【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~

京都の晴明神社というと、なにやら魑魅魍魎の跋扈するといったイメージを抱くヒトもおられるのだろうか。曰く、陰陽師安倍晴明公、式神…。

しかし、それらは人気の歌舞伎や映画などの創作の世界にに引きずられたものだ。

実際の晴明神社の坐すのは、京都御所から西にわずか1キロ足らず、様々な伝承をもつ一条戻り橋からすぐのところになる。

 

鬱蒼とした鎮守の杜に囲まれているのではなく (しかし立派な御神木はある)、境内は日の光をいっぱいにうけて、突き抜けるように明るい。そして、清浄な風が吹き抜けている。

京都を南北にはしる幹線道路、堀川通に面し、日々多くの参拝者が訪れている。

~目次~

晴明神社の創建

清明公屋敷跡

晴明神社は1005年 (寛弘2年)、清明公が没すると、その死を悼んだ一条天皇の命により、2年後の1007年 (寛弘4年)、公の屋敷跡に創建されたとされている。

 

いきなりだけど、ちょっと待って。京都ブライトンホテル!
たしか京都御所晴明神社のあいだくらいにあったよね。もうちょっと南か…。土御門(つちみかど)町。あそこの敷地が屋敷跡じゃなかったの?

おお!

 

あのホテル、セイメイってカクテルを出してくれるんだよ。友達が飲んだって。

すごいね。
たしかに『今昔物語』にも清明公の屋敷は「土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東」と書かれているからね。それに中世のほかの書物も、おおむねそれに準じた記述になってる。
いまでは土御門町のそのあたりだったと考えることに、ほぼ定まってるとみていいね。

■土御門家■
安倍晴明公の子孫は室町時代になると、家名を「土御門」と称するようになった。江戸時代中期の当主、土御門泰福土御門神道 (安倍神道) を大成させた。明治維新後は華族となり、子爵に列せられた。
土御門の名は大内裏に設けられた屋根を持たない築地を開いただけの簡便な門、土の門、土御門に由来する。

晴明神社陰陽道

平安京造成時、大内裏 (だいだいり) の北西の「天門」の方角に、陰陽道信仰にあって重要な方忌に関する神、大将軍神をまつる大将軍堂 (現在の大将軍八神社) が建てられた。それと同様に、北東の「鬼門」を封ずるために、現社地に晴明神社を建てたとする考えも成り立つだろう。その際には、いまにのこる清明公は稲荷神の生まれ変わりとする伝承を考えると、稲荷社であった可能性もあるだろう。

創建とされる1007年、一条天皇には厳重に鬼門を封じたいという強い思いが確かにあった。

元々は平安京における天皇の在所である内裏のことを大内裏と称したが、やがて宮城全体を大内裏と称するようになり、こちらが一般化した。内裏には天皇の住居である清涼殿をはじめ、後宮などが配され、内裏の外に朝堂院や豊楽院などのまつりごとに関する施設がおかれた。
しかし大内裏・内裏はたびたび焼失にみまわれた。
そのたびに天皇は仮宮 (里内裏という) での暮らしを余儀なくされた。やがて焼亡から再建までの期間がのびる傾向が顕著になり、天皇の里内裏暮らしが常態化するようになっていく。
現在の京都御所北朝初代の天皇光厳天皇 (在位1331年~1333年) の里内裏であった土御門東洞院殿の後裔にあたる。

一条天皇と怨霊伝説

菅原道真公の怨霊伝説はわたしたちもよく知るところだ。

讒言を受け入れた醍醐天皇によって、道真公は大宰府へと排されて (昌泰の変・しょうたいのへん)、903年 (延喜3年)、かの地で憤死する。

京のみやこでは908年 (延喜8年)、参議・藤原菅根 (ふじわらのすがね) が落雷をうけ絶命すると、その後も皇族、貴人たちの死が相次ぐようになった。

みやこびとたちは、これを道真公の怨霊によるものだと噂しあい、恐れた。

絶え間なく平安京を襲う水害、旱魃、疫病、火災…。

そして、あろうことか930年 (延長8年)、 天皇の住居、清涼殿が落雷をうける (清涼殿落雷事件)。

藤原清貫 (ふじわらのきよつら)、平希世 (たいらのまれよ)など7名もが、惨たらしい姿で亡くなった。

惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、体調を崩し、皇太子・寛明親王に譲位。そして出家した醍醐上皇はその日のうちに崩御された。

道真公は天神となって雷をあやつり怨念を晴らそうとしている。

みやこの恐怖はきわみにまで達した。

 

天神様がみやこを焼き尽くすぞ!

静かにしてよ。お願いします。

■天満大自在天神■
晩年の道真公が天拝山にのぼり、無実を訴えていると、天から「天満大自在天神」と記された祭文が降ってきたとの伝承があるように、道真公は天満大自在天神となったとされるようになり、それが北野 (現・京都市上京区) の火之御子社の火雷神と結びついて、公は雷神とも見做されるようになっていった。
947年 (天暦元年)、 道真公をまつる北野天神社 (現・北野天満宮) が創建された。
987年 (永延元年) には初めての勅祭 (ちょくさい・天皇の勅使が派遣されて執行される祭祀) が執り行われ、一条天皇より「北野天満天神」の神号が贈られている。
それでも怨霊はしずまる気配をみせなかった。
一条天皇 (980年・天元3年~1011年・寛弘8年) は日本の第66代天皇花山天皇の出家により、わずか7歳で即位。在位は986年・寛和2年~1011年・寛弘8年。一条の名は長く暮らした里内裏・一条院 (一条大宮院) の名による。
999年 (長保元年) 、1001年 (長保3年)、1005年 (寛弘2年) と三度までも内裏は焼亡。一条天皇は里内裏と再建なった内裏への遷御を繰り返すこととなる。
「天門」に道真公をまつるだけでは怨霊は鎮まることはなかった。厳重に「鬼門」を封じなければならない。
やがてみかどは譲位の意を口にするようになったと伝えられている。

境内案内

一の鳥居

堀川通に面した一の鳥居に掛けられた扁額には社紋の五芒星。

二の鳥居

二の鳥居に掛かる「晴明社」の扁額は1854年 (安政元年)、土御門晴雄が奉納したものを忠実に再現したものとされている。
 
■土御門晴雄■
土御門晴雄 (つちみかど はれたけ) は江戸時代末期の公卿。江戸幕府14代将軍・徳川家茂の将軍就任に際しては勅使として江戸城に赴いた。1869年 (明治2年没)。翌年、新政府は陰陽寮を解体、1872年 (明治5年) には太陽暦に移行したことから、事実上、公式な陰陽道家としての土御門家最後の当主となった。
 

一条戻り橋

境内を進んでいくと、左手にミニチュアサイズの一条戻り橋が再現されている。
数々の怨霊伝説に登場し、また清明公ともゆかりの深いこの橋のレプリカが当地にあることは意義深いと言うほかない。
レプリカとはいえ、以前の戻り橋で実際に供されていた欄干の親柱 (一條、戻橋と彫られている左右の柱)を移築したもの。
その横には式神のすがた。
清明公は普段はこの橋のしたに式神を住まわせていたという。
式神とは■
陰陽師が占いで用いる式盤と関わりがあるとされる、鬼神の一種。

五芒星



いたるところで、五芒星 (晴明桔梗) を目にする。

清明

清明公の法力によって湧き出たとされている。
上部は可動式で、毎年立春の日にその年の恵方の方角に向けられる。
その水を飲むと、大きな御利益があるという。

聚楽屋敷跡

かつての聚楽第そばにあった千利休の屋敷は、いまの晴明神社のあたりであったともされている。
すると、利休の末期の茶は清明井の水でたてられたことになるのだろうか。

またしても、利休だ。

 

どういうこと?

葛葉稲荷神社を覚えてるよね。

 

葛の葉姫だ。 安倍晴明公御母君の古里。

 

tabinagara.jp

 

そう。あそこも利休ゆかりの社なんだ。
利休が寄進した灯篭、ふくろうの灯篭がある。

 

どこにあったの? 知らない。

子安石のとなりだよ。

 

えっ、真っ暗でなにも見えなかったよ。

 

あれからひとりで行ったんだ。いつ行ったの?
じぶんひとりで行った!

