住吉神社(おまつの宮・生駒市南田原町)、饒速日尊、星が森に抱かれた古社

大阪府奈良県のあいだにつらなる生駒山系。数々の饒速日 (ニギハヤヒ) 伝承に彩られているその山系の北部は、同時にまた住𠮷神の足跡が色濃く刻まれている土地でもある。

なぜ、この一帯で住𠮷神がさかんにまつられるようになったのだろうか。

磐船神社 (大阪府交野市) は、天孫饒速日尊が御降臨の際に乗られてきたという船形の巨岩、天の磐船を御神体としているが、そのそばに屹立するべつの巨岩には四体の住𠮷神の本地仏が彫られている。また周辺には複数の住吉神社が存在している。

奈良県生駒市の南田原町にある住吉神社もそのうちのひとつだ。

~目次~

 

境内案内

参道を進んで行くと、左手に境内社が見えてくる。

左手が祓戸社。そして真ん中と右手側にそれぞれ天神様と饒速日尊をおまつりしている。

その隣、饒速日尊をまつる社に背を向けるように、成人の背丈ほどの高さの石板。

榊が供されて、大切にされている様子が伝わってくる。

文字等は確認できないが、これは饒速日尊の依り代としてまつられてきたものだろうか。

それとも、クルマでほんの数分はしったところにある別の住吉神社 (大阪府四条畷市) の境内にいまもたくさん残されているように、元々は石仏が彫られでもしていたのだろうか。

住吉神社(大阪府四条畷市・2024年 5月 18日撮影)

鳥居から参道をまっすぐ進んださきに舞殿。

この鳥居と本殿とをむすぶ一直線上に舞殿を設ける配置は、四条畷市住吉神社もまったくおなじだ。
在りし日の、この近在の里のハレの日のにぎやかさがよみがえってくる。

そして本殿。

四座の御祭神 (住𠮷三神と息長帯姫命神功皇后) が坐すのが見て取れる。

本殿前には武人像。

説明版のたぐいはないが、鎧に菊水紋が描かれているところから、楠公に違いないだろう。

正成公ではなく、このちかくの四条畷の戦いで散った、子の正行公 (小楠公) だろう。

おまつの宮

このお社が、おまつの宮と称されるようになったいわれは定かではないが、さきに触れた、ここから数キロ離れた磐船神社はえる松の木の苗を持ち帰り、境内に植えたから、などと語られることもある。

わたしなどは、住吉大社 (大阪市住吉区) が白砂青松で知られ、和歌にも多くよまれていることから、そちらを連想するのだが。

 

ねえ、おまつの宮はわかった。住𠮷神について教えてよ。住𠮷神はいつごろ、ここに勧請されてきたの? どうしてこんな山深いところに、住吉神社がたくさんあるの?

詳しいことはわからないんだ。神社の創建自体は奈良時代とも伝えられているけれどもね。

 

そのときから、住𠮷神が勧請されていたの? 

それもよくわからないんだよ。このお社と住𠮷神との関わりは、すぐちかくの岩倉寺との関係でよく語られるんだ。

 

岩倉寺?

うん。弘法大師がその寺にやってきたとき、ひとりの老人があらわれて役行者開山という寺の縁起をかたりはじめた。太師が名をたずねると「我は住𠮷明神である」と答えたというんだけれども…。

この地域と住𠮷神との関係を考えるとき、住吉大社神代記の記述は無視できない。

住吉大社神代記

膽駒甘南備山本記

住吉大社神代記 (以下、神代記と記す) は国指定、重要文化財天平3年 (713年) の撰と記されている。住吉三神神功皇后の事跡や由来に関する記述が過半をしめているが、そのなかに膽駒山 (現在の生駒山。以下、生駒山と記す) を甘南備山として天皇から賜ったとの一文がある。畿内の各地に自らの神威がおよぶ神領があると主張するなかで、生駒山神領、神域ではなく、わざわざ甘南備山と表現していることには、特に留意する必要があるのではないか。

 

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そして神代記は生駒山の北至 (北限) を饒速日山としている。

饒速日山とは聞きなれない名前だが、これは饒速日尊が御降臨された河上哮ケ峯、磐船神社のあたりとみて間違いない。

では、甘南備 (かむ・なび) とはなにか。

「かむ」が神を意味していることはまちがいないとして、「なび」については諸説ある。が、いずれにせよ、現在では「神の坐す山」という意味で考えられている。

では、神代記の撰者である津守氏はどのような意味で、甘南備としたのであろうか。やはり現代に生きる我々とおなじ意味で、この言葉を選択したのだろうか。

それを明らかにすることは、いまとなってはむずかしい。

しかし、神代記と同時代の書から推測することはできる。

出雲国風土記

天平5年 (733年) 成立の出雲国風土記には、甘南備 (神名樋、神名火)という表記が4箇所にみられる。

これを地図に落とし込んでみる。

国土地理院HPより作成

甘南備山が、宍道湖を取り囲んでいることが見て取れる。

出雲国風土記の冒頭に記されている雄大国引き神話。遠方から島根半島や弓ヶ浜を引き寄せて、まだ小さかったこの国に縫い合わせた出雲の国の国土創世神八束水臣津野命 (やつかみず・おみずぬのみこと) は、その名がしめすように (やつかみず---たくさんの水、おみずぬ---大水の意だろう) 水神であると考えられるが、四つの山を甘南備と定めた当時の出雲の人々 (それは出雲国風土記の撰者である出雲国造と言い換えてもいい) は、臣津野命は宍道湖 (当時は入海) に坐す神であると考えていたのではないだろうか。

冬の朝、湖面から蒸気がたちのぼり深い霧に覆われるさまを目にしたものは、そこに人知を超えたものを感じたに違いない。

出雲の四つの甘南備は、それ自体、神の坐す山であると同時に、この水神を受け入れるための依り代として構想されたものだと考えたい。ちょうど神を迎え入れるために高木をたてたように。

そうであるならば、住吉大社の甘南備としての生駒山は、住𠮷神を受け入れ、その神威をさらに東、奈良のみやこのほうに広めていく役割を担うことではなかったか。

 

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そのような文脈のなかでなら、たとえば畝傍山の埴土神事なども理解できるかもしれない。

