (広域農道) を突っ切って、そのまま直進する。

すぐに左手にため池が見えてくる。

そこを左折しなければならない。

うかつにもまっすぐに行った場合、どんどん道が狭くなっていく。Uターンするにも決死の覚悟がいる。もしもあなたが、すこしくらいクルマのボディーに傷がついても、ぜんぜん気にしないぜ、というのであれば、いちど行かれてみるといい。

とにかく、そこで左折する。

ちいさいが、標識がたっている。

すると、コンクリート製の階段が見えてくる。

そこをのぼって行く。

そのさきに、観音塚古墳がある。

かなりののぼり勾配だ。

わたし (60歳目前、体脂肪多し) は、途中でいちど足を止めなければ登り切れなかった。

この観音塚古墳は発掘調査がおこなわれていないため、詳細はわからないまでも、7世紀に築かれた、円墳ないし方墳とされている。

ぽっかりとあいた古墳の穴。

わたしはそれを眺めるうちに、小学生時代に夢中になった無数の穴のことを思い出した。

「こっちへこいよ。いいものみせてやる」

小学校一年生、集団下校の途中で、級友が声をはずませて言った。

下校ルートを外れるのは悪いことだと思いながらも、好奇心には勝てなかった。

われわれ5,6にん。かれのあとに続いた。

「ほら、これ!」

目の前の、粘土質の切り立った斜面に多くの横穴が開いていた。30ばかりだったろうか。

級友はハナの穴をひろげて続けた。

「これ、原始人のイエなんだ。ここでマンモスとか、食べてたんだよ。骨がでてきたって、お兄ちゃんが言ってた」

それからは、いつも下校時にはその穴に寄り道をしたものだ。

めいめいが、ここはボクの穴と勝手に決めて、そこにお気に入りのおもちゃを隠したり、駄菓子を持ち寄って食べたりした。

しかしクラス替えがおこなわれて、二年もすると、次第に横穴へは行かなくなった。

四年生になっていた。

わたしは例の級友に、横穴のことをもちだしてみた。

かれの返事は、意外だった。

「違うんたよ。あれは防空壕だったんだ。まえの戦争のときのね」

あれから半世紀たった。

近鉄生駒駅のすぐそば、あのあたりにも何度か再開発の波が来たことだろう。もう、残ってはおるまい。もっとも、ほんとうに原始人のイエや、防空壕であったとしたら別だが。

いま、この観音塚古墳の穴を、これは自分の穴だとひとり宣言したところで、もうあの頃にはもどれない…。

 

大阪府太子町はお勧めの観光スポットがいっぱい。二上山のむこうにいのちの再生を見た。

二上山 (にじょうざん・ふたかみやま) は雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の二つの峰を持つ双耳峰である。

先週の休日、わたしは長いあいだ、その山を奈良県香芝市の千股池のほとりから眺めていた。

暑かった。

まだ五月だというのに、天気予報は夏日だと告げていた。背中がうっすらと汗ばんでいた。

もう二時間もして、二上山の稜線に夕日がかかる頃には、いくぶんかは涼しくなるだろう。

やがて山の向こうに日が沈み、夜が来て、そしてまた東から泰然と朝日が昇る…。

輪廻する太陽の運行の道すじに、二上山があった。

雄岳山頂付近に大津皇子の墓がもうけられたことが象徴的なように、古 (いにしえ) の都びとたちは二上山を生と死の境をなすところ、そして現生と他界とをへだてるところと考えていたことだろう。そして、山のむこうにいのちの再生を凝視していた。

その現在は大阪府太子町となるところには、推古、孝徳、敏達、用明の各天皇陵や、聖徳太子小野妹子といった貴人たちの墓が、エジプトの王家の谷よろしく数多く密集している。

いまは静寂のなかにたたずむ陵墓群は、むしろその静けさゆえに、当時のひとびとの強い想念をわたしたちにはげしく照射してくる。

 