うーん。
とにかく、利休についてもいろいろと知りたいことが出てきたね。あちこち訪ねてみたい。

 

利休にたずねよ

うーん。

死後、利休の首は一条戻り橋に晒された、とも言われている。

■利休切腹?■
利休は秀吉の勘気をこうむり、大徳寺山門から引きずり降ろされた利休の等身大の木像は一条戻り橋で磔にされた。やがて利休は切腹。その首は木像に踏みつけられるかたちで晒された…。
映画などでは、利休の最後は切腹というのがお決まりになっているが、はたしてそうだろうか。
当時の人々の日記には「利休は逐電された」「行方不明になった」「高野山に上った」などと記されたものも複数存在する。
また、木像に踏みつけられたことが事実なら、その像は間違いなく、即座に派手に破却され、その様子はいまに伝聞として残っていたことだろう。
大徳寺にあった木像が、その後、どのような経緯を経たかは定かではない。現在では茶道の裏千家が秘匿しているとも、また、いまも大徳寺のどこかに匿われているともされている。

一条戻り橋を越えて

わたしは晴明神社をあとにした。
晴明神社バス停 (正式名称は一条戻り橋・晴明神社前) を横目で見ながら、一条戻り橋のほうへと歩いて行った。
ほんの数分で橋を渡ることになるだろう。
行くあてなどなかったが、不意に、話に聞く京都ブライトンホテルの「セイメイ」というカクテルを口にしてみたくなった。
■セイメイとヒロマサ■
京都ブライトンホテルではセイメイ (安倍晴明) とヒロマサ (源 博雅) という二種類のオリジナルカクテルを供している。
いにしえに想いを馳せながらグラスを見つめれば、みやびなうたげの気分にひたれるだろう。是非。

kyoto.brightonhotels.co.jp

一条戻り橋まで来ると、子供の泣き声が聞こえてきた。
したを流れる堀川の両岸は、遊歩道として整備されている。
のぞきこむと、幼い女の子が泣きじゃくりながら歩いていた。その前を進むのは母親らしき女性。子供のことが心配でたまらない、といった表情。しかし、こころを鬼にしてうしろを振り向かない、といった様子。
どんな悪さをして、お母さんをおこらせたのだろう。

 

現代の式神はよく泣く。

そして母式神は、子供を泣きやませるのに難儀している。

 

【大阪市阿倍野区】安倍晴明神社。清明公御生誕伝承の地で葛の葉姫に出会う

平安時代陰陽師 (おんみょうじ)、天文博士安倍晴明公の人気は、現代にいたり世上ますます高まっているように思われる。幾たびも小説や映画に取り上げられ、先日 (2023・4・2~2023・4・27) も、東京銀座の歌舞伎座において、市川猿之助、脚本・演出の『新・陰陽師』が披露されていた。

そんな清明公の生涯には謎が多い。

伝えられている生年や出自にも確たるあかしはなく、御生誕の地としてあげられているところも複数存在する。常陸、讃岐などと並んで、摂津国の、現在では大阪市阿倍野区とされるところもそのうちのひとつだ。

阿倍野区元町に坐す安倍晴明神社は社の由緒書きによると、寛弘4年 (1007年) 花山法皇の命により清明公御生誕の地に創建されたとされる。

しかし江戸時代末には衰微し、明治になる頃には祠と「安倍晴明誕生地」の石碑が残るばかりとなったが、大正14年 (1925年) 阿倍王子神社飛地境内社として、現在の社殿が再建された。

平成17年 (2005年) には安倍晴明公一千年祭が斎行され、現在では清明公の遺徳に触れようと、多くの参拝者が訪れている。

常陸と讃岐の御生誕伝承■
遣唐使として唐に渡った吉備真備が唐で客死した阿倍仲麻呂の霊力の助けを得て、占術の専門書『簠簋内伝・ほきないでん』を日本に持ち帰り、常陸国にいた仲麻呂の子孫、若き日の清明公にその書を譲り渡した。清明公は筑波山で修業を重ね、霊力を得て京にのぼったとされる。
讃岐守護の由佐氏は、もともとは常陸の出。益戸氏は由佐に城を構えて、名を由佐と改めた。常陸にあった清明公御生誕伝承が、讃岐に持ち込まれたのではないか。
他にも、安倍文殊院のある奈良県桜井市を御生誕地とする説もある。

 

安倍晴明神社

神社周辺

あべの筋からすこし奥まっただけだというのに、喧騒からはずいぶんと離れていた。

まわりは閑静な住宅街だ。

日本一高いビル、あべのハルカスが薄緑色にぴかぴかと輝いて威容を誇るさまが、まじかにみえた。

奇妙なかんじがした。

 

いよいよだね。安倍晴明神社。

さっそく境内に入ってみよう。

境内案内

清明公の霊力のなしたことではあるまいが、拝殿に向かう石畳が、右下がりになっている。

そして、背後の流造銅板葺の本殿。

神社の東側をはしる現在の幹線道路、あべの筋 (府道30号線) とは反対の、西向きに建てられている。

それは古来、すぐ西側に熊野街道が通っていたためだろう。

熊野街道とは■
平安時代中期ごろから、京のみやこの皇族、貴人たちのあいだで盛んとなった熊野詣のための、熊野三山へといたる街道。

葛の葉姫

清明公の没後に成立した出生説話に登場する、葛の葉姫の碑がたっていた。

ある時、清明公の父、安倍保名 (あべのやすな) が信太 (しのだ・大阪府和泉市) の森で狩人に追われていた白狐をたすけた。

■安倍保名■
安倍保名は江戸時代中期初演の浄瑠璃芦屋道満大内鑑・あしやどうまんおおうちかがみ』に清明公の父として登場する、創作上の名前。
実際の清明公の父はだれであるか、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)とする説などがあるものの、確たるものではないために、清明公の誕生説話などを語るときには、父としては保名の名前が表記されることが多い。

狐は人間の女 (葛の葉姫) に姿をかえ、保名とともに暮らし童子丸 (後の清明公) を授かった。

しかし童子丸五歳のとき、姫の正体が知られてしまう。

姫は家の障子に和歌をのこし、信太の森へと帰って行った。

恋しくは 訪ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

 ※怨みではなく、裏見。

 

なんだ創作か。これと似たような話、あちこちにあるね。

もちろん狐が人間の子供を産むなんていうのは事実ではないよ。でも神話、民話、説話が生まれる背景には、必ずそれを物語りたいと願った人々の強い動機があるんだ。
その気持ちは真実なんだよ。

 

どういうこと?

つまり清明公は信太とゆかりがあってほしい、と強く願ったヒトがいたんだと思う。たぶん信太の民がそう考えたんだと思うよ。

 

難しい話をするね。

難しい話もするさ。

■葛の葉姫■
それまでは単に「信太妻」と呼ばれていた白狐に「葛の葉」の名前がつけられたのは、江戸時代中期の歌舞伎『しのだづま』が初出とされている。

阿倍王子神社

安倍晴明神社から50メートルほどさきにある阿倍王子神社にも参拝した。

熊野街道に面していたという西側の鳥居をくぐり、境内にはいる。

社伝によると、仁徳天皇の創建とされている。

そして、当地は古代豪族・安倍氏の居住した土地であり、往古にはその氏寺・阿部寺があったとされる。

しかし平安時代にはいると、阿部寺は四天王寺に吸収されてなくなり、あとには氏神社 (うじがみのやしろ) だけが残されることとなったが、ちょうど四天王寺住吉大社の中間に位置することから王子社へと姿をかえた。

おりから盛んになってきた熊野詣のための街道が社の西側に整備された。

■王子社とは■
熊野詣の途上において参拝者の庇護を願い、奉幣や読経がおこなわれた場所。熊野の修験者によって組織化されたとされており、神仏習合的。もともとは在地の神をまつっていた社に熊野権現御子神 (王子神)を勧請するなどした。
なお九十九王子 (つくもおうじ・くじゅうくおうじ) などとも称されるが、実際の王子の数が九十九あったのではなく、たくさんあることの例え。短い期間で姿を消す王子もあったことから、その実数には諸説あるが、百余ともされている。

えっ、王子ってそんな意味だったんだ。

どんな意味だと思ってたの?
まあ、察しはついてるけどね。

 

清明公が若いころ阿倍王子 (あべのおうじ) って呼ばれていたからだって思ってた。
だって映画やドラマにでてくる清明公はみんなイケメン。

そんなふうに勘違いしているヒトは、案外多いよ。
ちなみに「の」はいらないんだ。あべおうじじんじゃ。

左右に二本ずつ、四本の見上げるような御神木に囲まれて、参道が続いていた。

正面に社務所が見えた。

由緒書きを頂戴する。

開いてみる。

おお!

