【畝火山口神社】特殊神事、二度の御遷座、住𠮷大神をまつる式内社

大和三山のひとつ畝傍山ときいて、人々はなにを思い浮かべるのだろうか。

万葉集に収められた優美なうたのかずかず。あるいは近代にはいって山麓に整備された神武天皇陵や橿原神宮だろうか。

また、わたしのように真っ先に畝火山口神社の名をあげるかたも大勢おられることだろう。

~目次~

御祭神

祭神は気長足姫命、豊受比賣命、表筒男命である。

宝永年間(1704年~1711年)成立と目されている住𠮷松葉大記では、同神ながらもそれぞれ神功皇后、伊勢(大神)、住𠮷(大神)と表記されている。

当社名が畝火明神、畝火山神功社、などと時代とともに変遷していったように、祭神の呼ばれようも変わっていったものだろう。

延喜式神名帳には一座と記されていることから、創建当初は他の山口神社と同様、現在では境内摂社にまつられている大山祇命のみを奉斎していた、とするのが王権側の認識であったことは間違いないが、当初より住𠮷大神をまつっていたものが、律令制が整備されていくにともなって、あとから大山祇命をお迎えした、と考えることもできるだろう(c)。

飛鳥誌(佐藤小吉 昭和19年)では、里人がここを住𠮷神と呼んでいるとしている。これは埴土神事(後述)の影響によるものだろう。

二度の御遷座

二度目の御遷座

畝傍山山頂の畝火山口神社社殿跡

畝傍山山頂の畝火山口神社社殿跡碑

畝火山口神社は二度、遷座を行っている。

そのうちの畝傍山山頂から現社地への二度目のそれは、まだ記憶に新しいところだ。

畝傍山山麓には幕末に神武天皇陵が、また明治23年(1980年)には橿原神宮がそれぞれ整備され、国と奈良県は畝傍山と周辺の神苑化をすすめていく。こうして皇国史観が時勢となるなかで、神武陵や神宮を「見下ろす」位置にあることを問題にする声を受けての下山遷座となった。

 

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最初の御遷座

畝火山口神社のもともとの創建の地は、現社地より西に数百メートルのところであった。現在更地となったそこには、それをしめす記念碑がたてられている。中世にそこから畝傍山山頂へと遷座し、昭和15年(1940年)、現社地へとふたたびの遷座となった。
境内に掲げられた由緒書によると、文安3年(1446年)成立の「五郡神社誌」には畝傍山の西麓に鎮座するとされていて、また天正3年(1575年)の「畝傍山古図」では山頂にあるよう描かれていることから、その間に、畝傍山の南、貝吹山に築城した越智氏が真北に神社を見下ろすことを恐れて、山頂への遷座を願い出たのだとされている。

この経緯に対する疑問の声をわたしは未だ聞くことがないので、僭越は承知のうえで、以下に卑見を述べてみたいと思う。

 

当時の国人、武人たるものの行動規範は、およそ神仏を見下ろすことを畏れ多いと感じるようなナイーブな心情をもとにしたものではなかったと断言してよい。自らの権勢を大きくするためには、相手が寺社といえども容赦はなかった。さらに時代は降るが、神功皇后の関連でいえば坐摩神社が現社地(大阪市中央区)に移ったことはよく知られているし、そもそも貝吹山城自体、越智氏は山頂にある牛頭天王の塚と地元で伝わる円丘(円墳あるいは経塚だろう)のうえに築城しているのだ(詳細は未調査のため不明だが、円丘のうえにたとえば櫓などを設けたと考えてよいだろう)。

もしも口碑(言い伝え)が伝えるように遷座が越智氏の意を受けてのものだったとするならば、それはもっぱら戦略上の理由によるものだったと考えてみてはどうか。

畝傍山はその北側で南北にのびる中街道と東西にはしる伊勢街道、初瀬街道が交差する交通の要衝に位置しており、山頂からは眼下にそこでの動きをいち早く知ることができた。そしてそれこそが北に勢力を伸ばしつつあった当時の越智氏が知りたかったことであったはずだ。

事情のわからぬ里人たちは口々に言い合ったことだろう。

「越智様かて、慈明寺山を恐れおおいて思うてはるんや」

「神功はんはえらいもんやで」

「住𠮷っさんはたいしたもんや」

■慈明寺山■
おもに中世において呼ばれた畝傍山の別称。他に「おむねやま」の呼称も。

そしてその時期は畝傍山周辺の忌部庄、箸喰庄が越智氏方に押領された明応年間(1492年~1501年)とみるのが妥当ではないか(e)(f)

 

特殊神事

埴土神事

畝傍山山頂の埴土採取地

埴土神事(埴使い神事)とは、住吉大社(大阪市住吉区)の神事に供する土器の原料となる土(埴土)を畝傍山山頂において採取する神事。

神話伝承においては、神功皇后の御代に起源を求めることができる。

天平3年(731年)の奥書きを記す住吉大社神代記には、住𠮷大神が神功皇后に以下のように神託したとされている。

現代語私訳での引用をご勘弁いただきたい。

『天香山の埴土をもって天平瓮をつくり、我を奉斎せよ。そうすればこの国をかたむけるようなはかりごとが起きたとしても、敵は必ずや平服するであろう』

■住吉大社神代記■
住𠮷大明神大社神代記と住𠮷現神大神顕座神縁起とをあわせた通称。天平3年(731年)の成立とも、また現存するものは延暦8年(789年)の写本とも目されている。住𠮷大神の顕現から、住吉大社の神領、神事、また関係する諸社など、およそ大社、大神について網羅した書。
ながらく秘中の書とされ、宝庫ではなく神殿に納められていた(諸神事次第記)ことからも、この書が御神体と同様に崇められていたことが想像される。
しかし、香久山とされていたものが、なぜ畝傍山になったものか。
さきの住𠮷松葉大記は『はじめは神武天皇の吉例にならい香久山で採取していたが、どちらも大和三山の一山であって、畝傍山も国中の神霊が集うところなれば優劣はない』と、まるでどちらであっても大差ない、と主張しているような書きぶりで、これでは強弁の誹りをまぬがれない。

 

おそらくは最初から畝傍山で採取していたのだろう。
日本書紀 神代 下の一書(第六)に『天火明命の子、天香山は尾張連らの遠祖』とあるように、この山の天降伝承にみられるような祭祀はふるくからの氏族によってすでに執り行われていたのであって、津守氏(住吉大社歴代宮司家)や大谷氏(畝火山口神社歴代宮司家)のような「遅れてきた氏族」が影響力をおよぼすことはかなわなかった、とみることに無理はないのではないか。
たとえ「新撰姓氏録」において津守氏が火明命の後、と記されていたとしても。

新撰姓氏録・国立国会図書館デジタルコレクションより

水取り神事

吉野川の流れ(奈良県吉野郡大淀町土田)
畝火山口神社の夏季大祭、でんそそ祭りで神前に供する水を大淀町土田の吉野川で採取する神事。
社殿脇の眞名井ではなく、近くを流れる蘇我川でもない、なぜ吉野川なのか…。
答えが見つかるとは思わなかったが、なにかにつき動かされるようにして、わたしは土田に向かった。