太子町にて

太子町…。ミカン狩り、いちめんにひろがるブドウ畑、ワイナリー、太子温泉。そして日本最古の官道、竹内街道 (たけのうちかいどう) のはしるこの地に、いまは南阪奈道路が通る。ここを訪れるには「太子IC」「羽曳野東IC」でおりるのがよい。
町の玄関口、近鉄上ノ太子駅前のロータリーには聖徳太子立像が立てられ、駅の乗降客を見守っている。

駅からクルマで10分ほどのところに、推古天皇陵がある。

わたしはさらに、小野妹子の墓を目指した。
道がどんどん狭くなる。
いくら軽自動車だとて、その先の道が不安になり、わたしはクルマを乗り捨てて、徒歩でむかった。

スマートフォンのナビ画面がもうそろそろだと告げたとき、道がわかれた。

石段をのぼったさきに小野妹子の墓があることは、すぐに見てとれた。

しかし左手のお社には、いかにも歴史を重ね、すくなからず物語を生み出してきたであろう古社の風格がある。こちらも素通りするにはしのびない。

さて、どちらに行ったものか。

これはいうなれば、このような感じだろうか。

まったくタイプの異なる、とびきり魅力的なふたりの異性が突然目のまえにあらわれ、同時に求愛される。

あるいは大好物の二皿 (わたしのばあい、たこ焼きとお好み焼きに決まっている) をバーンとテーブルに置かれて、おいしそうなにおいにくらくらしながら、ひたすら目移りしてしまう…とか。

いままでのわたしなら、ロングヘアのコも素敵だが、ボブのコもいいな、などとオロオロして迷うばかりで、結局、両方から愛想をつかされてしまう、といった塩梅だった。

しかしもう、そんな笑いまみれの後悔とはおさらばだ。

男なら、人間なら思いのまま突き進め。

両方とも行けばいいんだ‼

科長神社 (しながじんじゃ) はもともとは二上山上に鎮座していたものが、13世紀、当地に遷座された。主祭神は科長津彦命・科長津姫命の二神。記紀に登場する風神とされる。

わたしはまず拝殿で参拝し、続いて鳥居の奥にあるちいさな流造の本殿でも柏手をうった。

そののち、小野妹子の墓へと石段をのぼっていった。

荒れ果てているな、というのが第一印象だった。

自然のまま、とも言えるわけだが。

竹内街道の果てに

竹内街道推古天皇の治世、難波宮 (なにわのみや) と飛鳥の京 (みやこ) を結ぶために整備された「大道・だいどう」を祖とする。沿道には昔のひとびとの息遣いが聞こえてきそうな古い町並みがあちらこちらにのこる。

路面にあらわに見える、マンホールのふたが少々残念な感じだ。が、それとて聖徳太子のありがたい遺徳をいまを生きるわたしたちに伝えてくれている。

わたしのクルマのタイヤは、不敬にも、そのマンホールのふたのうえをなんど通っただろうか。

今度は孝徳天皇陵に向かうつもりが、道は狭い、クルマをとめる場所はないで、おなじところをぐるぐるとまわる羽目になった。結局、すぐそばの道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にクルマをとめて、徒歩で行くことにした。10分ほどで着くだろう。

わたしは道の駅の奥にある飛鳥橋を渡って、大道をくだっていった。 (そのときにはマンホールのふたをさけて歩いた)

陵 (みささぎ) の参拝道はけっこうな勾配で、かなりの距離があった。

足元の石は少々滑りやすく、注意して登らなくてはならない。

そして宮内庁は、別のものにも注意するよう呼び掛けていた。


うえまで登り切ったわたしは、息をととのえ顔をあげた。
木々の揺らぐかすかな音さえもせず、無音だった。
しかし、なにか規則正しい律動のようなものが迫ってくるのを感じていた。
それは古代からここにつづく山の音…。