裏返した。

拝殿に歩み出て、柏手を打つ。

許可なく境内の撮影をすることを禁ずる旨の看板が立てられていた。

もう、若い頃のようにあれもこれもと記憶しておくことは難しくなってきた。最近では、神社仏閣を訪れたときには、いつも備忘録的に写真を撮ることにしている。

しかし、社務所にわざわざ申し入れるのもなんだか憚られた。

わたしはスマートフォンをズボンのうしろのポケットにねじ込んで、となりに建つ入母屋造のちいさな社を見た。

前面の朱色が鮮やかだ。

葛之葉稲荷神社。

葛の葉姫がおまつりされていた。

もっと姫を身近に感じたくなった。

いまから信太の森に向かおうか。

■あべのせいめい?■
清明公が実在の人物であったことは確実だが、存命中、どういう名で呼ばれていたかさえ、実は定かではない。音読みが本来の読みだとは考えづらいので、おそらくは「はれあき」「はるあき」「はるあきら」などというのが本来の読み方だろう。しかし多くのヒトの口にのぼり、その名がひろく世間にひろまるうちにいつしか「せいめい」と呼ばれるようになっていったのだろう。
このようなことはめずらしくはない。
『神賀詞・かむ(の)よごと』は現代ではしばしば「しんがし」と呼ばれるようになった。また、その編纂時にはおそらく「ふることぶみ」「ふることのふみ」などと呼ばれていたであろう書物は、いまでは『古事記こじき』としか呼ばれなくなっている。
こうして単なる固有名詞であったものは、公然たる一般名詞へと昇華されていく。

信太の森へ

聖神社

演目によって設定は様々だが、保名 (やすな) が信太の森で白狐と出会ったのは、信太明神 (現在の聖神社大阪府和泉市) に参拝していたおりだとされている。

聖大神 (ひじりのおおかみ)、渡来人、信太首 (しのだのおびと)…。

興味は尽きなかった。

 

聖神社、いまから行くの?

いや、今日はやめておくよ。別のところに行く。
ところで、聖神社の住所を調べてみてよ。

 

えーっと。
大阪府和泉市王子町…、あっ!

そうなんだよ、そこもまた篠田王子  (しのだおうじ) という王子のあったところなんだ。

 

すると清明公ゆかりの神社が、ことごとく熊野街道でつながっていたってことになるね。

そうなんだ。
聖神社も、安倍晴明神社や阿倍王子神社と同様に熊野街道がすぐ前を通っていた。
そこは修験の道、はるか熊野三山へとつづく密教の道だったんだ。
修験道陰陽道密教三者は親和性が高い。

 

清明公の伝承には熊野信仰の影響がある…、ってせっかく盛り上がってきたのに、ここをスルーしていったいどこに行くの?

それはね…、

信太森葛葉稲荷神社

わたしは、聖神社から1.5キロほど離れた信太森葛葉稲荷神社を訪ねた。

いまでは周辺もずいぶんと開発がすすみ、家屋なども建ち並ぶようになったが、ほんの百年も遡れば、二つの神社はおなじ信太の森に坐す社として知られていたことだろう。

その正式名称は信太森神社。

いまでは関西三大稲荷にも数えられる信太森葛葉稲荷神社だが、もともと聖神社末社のひとつを起源とするここに稲荷神を勧請したのは18世紀半ばと、それほど古いものではない。

特筆すべきは、そのひろい境内にまつられた幾多の神仏だろう。

案内図によると、その数じつに68にものぼる神仏ではあるが、巧みに図られた周回路によって、そのすべてに手を合わせることが出来るようになっている。

このような景観をみせる神社は、なかなかほかに例を見ない。

はじめてここを訪れたヒトは、きっと神仏のテーマパークといった感想を抱くだろう。

すっかり日は傾いていた。

参道を進み、本殿にむかう。

本殿わきには、楠の御神木。

樹齢二千年とも言われている。

そのうしろには、ブランコ、滑り台などの遊具が照明に照らされていた。

周回路を巡る。

「姿見の井戸」

白狐が葛の葉姫に化身したときに、御身を鏡代わりのこの井戸に映し見たとされている。

 

tabinagara.jp

 

すごいね。
伝承に出てくるようなところがちゃんと残ってるなんてね。

むしろ反対だろうね。
ここにあるものを伝承に擬した。あるいは伝承にあわせて作り上げた。
ここがながらく個人所有の神社だったからなしえたことなんだね。
幾多の神仏を勧請できたのもおなじ理由でしょう。

 

ふーん。

社名に葛葉とあることからも知れると思うけど、江戸時代中期に披露された歌舞伎や浄瑠璃で人気を集めた葛葉伝承に、お社自身を寄せていった、整備していった。そうして安倍晴明公御母君の古里、と称するにいたった。
そこには非常に強い想いがあったはずなんだ。それが多くのヒトを惹きつけているんだね。
いまも古典芸能や演劇の関係者の参拝が絶えないそうだよ。

清明公由来の「子安石」

 

暗くてなんにも見えないよ。

もっとあかりを。

 

もっと早い時間に来たかった。暗くなるまえに。
それにこんどは聖神社にも行きたい。

そうだね。明るいうちに来れればよかったね。
神様はいっぱい。それに遊具もあって公園みたいだ。
一日中過ごせそうだね。
次はお子さんも連れてくるといいよ。

 

そうしようかな。
ここすごく楽しそう。

それがいい。
社務所では葛葉にかけて葛餅を販売しているらしいよ。
それもワクワクだね。

わたしは社務所のまえで立ち尽くしていた。

ここにとめておいたはずのクルマがない。

わたしの赤いクルマ。

きょろきょろと見回すが、どこにもない。

大きなショッピングモールの駐車場でどこにとめたか思い出せずに、探し回った経験はある。

しかしこの状況で、いったいなにを思い出せというのか。

わたしは境内を出て、来た道をもどっていった。

表通りの、朱色の鳥居が見えてきた。

その先で、見覚えのあるクルマがハザードを点滅させていた。

絶対に、こんなところに駐車などしていない。

しかしドアには鍵がかかっている。

わたしなのか。

そして神社まで歩いたとでも…。

よもや狐に化かされたのではあるまいが。

                                                                                                   

 (最終更新日 2023.5.20)

【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで

相撲の起源はいつどこに求めればよいのだろう。

向きあった力士どうしが呼吸を合わせ、両手を土俵につけるや、立ち合いの一瞬、バシンッ、と凄まじい音を立ててぶつかりあう二つの巨きなからだ。隆起する二の腕の筋肉、四つの足が土俵にめり込まんばかりになる。

見るものを陶酔と熱狂へと連れ去る、そんな相撲の始まりは、いったいどのようなものだったのだろうか。

 

国譲り神話

神話の世界にまで遡ってみると、古事記における出雲の国譲り神話の、大国主神の子、建御名方神 (たけみなかたのかみ) と天津神・建御雷神 (たけみかづちのかみ) との伊耶佐之小濵 (いなさのおはま・稲佐の浜) でのちからくらべを相撲の起源とみることができる。

■それぞれの国譲り神話■
古事記では、天照大御神は建御雷神に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を付き添わせて天下らせている。しかし日本書紀ではそれが経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)となる。また出雲国造神賀詞では天穂日命が自身の子、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に布都怒志命(経津主神)を従わせ、天下らせて葦原の瑞穂国を平定したとされている。そして出雲国風土記では大穴持命(おおなむぢのみこと・大国主神)が、我が造り坐す八雲立つ出雲の国は青垣山を廻らし賜いて守るとし、出雲以外の国を自らてばなしたとしている。

 

tabinagara.jp

 

そして敗れた建御名方神は科野 (信濃) の国に去ったとされている。

野見宿禰當麻蹶速

初の天覧相撲

しかし、より現代の相撲に近い形での伝承となれば、日本書紀に記された垂仁天皇の御前でおこなわれた野見宿禰當麻蹶速の取り組みとなる。
この初の天覧相撲に勝利した野見宿禰は、二上山麓の當麻蹶速の所領を賜ったとされている。

野見宿禰と土師氏■
垂仁天皇32年、皇后日葉酢媛命を葬るにあたって、野見宿禰は殉死をやめ、代わりに土物(はに・埴輪)を埋めるよう奏上した。これをもって野見宿禰は埴輪の製作や陵墓の造営などの葬送儀礼をつかさどった土師氏の祖と見做されている。ながく陵墓の石棺などの切り出し供給地であった二上山麓の土地を賜ったとされるのは、そのような文脈のなかでとらえることができる。

 

tabinagara.jp

 

腰折田

當麻蹶速は腰を踏み折られ絶命したことから、没収された所領に「腰折田」があると、日本書紀は記す。

江戸時代の地誌「大和志」はその所在地を良福寺 (現在の奈良県香芝市良福寺) としている。

近年、良福寺のとなりの磯壁 (香芝市磯壁) に「相撲発祥伝承之地 腰折田」の碑がたてられ、小さな公園として整備されている。しかしながら、そこは「腰折田伝承之地」としたほうが理解されやすかったかもしれない。