国道169号線を西にすすむ。近鉄・越部駅を左手に見やると、すぐに細い路地が南に延びている。徒歩なのはなによりだった。クルマでなら見過ごしていただろう。

路地を行き、近鉄吉野線の線路を渡る。

踏切さえない線路を横切るのは妙な気がした。

正面一面に枝をひろげるのはケヤキの巨樹。通称、土田のケヤキ。神武天皇、あるいは神功皇后お手植えとの伝承をもつ。

その横にある稲荷社が住𠮷稲荷社であるのは、畝火山口神社と住𠮷大神の縁ゆえだろう。

ここ、土田のケヤキの樹下、吉野川において水取り神事が執り行われる。

www.youtube.com

水そして土…。このいのちの根源とも思われるふたつを丁寧におまつりする畝火山口神社。その境内に立つと、そこにあるのは大山祇命でななく、神功皇后そして住𠮷大神でもない、もっとふるくからの祈り、畝傍山を仰ぎ見て捧げられたであろう始源の祈りの息づかいかと思われるものをわたしはいつも感じる。

境内を進むうちに、はるか古層からたちあがってくる祈りが迫ってくる。

境内案内

畝火山口神社といえば、第一に安産、子宝を授かることの御利益をもとめて遠方からも参拝者が訪れる。神功皇后の御神徳によるものだろう。陰陽石をなで、一心に祈るひとが後を絶たない。
畝傍山は生、あるいは性への希求が充溢しているようにわたしには思えてならない。

丸山宮祉を抱く旧 洞村(大正時代に廃村)の洞の清水しかり、八井神社(八幡神社)の陽物石像しかり、御陰井(みほとい・下掲の八井神社のブログ参照)しかりで興味は尽きない。

 

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一時期の世界的なウイルス禍をうけて、先年、手水舎は他の神社仏閣がそうなったようにセンサー感知式となった。

すっかりお身ぬぐいもすまされていた。以前は苔むしていて、それが古社の趣きと言おうか、厳粛な雰囲気言おうか、たちまち目を奪われるような魅力があって、わたしは大好きだった。威厳の奥に親しみをかくしているようで、ながくあしを止めてよく話しかけたものだ。こちらの話しかけるどんな戯言、尽きない愚痴をも受けとめてくれそうな寛容さが感じられた。
たまらなく好きだった。

 



御神馬の腹に揚羽蝶の神紋が見える。
 

えっ、これ蝶なの?

そうだよ

ずいぶんと以前、もう何年もまえだけどこんなことを言ってたひとがいたよ

どんな?

一目瞭然、これは三枚の帆を図案化したものだよ。帆船だね。素晴らしいデザインだ。大海原へのリスペクトが伝わってくるね。三座の御祭神を表現しているんだ

ほう

こうも言ってたかなあ。あるいは住𠮷三神、つまりツツノオ三神をあらわしているのかもしれないね。航海の神様だからさ

ああ

素晴らしいデザインだねえ! リスペクトが伝わってくるねえ!

勘弁してください

畝火山口神社は美しい。
春には春の、冬には冬のと季節によってことなった表情をみせて、ここを訪れるひとを魅了する。

そして一等美しいのは、なんと言っても秋だろうか。

モミジがいっせいに、赤く染まった葉を境内一面に落とすと、そこはまるで鳥居から拝殿へと人々をいざなうように敷き詰められた深紅の織物の様相となる。

そこにはちょうどベンチも置かれていて、この光景をのんびり眺めていることもできる。

 

おわりに

わたしはひさびさの参拝を終えて、緩やかな下りの境内を進んで行った。朱色の鳥居が目前にせまると、背後で不意に葉のすれる音、細い枝のしなる音が聞こえてきた。

風だ…。

 

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わたしの足取りは、小躍りせんばかりに軽やかになった。

周囲に人影のないことは幸いだった。この姿を見られたなら、きっと不審がられていたことだろう。

幾百、幾千もの神蝶がからだを寄せ合い、群れとなって、龍のごときにらせん状に畝傍山を取り巻いている。その羽の躍動がこの風を起こしているのだとしたら……。

わたしはそんなことを想像しては有頂天になっていた。

 

 

 

参考文献・参考資料

(a)住𠮷松葉大記 皇學館大学出版部 昭和59年7月

  編輯/土師 惟朝 復刻監修/真弓 常忠

(b)飛鳥誌 天理時報社 昭和19年5月

  編著/佐藤 小吉

(c)天香山と畝火山 学生社 昭和46年7月

  著/真弓 常忠 

(d)住吉大社神代記の研究 国書刊行会 昭和60年12月

  著/田中 卓

(e)忌部山遺跡 発掘調査報告書 奈良県都市計画地方審議会 昭和52年8月

  編著代表/網干 善教

(f)大和志料(下) 歴史図書社 昭和45年12月

  編纂/奈良県・斎藤 美澄

 

 

【磐船神社】饒速日命の降臨伝承地、天の磐船、岩窟めぐりも

瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト) が日向の高千穂に天下られた、ということは周知の神話だが、日本書紀は、別の天孫降臨神話を記してもいる。

饒速日命 (ニギハヤヒノミコト) が天の磐船に乗り河上哮ケ峯に降臨されたという、その雄大な神話は、知るほどにわたしたちを魅了してやまない。

かつてはこの列島の各地に、在地の国津神、祖先神をたたえる同様の神話がほかにも存在していたと考えることもできる。しかし、日本書紀採録されなかった (ヤマト王権に公認されなかった) それらの神話は、次第に語られることがなくなり、天津神や皇統につらなる天孫に徐々に置き換えられていったのかもしれない。

ヤマト王権には、饒速日命の神話を、書きとどめておかなくてはならない理由があったと考えなければならない。

天の磐船を御神体とする磐船神社 (大阪府交野市) を訪ねた。

~目次~ 

天の磐船

磐船神社の境内を、一級河川天野川がながれ、朱色の橋が架けられている。

川をくだっていくと、その両岸には巨岩、奇岩があつまって、思わず息をのむ景観を見ることができる。その府指定名勝・磐船峡のなかにあっても、磐船神社御神体・天の磐船ほどユニークなかたちのものを目にすることはまれだ。

この交野市一帯は、かつての「肩野物部」の本貫地であったと見做されている。

そして物部氏の権勢が陰りをみせ、このお社の祭祀から離れて以降も、天の磐船はここに御鎮座を続けられている。

天野川が氾濫し、境内に濁流が氾濫したことも一度ならずと伝えられている。

しかしそのようなときにも、磐船は寸分も動じることはなかった。

また、いまでは風化のために確認できなくなったとされているものの、かつては『加藤肥後守』の名が、この磐船に刻まれていたという。

大坂城築城のおり、秀吉公の命を受けた加藤清正公がこの磐船を切り出そうとし、石工がまさに刃を突き立てた刹那、たちまち鮮血がふきだして、みなが慌てふためいて逃げ出してしまい、磐船は難を逃れた、との逸話が残されている。

■info■
この加藤肥後守のはなし、いかにも古社に伝わっていそうな面白いもので、とくに関西地方では人の口の端に上がることもままあるのだが、そもそも築城のはじまった時期、清正公はまだ肥後守などではなかったはずなので、首をひねらざるおえない。
では、まったくの作り話かというと、そうでもないようだ。
大坂の陣で焼け落ちたあとの再建・大坂城。その天下普請に加わった清正公の子、忠広公の手配により運び入れられたとみられる巨石のいくつかには『加 (藤) 肥後守内』の刻印が認められている。
その事実が「清正公さん (せいしょうこうさん、せいしょこさん)」人気、築城の名手という生前の評判、それに太閤贔屓のなにわという土地柄などによって変質せられたものが、磐船信仰と結びついたのだろう。

 

いまも天の磐船は船首を天に向け、ふたたび大空へと飛び立たんという様子で御鎮座されている。

 

