もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山宮祉を行く

幕末の文久年間に、現在の四条ミサンザイが神武天皇陵と治定される際には、そこからすこし離れた畝傍山の尾根のうえにある、墳丘状の丸山と呼ばれていた場所も有力な候補地だった。

遠く歴史の向こうに置いてこられたまま、いまでは顧みられることさえまれな、その丸山を訪ねた。

 

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~目次~

 

洞村について

全村移転

神武天皇陵の参拝道から、石段をのぼったさきに西へとぬける脇道がつづいている。

その道にそうようにして、かつて洞村という集落が存在した。

しかし明治以降、政府や奈良県などが推し進める畝傍山神武天皇陵、橿原神宮を一体化した神園化のながれのなかで (いにしえの荘厳な風景を現出させる)、時代が大正にうつると、神武陵のすぐ目前で日々の生活を営んでいた総戸数約200、村民1000人にもおよぶ洞村は全村移転となる。

家屋はいうに及ばず、お寺や神社、共同浴場に墓地などいっさいが立ち退きを余儀なくされて、いまその跡地は植林された木々に覆われ畝傍山の一部と見紛う光景をみせている。

丸山は、そんな洞村のもっとも山頂寄りに存在した。

その高みから、かつては村全体を両腕をひろげていつくしむように見守っていたであろう丸山は、いまも、ひとけの失せた畝傍山山麓にひっそりと眠っている。

村人の息づかい

わたしは旧 洞村をのぼっていった。

地面がじっとりと湿っている。

地下の水脈が、地表から近いところを流れているような印象だ。

突然、水の流れが露出しているところに出くわした。

なにかがきらきらとひかっている。

覗き込むと、瀬戸物のかけらだった。

茶碗だろうか。

わたしはその場にしゃがみこんだ。

あわただしく荷造りをして、住み慣れた土地を離れていく無念と不安の顔が列なす光景が目にうかんだ。

名状しがたい感情に襲われる。

それでもわたしは、掛け声を発して立ち上がると、ふたたび歩きだした。

あとすこしで、丸山が見えてくるだろう。

丸山宮祉

腰の高さほどの石柱が見えてきた。
『宮』と彫られている。

1本、2本、3本…、樹木が生い茂り落ち葉が一面を覆うなかで、都合5本の石柱が円形に配されているのが確認できた。

直径は15メートルといったところだろうか。20メートルはいかないだろう。

その墳丘状のものが、方形の平らな土地のうえにのっているようにも見える。

そして元々は、下のようなかたちだったのではないか。

新沢千塚古墳群 (奈良県橿原市・2024年2月1日撮影)

それにしても『宮』と彫られた理由はいったい…。
ここが神武陵であるとともに橿原宮でもあるとの主張だろうか。あるいは神武天皇の御霊をまつった生玉社の元宮がかつてはここにあったということなのだろうか。もしかするとたんに『陵・ミササギ』とするのを憚られてのことかもしれない。

事情は年月の流れのなかで、わからなくなってきている。

「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武さんが丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。

わたしにはわからないが、畝傍のお山は知っている。

洞之清水

丸山のすぐ下 (平らな方形状の土地の下) に洞村の水利施設がいまも残されている。
ここはしばしば、井戸と紹介されているが、それは正確ではない。

古書に『洞之清水』と記されているのが、これにあたるだろう。

地下の水脈が、向かって右側 (標高の高い側) から流れてきてここで露出し、洞 (穴) にたまり、水位が上がり過ぎた分は左側 (標高の低い側) から抜けるようになっている。

いわば天然のダムのようになっている。

レンガ造りの外観などは (内部の天井部も) 近代になってから造られたものに違いないが、覗き込んでみると、奥壁 (それは丸山の外周部にもあたる) は小さな石を積み上げてできており、相当に先行した時代のものであることが見てとれる。

 

洞というめずらしい村名の由来についてはさまざまな推論が示されているが、わたしはそのいずれもが要領を得ないと、ずっと感じていた。

この場所、この洞こそがその由来だとわたしには思われる。

山肌から流れでる清水が洞にたまり、過ぎたるぶんは里のほうへと押し出されていく。

この場所で水の神、山の神に感謝と祈りをささげたのが丸山信仰、丸山祭祀の始源のすがたであったと考えたい。

それが律令国家の成立、そして中世へと時代を経るなかで、素朴な水の神、山の神はこの国のいたるところでそうであったように、天津神やそれにつながる天皇へと置き換えられていったのではないか。

 

結局、丸山と四条ミサンザイ、どっちが本当の神武陵なの? どっちが嘘?