なお、参拝道入り口のむかいには、かやぶき屋根の美しい国登録文化財・旧山本家住宅があり、一般に開放されている。

この町にはまだまだ見どころや、ぜひともひとに勧めたい観光スポットが目白押しだが、そろそろ時刻だった。また日をあらためて再訪しよう。

わたしは道の駅までもどった。

ところで、この街道の終着点は正確にはどのあたりなのか確かめたくなって、そこにある大きな案内地図に目をやった。

しかし、たとえどの道を行ったとしても、それがオトコであれオンナであれ、子供であれ、わたしであれ、ほかのだれであったとしても、すべてのヒトの行きつくさきはどうやら笑いまみれの後悔でしかない。

そう思えてきて、わたしはそこから目をそらした。

 

 

 

 

ゼレンスキー・カプチーノの夜、58歳ドールハウス製作にいそしむ (2)

禁煙をしようと思った。

きのうの午前9時、最後の一本に火をつけると「さあ、やりますか!」

わたしは禁煙について語らせれば、日本でも屈指の存在かもしれない。なにしろ過去に百回以上はチャレンジしてきた。

まず家を出るとき、安易にタバコを購入できないようにするために、財布の中身を空にしておく。ピッとスマホ払いだとか、シュッとカード払いであるとか、そういうこじゃれたこととはいっさい無縁だ。そして口寂しさを紛らわせるための、飴とチョコレートをじゅうぶんに用意しておく。コンソメあじのポテトチップスも必須だ。

結果はというと、今回もダメだった。

けさ10時、まる一日達成できた自分へのご褒美のつもりで (いつものことだ) ひと箱買ってしまった。空のはずの財布に、タバコ代程度の小銭ははいっていた。それもいつものこと…。

そんなわたしも、30歳のとき、一度だけ禁煙に成功したことがある。

喉があまりに痛くなって、吸いたくても吸えなくなったからなのだが、あのときの感動は忘れられない。それまで、ニコチンがどれほど自分の神経をスポイルしていたものか、つくづく思い知らされた。

たとえばコーヒーを飲む。

それまでは、にがくて甘い、といったすごく単調な味にしか感じられなかったものが、禁煙して数日たつと、にがさと甘さのあいだに、豆の持つ渋みや苦味、フルーティーなかおりなど、いままでわからなかった奥深い味わいを感じ取れるようになった。

あれは新鮮な驚きだった。

万葉人形劇シアターのいま

三か月前、ドールハウスの製作を思い立ち、それに「万葉人形劇シアター」と名付けることを宣言した。

 

tabinagara.jp

建設途中の、現在のすがたがこれ。

ホームセンターで購入した三枚の板をただ組み合わせたばかりで、工事などと呼べるものは、まだなにひとつ始まってはいない。

明日やろう、明日やろうと思い続けて三か月。

最近では、これ別の用途でどうだろうかと思い始める始末。

たとえば本棚。

あるいはCDラック。

当初は「59歳ドールハウス製作にいそしむ」にさえならなければいいとのんびりと構えていたのだが、誕生日まで、あとひと月あまりしかない。

期限は6月22日。

ゼレンスキー・カプチーノ

ロシア軍がウクライナに侵攻して、はや数か月。

ニュースでは連日、ウクライナのゼレンスキー大統領を称賛している。

各国の議会でリモートで演説し (日本でも) 、また、報道のテレビカメラのまえで、レンズをじっと見据えて自国への支援を切々と訴える。

この大統領がヒーローだとでもいうのか。

ただの喜劇役者じゃないか。

彼我の国力の差もかえりみず、国際政治のパワーゲームには無頓着で、前後脈略のない理想論を放言し続けたあげくに、国土は蹂躙され、多くの戦死者をだして、自国民に塗炭の苦しみをあじあわせている…。

二つの国が戦争をしている。

一方はか弱い被害者とされ同情をあつめ、他方はただ悪の権化のごとく報道されている。これを日々見せられることへの強烈な違和感と、いったいどう折り合いをつければいいのだろう。