■埴土神事■
住吉大社の祭祀に用いる土器をつくるための土を、大和三山のひとつ、畝傍山の山頂より採取する神事。現在にいたるまで続いている。

星が森

それにしても、このお社の杜は見事と言うほかない。

とくに本殿の裏にひろがるその深い緑は、見るものを惹きつけてやまない。

そこは、古くから星が森の名でよばれている。

遠い昔、いくつもの星が降り落ちてきたのだという。

それは天の磐船のかけらだったのかもしれない。

 

註  住𠮷三神に息長足姫命 (神功皇后) をあわせた住吉大社の御祭神を、この拙稿では住𠮷神と表記した。

【畝傍山】眼福地蔵の慈愛があふれる。懿徳天皇陵を過ぎて

畝傍山神武天皇陵と橿原神宮山麓にいだき、この国の始源のすがたを可視化した聖なるお山は、荘厳神聖な山容で大和盆地に屹立している。

しかし、いまわたしたちが眺める畝傍山の樹相は、明治期以降に、往古の神々しさを取り戻す、などとした声の末に、ヒノキ、カシなどを植林したものだ。

古い時代のお山の写真を目にしたひとは、現在とは幾分違った、そのおだやかで、あまりにも優しい印象に驚くだろう。

そして、昔のそんな時代の畝傍のお山に接したいと願うのならば、今も山中におられる眼福地蔵に会いに行かれるといい。

地蔵様はきっと、来る人すべてを優しく受け入れてくださる…。

~目次~

眼福地蔵への道案内

 

第四代 懿徳天皇

畝傍山の登山道といえば、橿原神宮北参道を進んだ先にある道、あるいは畝火山口神社の脇からはじまる道が、よく整備されていて比較的知られているが、他にも、いくつかの登山道がある。

お山の西麓にある、第四代 懿徳天皇陵 (いとくてんのうりょう) に沿うようにのびる道もそのうちのひとつだ。

陵を右手に眺め、やがて耕作地のあいだをぬけて行くと、いよいよ山中に踏み入ることになる。

そして、急な上り坂を進むうちに、ほどなくすると眼福地蔵のお姿を拝むことができるだろう。

眼福地蔵にまつわるお話

やまとの国で

昔々、やまとの国中が戦乱 (いくさ) にあけくれておった頃、村人たちは、どうかまた穏やかな日々が戻ってきますようにと、毎日のように畝傍のお山におられる地蔵様に手を合わせに来ておった。

そのなかには、盲 (めしい) の幼娘 (おさなご) の手をひいた母娘の姿もあった。

そして戦乱がおさまると、地蔵様のもとをたずねるひとのすがたもすくなくなり、いつしか地蔵様は落ち葉に埋もれてしまわれたそうな。

それから、幾年月がながれた。

幼き日々のおもいで

ひとりのおばあさまが、かたく目を閉じて畝傍のお山にむかって手を合わせておられた。

ゆっくりと目をあけてもまだ、両手を合わせたまま、じっとお山を見上げておられた。

通りかかった村人が、不思議とばかりに話しかけた。

「どうかされましたんか」

おばあさまは村人のほうを向いてほほえまれた。

「へえ、ここにちがいないと思いましてな。なつかしいわ」

それから、もう一度お山のほうへ向き直って語りはじめた。

まだ、わてが童 (わらべ) やったころな、ととさんは戦乱にとられてしもうた。そんでな、かかさんに手を引かれてな、いっつもここの畝傍のお地蔵さんに手を合わしに来てましたんや。わては目が見えやせんかったんでな。