どちらも本当なんだよ。
そこが神武陵だと信じて長い年月祈る人々がいた。ならそこが神武陵なんだよ。

 

なんかモヤモヤする。
いっそ、丸山を子細に調べてほしいよね。いまの公式な神武陵、四条ミサンザイを発掘調査するよりも社会的なハードル低そうだし。

そうなれば間違いなく古代祭祀の痕跡が見つかるんじゃあないかな。
いずれにせよ、神話や伝承というものは、いまみたいに国家に押し付けられるものではないんだ。我々の手に取り戻さなければいけないんだ。

(洞) 穴のちから

われわれのいちばん最初の穴の記憶は、誕生に際しての女性のそれだろうか。

そして、そのことを記憶の奥底に閉じ込めたままでいるのならば、祈りの始源を穴にもとめることは、じゅうぶん理にかなったことと言わねばならない。

穴に祈り、穴に魅了されて、ときには山肌に穴を掘る…。

 

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そしてこの洞村の水利施設のすぐ前にも『宮』と彫られた短い石柱があった。

あるいは上の5本と同様の長さであったものが、土砂に埋もれてしまっているのかもしれない。

いずれにせよ、かつてはここまでが聖域であると認識されていたのだろう。

おわりに

わたしは丸山からくだって行って、用水池のまえにでた。

たくさんの水鳥たちがはねを休めていた。

わたしが近づいても、いっこうに飛び立つ気配がない。

かつてはこの池の東隣に、洞村の墓地があった。

いまは墓石のないその場所の墓守りのように、鳥たちは動かなかった。

それはまるで、洞の村民たちが丸山を先祖代々守り通してきた姿とかさなって見えた。

わたしは家路についた。

部屋にはいると、ズボンのポケットからはみ出していたタオルに植物の種子がたくさんついているのが見て取れた。

それは執拗にへばりついていた。

ひとつひとつ、丹念に取り除く。

来週の休みには、また丸山に行こう。

そこでこれを撒けばいい。

春には芽を出すだろう。

 

 

 

参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)





神武天皇陵、橿原神宮にみる建国神話の可視化過程について

大和三山のひとつ、畝傍山は古来より幾たびもうたによまれ、また祈りの対象ともなってきた。いま、その優美な山容を眺めるとき、思わず静かに手をあわせたくなるのも至極当然のことなのかもしれない。

山麓にひろがる橿原神宮の杜に、初代・神武天皇陵、第二代・綏靖天皇陵、第三代・安寧天皇陵の深い緑がつづいて、そこはさながら広大な神域の様相を呈している。

しかし、横大路をみやこから難波 (なにわ) に向かう古人 (いにしえびと) たちが畝傍山を眺めたとき、いまのわたしたちとはすこし違う印象をもったに違いない。

麓には、未だ木々に囲まれた大きな陵も神宮もなく、そこには田畑がひろがり、いくつもの集落があった。

かまどからは、幾筋の煙が上がっていたことだろうか。

お山は聖なる山であるよりもまず、芝や薪といった民の暮らしに必要な恵みをもたらすところであり、誰しもが自由に立ち入ることができた。

幕末、大和国儒学者・谷 三山は幼少の頃、八木村 (現 橿原市八木町) の生家のあたりから、目前の畝傍山を見てなにを思っただろう。

~目次~

神武天皇陵の治定

神武天皇

いくつもの鳥居のむこうにひろがる、墳丘を覆う木々。皇族方もしばしば訪れる神武天皇陵の荘厳さは格別なものがある。

これよりもはるかに面積の大きい仁徳天皇陵 (大山古墳) でさえ、前方部のまえを通る府道から拝所がよく見渡せて、ずっと近しい印象をうけるものだ。しかし、鬱蒼としげる橿原の杜をぬける幅の広い参拝道 (通常の自動車道なら、いったいなん車線分になるだろう) をえんえんと歩くあいだ、耳に届くのは踏みしめる玉砂利の音ばかり。やがて桜川にかかる小さな石橋をわたると、急に杜がとぎれ、いっきに視界がひろがって目前に大きな鳥居が迫ってくる。すると不可侵で、神聖な、常とは隔絶した圧倒的なものが、このはるか向こうにひろがっているのだという気持ちにさせられる。