喜劇を悲劇にすり替えようとしてはいないか。

わたしは、夜、自分で淹れたコーヒーを飲むことを習慣にしている。
いつも、三十年近く愛用のマグカップで飲む。

黄土色の本体に描かれたイラストが、熊であるのか、はたまたねずみであるのか、いまもってわからないのはご愛嬌。

このマグカップは不思議だ。

コーヒーであろうと、牛乳であろうと、水でも、緑茶でも、なんであれ、わたしに極上のあじわいを与えてくれる。

今夜も、テレビでゼレンスキー大統領のひとり芝居を見せられるのだろうか。

そのゼレンスキー・カプチーノ、そこにはにがみも、深みも、渋みもない。ただ甘いだけのすごく単純なあじわいだ。芳醇な香りが立ちのぼってくることもない。

愛用のマグカップにいれたとて、わたしの口にはあいそうにない。

 

 

 

 

奴奈川姫 (ぬなかわひめ) の大車輪、得点10・00

我が家の廊下の板には、傷んでいるところが一か所ある。階段のしたあたり。そこを歩くと、かすかにキュッと音をたてる。

この五年来、わたしは帰宅してリビングに向かうとき、いつもわざわざその板を踏む。…ただいま。

ドーン!

テレビを見ていると、廊下で大きな音がした。

扉を開けると、妹だ。

大車輪からみごと着地をきめた鉄棒選手のように、膝をまげ前かがみになって両腕を横にひろげている。

階段の途中から飛んだ…、のかな。

毎朝スーツに身をつつんで有名企業にご出勤のレディーが、自宅では大車輪…。

見ないほうがいいものを見たのかな。

新潟紀行

左手に日本海を眺めながら、国道8号線をすすみ、新潟との県境をすぎて糸魚川にはいった。

糸魚川静岡構造線、ヒスイの産地。

やがて親不知子不知 (おやしらず・こしらず) の奇岩のなかをクルマは過ぎていった。大分県耶馬渓にそっくりなながめだ。わたしには、岩の多い景勝地はどこもおなじに見えてしまう。

ただ明らかに違うのは、糸魚川には美しい海があることだった。

青い海、どこまでも広がる水平線。そこに青空が接続すると、海と空の境はあいまいになって、視界は他には何もない、ただ単色の青になる。

神代のころ、奴奈川姫 (ぬなかわひめ) もこの風景を見ていたのだ。

大国主の妻問い。

これが冬、豪雪のころには眺めが一変する。

すこし郊外に出ると、まばらな家屋は雪に覆われ、その輪郭さえ吹きすさぶ雪が見えなくして、そこにどんよりとした雪雲が覆いかぶさって、今度は一面、白一色の世界になる。

クルマですすむには、最徐行以外にない。

どこに側溝があるのか、ガードレールがあるのかわからず、道がまっすぐなのか、カーブしているのかさえわからないで、ただ慎重に、夏の記憶を頼りにいくしかない。

漆黒は美しい

上越市内でひと眠りして、食事をとったあと、さてどこをどうはしったのか。

とにかく北を目指していた。

南魚沼市」という標識が見えた。わたしはさらに山のなかをすすんでいった。

深夜、日付はとうに変わっていた。

行けども行けども、ヘッドライトが漆黒を切りさくばかりだった。

夜は暗い、とその時までわたしは思っていた。しかし違うのだ。夜は黒い。

いっさい照明などない山のなか、月明かり、星明りもさえ鬱蒼としげる木々にさえぎられてとどかぬそこは、まさに漆黒あるのみだった。

もしもいま、クルマをとめてライトを消したなら…。

わたしはたちまちのうちに漆黒に飲み込まれて、同化していたに違いない。

新潟県の県旗がどのようなものか、わたしは知らないが、青、白、黒の三色旗こそふさわしい。

帰宅して

わたしは今日も、明日も、あさってもあの板を踏もう。

我が家の奴奈川姫はもう帰っているのだろうか。

こんどはこのアニが、みごと大車輪を決めてみせるさ。