実際、現地の案内板のほうはそのようになっている。

そこには現在の土俵 (15尺) よりも小さな、古い時代の土俵 (13尺) が再現されている。

當麻蹶速之塚

 腰折田伝承地からほど近い、奈良県葛城市當麻には當麻蹶速の墓とされる五輪塔がある。

しかし、當麻寺の開山に携わった當麻国見の墓とする異説もある。

いずれにしても、五輪塔自体は、その様式から平安時代末期ないしは鎌倉時代のものとみなされている。

五輪塔のとなりの「葛城市相撲館 けはや座」では、相撲に関する様々な貴重な資料を見ることができる。

 

tabinagara.jp

奈良時代から江戸時代まで

相撲節会

野見宿禰當麻蹶速の取り組みが、垂仁天皇7年7月7日と日本書紀に記されるなど、宮中にあっては、相撲は七夕の神事、あるいは七夕行事の余興としておこなわれていたと考えられている。

そして聖武朝 (724年~749年) の頃には相撲節会 (すまひのせちえ) として年中行事として定着。射礼 (じゃらい・弓儀式。歩射の一種)、騎射 (きしゃ・馬に乗っての弓競技)とならんで三度節とされた。

やがて桓武朝に健児 (こんでい)の制がはじまると、健児の鍛錬に相撲技が取り入れられるなど、相撲は肉体の鍛錬という面を強くしていくようになる。

■健児の制■
律令制下における各地の軍団に代わり、桓武朝中期の792年、一部の諸国をのぞき新たに布(し)かれた徴兵制度。

その後、平安京にみやこが移ると、相撲節会は次第に優雅な宮中行事へと性格を変えていき、ついには平安時代末期の1174年の開催を最後に相撲節会は廃絶となった。

武家相撲と勧進相撲

肉体の鍛錬としての相撲を、武士が好むのはごく自然なことだった。

鎌倉時代吾妻鏡に記されているように、源頼朝はことのほか相撲を好んだ。鶴岡八幡宮の祭礼には相撲がおこなわれるのが習わしだった。

織田信長豊臣秀吉もたびたび上覧相撲をひらいている。

しかし徳川の天下泰平の世となると、武家相撲は次第に存在意義をうしなって衰退し、代わりにいまに続く民間の勧進相撲が盛んになった。

■お抱え力士■
江戸時代になると、藩の威信を示すために勧進相撲の有力力士を家臣の身分で取り立てることが盛んにになった。雷電為衛門や陣幕久五郎をお抱え力士とした雲州松江藩などが有名。

 

松江は相撲が盛んだったんだね。やはり野見宿禰と関係があるのかしら。

そうかもしれないね。亨和元年 (1801年) の番付表では西の大関以下、上位6名が松江の力士だったんだよ。

横綱は違ったの?

当時は大関が最高位だったんだ。そのころには雲州の力士がいなければ興行が開けないと言われていたそうだよ。

奉納相撲の跡をたずねて

腰折田とおなじ香芝市内の穴虫にある大坂山口神社に向かった。

かつては、盛んに奉納相撲がおこなわれていたという。

鳥居の向こうに、石垣を組んだ桟敷席が設けられているのが見えた。

割拝殿をくぐると、鹿が描かれた額が目に飛び込んできた。

安政六年ということは江戸時代の1859年、安政の大獄があったころだ。
奈良に鹿はつきものとはいえ、奈良公園からずいぶんと離れたここで鹿と出会えるとは思わなかった。

振り返ると、反対側には相撲の額。

奉納されたのは昭和のようだが、描かれている土俵のサイズはどうやら小さい、昔の13尺のようだ。

さらに石段をのぼって参拝。

参拝を終えると、わたしは石段を下りて行った。

その左手に、かつては土俵が設けられていたという。

しかし、いまではその取り壊されてひらけた更地を桟敷席だけが無言で見つめるばかりだ。

わたしは土俵があったとおぼしき場所に立ち尽くしていた。

桟敷席を埋め尽くすにぎやかな歓声に負けじと、力んだ大声で「はっけよい、のこった!」と叫ぶ掛け声が聞こえたような気がした。

 

おもしろそうね。こんど行ってみようかな。

いいね。ちょっと注意してほしいのは、香芝市内には大坂山口神社というのが、この穴虫以外にもう一か所、逢坂というところにもあるんだ。どちらも式内・大坂山口神社の論社と目されているんだ。

 

ややこしいね。

ふたつは歩いて10分程しか離れていないんだ。両方参拝するのがおすすめさ。 

■「はっけよい」と「のこった」■
相撲には、野球における「プレイボール」のような開始の合図は存在しない。二人の力士の両手が土俵についたそのとき、取り組みが開始されることになる。よく「はっけよい、のこった」をそうだと誤解している向きもあるが、あれはまだ勝負のついていない両力士に、はやく決着をつけるよううながしているにすぎない。
「のこった」は相手のからだがまだ土俵上に残っているぞ、あるいはあなたのからだはまだ土俵上に踏みとどまっているぞ、という意味だとすぐに理解できる。では「はっけよい」とはなにか。
諸説ありそのどれもが決定打に欠けるが、相撲がその起源から神事としての側面を持ち合わせてきたことを考えると「八卦よい」にその語源を求める説には、一定の説得力がある。
 

おわりに

腰折田、大坂山口神社と香芝市内の相撲ゆかりの地を巡ったあとに、さあ、こんどは食事だと思ったなら、香芝市内にぜひとも立ち寄りたい店がある。
近鉄大阪線・関谷駅のすぐ目の前にある「相撲茶屋 ちゃんこ好の里」だ。
かつての井筒部屋の力士、好の里関が店長をつとめるこの店でおもいきり胃袋を満たしたいものだ。
 

ちょっと待って。相撲の歴史を教えてくれるって言ったのに、神事相撲についてはあまり触れてないね。相撲節会についても通りいっぺんだった。どうして?

現存する資料がすくないからさ。でももっと詳しく知りたいなら、愛媛県今治市大山祇神社に行くといいよ。いまでも神事として一人角力がおこなわれているんだ。

 

一人角力 (ひとりずもう) ?

そう。稲の精霊相手に角力をとるんだよ。もちろん精霊のすがたは見えないので、まるで一人で角力をとっているように見えるんだ。

 

へえ、一人角力って言葉、神事が語源だったんだ。

いまみたいに空回りみたいなネガティブな意味で使われるようになったのは、明治以降のことなんだ。

 

なるほどね。
じゃあ、はやくちゃんこを食べに行きましょうよ。日が暮れてしまう。ところで、この旅ながらの日々ってブログ、ずいぶん空回りな一人角力ってことはないかしら。

えっ?

 

 

ごっつあんです。

ごっつあんです。

 

行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて

我が国最古の天覧相撲の記録は、日本書紀によると、第11代垂仁天皇の御前での大和の當麻蹶速 (たいまのけはや) と出雲の野見宿禰 (のみのすくね) のとりくみとなる。

もっともこの時代の捔力 (すまひ)、現代の角力 (すもう) とは少々異なっている。

なにしろ野見宿禰は、敗れた當麻蹶速の腰骨を踏み折ったというのだから、いまならさしずめデスマッチのレスリングといったところか。

また、そのとりくみの日が「垂仁天皇7年7月7日」とされているなど、相撲が七夕を中心とした一連の行事のひとつであったとも考えられている。

 

へえ、野見宿禰って出雲のヒトなんだね。

そうなんだ。ただ、山陰の出雲国とする説と、大和国の出雲、現在の奈良県桜井市出雲とする説の二説があるね。

どちらかはわからないのね。

日本書紀を読むと、七夕の7月7日に呼ばれてすぐに来たように読めなくもないから、大和の出雲とするほうが説得力があるかもしれないね。

tabinagara.jp

奈良県葛城市にある、そんな當麻蹶速の名を冠した葛城市相撲館「けはや座」を訪問した。

先月、當麻寺近くにあるそこに着いたときには、すでに閉館時間まぎわで入館をあきらめたのだ。

 

tabinagara.jp

今回は再訪ということになる。

 