ほんとに船みたいなかたちだね。

大昔は、この生駒山系のすぐ西麓まで海だったんだよ。いまの大阪平野というのはまだなくて、潟になってたんだ。ほら、東大阪市の水走(みずはい)、あのあたりが水際だったんだよ。

 

水走、確かにそれっぽい名前だよね。

この饒速日命の降臨伝承は、なんらかの史実を反映したものかもしれないね。たとえば物部氏の祖先が瀬戸内海を東進して天野川をさかのぼってきたというような。

 

彦火火出見(ヒコホホデミ)とおなじだ。

そうだね。彦火火出見神武天皇の東征神話の経路を連想させるよね。

 

でも彦火火出見饒速日命を奉斎する長脛彦(ナガスネヒコ)に行く手を阻まれて、紀伊半島を迂回した。

そもそも東征におもむく動機のひとつが、塩土老翁(しおつちのおじ)から、東に美しい国がある。そこに天の磐船に乗っておりた者がいる、と聞かされたことなんだから、おなじ経路になるのは必然ともいえるよね。

饒速日命について

古事記では、磐船神社の御祭神・饒速日命は長脛彦の妹を娶り、可美真手命をいう子までもうけていたが、天津瑞を神武天皇に奉じて帰順した天津神として描かれている。

しかし日本書紀においては、天照大神から十種神宝をさずかり天下った天孫の位置づけとなり、神武天皇への抵抗をやめない長脛彦を誅殺したとされている。

そして先代旧事本紀においては天火明命と同一神と見做され、膨大な随伴神の名前なども記されるなど、その記述は子細におよんでいる。

境内案内

境内の岩に、不動明王が彫られている。
そのとなりには、稲荷神社が見える。

自然崇拝、神道、仏教、密教修験道と、境内を見まわすと様々な信仰のありようが見てとれる。それは他の神社にあっても見受けられることではあるが、この磐船神社が稀有なのは、そのいずれもが、現在まで純粋なまま命脈をたもっているように感じられることだ。

南北朝時代の作と伝えられている (境内の説明板による)、四体の住𠮷神の本地仏

はるか下方に天野川が流れるここに、どのようにして彫ったものだろうか。

川から高い足場を組み上げたのか。それともからだに縄を巻きつけられた彫師が、岩の上から吊り下げられたのだろうか。

いずれにせよ、それ自体、苦行、修行のたぐいであったことは間違いない。

そして、ここに住𠮷神がまつられている理由を「船つながり(天の磐船と航海の神・住𠮷三神)」と説明されることがしばしばあるが、それは附会に過ぎるかもしれない。

天平3年 (713年) の撰とされている住吉大社神代記は、そのなかの膽駒 (生駒、以下生駒と記す) 甘南備山本記において、住𠮷大社 (大阪市住吉区) は天皇より生駒山を甘南備山として賜った、その生駒山の北限は饒速日山であると記している。饒速日山とは聞きなれない名前だが、その候補地、伝承地は生駒山系北部に複数存在している。

いずれにせよ、磐船神社をふくむ、その周辺地とみて間違いない。

大社には、住𠮷神の神威を生駒山周辺にあまねくひろめることを是とするに足る論拠があった。

この住吉大社神代記をぬきにして、住𠮷神と生駒山、そして生駒山以東との関係は考えられない。

 

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1987年、境内に伴林 光平の歌碑が建立された。

住吉大社宮司・西本 泰氏の揮毫による、二首の和歌が掲げられている。

梶をなみ 乗りてのがれむ世ならねば 岩船山も甲斐なかりけり 

君が代は 巌とともに動かねば くだけてかへれ沖津白波

■伴林 光平■
幕末の国学者歌人河内国志紀郡真宗・尊光寺にて生をうける。朱子学国学、和歌を学ぶために江戸や因幡など諸国を遊歴。長じて成法寺村 (現 大阪府八尾市南本町) 教恩寺の住職となるも、1861年、還俗。1863年大和国でおこった天誅組の変 (大和義挙) に参加。挙兵鎮圧後、磐船街道を敗走するなか、南田原村 (現 奈良県生駒市田原町) にて捕縛。のち、京都に移送され斬首。著作に『大和國陵墓検考』『南山踏雲録』などがある。享年53。
 
「岩船山」の和歌は、いまの世のなかは舵をうしなった船のようなもので、乗って逃れることもままならない。これではせっかくの岩船山の天の磐船もそこにある甲斐がないものだ、という意味になろうか。
「沖津白波」のほうは、世上、伴林 光平のもっともよく知られた和歌だろう。

南田原なら、磐船神社のすぐ手前だよね。

そうだね。大坂に逃れようとしてたのかな?

岩船山…、無念の気持ちが伝わって来るね。
この国を想う熱い気持ちも。

光平烈士のことを考えているうちに、一首できてしまったよ。

きかせて、きかせて。

磐船は きよき祈りの万華鏡
照らし翔けるや やまとの国を

うーん。
まあ…、頂戴しました。

まあ!

岩窟めぐり

最後に岩窟めぐりについて、紹介しておきたい。

天の磐船のむこうにひろがる岩窟めぐりを体験することができる。

年齢制限等がある。

入山料は500円 (令和6年6月現在)。

詳しくは磐船神社のホームページを参照されたいが、一点、注意されたいのが、ひとりでは参加できない、ということだ。

これは滑落などの不慮の事故にそなえての措置で、むやみに怖がることはないとはいえ、軽い気持ちでのぞまれることは避けたい。

岩窟内部には経路が表示されているなど、最大限安全に配慮がなされているが、かつては修験道の行場であったことを思い出させる、険しい場所がのこるのも事実。

上に貼り付けたツイッター (X) 内の老ブロガーの画像をご覧あれ。

これは岩窟めぐりをおえた直後に自撮りしたものだが、髪はみだれにみだれ、その目に光はない。

ところで、ひとりの場合はどうするのか。

わたしもそうしたのだが、土日の朝に社務所に赴かれることをおすすめする。

平日よりも人出の多い土日なら、すぐに別の人が来られるので、ご一緒させていただくことができる。

このすばらしい体験を、多くの人と分かちあいたい。

どうか皆様が、みごと満願を迎えられますことを。

 

神名は日本書紀に記されたものを基本とした。

住𠮷三神に息長足姫命 (神功皇后) をあわせた住吉大社の御祭神を、住𠮷神と表記した。

 

参考資料 参考書籍

徳川時代大坂城再建工事をめぐって ー甲山石切丁場と城内巨石の紹介を中心にー

 第14回 (2005年度) 大学図書館学術資料講演会要旨 P18-23

  著 / 大阪城天守閣館長 中村 博司

 

伴林光平

  著 / 上司小劍原 刊行(再販) / 中村 宏 (2022年1月)

 

生駒の古道 ー生駒市古道調査ー

  編著 / 生駒民俗会古道調査委員会 発行人 / 今木 義法

  発行所 / 生駒民俗会 (2014年3月)   

         

住吉神社(おまつの宮・生駒市南田原町)、饒速日尊、星が森に抱かれた古社

大阪府奈良県のあいだにつらなる生駒山系。数々の饒速日 (ニギハヤヒ) 伝承に彩られているその山系の北部は、同時にまた住𠮷神の足跡が色濃く刻まれている土地でもある。

なぜ、この一帯で住𠮷神がさかんにまつられるようになったのだろうか。

磐船神社 (大阪府交野市) は、天孫饒速日尊が御降臨の際に乗られてきたという船形の巨岩、天の磐船を御神体としているが、そのそばに屹立するべつの巨岩には四体の住𠮷神の本地仏が彫られている。また周辺には複数の住吉神社が存在している。