ととさんが帰って来はりますように、ととさんが帰って来はりますように…。

「なあ、お地蔵さんどんなお顔してはんのん」

「きれいなお顔やで。きれいなお目、きれいなお鼻、きれいなお口や」

けどな、よう悪さもしましたわ。

お地蔵さんのまわりの山道を走ったりしてな、ようかかさんに怒られましたわ。見えんでもな、なんべんも来てたらな、道、わかるようになりますねん。

「あんた、なにやってんねん。すべって落ちますやろ」

そんなときはな、かかさん決まってこないにゆうてはりましたわ。

「あんた、紅色のええのん着てますんやで。おとなしいしとき」

紅色ってなんやてきいたらな、暮れのお日さんの色や、いちばんきれいな色やて、そないにゆうてはったな。

貧しかったにきまってますがな。そんなええのん着てたはずありませんわな。せやけどな、わてを嬉しがらそうとして、そないゆうてはった。

そうこうするうちにな、かかさん死んでしもうてな、わては縁者のひとに引き取られた。それからはな、クニからクニ、旅から旅や。そら辛 (つろ) おましたで。

けどな、いっつもかかさんがゆうてはったことを思い出してましてん。もう一度 (いっぺん) ととさんに会えますで。ととさん帰って来はりますで、てな。

わてはととさんの顔なんぞ、覚えてまへんのやで。それでもな、ととさんに会 (お) うたら分かるて、ずっと思うてましたんや。

せやせや、わての目な、いつのころからか見えるようになってましてん。治ってましたんや。

ととさん、ととさん…。

せやけどな、わてもこんな歳になってしもうた。もう、ととさんも生きてはいはりませんやろ。

ととさんと、かかさんと、三人で畝傍のお山のそばにおったころ、あのころが一番しあわせでしたんやろな。

眼福地蔵

神妙な面持ちではなしを聞いていた村人は、持っていた杖をおばあさまに差し出した。

「これを持って行きはったらよろしいで。地蔵さんまでは、まだだいぶとある。しかも急坂や。ここのお山の松の木で作りましたんや。ちょっとごつごつしてますけどな」

「おおきに」

おばあさまは畝傍のお山に入っていかれた。

山道を登ってしばらくすると、ドタドタとなにやら駆けおりてくる音。

おさなごが、走ってきた。

「あんた、なにやってんねん。すべって落ちますやろ」

はっとして、おばあさまは駆けあがられた。

おさなごは、どこへかいってしまった。

足音だけが、まだ響いていた。

おばあさまが、ふと反対のほうを見ると、もうそこにお地蔵さまがおられた。

ゆっくりと近づいてみる。

「ああ…、ああ…」

おばあさまはくずれ落ちて、お地蔵様にとりすがった。

両の目から、たちまち涙があふれでた。

「なんでや、なんでや…」

お地蔵様のお顔を覆っていたおばあさまの掌 (てのひら) が、ぶるぶる震えてゆっくりとずり落ちた。

「このお地蔵さん、お目があらしまへん。お目があらしまへんで」

おばあさまの嗚咽のあまりの大きさに驚いたものか、お山のむこうの池ではねを休めていた水鳥たちが、いっせいに飛び立った。

そのなかには、まるで身を寄せ合うように飛ぶ、三羽の鳥がいた。

あれはきっと、ととさま鳥、かかさま鳥、幼娘鳥の三羽の親子鳥にちがいない。

親子鳥は、ずっと西のほうにある二上のお山、あの二つの峰のあいだに暮れ落ちる夕日にむかって飛んでいった。

そんなことがあってから、村人たちはこの畝傍の地蔵様のことを、いつしか眼福地蔵と呼ぶようになったそうな。

傘さす地蔵様

わたしは眼福地蔵に会いにいってきた。
たずねるひとが絶えないのだろう。

まわりは掃き清められた様子で、花と水が供えられていた。

静かに手を合わせた。

お地蔵様は、傘をさしておられた。

雨にふられては困るだろう、日照りが続けば暑かろうと、そっと傘をさしかけたひとがいるのだ。

誰なのだろう。

きれいな朱色に身をつつんだおさなごではあるまいが。

 

 

後記。

眼福地蔵のお話は奈良県にあってもほとんど知られてはおらず、わたしも、ごく最近になって知ったものだ。現代に伝えられている眼福地蔵のお話は、拙文よりももっと簡潔で短い。幼娘は朱色の着物をきてはおらず、老婆が畝傍の山中で幼いころの自分と出会うこともない。親子鳥は二上山に沈む夕日に向かって飛んではいかない。改変とのそしりは甘んじてうける覚悟を持ちつつ、わたしは民話、伝承といったものは時代とともに変わっていくことを是とする立場にいる。

現代において読まれているグリム童話は、周知のように、グリム兄弟が記したものとは、おおくの点で違っている。それは日本の昔話においても同様だが、いま読まれている物語が偽物というわけでは決してない。

わたしはこれを書きあげるとき、原意を損なわないことに慎重に留意しつつ、より現在の読み手に眼福地蔵の慈愛が伝わるようにと願った。

読者諸賢の理解を得たい。

 

参考資料

橿原市 まなごの里 懿徳天皇陵 大和三山 まなご谷 畝傍山 犬養孝 畝火山口神社 真砂山 眼福地蔵の由来

 

 

【八幡神社 (橿原市山本町) 】神武天皇の皇子、神八井耳命の墳墓伝承地

神武天皇の皇子、神八井耳命 (かむやいみみのみこと) は第二代・綏靖天皇の兄御子で、多氏の祖とされている。

日本書紀畝傍山の北に葬られたと記す。

かつて八井神社と称されていたとされる八幡神社 (橿原市山本町) の本殿がたつ、盛り土状の小丘が、その神八井耳命の墳墓であると見做されている。

 

~目次~

八幡神社

橿原市山本町 (旧 山本村) の集落からすこし離れて、畝傍山の山中にあしを踏み入れたとき、ちいさな八幡神社を見過ごさずに立ちどまれたことは、幸運だった。
それは八幡神、あるいは村の鎮守といった言葉から想像されるたたずまいからは幾分かかけ離れた、不思議な光景だった。

 

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いったいどこからが境内なのか、それを示すものはなにもなく、わずかばかりの平らな土地に、いきなり石造の鳥居と灯籠が目にとびこんできた。

そして鳥居の奥には白壁の拝殿。

拝殿に扁額は掛けられておらず、作りつけの鳥居のそれにも、いっさい文字は彫られていない。

そしてあたりを見回してみても、どこにも八幡神社、あるいは八幡宮の文字を見つけることはできず、神社名を示すものはなにひとつない。

ただ、灯篭に『大神宮』との文字があるのみだ。

わたしは拝殿で柏手をうち、しばらくそこに立ち尽くしていた。

八幡神社? それは役所に届ける際の便宜上の名前なんだよ」

なにやら無言で、そう訴えかけられているような気がした。

拝殿のうしろにまわってみる。

盛り土のうえに、祠と呼びたくなるほどの小さな本殿。

 

こここそが、神八井耳命の墳墓と考えられているところなのだろう。

御陵山

享保年間に編纂された最初の幕撰地誌書『五畿内志』のなかの『大和志』において、ここは御陵山 (みささぎやま) の名称で簡単に紹介されている。すなわち「御陵山  山本村にあり。神八井耳命の墓なり。小祠あり。綏靖帝の兄にてまします」
また明治時代に入って刊行された地名辞典、地誌書である『大日本地名辞書』(吉田東伍) は畝火山北稜との項目を設け、この伝承地について長文の解説を寄せている。

この辞書はしばしば過去の歴史書の記述に疑問を呈し、また冷静な筆づかいのうちにも、随所に著者の私見が披瀝されたりしていて、歴史読み物としてみても興味深い著作だが、その魅力はここでも十全に示されている。

■大日本地名辞書 畝火山北稜 (要旨)■
神八井耳命 (綏靖帝兄) の墓なり。大字山本にあり。御陵山とよばれている。小祠があり、墳丘然とした隆起が認められる。ここが神武天皇の皇子の墓であるならば、なぜ御陵山と名付けられたのか。古事記では神武陵は畝火山の北方、白橿の尾根の上とされているが、現在の神武陵は平地にあり、その記述と符合しない。こここそが神武陵なのか、それとも神武皇子の墓なのか、今後検討を要する。

 

御陵山と名付けられた所以は、畝傍山周辺でひろく信仰されていたとみられる、神功皇后信仰にもとめられるかもしれない。

神功皇后信仰

畝火山口神社

畝傍山の西麓に坐す畝火山口神社
ほかの多くの山口神社がそうであったように、その始源においてはここでも素朴な、名もない山の神、水の神に祈りを捧げていたものと考えられるが、その後、御祭神は大山祇命と定められた。しかしかつては「神功社」と称されていたことからもわかるように、古い時代から、現在のように神功皇后がおまつりされていたと考えられる。