葛城市相撲館「けはや座」

さあ、行こう。

入館料、大人300円ときわめて良心的。

入り口をはいると、いきなり「闘士」と名づけられた力士像が出迎えてくれた。

このウイルス騒ぎのご時世、しっかりとマスクをつけている。

どこに行っても見慣れた光景とはいえ、その律儀さに感心した。

館内には、大相撲で使われるのとおなじ規格の土俵が設営されている。

非常に立派だ。
客席も充実していて、二階は資料の展示スペースになっている。

携帯電話で友人に小声で言った。

「いま、相撲館に来てるんだ」

「へえ、相撲をとってるのか」

そんなわけがないだろう。

ここではしゃぎまわるなんていうのは、子供くらいのものだ。

静かに見学してきただけだ。

非常にいい施設だった。

小粋で、展示物も充実している。

それにしても驚いたのは「土俵婚」だ。

これ、何組もやっているのだろうか。
盛況とかだろうか。

仲人は行司さんと呼ばれているに違いない。

「ヒガーシー」「ニシ―ッ」の呼び声とともに新郎新婦が入場してくるあたりまでは、あるいはお決まりだろうか。

ふたりががっぷりよつに組むことはあるまいが、クライマックスでは (どのあたりだろう) 升席から投げ込まれた座布団が宙を舞うことだけは間違いあるまいと思われた。 

わたしは外に出た。

すでに日は暮れかけていた。

當麻蹶速之塚

相撲館のすぐまえに、當麻蹶速の塚がある。

一般に蹶速の塚とされているが、これを當麻寺の開山にかかわった當麻国見の塚とする異説もある。

そして、塚のすぐ横には鉄砲柱があった。


わたしは腰をおとして突いた。

一度、二度と突くと、なにやらおもしろくなってきて、声を出していつまでも突き続けた。

「どすこい、どすこい、どすこい!」

鉄砲柱のむこうの植え込みに、たしかつくしがアタマを出しているのが見えた。

そう、あれはたしかにつくしだった。

 

【奈良県葛城市】當麻寺の門前で中将姫の夢をみる

先月のこと。

二月といえば寒気もさかりで、わたしなど、ついつい猫背になってポケットに手をいれて、うつむき加減で過ごしがちだった。

そんななかにあって、うれしいのは日照時間が日に日にながくなってきているのを実感できることだ。日没時間が遅くなって、いつまでも明るいとなんだか得をした気分になる。

夕方四時半、すこし前までならもう薄暗かったのが、まるで嘘のようだった。

そんなわけで、すこし寄り道をしたくなった。

 

當麻寺に向かって

二上山山麓にのびる国道165号線とそれに続く県道30号線は、地元では文字通り山麓線の愛称でよばれている。

穴虫交差点からのびるバイパスをのぼっていき、こんどは一転下り坂になると、左前方に大和三山の麗しい山容を望むことができる。

 

tabinagara.jp

さらに数分クルマで進んでいくと、當麻寺 (たいまでら・当麻寺) 交差点に至った。

はじめてそこを右折してみた。

いつもは曲がらずに直進する。

まれに左折して、どんどん道幅が細くなっていくのにうなりながら、大和高田市の市街地のほうへとぬけていくこともある。

ともかく、わたしは右折した。

静かだった。

白壁に格子戸の家屋が、まっすぐな道の両側に並んでいた。

それぞれの建物の高さがわりあいにそろっている。

見事な門前町の風格。

それは以前に見た、手作りの精緻なドールハウスのくにのように見えた。

すぐに行き止まりになる。

つきあたりが當麻寺の仁王門だった。

門のそばにはお寺の駐車場があった。

10台ほどしかとまっていない。

空きスペースがたくさんある。

どうする、参拝したいところだ。

しかし、あとすこしで5時になる。

これではいかんともしがたい。

いつもこうだ。

行き当たりばったりで、結局のところなにもしないで終わってしまう。

去年、京都の笠置寺を訪ねたときもそうだった。

余裕をもって家を出たというのに、途中で、興味をひかれる神社や古墳にふらふらと立ち寄ってしまい、結局時間がおしてしまって、あの笠置山の曲がりくねった細い登山道をクルマでのぼっていくころにはすでに薄暗く、やっとたどり着いた山門は当然しまっていた。

 

tabinagara.jp

ほんとうにいつもそうだ。

そこにタッチさえできずに、苦笑いを浮かべながら引き返したことのなんと多いことだろう。

中将姫伝説

 

當麻寺のはじまりは推古天皇20年(612年)、聖徳太子の異母弟、麻呂古親王二上山の西側に建立した万法蔵院 (まんぽうぞういん)を祖とすると伝えられている。その院を東麓に遷造するに際しては、役行者から寄進をうけたとされる土地に、天武天皇10年(681年)、金堂に弥勒仏をおまつりして、いまの當麻寺が創建された。

現在は真言宗・浄土宗二宗共立の寺院で、弥勒仏坐像、曼荼羅厨子、我が国最古級とも推定される梵鐘などの数々の国宝や、四天王立像、阿弥陀如来坐像などの多くの重要文化財を広大な境内に有する古刹だ。

しかしこの寺でもっとも世に知られているのは、なんといっても中将姫伝説だろう。

中将姫は古くから浄瑠璃や歌舞伎にたびたびとりあげられ、近代には折口信夫が姫を題材に幻想小説死者の書』を著している。たとえそれらに馴染みのないヒトでも、その名を冠した葛城銘菓の中将餅を目にしたことならあるかもしれない。あるいはツムラバスクリン(1)のパッケージに描かれた和風美人が中将姫だと言えば、ああ、とうなずかれるむきもおられるだろう。

中将姫は天平19年 (747年) 藤原豊成の娘として奈良の都に生まれたといわれている。

5歳で母を亡くした後は継母から疎まれるようになり、やがて命さえ狙われるようになると、14歳のときに雲雀山(2)に出奔、読経三昧の日々をおくったとされる(3)。

16歳のとき、夕日の沈む空一面に阿弥陀仏をかこむようにひろがる極楽浄土の光景を見た姫は、西方浄土の入り口と都びとからみなされていた二上山の麓に建つ當麻寺に出家(4)。 翌年、中院の小堂(5)で剃髪し、法如 (ほうにょ) の名を得て尼僧となった。

 

tabinagara.jp

中将姫は、自身が目の当たりにしたあの極楽浄土の姿を今一度見てみたいと願い、蓮の茎から取り出した糸を五色に染め、千手堂のなかでその浄土世界の再現を目指して織り上げたものが、當麻曼陀羅(6)とされている。

それから10年余り、姫は曼陀羅の教えを周囲に熱心に説きつづけた。

そして29歳の春。

桜や桃の花が咲き誇る當麻寺阿弥陀如来がお迎えに来られたなか、姫は御身のまま(7)極楽浄土へ旅立たれたと言われている。

 

tabinagara.jp

中将姫はなぜこれほどながいあいだ、多くのヒトに慕われ続けているのだろうか。

中将姫を想うとき、わたしがいつも思い起こすのは一陣の風だ。

姫の魅力は、悲劇的な幼少期をのりこえた深い信仰心や、ミカドにのぞまれたというその美貌もさることながら、女人禁制の當麻寺に出家し、そして女性のままに往生したその揺るぎない一途さにあると思う。

 

tabinagara.jp

そんな當麻寺を参拝するには、せめて半日がかりでゆっくりとのぞみたいものだ。

出直そう。

わたしは山門に背を向けた。

もう背後の二上山のむこうに夕日が隠れたのかどうかは知れなかったが、どうかここで夢みることがかないますようにと願った。

夕日のなかに認めた中将姫の尊いお姿に涙を流すことだろう。

葛城市相撲館「けはや座」

山麓線の當麻寺交差点を過ぎてすぐのところに、葛城市相撲館「けはや座」がある。

相撲の開祖とされる當麻蹶速 (たいまのけはや) の名にちなむ。

となりに當麻蹶速之塚がある。

しかし閉館時間は午後5時だった。

やはりタッチさえかなわずに引き返さなければならなかった。

またしても…。

敷地内に、鉄砲柱があった。
説明版には、ご自由にどうぞとあった。

そこにつけられたのは、断じてわたしの手形ではない。

 

 

(1)長年ツムラ(旧社名・津村順天堂)のバスクリンとして親しまれてきたが、周知のようにバスクリンに関する事業は、2008年ツムラから独立。株式会社バスクリンは、2012年アース製薬グループ(現・アースグループ)に加わった。したがって現在のバスクリンには、あの中将姫のイラストは記されていない。しかし、いまでも株式会社ツムラの創業以来のロングセラー婦人薬、中将湯のパッケージには慈悲深い中将姫のお顔は健在である。

(2)ひばりやま。和歌山県有田市にある雲雀山とする説と、奈良県宇陀市の日張山とする説の二説がある。

(3)そこでの「山中で灯をともす油もないが、こころの月を輝かせればよい」などの姫の尊いお言葉を綴った『中将姫山居語』は現在、當麻寺中之坊霊宝館に収蔵されている。

(4)当時の當麻寺は女人禁制だった。入山を許されなかった中将姫が山門の前にある石のうえでひたすらに読経を続けていると、やがて姫の強い想いによって石に足跡ができた。それに心打たれた実雅和尚は姫を迎え入れることになった。その霊石「中将姫誓いの石」は現在當麻寺中将姫剃髪堂の横に移され、誰もが拝むことができる。