しかし、ここは江戸時代末期に神武陵と治定されるまでは、古墳とも知れぬ、田んぼのなかにぽつんと浮かび上がった小さな円丘にすぎなかった。

■治定とは■
陵墓の被葬者を特定すること。
 
幕末、尊王攘夷の機運が高まるなかで、急遽、孝明天皇が攘夷祈願のために神武陵へとお出ましになることが決定される (大和行幸)。
幕府は元禄年間に、それまでながらく所在不明とされていた神武陵を「塚山」の名で知られていた円墳、現在の第二代 綏靖天皇陵、桃花鳥田丘上陵 (つきだのおかのえのみささぎ)と一応は定めていた。
しかしながら、古事記の記述 (御陵在畝火山之北方白檮尾上也) と矛盾することから、これには異論が寄せられることになる。
当時、もっとも有力と見做されたのは「丸山」だった (同じ橿原市内にある奈良県最大の前方後円墳・丸山古墳とは別)。
そこは畝傍山の東北の尾根のうえにあり、古事記の記述とも合致していたが、ここが神武陵とされることはなかった。隣接して総戸数約200戸、1000人にもおよぶ洞村があり、孝明天皇の大和行幸が迫るなか、全員を移転させたうえで、そこを初代天皇の陵にふさわしい体裁に造り変えるのは、時間の制約のなかむずかしいと考えたのかもしれない。
結局、孝明天皇の勅裁によって「丸山」と「塚山」のあいだにひろがる田んぼのなかにある小さな円丘を神武陵とすることとなった。そこが神武田 (じんむでん・じぶでん・じぶた) などと呼ばれていたことも考慮されたのだろう。またそこは別名ミサンザイとも呼ばれており、それが陵 (ミササギ) からの音転を連想させることも後押ししたのかもしれない。
■大和行幸
京の都でおきた政変 (8月18日の政変) をうけて、結局、孝明天皇の大和行幸は取りやめとなった。それによって「皇軍御先鋒」を名乗り大和国五條にまで進軍していた一団は挙兵の根拠をうしなうことになり、40日にもおよぶ天誅組の変がおこった。

 

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こうして神武天皇の御陵と見做された神武田は、その後は建国神話の核心を具現化すべく大規模に改修されていく。

神武天皇陵の修陵

『古事類苑 』帝王部十七・山稜上 P974-975 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

文久3年5月にはじまり同年12月に終えた修陵 (文久の修陵) において、ミサンザイの円丘は急ごしらえの柵で囲まれ、神武天皇陵が誕生した。

これは新たな陵の築造と呼んでいい。

そしてそのあとも、時代を経るごとに陵は目まぐるしく変貌を続けていく。

まず円丘を大量の盛り土で覆い、そこに石垣をめぐらせて八角墳へとつくりかえられたのち、時代が大正に移ると、こんどはさらに大きな円墳へと姿を変えていった。

文久の修陵■
江戸時代末期の文久年間に、宇都宮藩の建議をうけて幕府がおこなった天皇陵の修復事業。

橿原神宮の創建

橿原神宮

神武天皇陵の南、畝傍山の東南麓に1890年 (明治23年) 4月、神武天皇御鎮座、橿原神宮が創建された。

京都御所から下賜された賢所と神嘉殿を、それぞれ本殿と拝殿とした。

この官幣大社の出現によって、またひとつ、橿原宮祉という神武天皇聖蹟が立ち現れることになった。

こうして参拝の役割を神宮が担うようになると、神武陵のほうは信仰や慰霊とは切り離されていき、いまわたしたちが感じるような厳粛、深淵な印象を強めていくことになる。

そしてこの橿原神宮の創建と、その後における畝傍山を含む神苑拡張、整備の実施は、吉野神宮創建 (1889年・明治22年)、平安神宮創建 (1895年・明治28年)、および宮崎神宮の拡大整備の実施とそれに続く神宮号授与 (1913年・大正2年) などと同時期に並んで進行していくことになる。