奈良県生駒市の南田原町にある住吉神社もそのうちのひとつだ。

~目次~

 

境内案内

参道を進んで行くと、左手に境内社が見えてくる。

左手が祓戸社。そして真ん中と右手側にそれぞれ天神様と饒速日尊をおまつりしている。

その隣、饒速日尊をまつる社に背を向けるように、成人の背丈ほどの高さの石板。

榊が供されて、大切にされている様子が伝わってくる。

文字等は確認できないが、これは饒速日尊の依り代としてまつられてきたものだろうか。

それとも、クルマでほんの数分はしったところにある別の住吉神社 (大阪府四条畷市) の境内にいまもたくさん残されているように、元々は石仏が彫られでもしていたのだろうか。

住吉神社(大阪府四条畷市・2024年 5月 18日撮影)

鳥居から参道をまっすぐ進んださきに舞殿。

この鳥居と本殿とをむすぶ一直線上に舞殿を設ける配置は、四条畷市住吉神社もまったくおなじだ。
在りし日の、この近在の里のハレの日のにぎやかさがよみがえってくる。

そして本殿。

四座の御祭神 (住𠮷三神と息長帯姫命神功皇后) が坐すのが見て取れる。

本殿前には武人像。

説明版のたぐいはないが、鎧に菊水紋が描かれているところから、楠公に違いないだろう。

正成公ではなく、このちかくの四条畷の戦いで散った、子の正行公 (小楠公) だろう。

おまつの宮

このお社が、おまつの宮と称されるようになったいわれは定かではないが、さきに触れた、ここから数キロ離れた磐船神社はえる松の木の苗を持ち帰り、境内に植えたから、などと語られることもある。

わたしなどは、住吉大社 (大阪市住吉区) が白砂青松で知られ、和歌にも多くよまれていることから、そちらを連想するのだが。

 

ねえ、おまつの宮はわかった。住𠮷神について教えてよ。住𠮷神はいつごろ、ここに勧請されてきたの? どうしてこんな山深いところに、住吉神社がたくさんあるの?

詳しいことはわからないんだ。神社の創建自体は奈良時代とも伝えられているけれどもね。

 

そのときから、住𠮷神が勧請されていたの? 

それもよくわからないんだよ。このお社と住𠮷神との関わりは、すぐちかくの岩倉寺との関係でよく語られるんだ。

 

岩倉寺?

うん。弘法大師がその寺にやってきたとき、ひとりの老人があらわれて役行者開山という寺の縁起をかたりはじめた。太師が名をたずねると「我は住𠮷明神である」と答えたというんだけれども…。

この地域と住𠮷神との関係を考えるとき、住吉大社神代記の記述は無視できない。

住吉大社神代記

膽駒甘南備山本記

住吉大社神代記 (以下、神代記と記す) は国指定、重要文化財天平3年 (713年) の撰と記されている。住吉三神神功皇后の事跡や由来に関する記述が過半をしめているが、そのなかに膽駒山 (現在の生駒山。以下、生駒山と記す) を甘南備山として天皇から賜ったとの一文がある。畿内の各地に自らの神威がおよぶ神領があると主張するなかで、生駒山神領、神域ではなく、わざわざ甘南備山と表現していることには、特に留意する必要があるのではないか。

 

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そして神代記は生駒山の北至 (北限) を饒速日山としている。

饒速日山とは聞きなれない名前だが、これは饒速日尊が御降臨された河上哮ケ峯、磐船神社のあたりとみて間違いない。

では、甘南備 (かむ・なび) とはなにか。

「かむ」が神を意味していることはまちがいないとして、「なび」については諸説ある。が、いずれにせよ、現在では「神の坐す山」という意味で考えられている。

では、神代記の撰者である津守氏はどのような意味で、甘南備としたのであろうか。やはり現代に生きる我々とおなじ意味で、この言葉を選択したのだろうか。

それを明らかにすることは、いまとなってはむずかしい。

しかし、神代記と同時代の書から推測することはできる。

出雲国風土記

天平5年 (733年) 成立の出雲国風土記には、甘南備 (神名樋、神名火)という表記が4箇所にみられる。

これを地図に落とし込んでみる。

国土地理院HPより作成

甘南備山が、宍道湖を取り囲んでいることが見て取れる。

出雲国風土記の冒頭に記されている雄大国引き神話。遠方から島根半島や弓ヶ浜を引き寄せて、まだ小さかったこの国に縫い合わせた出雲の国の国土創世神八束水臣津野命 (やつかみず・おみずぬのみこと) は、その名がしめすように (やつかみず---たくさんの水、おみずぬ---大水の意だろう) 水神であると考えられるが、四つの山を甘南備と定めた当時の出雲の人々 (それは出雲国風土記の撰者である出雲国造と言い換えてもいい) は、臣津野命は宍道湖 (当時は入海) に坐す神であると考えていたのではないだろうか。

冬の朝、湖面から蒸気がたちのぼり深い霧に覆われるさまを目にしたものは、そこに人知を超えたものを感じたに違いない。

出雲の四つの甘南備は、それ自体、神の坐す山であると同時に、この水神を受け入れるための依り代として構想されたものだと考えたい。ちょうど神を迎え入れるために高木をたてたように。

そうであるならば、住吉大社の甘南備としての生駒山は、住𠮷神を受け入れ、その神威をさらに東、奈良のみやこのほうに広めていく役割を担うことではなかったか。

 

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そのような文脈のなかでなら、たとえば畝傍山の埴土神事なども理解できるかもしれない。

■埴土神事■
住吉大社の祭祀に用いる土器をつくるための土を、大和三山のひとつ、畝傍山の山頂より採取する神事。現在にいたるまで続いている。

星が森

それにしても、このお社の杜は見事と言うほかない。

とくに本殿の裏にひろがるその深い緑は、見るものを惹きつけてやまない。

そこは、古くから星が森の名でよばれている。

遠い昔、いくつもの星が降り落ちてきたのだという。

それは天の磐船のかけらだったのかもしれない。

 

註  住𠮷三神に息長足姫命 (神功皇后) をあわせた住吉大社の御祭神を、住𠮷神と表記した。

【畝傍山】眼福地蔵の慈愛があふれる。懿徳天皇陵を過ぎて

畝傍山神武天皇陵と橿原神宮山麓にいだき、この国の始源のすがたを可視化した聖なるお山は、荘厳神聖な山容で大和盆地に屹立している。

しかし、いまわたしたちが眺める畝傍山の樹相は、明治期以降に、往古の神々しさを取り戻す、などとした声の末に、ヒノキ、カシなどを植林したものだ。

古い時代のお山の写真を目にしたひとは、現在とは幾分違った、そのおだやかで、あまりにも優しい印象に驚くだろう。

そして、昔のそんな時代の畝傍のお山に接したいと願うのならば、今も山中におられる眼福地蔵に会いに行かれるといい。

地蔵様はきっと、来る人すべてを優しく受け入れてくださる…。

~目次~

眼福地蔵への道案内

 

第四代 懿徳天皇

畝傍山の登山道といえば、橿原神宮北参道を進んだ先にある道、あるいは畝火山口神社の脇からはじまる道が、よく整備されていて比較的知られているが、他にも、いくつかの登山道がある。