(5)現在では中将姫剃髪堂の名で知られている。

(6)いわゆるマンダラの名で呼ばれているが、真言宗大日如来を中心とした「金剛界曼荼羅」「胎蔵界曼荼羅」とは違い、中将法如が織り上げた阿弥陀仏を取り巻くように極楽浄土をあらわしたこれは、當麻寺真言宗との共立となる時代以前は「感無量寿経浄土変相図」と称されていた。創建時の本尊は金堂に坐す弥勒仏座像であったが、現在では當麻曼陀羅を本尊としている。

(7)当時は、女性は男に生まれ変わってからでないと往生できないとされていた。

因幡の白兎伝承をめぐって。古事記神話、白兎神社、亀井玆矩公の視点から

古事記にあって、もっともよく知られひろく親しまれているのは、因幡の白兎 (稲葉之素菟) のくだりに違いない。

淤岐島(1)から今まさに気多の前に渡り終えようとしたときに、兎は鰐を怒らせてしまい毛皮を剝がれてしまう。そこに八上比賣 (八神姫) に求婚するために通りかかった八十神たち。兎は八十神に教わったままに、海水を浴びて風に当たっていたが、やがて海水が乾くにつれて皮膚がひび割れ、痛みのあまり泣きだしてしまう。

そこに八十神たちに袋を背負わされ、あとを追ってきた大穴牟遅 (おおあなむぢ・大国主命) は 、真水でからだを洗い、蒲の穂を敷いてそのうえで転がるようにと教えて兎がその通りにすると、たちまちカラダは元通りになった。

「八十神たちは、決して八神姫を娶ることはできません。今は袋を背負わされて従者のようにあつかわれていますが、あなた様こそ姫と結ばれるでしょう」

 

因幡の白兎について

因幡の白兎は不思議なはなしだ。追いかけるほどに次々と別の顔、違った解釈があらわれてきて、どこまでも追い続けることになる。それは捕まえた、とほっとしても難なく腕をすり抜けて、ぴょんぴょんと飛び跳ねて逃げていく兎にも似ている。

兎は時折ふり返り、いたずらっぽく首を傾げては、また走り去ってこちらを森の奥へ、さらに奥へと連れていこうとする。

因幡伯耆隠岐の三国にのこる白兎ゆかりの地。そして、そのそれぞれの地に伝わる様々なバリエーション(2)の白兎伝承の森は深い…。

『しろうさぎ』という絵本を手にした子供たちは、それを白兎の毛がもとどおりによみがえったハッピーエンドな童話として理解する。しかしよく知られているように、これは大穴牟遅 (大国主命)  自身の四つの連なる再生譚の発端にほかならない。

因幡の白兎」(一) のあとに、「赤猪岩・あかいいわ」(二) のはなしが続く。大穴牟遅は嫉妬に狂った八十神たちから、この山から赤い猪が下って来る、それを捕まえろ、と言われ、実際に転がってきた赤く焼けた岩を抱きとめようとして、それに焼き付かれて死んでしまう。そして「氷目矢・くさび」(三) のはなしが続く。

(二) (三) での死と再生を経た大穴牟遅は最後に須佐之男命のいる「根の堅州国訪問」(四) でこの再生譚を閉じることとなる。根の国での数々の試練に耐え抜いた大穴牟遅は宇都志国主神 (うつしくにぬしのかみ) となり、大国主神 (おおくにぬしのかみ) となって、伊賦夜坂 (いふやざか・黄泉比良坂) をぬけて葦原中国 (あしはらのなかつくに)で、いよいよ国づくりを始める。

 

tabinagara.jp

 

このように、兎はその始まりにおいて、ただ道化者の役割を振られているに過ぎない。

しかしこの道化者、非常に重要な位置にいる。

古事記は兎について、次のように述べている。

『このものは稲葉の素菟ぞ。いまでは兎神ともいう』

白兎神社について

白兎神社 (はくとじんじゃ・鳥取市白兎) はそんな因幡の白兎、白兎神を主祭神としておまつりしている。

その創建は明らかではない。

往古より、すでに式外の社(3)として存在していたが、いくたびか戦乱に巻き込まれるなかで兵火にあい、社殿等焼失した時期がつづいた。

江戸時代の地誌『因幡民談記』(4)によると、社殿の再建は慶長年間 (1596年~1615年) 、因幡国鹿野城主、亀井玆矩 (かめいこれのり) 公の夢に白兎があらわれて、自分の住む社がない、と訴えたのだと述べられている。

さっそく翌日から社のあった場所を探し回ったが、知るものは誰もいない。ただ一人、九十歳の老人だけがかくのところにあったと覚えていて、そこに神殿を建て、大兎明神をおまつりしたという。

そのときの名称は「兎宮」(4)とされている。

こうして白兎神社は再建された。

世にひろまっている白兎神社の来歴はこのようなものだろう。

白兎神社の社記にも、おおむねそのように記されている。

わたしはこの拙稿を「鹿野城主、亀井玆矩公がそれまでにないかみまつりのかたちを模索するなかで、因幡の白兎伝承を援用して兎宮をあらたに創建した」との立場から、以下、行をかさねていく。

そしてその結論に導かれるにいたった推論を提示すると同時に、その論拠となるものもいくつか明らかにしていく。

とはいえ、それはわたしの白兎神社に対する尊崇の気持ちが、まったく揺らぐものでないことをはじめに申し添えておきたい。

美しい砂浜の白兎海岸。そのすぐ先に浮かぶ岩島、淤岐ノ島の向こうに夕日が沈むさま、その神々しさは格別だ。濃い茜色に染まった空の色。波穏やかな海面がそのやさしい色を静かにうける。小さな淤岐ノ島はその輪郭だけが強調される。

道の駅・白うさぎに先日着任した新任の駅長、オスの兎「縁(えにし)」クンは、もう新しい環境にすこしは慣れたのだろうか。

その道の駅から、うしろの小高い砂丘のうえに建つ白兎神社のほうをはじめて見上げるヒトは、その様子をなにやら危なげ、はかなげに感じることもあるだろう。

この神話の里には、多くのヒトを惹きつける魅力がある。

 

亀井玆矩公

亀井武蔵守玆矩。

弘治3年 (1557年) 、出雲国八束郡湯之荘 (現在の島根県松江市玉湯町) に尼子氏家臣、湯永綱の長男として生をうけた。

山中幸盛(6)の養女 (亀井秀綱の次女) を娶り亀井姓となる。

尼子氏が毛利軍に滅ぼされると、わずかな兵力で尼子氏再興を目指して毛利軍と戦ったが、かんばしい戦果をあげることはかなわなかった。

やがて織田信長が中国地方をうかがう情勢となると、羽柴秀吉傘下となり各地を転戦、天正9年(1581年)、鳥取城攻めの戦功によって気多郡1万3,500石を与えられ、因幡国鹿野城主となる。

天正10年(1582年)、明智謀反の報を受けた秀吉は急ぎ姫路城まで戻り (中国大返し) 毛利方との講和がなったために、毛利戦後に約束されていた出雲半国の恩賞を受けることができなくなった。玆矩公はその代わりとして琉球を所望し、琉球守の称号を授けられている。しかし、すでに島津家の琉球に対する影響力が強まる時節となっていたなか、玆矩公が直接琉球接触をもつことはかなわなかった。(7) 

その後、一時は武蔵守を名乗っていたが、二度の朝鮮出兵のころには台州(8)としている。しかし明征服挫折後はふたたび武蔵守とした。

秀吉亡き後は徳川家康に接近。

関ヶ原の合戦後、高草郡2万4200石を加増され、3万8000石の鹿野藩(9)初代藩主となる。

領国経営にも目を見張るものがあった。

日光池、湖山池の干拓。河川の改修。その距離20キロ余りにもおよぶ大井手用水路の敷設。銀山開発。

しかしもっとも特筆すべきは朱印船貿易だろう。

わずか3万8000石の小身、しかも日本海側の大名が朱印船貿易にのりだすのは稀有なことだった。

香木類、珊瑚、象牙などの珍しい品々が持ち込まれた。

ロバなどの珍しい生き物も、次々と海をこえてやってきた。

また、棕櫚 (しゅろ) や白檀などの輸入材をつかい、いくつもの御殿が建てられたという。

領内はさながら異国の情緒を見せ、日々にぎわっていたことだろう。

そんな常に海の向こうに目を向けていた、南蛮大名とも称えられた異色の殿様は、慶長14年 (1609年) 家督を嫡子、政矩に譲り、慶長17年 (1612年) 鹿野城で病没。