第14代・仲哀天皇の皇后。天皇崩御後、その遺志を受け継ぎ熊襲征伐を成し遂げたのち、新羅に進軍し服属させた (新羅征討説話、三韓征伐とも)。新羅への渡海時には身籠っていたが、鎮懐石、月延石を下腹にしのばせ、さらしを巻いて出産を遅らせたとされている。九州に戻ったのち誉田別尊 (ほむたわけのみこと・応神天皇) を御生みになったことから、安産の神としてひろく信仰をあつめている。
また、明治時代以前には神功皇后を第15代天皇とみなす考えもあったが、現代の皇統譜では、天皇からは除外されている。

その時期は、埴土神事 (摂津国一之宮、住吉大社の神事で用いる土器を作るための土を、畝傍山山頂より採取する神事。現在に至るまで続いている) の始まった頃であろうか。

これは住吉大社による畝傍山の祭祀権への干渉と考えるべきかも知れず、神武東征の終盤、奈良の吉野山中において、神武天皇は天の香久山の土で厳瓮をつくり戦勝を祈念した、との逸話を容易に連想できる。このころ畝火山口神社は、住吉大社の御祭神である神功皇后と住𠮷三神の一、表筒男命を 受け入れたのだろう。 

神武天皇が戦勝を祈念して厳瓮 (いつべ) を沈めたと伝わる夢淵。奈良県東吉野村
そして、この式内社 (名神大社)、畝火山口神社の神功皇后信仰が、畝傍山周辺の集落に影響を与えなかったとは考えられない。
どの集落でも、四季折々の日々のなかで神功皇后をふと意識する、といったことはじゅうぶんにありえただろう。そんななかで、集落ごとに異なった神功神話といったものが形成されていった。

仙洞御所

八幡神社のある山本町 (旧 山本村) のとなりに、かつて洞村という集落が存在した。

村のもっとも畝傍山の山頂寄りには丸山という円丘があり、そこは神武天皇の御陵とも見做されていた。

しかし、ながらく公式には所在不明とされていた神武陵は、幕末、孝明天皇の御沙汰によって丸山ではなく、四条ミサンザイ (現在の神武天皇陵) に決することとなる。

■洞村■
かつて畝傍山山麓に存在した集落。神武陵を見下ろす場所にあるのは不敬であるとされ、大正時代に総戸数約200、住民1000人あまりの洞村は全村移転 (廃村) となった。

 

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その洞村の口伝には、やまとにお戻りになった神功皇后が洞の地に仙洞御所 (離宮) をたてられた。それが洞という地名の由来である、というものがある。

全村移転までは丸山のすぐ目前にあった生玉社は、現在、生国魂神社の名称で橿原市大久保町に遷座されているが、ここには、神功皇后と、もうひとり竹内宿禰とも見える白いあごひげをたくわえた人物とが、赤子 (誉田別尊だろう) をあやしている様子を描いた額が奉納されている。

同様に御陵山 (畝火山北稜) のある山本村においても、神功皇后 (先に記したように、あるいは神功天皇と見做されていたのかもしれない) が信仰されていたと考えるとき、そこにある祠が、後世、八幡神 (誉田別尊) をまつる八幡神社と称されるようになったことも、筋道がとおっており無理なく理解できる。

そして、そこでは皇后にあやかって安産を祈念していたのだろうか。

そう考えるに足る遺物が、八幡神社の本殿前に残されている。

陽物信仰

陽物信仰などの言葉で言い表されている、安産、多産、豊穣の恵みなどを願う祈りの場には、ふつう、陰と陽、ふたつの依り代が示されている場合が多い。

畝火山口神社の陰陽石

では、何故ここでは陽物だけなのだろうか (勿論、そのような例がめずらしいわけではない)。
わたしは、これは旧 洞村にのこる丸山のすぐ下にある洞 (穴) と対照をなしているとみる。

 

この洞村の水利施設、しばしば井戸と紹介されているが、正確には井戸ではない。

むかって右側、標高の高いほうの山肌からここで地下水が流れ出てきて、その水が凹んだ洞 (穴) にたまり、あふれた分は左側の低い方へと流れ出るようになっている。

洞村という村名も、おそらくはこれに因んでのことだろう。

レンガ造りの部分などは近代にはいってからのものに違いないが、内部の石積みの奥壁などは、相当に先行した時代のものであることが見て取れる。

古書に『洞之清水』と記されているものが、これにあたるのだろう。

降雨の少ない奈良盆地にあって、この湧き水は、まさに神の恵みと思われたことだろう。

そして古人 (いにしえびと) たちは、その水のたまる洞 (穴) を陰に見立てた…。

だからこそ隣村の山本村の村人が、洞之清水の神威をさらに大きなものとし、その恵みにあずかろうとして、御陵山のまえに陽物をまつり祈った。

まさに陽物の角度、向きが、ちょうど洞之清水のほうを示しているのを見るにつけ、わたしにはそう思われてならない。

おわりに

大和三山のひとつ、畝傍山ときいて大抵のひとが思い浮かべるのは橿原神宮神武天皇陵、それに畝火山口神社といったところだろうか。

しかしわたしは丸山 (洞村、大正時代に全村移転) や御陵山 (山本村、現 山本町) にこそ強く惹かれる。

御陵山にのぼって八幡神社のほうをふり返った。

丸山との形状のあまりの類似にはっとさせられる。

木漏れ日がさしてきた。

それまで無風だった小丘のうえに急に吹きつけてきた南からの風が、わたしを戸惑わせた。

 

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参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)

 

恐懼に堪えざることに抗してー天皇 (制) による洞部落「強制」移転ー

 発行 / おおくぼまちづくり館保存会

 

【出雲大社】縁結びの神様に素敵なご縁を頂戴したはなし

みんなが良き縁 (えにし) をもとめている。

自分自身、あるいは家族の誰かがすてきな縁を結びますようにと。

縁結びの御利益をもとめて、大勢の参拝者があしをはこぶ出雲大社は、国譲りに際して大国主神が幽世にお隠れになるために建てられた天日隅宮 (あめのひすみのみや) を始まりとする、と日本書紀は記す。

そして十月 (神無月・出雲では神在月) には、神々がこの大社を訪れて様々なことを話しあう、とされたことから、いつしか縁結びに御利益があると考えられるようになった。