お山の西麓にある、第四代 懿徳天皇陵 (いとくてんのうりょう) に沿うようにのびる道もそのうちのひとつだ。

陵を右手に眺め、やがて耕作地のあいだをぬけて行くと、いよいよ山中に踏み入ることになる。

そして、急な上り坂を進むうちに、ほどなくすると眼福地蔵のお姿を拝むことができるだろう。

眼福地蔵にまつわるお話

やまとの国で

昔々、やまとの国中が戦乱 (いくさ) にあけくれておった頃、村人たちは、どうかまた穏やかな日々が戻ってきますようにと、毎日のように畝傍のお山におられる地蔵様に手を合わせに来ておった。

そのなかには、盲 (めしい) の幼娘 (おさなご) の手をひいた母娘の姿もあった。

そして戦乱がおさまると、地蔵様のもとをたずねるひとのすがたもすくなくなり、いつしか地蔵様は落ち葉に埋もれてしまわれたそうな。

それから、幾年月がながれた。

幼き日々のおもいで

ひとりのおばあさまが、かたく目を閉じて畝傍のお山にむかって手を合わせておられた。

ゆっくりと目をあけてもまだ、両手を合わせたまま、じっとお山を見上げておられた。

通りかかった村人が、不思議とばかりに話しかけた。

「どうかされましたんか」

おばあさまは村人のほうを向いてほほえまれた。

「へえ、ここにちがいないと思いましてな。なつかしいわ」

それから、もう一度お山のほうへ向き直って語りはじめた。

まだ、わてが童 (わらべ) やったころな、ととさんは戦乱にとられてしもうた。そんでな、かかさんに手を引かれてな、いっつもここの畝傍のお地蔵さんに手を合わしに来てましたんや。わては目が見えやせんかったんでな。

ととさんが帰って来はりますように、ととさんが帰って来はりますように…。

「なあ、お地蔵さんどんなお顔してはんのん」

「きれいなお顔やで。きれいなお目、きれいなお鼻、きれいなお口や」

けどな、よう悪さもしましたわ。

お地蔵さんのまわりの山道を走ったりしてな、ようかかさんに怒られましたわ。見えんでもな、なんべんも来てたらな、道、わかるようになりますねん。

「あんた、なにやってんねん。すべって落ちますやろ」

そんなときはな、かかさん決まってこないにゆうてはりましたわ。

「あんた、紅色のええのん着てますんやで。おとなしいしとき」

紅色ってなんやてきいたらな、暮れのお日さんの色や、いちばんきれいな色やて、そないにゆうてはったな。

貧しかったにきまってますがな。そんなええのん着てたはずありませんわな。せやけどな、わてを嬉しがらそうとして、そないゆうてはった。

そうこうするうちにな、かかさん死んでしもうてな、わては縁者のひとに引き取られた。それからはな、クニからクニ、旅から旅や。そら辛 (つろ) おましたで。

けどな、いっつもかかさんがゆうてはったことを思い出してましてん。もう一度 (いっぺん) ととさんに会えますで。ととさん帰って来はりますで、てな。

わてはととさんの顔なんぞ、覚えてまへんのやで。それでもな、ととさんに会 (お) うたら分かるて、ずっと思うてましたんや。

せやせや、わての目な、いつのころからか見えるようになってましてん。治ってましたんや。

ととさん、ととさん…。

せやけどな、わてもこんな歳になってしもうた。もう、ととさんも生きてはいはりませんやろ。

ととさんと、かかさんと、三人で畝傍のお山のそばにおったころ、あのころが一番しあわせでしたんやろな。

眼福地蔵

神妙な面持ちではなしを聞いていた村人は、持っていた杖をおばあさまに差し出した。

「これを持って行きはったらよろしいで。地蔵さんまでは、まだだいぶとある。しかも急坂や。ここのお山の松の木で作りましたんや。ちょっとごつごつしてますけどな」

「おおきに」

おばあさまは畝傍のお山に入っていかれた。

山道を登ってしばらくすると、ドタドタとなにやら駆けおりてくる音。

おさなごが、走ってきた。

「あんた、なにやってんねん。すべって落ちますやろ」

はっとして、おばあさまは駆けあがられた。

おさなごは、どこへかいってしまった。

足音だけが、まだ響いていた。

おばあさまが、ふと反対のほうを見ると、もうそこにお地蔵さまがおられた。

ゆっくりと近づいてみる。

「ああ…、ああ…」

おばあさまはくずれ落ちて、お地蔵様にとりすがった。

両の目から、たちまち涙があふれでた。

「なんでや、なんでや…」

お地蔵様のお顔を覆っていたおばあさまの掌 (てのひら) が、ぶるぶる震えてゆっくりとずり落ちた。

「このお地蔵さん、お目があらしまへん。お目があらしまへんで」

おばあさまの嗚咽のあまりの大きさに驚いたものか、お山のむこうの池ではねを休めていた水鳥たちが、いっせいに飛び立った。

そのなかには、まるで身を寄せ合うように飛ぶ、三羽の鳥がいた。

あれはきっと、ととさま鳥、かかさま鳥、幼娘鳥の三羽の親子鳥にちがいない。

親子鳥は、ずっと西のほうにある二上のお山、あの二つの峰のあいだに暮れ落ちる夕日にむかって飛んでいった。

そんなことがあってから、村人たちはこの畝傍の地蔵様のことを、いつしか眼福地蔵と呼ぶようになったそうな。

傘さす地蔵様

わたしは眼福地蔵に会いにいってきた。
たずねるひとが絶えないのだろう。

まわりは掃き清められた様子で、花と水が供えられていた。

静かに手を合わせた。

お地蔵様は、傘をさしておられた。

雨にふられては困るだろう、日照りが続けば暑かろうと、そっと傘をさしかけたひとがいるのだ。

誰なのだろう。

きれいな朱色に身をつつんだおさなごではあるまいが。

 

 

後記。

眼福地蔵のお話は奈良県にあってもほとんど知られてはおらず、わたしも、ごく最近になって知ったものだ。現代に伝えられている眼福地蔵のお話は、拙文よりももっと簡潔で短い。幼娘は朱色の着物をきてはおらず、老婆が畝傍の山中で幼いころの自分と出会うこともない。親子鳥は二上山に沈む夕日に向かって飛んではいかない。改変とのそしりは甘んじてうける覚悟を持ちつつ、わたしは民話、伝承といったものは時代とともに変わっていくことを是とする立場にいる。

現代において読まれているグリム童話は、周知のように、グリム兄弟が記したものとは、おおくの点で違っている。それは日本の昔話においても同様だが、いま読まれている物語が偽物というわけでは決してない。

わたしはこれを書きあげるとき、原意を損なわないことに慎重に留意しつつ、より現在の読み手に眼福地蔵の慈愛が伝わるようにと願った。

読者諸賢の理解を得たい。

 

参考資料

橿原市 まなごの里 懿徳天皇陵 大和三山 まなご谷 畝傍山 犬養孝 畝火山口神社 真砂山 眼福地蔵の由来

 

 

【八井神社(八幡神社) 】神武天皇の皇子、神八井耳命の墳墓伝承地

神武天皇の皇子、神八井耳命 (かむやいみみのみこと) は第二代・綏靖天皇の兄御子で、多氏の祖とされている。

日本書紀は畝傍山の北に葬られたと記す。

かつて八井神社と称されていたとされる八幡神社 (奈良県橿原市山本町) の本殿がたつ、盛り土状の小丘が、その神八井耳命の墳墓であると見做されている。

 