死後、墓所は鹿野の城山を望む武蔵山に建てられた。その墓石には「中山道月大居士」と刻まれている。

中山道・ちゅうざんどう」とは琉球を指す別称である。

柱状節理の里で

白兎神社の南、4キロほどの山中にある御熊(みくま)神社は、延喜式神名帳に高草郡七座のひとつとして、阿太賀都健御熊命神社の名で記された古社だ。

因幡民談記』『因幡志』によると、古くは三蔵(みくら)社、柱大明神とも称されていたとされる。

御熊神社にいたるまでの参道といわず、わずかばかりの狭い境内といわず、小さな流造りの社殿の裏山といわず、まわりはことごとく玄武岩の柱状節理 (ちゅうじょうせつり・柱状の岩石が集合した地形のこと)が露出している。よく海岸の絶壁や山深い峡谷などで見られるように、多くは縦型の岩脈としてあらわれる。しかし御熊のそれは横型である。おびただしい数の石柱が無造作に横倒しにされたようなそのさまを見れば、誰もが柱大明神と号されたことに納得するだろう。

そして、その柱大明神、御熊の神は架橋伝説をまとっている。

隠岐の島に渡ろうとした御熊の神は、一夜のうちに橋を架けようとした。しかしあまのじゃくが鶏のまねをして鳴いたので、もう朝がきたのだと勘違いした神は、橋架けを途中でやめてしまった。御熊の地、そしてその北の海中に残る石柱群はその時に捨て置かれたものという。

因幡志』はこの架橋伝説を葛城の一言主神の故事(10)を彷彿とさせる、と記している。

 

tabinagara.jp

 

現在、鳥取県を東西にはしる国道9号線は、江戸時代以降に整備された近世の山陰街道とほぼ軌を一にしている。しかしそれ以前の山陰道は、因幡国内においてはもっと内陸よりの、湖山池の南側を西へと進み、御熊の地を通るルートであったと推定されている。

玆矩公は高草郡を拝領するより以前、かなりはやい時点で御熊の神に接していたとみて間違いない。

そしてその神業がのこした石柱群に息をのんだことだろう。

しかしはたして御熊の神を崇めまつる気持ちになったのだろうか。

海外へのつよい憧憬の念を抱き続けてきた玆矩公には、海の向こうへとのびる橋が未完で終わることなど、断じてあってはならないことだっただろう。

架橋は成し遂げられていなければならない。

因幡の白兎伝承と御熊の架橋伝説は多くの点で対称をなしている。

隠岐から因幡へ、と因幡から隠岐へ。橋の完成と未完。渡海の成就と未成就…。

玆矩公は御熊の神を超えるものとして、因幡の白兎伝承を援用したのではないか。(11)

海の向こうに架かる橋は、必ずや完成していなければならなかった。

あちら側とこちら側に通じ、自在の往来を担保するものでなければならなかった。

橋架けるもの

誰もいない松林のなかを玆矩公が歩く。

すでに家督を譲り数年のときを経ていた。

松の枝のはるかうえに満月が見えている。

たいまつのあかりが、周囲を赤く染めている。

砂地に足をとられ、立ちどまった。

かたわらには小さな社殿、扁額には「兎宮」と墨書してある。

静かだった。

すぐ背後の海岸からは、波の音とて届いてはこない。

時折、パキッ、パキッとたいまつの薪のはぜる音だけが響く。玆矩公はいさましくたちのぼる炎に顔をむけていた。

振り向けば、自身の揺らめく影が、海を越えてのびる長い橋のように見えるだろう。

 

(1)島根半島の50キロ北方に位置する隠岐の島とする説が有力。しかし、同じ古事記の国生みのくだりには淡路島、四国と国生みしたあとに、隠伎の三つ子の島を生んだ、と隠岐の島のことを表していることを踏まえれば、これを白兎海岸のさき、150メートルの海上にある小さな岩島、淤岐ノ島と考えることもできる。もっともそれは古事記等にならって後代に名付けられたものに違いなく、それまでは長い間、名もなき岩島に過ぎなかったのではないか。

(2)兎が海の向こうへ流されていった理由をを冒頭に述べるものや、八十神が登場しない、最初期のものとおぼしき素朴なはなし。天下った天照大神を白兎が道案内したという、鳥取県八頭町でいまも語り伝えられているはなしなど、様々なバリエーションが存在する。

(3)延喜式神名帳(927年)に記載のない社のこと。しかし因幡の白兎や大国主命に関係する社がそこから漏るということがはたしてあるだろうか。記載がないのなら、社自体が存在していなかったと考えるのが自然だろう。

(4)鳥取藩の典医、小泉友賢が職を辞したのち1688年(貞享5年、元禄元年)に完成させた地誌書。

(5)霊夢にあらわれたのは白兎とされているが、その宮は白兎宮ではなく、兎宮であることにはとくに留意したい。また、まつられているのも白兎明神ではなく、大兎明神となっている。必ずしもいまのわたしたちが知るような「白い」兎が活躍する神話をイメージしたものでないことは明らかだ。しかし『民談記』から約100年後、江戸時代後期に世に出た『因幡志』(1795年)には、白兎神社、白兎大明神の記述がみられる。これがいまにつづく因幡の白兎神話の起点となったのだろう。

(6)巷間、鹿介の名のほうが有名。尼子三傑のひとり。亀井家に養子入りしていたときには亀井甚次郎を名乗っていた。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の祈りの文言はあまりにも有名。しかしそれは後世の創作とする説もある。のちに玆矩公は非業の死をとげた義父、山中幸盛の墓を領内の持西寺に建てた。その際に寺の名前を幸盛寺にあらためている。

(7)しかし、はたして座して琉球をあきらめたのだろうか。玆矩公は林業の保護育成のために薩摩から取り寄せた杉苗を鷲峰山に植林させ、また慶長13年(1608年)、大型朱印船を建造する際には、薩摩の豪商を通じてわざわざ薩摩産の木材を大量に取り寄せている。これなどは島津方とのなんらかの交渉の余地を探っていたことの傍証になりえないだろうか。

(8)台湾ではない。中国浙江省台州市。東シナ海に面した貿易拠点。

(9)亀井家は嫡子、政矩公のときに石見国津和野に転封となり鹿野藩は消滅。鳥取藩領となった。一行は玆矩公の木座像とともに津和野入りしたという。

(10)葛城山と金峯山との架橋説話。

(11)因幡民談記に地元でも知るものがいない、と記されているほどなので、玆矩公が知ったのは古典によって、ということになろうか。江戸後期に国学が盛んになるまでは古事記は世間でひろく読まれる書物ではなかったので、先代旧事本紀によったのだろうか。

 

参考文献

『比較神話から読み解く 因幡の白兎神話の謎』

編 / 門田 眞知子

今井出版 (鳥取県米子市) 2008年5月刊行

 

参考資料 

『オホクニヌシと因幡の白兎』

著 / 小島 瓔禮

比較神話から読み解く 因幡の白兎神話の謎、収録

 

因幡の白兎説話伝承地考』

著 / 石破 洋

島根女子短期大学紀要  Vol. 32 収録

 

『亀井玆矩公の歴史』

著 / 鳥取市西部地域文化活用実行委員会

  鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」

 

『折り紙「うさぎ」の折り方まとめ34選』

著 / おりがみの時間

 

後記

この記事も、本日で脱稿となる。

この15年来、ずっとこころに引っかかっていた因幡の白兎に、長い時間向き合えたことは兎にも角にも収穫だったと自分に言いきかせている。

前回の記事のコメント欄に、わたしは次のように書いた。

要約を再掲する。

「わたし10年前に奈良の実家にもどりましたが、それまでは長い間山陰におりました。いま、因幡の白兎について書いています。これはむこうにいるころから、ずっとこころに引っかかっている神話で、書き始めたのが去年の11月ですから、かなり苦戦しています。しかし、いま書くべきだと考えています。それは意地です。白兎にオトシマエをつける時期がきたのだと感じています」

いま、この記事にたいして後悔じみた心持になることが二点ある。

まずは気多信仰について触れなかったことだ。

能登国一之宮の氣多大社をあげるまでもなく、山陰から北陸の日本海側は気多信仰のさかんなところだ。

そして兎が渡ってきたところが気多の前なのだから、当然、気多信仰との関わりを連想してしまう。

はたして 小島 瓔禮氏は、御熊神社が中世には気多明神と称されていた可能性を指摘しておられる。

では何故割愛したのかというと、それは前回の天誅組の記事中、神武東征に触れたところで、厳瓮 (いつべ・御神酒をいれるかめ) に酒をくんで夢淵に沈めたのではなく、それは丹生 (朱砂水銀) だったのではないかという私見を割愛したのとおなじ理由による。