『多賀は命神、住よしは船玉、出雲は仲人の神』との一文を井原西鶴の『世間胸算用』にも見ることができる。

わたしも、出雲大社でかけがえのないご縁を頂戴することができた。

~目次~

出雲は仲人の神

出雲の土産物店

出雲大社の参拝をおえて、大鳥居をでた。

そのまま、まっすぐに神門通りをくだっていく。

それまでは鳥居をぬけると、左手にある古代出雲歴史博物館に立ち寄るのが常だったので、この通りには、意外にも片手で数えられるほどしか、来たことがなかった。

青空に、不思議なかたちの雲が泳いでいた。

通りの両側にはさまざまな店が軒をつらね、行き交う大勢の人々でにぎわっていた。

ぜんざい屋にはながい行列。

看板には『ぜんざい発祥の地 出雲』とある。

神在月八百万の神々が出雲に集まりおこなわれた神在祭 (かみありさい・じんざいまつり) においてふるまわれた神在餅。それが読みの変化をともなって、じんざい、ぜんざいになったとの説がある。

 

そうだったのか。

なんであれ、甘味を口にできるのはこのうえない喜びに違いない。

しかし、わたしはそれを横目で見ながらさらに南へ下っていき、一軒の薄暗い土産物店に入った。

客はどうやらわたしひとりのようだった。

さて、どれを買ったものか。

店内を見まわす。

どれも結構な値段がするな、などと思っていると、どこからか声がしたような気がした。

空耳だろうか。

店主の姿も見えなかった。

買って。

夫婦こけし

今度ははっきりと女性の声が聞き取れた。
 

買って…。買ってよ。

ちょっとはしたないですよ。
たいへん失礼しました。
いえね、ずいぶんと優しそうなかたが入ってきたなって、ふたりで話していたんですよ。

 

みんなすぐに売れていくのに、わたしたちだけ、ずっとこのままでいるんだよ。
もう一年近くここにいる。値段も高くないのに。
1000円以下は、わたしたちだけだよ。

どうか手に取ってご覧になってください。

わたしはすこしも驚いたりせず、不思議とも思わないで、もとめにしたがった。

いま思えば、ずいぶんと不思議なことだ。

 

ねっ、首に五円玉を巻いてるんだよ。
みんなとご縁を結べるように。
こんどはわたしを見てよ、背中。

 

ねっ、出雲大社ってあるでしょう?
最初はなんか恥ずかしかった。でもいまは誇らしいよ。出雲大社だから。

 

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へえ、奈良に帰るんだ。
奈良のどのあたり?

ほう、二上山のあるところ。
すこしは知っていますよ。ラクダの背中みたいにふたつの峰があるお山でしたね。

 

亀井の殿様は、ラバとか孔雀とかを御朱印船にのせて異国から連れてきたんだよ。

 

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これは不思議なご縁といえます。
二上山と出雲。どちらもヤマト王権から生と死の境の地と見なされた。
イザナギやオオアナムチが死者の国から懸命に逃げ帰ってきた黄泉平坂 (よもつひらさか) も出雲にあるとされた。

 

伊賦夜坂のことだよ。

 

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でもどうして?
その二上山に夕日が沈んでいくところは見えるよね。でも、出雲に、日御碕に夕日が沈むところなんて、遠すぎて見えないよね。
ただ西の方角っていうんなら、ほかのどこでもよかった。
なのにどうして出雲?

 

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国譲り

それは国譲りに鍵があるのかもしれない。

出雲の国譲り神話はひろく知られているところだが、ヤマト王権が勢力圏をひろげていく過程で、列島のいたるところで同様のことがあったに違いない。

二上山のある金剛・生駒山系を舞台にした国譲りも、いまに伝えられている。

神武東征のおり、長髄彦 (ながすねひこ) は、熊野を迂回してきた磐余彦尊とふたたび対峙。そのとき、あろうことか長髄彦は自らが奉じる饒速日命 (にぎはやひのみこと) に誅殺されてしまう。

そして饒速日命神日本磐余彦尊に帰順して、その地を明け渡した。

 

ヒコホホデミ

うん、ヒコホホデミはいよいよ初代天皇として即位された。

 

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山の民はヤマト王権によって住み慣れた土地から次々と追われていったのだろう。

葛城山一言主大神や修験道の開祖、役行者 (役小角)も土地を追われ、国譲りに追い込まれたと解釈することもできるのではないか。

役行者

 

それが平和裏に行われたのではないことを、いまも山中に数多く残る粗末な蜘蛛塚が伝えている。

一言主神社参道にある蜘蛛塚

 

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行きたいな。
二上山、見てみたい。

あまり厚かましいことを言うのは気が引けるんですよ。
でも、遠くの地とご縁を結ぶことができたらいいのになあ、などと考えてしまうわけです。

縁結び

奈良と大阪の府県境にある、ふたつの峰をもつ双耳峰、二上山

古人(いにしえびと) たちは、夕日の沈むこの山のむこうに、死とその再生とを凝視したにちがいない。

山頂には大津皇子が葬られ、また山の西麓には孝徳、敏達、推古の各天皇陵や、聖徳太子小野妹子などの貴人たちの墓が、まるでエジプトの王家の谷よろしく狭い地域に密集している。

 

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四季折々にことなった表情をみせて人々を魅了する二上山は、また、人々の生活に寄り添う山でもあった。

太古には、ここで産出されるサヌカイトが打製石器の原料となって、近在に原始集落を形成させた。時代がくだると、二上山から切り出された石材が、古墳の石室などに利用されるようになる。

現在もサンドペーパーなどにつかわれる金剛砂の供給地として、わたしたちの生活をささえている。

 

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府県境を越えれば、山麓にひろがる白いむき出しの凝灰岩が奇観をなす屯鶴峯が出迎えてくれるだろう。

もうすぐだ。

 

【丸山宮址】もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山を行く

幕末の文久年間に、現在の四条ミサンザイが神武天皇陵と治定される際には、そこからすこし離れた畝傍山の尾根のうえにある、墳丘状の丸山と呼ばれていた場所も有力な候補地だった。

遠く歴史の向こうに置いてこられたまま、いまでは顧みられることさえまれな、その丸山を訪ねた。

 

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~目次~

 

洞村について

全村移転

神武天皇陵の参拝道から、石段をのぼったさきに西へとぬける脇道がつづいている。

その道にそうようにして、かつて洞村という集落が存在した。

しかし明治以降、政府や奈良県などが推し進める畝傍山神武天皇陵、橿原神宮を一体化した神園化のながれのなかで (いにしえの荘厳な風景を現出させる)、時代が大正にうつると、神武陵のすぐ目前で日々の生活を営んでいた総戸数約200、村民1000人にもおよぶ洞村は全村移転となる。