~目次~

八幡神社

橿原市山本町 (旧 山本村) の集落からすこし離れて、畝傍山の山中にあしを踏み入れたとき、ちいさな八幡神社を見過ごさずに立ちどまれたことは、幸運だった。
それは八幡神、あるいは村の鎮守といった言葉から想像されるたたずまいからは幾分かかけ離れた、不思議な光景だった。

 

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いったいどこからが境内なのか、それを示すものはなにもなく、わずかばかりの平らな土地に、いきなり石造の鳥居と灯籠が目にとびこんできた。

そして鳥居の奥には白壁の拝殿。

拝殿に扁額は掛けられておらず、作りつけの鳥居のそれにも、いっさい文字は彫られていない。

そしてあたりを見回してみても、どこにも八幡神社、あるいは八幡宮の文字を見つけることはできず、神社名を示すものはなにひとつない。

ただ、灯篭に『大神宮』との文字があるのみだ。

わたしは拝殿で柏手をうち、しばらくそこに立ち尽くしていた。

「八幡神社? それは役所に届ける際の便宜上の名前なんだよ」

なにやら無言で、そう訴えかけられているような気がした。

拝殿のうしろにまわってみる。

盛り土のうえに、祠と呼びたくなるほどの小さな本殿。

 

こここそが、神八井耳命の墳墓と考えられているところだ。

御陵山

享保年間に編纂された最初の幕撰地誌書『五畿内志』のなかの『大和志』において、ここは御陵山 (みささぎやま) の名称で簡単に紹介されている。すなわち「御陵山  山本村にあり。神八井耳命の墓なり。小祠あり。綏靖帝の兄にてまします」
また明治時代に入って刊行された地名辞典、地誌書である『大日本地名辞書』(吉田東伍) は畝火山北稜との項目を設け、この伝承地について長文の解説を寄せている。

この辞書はしばしば過去の歴史書の記述に疑問を呈し、また冷静な筆づかいのうちにも、随所に著者の私見が披瀝されたりしていて、歴史読み物としてみても興味深い著作だが、その魅力はここでも十全に示されている。

■大日本地名辞書 畝火山北稜 (要旨)■
神八井耳命 (綏靖帝兄) の墓なり。大字山本にあり。御陵山とよばれている。小祠があり、墳丘然とした隆起が認められる。ここが神武天皇の皇子の墓であるならば、なぜ御陵山と名付けられたのか。古事記では神武陵は畝火山の北方、白橿の尾根の上とされているが、現在の神武陵は平地にあり、その記述と符合しない。こここそが神武陵なのか、それとも神武皇子の墓なのか、今後検討を要する。

 

御陵山と名付けられた所以は、畝傍山周辺でひろく信仰されていたとみられる、神功皇后信仰にもとめられるかもしれない。

神功皇后信仰

畝火山口神社

畝傍山の西麓に坐す畝火山口神社
ほかの多くの山口神社がそうであったように、その始源においてはここでも素朴な、名もない山の神、水の神に祈りを捧げていたものと考えられるが、その後、御祭神は大山祇命と定められた。しかしかつては「神功社」と称されていたことからもわかるように、古い時代から、現在のように神功皇后にたいする篤い信仰があった。

■神功皇后■
第14代・仲哀天皇の皇后。天皇崩御後、その遺志を受け継ぎ熊襲征伐を成し遂げたのち、新羅に進軍し服属させた (新羅征討説話、三韓征伐とも)。新羅への渡海時には身籠っていたが、鎮懐石、月延石を下腹にしのばせ、さらしを巻いて出産を遅らせたとされている。九州に戻ったのち誉田別尊 (ほむたわけのみこと・応神天皇) を御生みになったことから、安産の神としてひろく信仰をあつめている。
また、明治時代以前には神功皇后を第15代天皇とみなす考えもあったが、現代の皇統譜では、天皇からは除外されている。

その時期は、埴土神事 (摂津国一之宮、住吉大社の神事で用いる土器を作るための土を、畝傍山山頂より採取する神事。現在に至るまで続いている) の始まった頃であろうか。

これは住吉大社による畝傍山の祭祀権への干渉と考えるべきかも知れず、神武東征の終盤、奈良の吉野山中において、神武天皇は天の香久山の土で厳瓮をつくり戦勝を祈念した、との逸話を容易に連想できる。このころ畝火山口神社は、住吉大社の御祭神である神功皇后と住𠮷三神の一、表筒男命を 受け入れたのだろうか。 

神武天皇が戦勝を祈念して厳瓮 (いつべ) を沈めたと伝わる夢淵。奈良県東吉野村
そして、この式内社、畝火山口神社の神功皇后信仰が、畝傍山周辺の集落に影響を与えなかったとは考えられない。
どの集落でも、四季折々の日々のなかで神功皇后をふと意識する、といったことはじゅうぶんにありえただろう。そんななかで、集落ごとに異なった神功神話といったものが形成されていったに違いない。

仙洞御所

八幡神社のある山本町 (旧 山本村) のとなりに、かつて洞村という集落が存在した。

村のもっとも畝傍山の山頂寄りには丸山という円丘があり、そこは神武天皇の御陵とも見做されていた。

しかし、ながらく公式には所在不明とされていた神武陵は、幕末、孝明天皇の御沙汰によって丸山ではなく、四条ミサンザイ (現在の神武天皇陵) に決することとなる。

■洞村■
かつて畝傍山山麓に存在した集落。神武陵を見下ろす場所にあるのは不敬であるとされ、大正時代に総戸数約200、住民1000人あまりの洞村は全村移転 (廃村) となった。

 

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その洞村の口伝には、やまとにお戻りになった神功皇后が洞の地に仙洞御所 (離宮) をたてられた。それが洞という地名の由来である、というものがある。

全村移転までは丸山のすぐ目前にあった生玉社は、現在、生国魂神社の名称で橿原市大久保町に遷座されているが、ここには、神功皇后と、もうひとり竹内宿禰とも見える白いあごひげをたくわえた人物とが、赤子 (誉田別尊だろう) をあやしている様子を描いた額が奉納されている。

同様に御陵山 (畝火山北稜) のある山本村においても、神功皇后 (先に記したように、あるいは神功天皇と見做されていたのかもしれない) が信仰されていたと考えるとき、そこにある祠が、後世、八幡神 (誉田別尊) をまつる八幡神社と称されるようになったことも、筋道がとおっており無理なく理解できる。

そして、そこでは皇后にあやかって安産を祈念していたのだろうか。

そう考えるに足る遺物が、八幡神社の本殿前に残されている。

陽物信仰

陽物信仰などの言葉で言い表されている、安産、多産、豊穣の恵みなどを願う祈りの場には、ふつう、陰と陽、ふたつの依り代が示されている場合が多い。

畝火山口神社の陰陽石

では、何故ここでは陽物だけなのだろうか (勿論、そのような例がめずらしいわけではない)。
わたしは、これは旧 洞村にのこる丸山のすぐ下にある洞 (穴) と対照をなしているとみる。

 

この洞村の水利施設、しばしば井戸と紹介されているが、地下深くから汲み上げるタイプのそれではない。

むかって右側、標高の高いほうの山肌からここで地下水が流れ出てきて、その水が凹んだ洞 (穴) にたまり、あふれた分は左側の低い方へと流れ出るようになっている。

洞村という村名も、おそらくはこれに因んでのことだろう。

レンガ造りの部分などは近代にはいってからのものに違いないが、内部の石積みの奥壁などは、相当に先行した時代のものであることが見て取れる。

古書に『洞之清水』と記されているものが、これにあたるのだろう。

降雨の少ない奈良盆地にあって、この湧き水は、まさに神の恵みと思われたことだろう。

そして古人 (いにしえびと) たちは、その水のたまる洞 (穴) を陰に見立てた…。

かつて洞村は山本村の枝村だった (山本村は洞村の本村だった)。

そのような関係性を踏まえるとき、山本村の村人が、洞之清水をよろこばせ、溢れさせてその恵みにあずかろうとして、御陵山のまえに陽物をまつり祈ったとは考えられないだろうか。