 

tabinagara.jp

面白いのだが、そこまではなしをひろげてしまうと、筋立ての焦点がぼやけてしまうと考えたからだ。

もう一点は、一次資料に触れる機会に乏しかったことだろう。

とはいえ、この記事の文責がすべてわたしにあることは、あらためて申し上げるまでもない。

読者諸賢のお叱りを待ちたい。

ふひとべのべ (id:fuhitobeno2110) 様。

以前にも申し上げましたが、わたしのブログを書く動機は貴殿に笑われないのもを書きたい、という一点にあります。貴殿がいなければ、このはなしももっと未完成のまま (これを完成形だと自惚れているわけでは決してありません) 去年のうちに世に送り出していたはずです。生煮えのうさぎ汁など、口にできるものではありません。感謝しております。

 

ニール・ちくわ(id:neilchikuwa) 様。

数日中に脱稿したい、と記してから二週間以上たってしまいました。自分の筆力のなさにあきれかえっております。前回の記事でお褒めのコメントを頂戴しましたこと、感謝しております。如何でしたでしょうか。こんな「オトシマエ」のつけかたは。

 

marco (id:garadanikki) 様。

前の天誅組の記事、お褒め頂いてありがとうございました。あのような形で他人様の記事中に大々的に引用していただいて過分な言葉を頂戴しましたのは、じつははじめてでした。なにやらもう有頂天で、それがあったからこそ、今回の記事執筆の三ヶ月の長旅に耐えられたのだと思っております。感謝しております。

 

【奈良県東吉野村】天誅組終焉の地、烈士の熱き誠のあとを訪ねて

天誅組の変に対する世間の評価は、令和のいまとなっても定まっているとは言い難い。

おなじ江戸時代の大塩平八郎の乱などには、われわれは散りゆく美学のようなものをそこに見る。

しかし40日にわたって大和国を転戦した天誅組にたいしては、そのような視線を向ける者ばかりではない。

暴徒、あだ花と一蹴する向きもある。

文久3年8月13日、孝明天皇による大和行幸詔勅が発せられると、公卿 中山忠光 (孝明天皇の元侍従、明治天皇の叔父) を主将とする天誅組は「皇軍御先鋒」を自負し同17日、幕府天領の五條 (現在の奈良県五條市) にあった五條代官所を焼き払い、近くの桜井寺を本陣に定めると「五條御政府」の表札を門前に掲げた。

あとは御親兵として天皇をお迎えするはずだった。

しかし翌18日、京の政局は一変する。

攘夷派の公卿は官位を剝奪されて失脚し、長州藩は御所の御門警護の任を解かれ (8月18日の政変) 、大和行幸詔勅は偽勅とされて、天誅組は挙兵の根拠を失うことになった。

京都守護職 松平容保から天誅組討伐令が出され、朝廷からも忠光を逆賊とする令旨が下るなか、それでも一時は高取城 (奈良県高取町) を攻めて気勢をあげるなどしたものの、その後は敗走に敗走を重ね、多くの離脱者、戦死者を出しながら、9月24日、鷲家口とその先の鷲家 (いずれも奈良県東吉野村) に討伐令を受けて陣をはっていた彦根、津、紀州の各藩兵と最後の戦闘になる。

ここに天誅組は壊滅した。

その後も幕府による追討は徹底的に行われた。

忠光はわずかな従者に守られながら、27日、大坂の長州藩邸にたどり着き、下関に落ちのびたが、藩の実権を恭順派 (俗論派) が握るなか、 殺害されてしまう。

最終的に、維新後も生きのびた烈士はわずか数名であったという。

 

天誅組終焉之地

宇陀市を発って、鷲家川に寄り添うようにのびる県道16号を通り、東吉野村にはいった。

日陰の路肩には雪が解けずにそのまま残っていた。

すこし開けていたクルマの窓から、外の冷気が吹きこんでくる。

行く手に碑が見えた。

わたしはクルマをおりて、碑の横にかかる橋を渡った。

橋のかかりのところに、のぼりがはためいていた。

橋を渡りきると、すぐに「天誅組遺跡」と記された解説板が目に飛び込んできた。ここは天誅組三総裁のひとり、吉村寅太郎無念の地。

薄暗かったそこに、急に光が射してきた。

さらにクルマで進んでいく。

よく見ると、村のいたるところに「天誅組遺跡」「天誅組史跡」の説明版が掲げられ、碑がたてられている。ここが最後の激戦地であったことを否応なく知らされることになる。

天誅組菩提寺、宝泉寺が見えてきた。

さらにさきには「明治谷墓所

かなりののぼり勾配だ。しかもけっこう距離もある。

わたしは途中で何度か休まなければならなかった。手すりのあることはありがたい、と思いながらのぼっていると、はて、この感じは以前にもあったな、と思った。そうだ、羽曳野市の壷井八幡宮に参拝したあとに、河内源氏三代の墓所を訪ねたときだ。

 

tabinagara.jp

あのときも、手すりの有難さが身に染みたものだ。

年齢を否応なく思い知らされる。

口で息をして、胸をおさえ、前かがみになってのぼりきった。

物言えぬ烈士たちの墓石が並んでいた。

ニホンオオカミ、そして神武東征

すこし後戻りして、脇道にそれよう。

絶滅したニホンオオカミ、その最後の捕獲例は明治38年、ここ東吉野村で捕らえられたものとなる。東吉野村役場から、高見川をはさんでほどちかいところにニホンオオカミの像がたてられている。

さらに高見川の上流へと進んでいく。

丹生川上神社・中社にいたる。

ここをはじめて訪れたのは、去年の元日のことだ。

 

tabinagara.jp

中社の先、蟻通橋の向こうに「夢淵」と名づけられた瑠璃色の深淵がある。

「夢淵」の名称は、斎 (いみ) 潔 (きよめ) る「斎淵 (いみぶち)」が訛ったものとも、また神武天皇が東征のおり、夢にあらわれた天神の教えにしたがって天の香久山の土で厳瓮 (いつべ・御神酒をいれるかめ) をつくり、戦勝を祈念してそれを沈めた場所だからともいわれている。

 

tabinagara.jp

それを伝える聖蹟碑がたてられている。

天誅組史跡公園

「激戦のあと、集落に散乱する死体を片付け、弔うのが大変だったそうだ」といまも村の古老が語り伝える凄惨さを、この静かな現在の東吉野村から想像することは難しくなってきている。

わたしは最後に、天誅組史跡公園に向かった。

ここは村民が、自らの私有地を整備してつくりあげ、一般に開放しているもの。

山中で戦死した天誅組三総裁のひとり、松本奎堂最後の地へのちょうど登り口にあたる。

墓所まで900メートル、いざ行かん。

まだ所々、雪がのこっている。

大丈夫だろうか。

しばらくすると、丸太橋らしきものが見えてきた。

無事渡ることができるのか。

穴などあいてはいないのか。

しかも足跡が見えるのだが、これ、妙なかんじだ。

手前のほうは橋の右側ぎりぎり、そして斜めに渡って行って、渡り切る頃にはこんどは左側ぎりぎりを進んでいる。

ふつう、真ん中を進まないか。

そんな端を行って、もしも足を滑らせでもしたら転落してしまうのだから。

「人間なら」こんな歩き方はしないはずだ。

さきに渡られたのは、いったいどなた…。

しかし、わたしは進んだ。

そこからさきは、本格的に山中にわけ入る感じになる。

そして手作り風の案内板。

1000メートル!

距離、増えてないか。

最初、900メートルの表示があって、あれから200メートルは登ってきているぞ。

おかしいではないか。

どうなっているんだろうか。

ともかく、急ごう。

ますます周囲は雪に覆われて、どこが道なのかさえ見分けられなくなったきていた。

わたしは振り返った。

ずいぶんと登ってきたことには間違いない。

しかし、ここまでだった。

もはや、足をあげることさえ苦しかった。

総裁戦死の地まで、あと800メートル。

わずか150年前、この山中で志を打ち砕かれ、散った命があったのだ。

 

tabinagara.jp

のぼりよりも、くだりのほうが難儀する。

日常生活で身に染みていることだが、滑りやすい雪の残る山中ではなおさらだった。

公園の入り口まで戻ったとき、わたしは精根尽きかけていた。

そして周囲を見渡す。

墓所まで900メートルの碑

そのとなりに、山中で見かけたのとおなじ案内板があった。

なるほど、わたしが見落として、勘違いしていたのだ。

天誅組、しかし自身はまえに記したように「皇軍御先鋒」「五條御政府」を名乗っていたのであり、いつからかそう自称するようになったのか、あるいは周囲がそう呼ぶようになったのかは、いまとなっては定かでない。

風が吹いてきた。

山から吹きおろす風が、公園入り口の黄色い天誅組ののぼりをはたはたと揺らした。

 

tabinagara.jp