家屋はいうに及ばず、お寺や神社、共同浴場に墓地などいっさいが立ち退きを余儀なくされて、いまその跡地は植林された木々に覆われ畝傍山の一部と見紛う光景をみせている。

丸山は、そんな洞村のもっとも山頂寄りに存在した。

その高みから、かつては村全体を両腕をひろげていつくしむように見守っていたであろう丸山は、いまも、ひとけの失せた畝傍山山麓にひっそりと眠っている。

村人の息づかい

わたしは旧 洞村をのぼっていった。

地面がじっとりと湿っている。

地下の水脈が、地表から近いところを流れているような印象だ。

突然、水の流れが露出しているところに出くわした。

なにかがきらきらとひかっている。

覗き込むと、瀬戸物のかけらだった。

茶碗だろうか。

わたしはその場にしゃがみこんだ。

あわただしく荷造りをして、住み慣れた土地を離れていく無念と不安の顔が列なす光景が目にうかんだ。

名状しがたい感情に襲われる。

それでもわたしは、よいしょと掛け声を発して立ち上がると、ふたたび歩きだした。

あとすこしで、丸山が見えてくるだろう。

丸山宮址

腰の高さほどの石柱が見えてきた。
『宮』と彫られている。

1本、2本、3本…、樹木が生い茂り落ち葉が一面を覆うなかで、都合5本の石柱が円形に配されているのが確認できた。

直径は15メートルといったところだろうか。20メートルはいかないだろう。

その墳丘状のものが、方形の平らな土地のうえにのっているようにも見える。

そして元々は、下のようなかたちだったのではないか。

新沢千塚古墳群 (奈良県橿原市・2024年2月1日撮影)

幕末、孝明天皇の御沙汰によって四条ミサンザイが神武陵と治定された際に、但し、丸山のほうも決しておろそかにしてはならない、とされたことから、ここに石柱をたてたとされている。

無論『宮』と彫られたのは『陵・ミササギ』とするのを憚られてのことにちがいない。

「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武さんが丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。

洞之清水

丸山のすぐ下 (平らな方形状の土地の下) に洞村の水利施設がいまも残されている。
ここはしばしば、井戸と紹介されているが、それは正確ではない。

古書に『洞之清水』と記されているのが、これにあたるだろう。

地下の水脈が、向かって右側 (標高の高い側) から流れてきてここで露出し、洞 (穴) にたまり、水位が上がり過ぎた分は左側 (標高の低い側) から抜けるようになっている。

いわば天然のダムのようになっている。

レンガ造りの外観などは (内部の天井部も) 近代になってから造られたものに違いないが、覗き込んでみると、奥壁 (それは丸山の外周部にもあたる) は小さな石を積み上げてできており、相当に先行した時代のものであることが見てとれる。

 

洞というめずらしい村名の由来についてはさまざまな推論が示されているが、わたしはそのいずれもが要領を得ないと、ずっと感じていた。

この場所、この洞こそがその由来だとわたしには思われる。

山肌から流れでる清水が洞にたまり、過ぎたるぶんは里のほうへと押し出されていく。

この場所で水の神、山の神に感謝と祈りをささげたのが丸山信仰、丸山祭祀の始源のすがたであったと考えたい。

それが律令国家の成立、そして中世へと時代を経るなかで、素朴な水の神、山の神はこの国のいたるところでそうであったように、天津神やそれにつながる天皇へと置き換えられていったのではないか。

 

結局、丸山と四条ミサンザイ、どっちが本当の神武陵なの? どっちが嘘?

どちらも本当なんだよ。
そこが神武陵だと信じて長い年月祈る人々がいた。ならそこが神武陵なんだよ。

 

なんかモヤモヤする。
いっそ、丸山を子細に調べてほしいよね。いまの公式な神武陵、四条ミサンザイを発掘調査するよりも社会的なハードル低そうだし。

そうなれば間違いなく古代祭祀の痕跡が見つかるんじゃあないかな。
いずれにせよ、神話や伝承というものは、いまみたいに国家に押し付けられるものではないんだ。我々の手に取り戻さなければいけないんだ。

(洞) 穴のちから

われわれのいちばん最初の穴の記憶は、誕生に際しての女性のそれだろうか。

そして、そのことを記憶の奥底に閉じ込めたままでいるのならば、祈りの始源を穴にもとめることは、じゅうぶん理にかなったことと言わねばならない。

穴に祈り、穴に魅了されて、ときには山肌に穴を掘る…。

 

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そしてこの洞村の水利施設のすぐ前にも『宮』と彫られた短い石柱があった。

あるいは上の5本と同様の長さであったものが、土砂に埋もれてしまっているのかもしれない。

いずれにせよ、かつてはここまでが聖域であると認識されていたのだろう。

おわりに

わたしは丸山からくだって行って、用水池のまえにでた。

たくさんの水鳥たちがはねを休めていた。

わたしが近づいても、いっこうに飛び立つ気配がない。

かつてはこの池の東隣に、洞村の墓地があった。

いまは墓石のないその場所の墓守りのように、鳥たちは動かなかった。

それはまるで、洞の村民たちが丸山を先祖代々守り通してきた姿とかさなって見えた。

わたしは家路についた。

部屋にはいると、ズボンのポケットからはみ出していたタオルに植物の種子がたくさんついているのが見て取れた。

それは執拗にへばりついていた。

ひとつひとつ、丹念に取り除く。

来週の休みには、また丸山に行こう。

そこでこれを撒けばいい。

春には芽を出すだろう。

 

 

 

参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)





神武天皇陵、橿原神宮にみる建国神話の可視化過程について

大和三山のひとつ、畝傍山は古来より幾たびもうたによまれ、また祈りの対象ともなってきた。いま、その優美な山容を眺めるとき、思わず静かに手をあわせたくなるのも至極当然のことなのかもしれない。