まさに陽物の角度、向きが、ちょうど洞之清水のほうを示しているのを見るにつけ、わたしにはそう思われてならない。

神八井耳命について

御陰井(みほとい)

神八井耳命という名称についてふれておきたい。
耳は豊聡耳命(聖徳太子)のように貴人にたいする尊称なので、もっぱら考えるべきは「八井」ということになる。

大和志料は『畝傍山周辺に八井あり。白橿井、花原井、清水井、ウシ井、若井、御陰井、大谷井、大井、是なり』と記している。この八井にたいする信仰が、やがて神八井耳命という名のもとに統合され、皇統譜に組み入れられていったのだろう。

そして先程の八井神社の陽物が、第三代・安寧天皇陵(畝傍山西南御陰井上陵)の脇にいまものこる御陰井と対照をなしている、と考えることもできるだろう。

 

おわりに

大和三山のひとつ、畝傍山ときいて大抵のひとが思い浮かべるのは橿原神宮、神武天皇陵、それに畝火山口神社といったところだろうか。

しかしわたしは丸山 (洞村、大正時代に全村移転) や御陵山 (山本村、現 山本町) にこそ強く惹かれる。

御陵山にのぼって八幡神社のほうをふり返った。

丸山との形状のあまりの類似にはっとさせられる。

木漏れ日がさしてきた。

それまで無風だった小丘のうえに急に吹きつけてきた南からの風が、わたしを戸惑わせた。

 

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参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟ー

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)

 

恐懼に堪えざることに抗してー天皇 (制) による洞部落「強制」移転ー

 発行 / おおくぼまちづくり館保存会

 

大和志料

著/奈良県 斎藤 美澄 刊行/歴史図書社 (1970年12月)

 

【出雲大社】縁結びの神様に素敵なご縁を頂戴したはなし

みんなが良き縁 (えにし) をもとめている。

自分自身、あるいは家族の誰かがすてきな縁を結びますようにと。

縁結びの御利益をもとめて、大勢の参拝者があしをはこぶ出雲大社は、国譲りに際して大国主神が幽世にお隠れになるために建てられた天日隅宮 (あめのひすみのみや) を始まりとする、と日本書紀は記す。

そして十月 (神無月・出雲では神在月) には、神々がこの大社を訪れて様々なことを話しあう、とされたことから、いつしか縁結びに御利益があると考えられるようになった。

『多賀は命神、住よしは船玉、出雲は仲人の神』との一文を井原西鶴の『世間胸算用』にも見ることができる。

わたしも、出雲大社でかけがえのないご縁を頂戴することができた。

~目次~

出雲は仲人の神

出雲の土産物店

出雲大社の参拝をおえて、大鳥居をでた。

そのまま、まっすぐに神門通りをくだっていく。

それまでは鳥居をぬけると、左手にある古代出雲歴史博物館に立ち寄るのが常だったので、この通りには、意外にも片手で数えられるほどしか、来たことがなかった。

青空に、不思議なかたちの雲が泳いでいた。

通りの両側にはさまざまな店が軒をつらね、行き交う大勢の人々でにぎわっていた。

ぜんざい屋にはながい行列。

看板には『ぜんざい発祥の地 出雲』とある。

神在月八百万の神々が出雲に集まりおこなわれた神在祭 (かみありさい・じんざいまつり) においてふるまわれた神在餅。それが読みの変化をともなって、じんざい、ぜんざいになったとの説がある。

 

そうだったのか。

なんであれ、甘味を口にできるのはこのうえない喜びに違いない。

しかし、わたしはそれを横目で見ながらさらに南へ下っていき、一軒の薄暗い土産物店に入った。

客はどうやらわたしひとりのようだった。

さて、どれを買ったものか。

店内を見まわす。

どれも結構な値段がするな、などと思っていると、どこからか声がしたような気がした。

空耳だろうか。

店主の姿も見えなかった。

買って。

夫婦こけし

今度ははっきりと女性の声が聞き取れた。
 

買って…。買ってよ。

ちょっとはしたないですよ。
たいへん失礼しました。
いえね、ずいぶんと優しそうなかたが入ってきたなって、ふたりで話していたんですよ。

 

みんなすぐに売れていくのに、わたしたちだけ、ずっとこのままでいるんだよ。
もう一年近くここにいる。値段も高くないのに。
1000円以下は、わたしたちだけだよ。

どうか手に取ってご覧になってください。

わたしはすこしも驚いたりせず、不思議とも思わないで、もとめにしたがった。

いま思えば、ずいぶんと不思議なことだ。

 

ねっ、首に五円玉を巻いてるんだよ。
みんなとご縁を結べるように。
こんどはわたしを見てよ、背中。

 

ねっ、出雲大社ってあるでしょう?
最初はなんか恥ずかしかった。でもいまは誇らしいよ。出雲大社だから。

 

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へえ、奈良に帰るんだ。
奈良のどのあたり?

ほう、二上山のあるところ。
すこしは知っていますよ。ラクダの背中みたいにふたつの峰があるお山でしたね。

 

亀井の殿様は、ラバとか孔雀とかを御朱印船にのせて異国から連れてきたんだよ。

 

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これは不思議なご縁といえます。
二上山と出雲。どちらもヤマト王権から生と死の境の地と見なされた。
イザナギやオオアナムチが死者の国から懸命に逃げ帰ってきた黄泉平坂 (よもつひらさか) も出雲にあるとされた。

 

伊賦夜坂のことだよ。

 

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でもどうして?
その二上山に夕日が沈んでいくところは見えるよね。でも、出雲に、日御碕に夕日が沈むところなんて、遠すぎて見えないよね。
ただ西の方角っていうんなら、ほかのどこでもよかった。
なのにどうして出雲?

 

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国譲り

それは国譲りに鍵があるのかもしれない。

出雲の国譲り神話はひろく知られているところだが、ヤマト王権が勢力圏をひろげていく過程で、列島のいたるところで同様のことがあったに違いない。

二上山のある金剛・生駒山系を舞台にした国譲りも、いまに伝えられている。

神武東征のおり、長髄彦 (ながすねひこ) は、熊野を迂回してきた磐余彦尊とふたたび対峙。そのとき、あろうことか長髄彦は自らが奉じる饒速日命 (にぎはやひのみこと) に誅殺されてしまう。

そして饒速日命神日本磐余彦尊に帰順して、その地を明け渡した。

 

ヒコホホデミ

うん、ヒコホホデミはいよいよ初代天皇として即位された。

 

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山の民はヤマト王権によって住み慣れた土地から次々と追われていったのだろう。

葛城山一言主大神や修験道の開祖、役行者 (役小角)も土地を追われ、国譲りに追い込まれたと解釈することもできるのではないか。

役行者

 

それが平和裏に行われたのではないことを、いまも山中に数多く残る粗末な蜘蛛塚が伝えている。

一言主神社参道にある蜘蛛塚

 