山麓にひろがる橿原神宮の杜に、初代・神武天皇陵、第二代・綏靖天皇陵、第三代・安寧天皇陵の深い緑がつづいて、そこはさながら広大な神域の様相を呈している。

しかし、横大路をみやこから難波 (なにわ) に向かう古人 (いにしえびと) たちが畝傍山を眺めたとき、いまのわたしたちとはすこし違う印象をもったに違いない。

麓には、未だ木々に囲まれた大きな陵も神宮もなく、そこには田畑がひろがり、いくつもの集落があった。

かまどからは、幾筋の煙が上がっていたことだろうか。

お山は聖なる山であるよりもまず、芝や薪といった民の暮らしに必要な恵みをもたらすところであり、誰しもが自由に立ち入ることができた。

幕末、大和国儒学者・谷 三山は幼少の頃、八木村 (現 橿原市八木町) の生家のあたりから、目前の畝傍山を見てなにを思っただろう。

~目次~

神武天皇陵の治定

神武天皇

いくつもの鳥居のむこうにひろがる、墳丘を覆う木々。皇族方もしばしば訪れる神武天皇陵の荘厳さは格別なものがある。

これよりもはるかに面積の大きい仁徳天皇陵 (大山古墳) でさえ、前方部のまえを通る府道から拝所がよく見渡せて、ずっと近しい印象をうけるものだ。しかし、鬱蒼としげる橿原の杜をぬける幅の広い参拝道 (通常の自動車道なら、いったいなん車線分になるだろう) をえんえんと歩くあいだ、耳に届くのは踏みしめる玉砂利の音ばかり。やがて桜川にかかる小さな石橋をわたると、急に杜がとぎれ、いっきに視界がひろがって目前に大きな鳥居が迫ってくる。すると不可侵で、神聖な、常とは隔絶した圧倒的なものが、このはるか向こうにひろがっているのだという気持ちにさせられる。

しかし、ここは江戸時代末期に神武陵と治定されるまでは、古墳とも知れぬ、田んぼのなかにぽつんと浮かび上がった小さな円丘にすぎなかった。

■治定とは■
陵墓の被葬者を特定すること。
 
幕末、尊王攘夷の機運が高まるなかで、急遽、孝明天皇が攘夷祈願のために神武陵へとお出ましになることが決定される (大和行幸)。
幕府は元禄年間に、それまでながらく所在不明とされていた神武陵を「塚山」の名で知られていた円墳、現在の第二代 綏靖天皇陵、桃花鳥田丘上陵 (つきだのおかのえのみささぎ)と一応は定めていた。
しかしながら、古事記の記述 (御陵在畝火山之北方白檮尾上也) と矛盾することから、これには異論が寄せられることになる。
当時、もっとも有力と見做されたのは「丸山」だった (同じ橿原市内にある奈良県最大の前方後円墳・丸山古墳とは別)。
そこは畝傍山の東北の尾根のうえにあり、古事記の記述とも合致していたが、ここが神武陵とされることはなかった。隣接して総戸数約200戸、1000人にもおよぶ洞村があり、孝明天皇の大和行幸が迫るなか、全員を移転させたうえで、そこを初代天皇の陵にふさわしい体裁に造り変えるのは、時間の制約のなかむずかしいと考えたのかもしれない。
結局、孝明天皇の御沙汰によって「丸山」と「塚山」のあいだにひろがる田んぼのなかにある小さな円丘を神武陵とすることとなった。そこが神武田 (じんむでん・じぶでん・じぶた) などと呼ばれていたことも考慮されたのだろう。またそこは別名ミサンザイとも呼ばれており、それが陵 (ミササギ) からの音転を連想させることも後押ししたのかもしれない。
■大和行幸
京の都でおきた政変 (8月18日の政変) をうけて、結局、孝明天皇の大和行幸は取りやめとなった。それによって「皇軍御先鋒」を名乗り大和国五條にまで進軍していた一団は挙兵の根拠をうしなうことになり、40日にもおよぶ天誅組の変がおこった。

 

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こうして神武天皇の御陵と見做された神武田は、その後は建国神話の核心を具現化すべく大規模に改修されていく。

 

綏靖天皇

神武天皇陵の修陵

『古事類苑 』帝王部十七・山稜上 P974-975 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

文久3年5月にはじまり同年12月に終えた修陵 (文久の修陵) において、ミサンザイの円丘は急ごしらえの柵で囲まれ、神武天皇陵が誕生した。

これは新たな陵の築造と呼んでいい。

そしてそのあとも、時代を経るごとに陵は目まぐるしく変貌を続けていく。

まず円丘を大量の盛り土で覆い、そこに石垣をめぐらせて八角墳へとつくりかえられたのち、時代が大正に移ると、こんどはさらに大きな円墳へと姿を変えていった。

文久の修陵■
江戸時代末期の文久年間に、宇都宮藩の建議をうけて幕府がおこなった天皇陵の修復事業。

橿原神宮の創建

橿原神宮

神武天皇陵の南、畝傍山の東南麓に1890年 (明治23年) 4月、神武天皇御鎮座、橿原神宮が創建された。

京都御所から下賜された賢所と神嘉殿を、それぞれ本殿と拝殿とした。

この官幣大社の出現によって、またひとつ、橿原宮祉という神武天皇聖蹟が立ち現れることになった。

こうして参拝の役割を神宮が担うようになると、神武陵のほうは信仰や慰霊とは切り離されていき、いまわたしたちが感じるような厳粛、深淵な印象を強めていくことになる。

そしてこの橿原神宮の創建と、その後における畝傍山を含む神苑拡張、整備の実施は、吉野神宮創建 (1889年・明治22年)、平安神宮創建 (1895年・明治28年)、および宮崎神宮の拡大整備の実施とそれに続く神宮号授与 (1913年・大正2年) などと同時期に並んで進行していくことになる。

おわりに

神武天皇陵参拝道より、遠く拝所をのぞむ

四条ミサンザイ (神武田) が神武天皇陵とされるまでそれと見做されていた現在の綏靖天皇陵は、いまはただ静寂につつまれている。ここに陵のあることに気付いているひとは、地元にもおおくはいないだろう。

新たに神武陵を治定するにさいに、ミサンザイとともに候補にあがった丸山のほうは、さらに忘れ去られている。

いまそこを訪ねても、尾根の上にあったとされている墳丘らしきものを確認することは容易ではない。

大正時代における、丸山に隣接する洞村の全村移転をうけて、あたり一帯は植林され、いまは畝傍山の一部と見紛う景観をみせている。

「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武さんが丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。

山中にたつ『宮』と彫られた腰の高さほどの5本の石柱で囲まれたあたりが、一応の目安になる。

そしてそこは、現在ではしばしば丸山宮址と称されている。

丸山宮址

丸山宮址

丸山宮址

橿原という地名は、ながらく失われて所在不明だった。
本居宣長のように、現在の御所市柏原を推する説もあった。
1956年 (昭和31年)、耳成村、畝傍町、鴨公村、八木町今井町、真菅村の6町村が合併し橿原市が発足した。

畝傍山



参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ―

玉手山遊園地…。なんと懐かしい響きだろう。

1,908年 (明治41年) に西日本初の遊園地として開園され、昭和30年代の最盛期には、年間数万人の来園者をかぞえ大変な賑わいをみせていたこの遊園地も、しかし、その後は少子化などの影響から徐々に来園者数が減少し、1998年 (平成10年) 5月、ついには惜しまれながらの閉園に至った。

現在、その跡地は柏原市立玉手山公園・ふれあいパークと装いを新たにし、多くの市民に親しまれている。

玉手山公園の魅力とは

玉手山公園 (玉手山遊園地) の魅力のひとつに、その立地をあげてもいいだろう。

北を流れる大和川と西の石川との合流地点から南にひろがる狭い玉手山丘陵には、多くの古墳が点在し、玉手山古墳群をなしている。

玉手山古墳群の範囲については様々な提言があるが、それを玉手山公園周辺の範囲だけに限って考えるならば、玉手山1号墳 (小松山古墳) から玉手山10号墳 (北玉山古墳) まで、いずれも10基の古墳時代前期の前方後円墳で構成されていることになる。

その約半数がすでに破却されてしまっているとはいえ、玉手山遊園地について語るとき、昭和レトロな遊具や梅林とならんで「ああ、あの古墳の!」と目を輝かせる年配者がいるのもうなずけるだろう。

玉手山公園の来園について

アクセス

近鉄大阪線河内国分駅、同じく道明寺線道明寺駅のどちらからも1.2キロ、徒歩で約20分の道のりになる。
柏原市では公共交通機関の利用を推奨している。

しかし、それは少々骨が折れると思われたので、わたしはクルマでむかった。

駐車場

カーナビゲーションをセットすると、駐車場のある南入口まで導いてくれた。

警備員が2名いた。

尋ねてみれば、常駐ではなく、今日が祝日だからだという。

見れば、ほぼクルマで埋め尽くされていたが、わたしは辛うじてとめることができた。

これは予想に反して嬉しいことだった。

すっかり寂れてしまっていて、人影もまばらであったら、暗い気持ちになっていただろう。

公園と聞いて賑わいや楽しさを期待するのは、なにも子供に限ったことではない。

 

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ここが満車の場合は、少し離れた第二駐車場を案内するという。

入園料・休園日

駐車場、入園料ともに無料。

開園時間は午前9時~午後5時。

休園日は年末年始と毎週水曜日。

ただし水曜日が祝日の場合は開園し、翌木曜日が休みとなるほか、梅と桜が見頃となる2月初旬から4月下旬までは水曜日も開園される。

園内案内

園内を登って行く。
かなりののぼり勾配だ。

不意にあがった子供たちの歓声に振り向いた。

子供たちがそりに乗って斜面を滑り降りている。

わたしもやってみたくなって、おりていった。

しかし小学生までの利用で、大人はダメだという。

なぜだろう。

なぜ年齢制限なんだろうか。

体重制限ならともかく…。

恥ずかしさのあまり照れ笑いを浮かべながら引き返して、さらに園内を登っていく。

そして最近では、休日に出かけるたびに、いつもおなじめにあう。

膝が笑って動けなくなった…。

息も絶え絶えになって、その場にうずくまった…。

手すりの有難さが身に染みた…。

このときも、まさにそのとおりだった。

ここを訪れたという小林一茶の句碑があった。

玉手山丘陵は、大坂夏の陣のなかでも主要な戦闘にあげられる小松山の戦い (国分・道明寺の戦い) が繰り広げられたところだ。

要衝、小松山の争奪をめぐって伊達政宗隊、本田忠政隊、松平忠明隊、水野勝成隊の徳川方2万3千の兵を、後藤又兵衛基次が2千8百の軍勢を引き連れて迎え撃った。

数で圧倒する徳川方のまえに後藤隊は壊滅。

基次は手傷を負ったのち自害した。

歴史の丘には『後藤又兵衛基次之碑』が建てられている。

となりには後藤又兵衛しだれ桜。

春には美しい花を咲かせる。

さらにそばには、柏原市長 (建立当時) の揮毫による、自害した基次を介錯したと伝えられている吉村武右衛門の碑。

歴史の丘の一番高いところには、豊臣方、徳川方双方の戦死者を弔う両軍戦死者供養塔が建つ。

これは安福寺の珂憶上人によるもの。

そしてこの場所は、玉手山7号墳のちょうど後円部にあたる。

前方部は公園に隣接する安福寺の境内となり、そこには尾張藩二代藩主・徳川光友公の墓所がもうけられている。

供養塔の先に出て北西方向を眺めると、大和川の向こうに標高わずか65メートルの高井田山が見えた。

 

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日が暮れかけてきた。

先を急ごう。

蛍の光

野外劇場なるものが見えてきた。

遊園地時代、賑やかだった頃にここで行われていたのは着ぐるみを着たヒーローショーだったろうか。あるいはもっと別の、手に汗握るなにかだったのだろうか。

しかしいまは、人っ子一人いない。

不意にいたずら心が頭をもたげてきた。

わたしはステージにたつ。

なんと滑稽な思い付きだろう。

その隣には『昆虫館・貝 化石館』『おもちゃ館・歴史館』がある。

さらに先に、音楽堂があった。
これは遊園地開園当時に建てられたという貴重なもの。
ここで楽団の奏でる音楽が、園内中に鳴り響いたのだろう。
当時の演奏リストがどうだったのか、わたしには知る由もないが、5時の閉園時間が迫っているいまなら、さしずめ蛍の光だろう。

公園の出入り口付近にでた。
楽しそうな遊具がたくさんあった。

こちらのほうは大人でも利用できるのでしょうか、などと尋ねる度胸は、わたしにあるはずもなかった。