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行きたいな。
二上山、見てみたい。

あまり厚かましいことを言うのは気が引けるんですよ。
でも、遠くの地とご縁を結ぶことができたらいいのになあ、などと考えてしまうわけです。

縁結び

奈良と大阪の府県境にある、ふたつの峰をもつ双耳峰、二上山

古人(いにしえびと) たちは、夕日の沈むこの山のむこうに、死とその再生とを凝視したにちがいない。

山頂には大津皇子が葬られ、また山の西麓には孝徳、敏達、推古の各天皇陵や、聖徳太子小野妹子などの貴人たちの墓が、まるでエジプトの王家の谷よろしく狭い地域に密集している。

 

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四季折々にことなった表情をみせて人々を魅了する二上山は、また、人々の生活に寄り添う山でもあった。

太古には、ここで産出されるサヌカイトが打製石器の原料となって、近在に原始集落を形成させた。時代がくだると、二上山から切り出された石材が、古墳の石室などに利用されるようになる。

現在もサンドペーパーなどにつかわれる金剛砂の供給地として、わたしたちの生活をささえている。

 

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府県境を越えれば、山麓にひろがる白いむき出しの凝灰岩が奇観をなす屯鶴峯が出迎えてくれるだろう。

もうすぐだ。

 

【丸山宮址】もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山を行く

幕末の文久年間に、現在の四条ミサンザイが神武天皇陵と治定される際には、そこからすこし離れた畝傍山の尾根のうえにある、墳丘状の丸山と呼ばれていた場所も有力な候補地だった。

遠く歴史の向こうに置いてこられたまま、いまでは顧みられることさえまれな、その丸山を訪ねた。

 

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~目次~

 

洞村について

全村移転

神武天皇陵の参拝道から、石段をのぼったさきに西へとぬける脇道がつづいている。

その道にそうようにして、かつて洞村という集落が存在した。

しかし明治以降、政府や奈良県などが推し進める畝傍山神武天皇陵、橿原神宮を一体化した神園化のながれのなかで (いにしえの荘厳な風景を現出させる)、時代が大正にうつると、神武陵のすぐ目前で日々の生活を営んでいた総戸数約200、村民1000人にもおよぶ洞村は全村移転となる。

家屋はいうに及ばず、お寺や神社、共同浴場に墓地などいっさいが立ち退きを余儀なくされて、いまその跡地は植林された木々に覆われ畝傍山の一部と見紛う光景をみせている。

丸山は、そんな洞村のもっとも山頂寄りに存在した。

その高みから、かつては村全体を両腕をひろげていつくしむように見守っていたであろう丸山は、いまも、ひとけの失せた畝傍山山麓にひっそりと眠っている。

村人の息づかい

わたしは旧 洞村をのぼっていった。

地面がじっとりと湿っている。

地下の水脈が、地表から近いところを流れているような印象だ。

突然、水の流れが露出しているところに出くわした。

なにかがきらきらとひかっている。

覗き込むと、瀬戸物のかけらだった。

茶碗だろうか。

わたしはその場にしゃがみこんだ。

あわただしく荷造りをして、住み慣れた土地を離れていく無念と不安の顔が列なす光景が目にうかんだ。

名状しがたい感情に襲われる。

それでもわたしは、よいしょと掛け声を発して立ち上がると、ふたたび歩きだした。

あとすこしで、丸山が見えてくるだろう。

丸山宮址

腰の高さほどの石柱が見えてきた。
『宮』と彫られている。

1本、2本、3本…、樹木が生い茂り落ち葉が一面を覆うなかで、都合5本の石柱が円形に配されているのが確認できた。

直径は15メートルといったところだろうか。20メートルはいかないだろう。

その墳丘状のものが、方形の平らな土地のうえにのっているようにも見える。

そして元々は、下のようなかたちだったのではないか。

新沢千塚古墳群 (奈良県橿原市・2024年2月1日撮影)

幕末、孝明天皇の御沙汰によって四条ミサンザイが神武陵と治定された際に、但し、丸山のほうも決しておろそかにしてはならない、とされたことから、ここに石柱をたてたとされている。

無論『宮』と彫られたのは『陵・ミササギ』とするのを憚られてのことにちがいない。

「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武さんが丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。

洞之清水

丸山のすぐ下 (平らな方形状の土地の下) に洞村の水利施設がいまも残されている。
ここはしばしば、井戸と紹介されているが、それは正確ではない。

古書に『洞之清水』と記されているのが、これにあたるだろう。

地下の水脈が、向かって右側 (標高の高い側) から流れてきてここで露出し、洞 (穴) にたまり、水位が上がり過ぎた分は左側 (標高の低い側) から抜けるようになっている。

いわば天然のダムのようになっている。

レンガ造りの外観などは (内部の天井部も) 近代になってから造られたものに違いないが、覗き込んでみると、奥壁 (それは丸山の外周部にもあたる) は小さな石を積み上げてできており、相当に先行した時代のものであることが見てとれる。

 

洞というめずらしい村名の由来についてはさまざまな推論が示されているが、わたしはそのいずれもが要領を得ないと、ずっと感じていた。

この場所、この洞こそがその由来だとわたしには思われる。

山肌から流れでる清水が洞にたまり、過ぎたるぶんは里のほうへと押し出されていく。

この場所で水の神、山の神に感謝と祈りをささげたのが丸山信仰、丸山祭祀の始源のすがたであったと考えたい。

それが律令国家の成立、そして中世へと時代を経るなかで、素朴な水の神、山の神はこの国のいたるところでそうであったように、天津神やそれにつながる天皇へと置き換えられていったのではないか。

 

結局、丸山と四条ミサンザイ、どっちが本当の神武陵なの? どっちが嘘?

どちらも本当なんだよ。
そこが神武陵だと信じて長い年月祈る人々がいた。ならそこが神武陵なんだよ。

 

なんかモヤモヤする。
いっそ、丸山を子細に調べてほしいよね。いまの公式な神武陵、四条ミサンザイを発掘調査するよりも社会的なハードル低そうだし。

そうなれば間違いなく古代祭祀の痕跡が見つかるんじゃあないかな。
いずれにせよ、神話や伝承というものは、いまみたいに国家に押し付けられるものではないんだ。我々の手に取り戻さなければいけないんだ。

(洞) 穴のちから

われわれのいちばん最初の穴の記憶は、誕生に際しての女性のそれだろうか。

そして、そのことを記憶の奥底に閉じ込めたままでいるのならば、祈りの始源を穴にもとめることは、じゅうぶん理にかなったことと言わねばならない。

穴に祈り、穴に魅了されて、ときには山肌に穴を掘る…。

 

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そしてこの洞村の水利施設のすぐ前にも『宮』と彫られた短い石柱があった。

あるいは上の5本と同様の長さであったものが、土砂に埋もれてしまっているのかもしれない。

いずれにせよ、かつてはここまでが聖域であると認識されていたのだろう。

おわりに

わたしは丸山からくだって行って、用水池のまえにでた。

たくさんの水鳥たちがはねを休めていた。

わたしが近づいても、いっこうに飛び立つ気配がない。

かつてはこの池の東隣に、洞村の墓地があった。

いまは墓石のないその場所の墓守りのように、鳥たちは動かなかった。

それはまるで、洞の村民たちが丸山を先祖代々守り通してきた姿とかさなって見えた。

わたしは家路についた。

部屋にはいると、ズボンのポケットからはみ出していたタオルに植物の種子がたくさんついているのが見て取れた。

それは執拗にへばりついていた。

ひとつひとつ、丹念に取り除く。

来週の休みには、また丸山に行こう。

そこでこれを撒けばいい。

春には芽を出すだろう。

 

 

 

参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)