おわりに

神武天皇陵参拝道より、遠く拝所をのぞむ

四条ミサンザイ (神武田) が神武天皇陵とされるまでそれと見做されていた現在の綏靖天皇陵は、いまはただ静寂につつまれている。ここに陵のあることに気付いているひとは、地元にもおおくはいないだろう。

新たに神武陵を治定するにさいに、ミサンザイとともに候補にあがった丸山のほうは、さらに忘れ去られている。

いまそこを訪ねても、尾根の上にあったとされている墳丘らしきものを確認することは容易ではない。

大正時代における、丸山に隣接する洞村の全村移転をうけて、あたり一帯は植林され、いまは畝傍山の一部と見紛う景観をみせている。

「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武様が丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。

山中にたつ『宮』と彫られた腰の高さほどの5本の石柱で囲まれたあたりが、一応の目安になる。

そしてそこは、現在ではしばしば丸山宮祉と称されている。

丸山宮祉

丸山宮祉

丸山宮祉

橿原という地名は、ながらく失われて所在不明だった。
本居宣長のように、現在の御所市柏原を推する説もあった。
1956年 (昭和31年)、耳成村、畝傍町、鴨公村、八木町今井町、真菅村の6町村が合併し橿原市が発足した。

畝傍山



参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ―

玉手山遊園地…。なんと懐かしい響きだろう。

1,908年 (明治41年) に西日本初の遊園地として開園され、昭和30年代の最盛期には、年間数万人の来園者をかぞえ大変な賑わいをみせていたこの遊園地も、しかし、その後は少子化などの影響から徐々に来園者数が減少し、1998年 (平成10年) 5月、ついには惜しまれながらの閉園に至った。

現在、その跡地は柏原市立玉手山公園・ふれあいパークと装いを新たにし、多くの市民に親しまれている。

玉手山公園の魅力とは

玉手山公園 (玉手山遊園地) の魅力のひとつに、その立地をあげてもいいだろう。

北を流れる大和川と西の石川との合流地点から南にひろがる狭い玉手山丘陵には、多くの古墳が点在し、玉手山古墳群をなしている。

玉手山古墳群の範囲については様々な提言があるが、それを玉手山公園周辺の範囲だけに限って考えるならば、玉手山1号墳 (小松山古墳) から玉手山10号墳 (北玉山古墳) まで、いずれも10基の古墳時代前期の前方後円墳で構成されていることになる。

その約半数がすでに破却されてしまっているとはいえ、玉手山遊園地について語るとき、昭和レトロな遊具や梅林とならんで「ああ、あの古墳の!」と目を輝かせる年配者がいるのもうなずけるだろう。

玉手山公園の来園について

アクセス

近鉄大阪線河内国分駅、同じく道明寺線道明寺駅のどちらからも1.2キロ、徒歩で約20分の道のりになる。
柏原市では公共交通機関の利用を推奨している。

しかし、それは少々骨が折れると思われたので、わたしはクルマでむかった。

駐車場

カーナビゲーションをセットすると、駐車場のある南入口まで導いてくれた。

警備員が2名いた。

尋ねてみれば、常駐ではなく、今日が祝日だからだという。

見れば、ほぼクルマで埋め尽くされていたが、わたしは辛うじてとめることができた。

これは予想に反して嬉しいことだった。

すっかり寂れてしまっていて、人影もまばらであったら、暗い気持ちになっていただろう。

公園と聞いて賑わいや楽しさを期待するのは、なにも子供に限ったことではない。

 

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ここが満車の場合は、少し離れた第二駐車場を案内するという。

入園料・休園日

駐車場、入園料ともに無料。

開園時間は午前9時~午後5時。

休園日は年末年始と毎週水曜日。

ただし水曜日が祝日の場合は開園し、翌木曜日が休みとなるほか、梅と桜が見頃となる2月初旬から4月下旬までは水曜日も開園される。

園内案内

園内を登って行く。
かなりののぼり勾配だ。

不意にあがった子供たちの歓声に振り向いた。

子供たちがそりに乗って斜面を滑り降りている。

わたしもやってみたくなって、おりていった。

しかし小学生までの利用で、大人はダメだという。

なぜだろう。

なぜ年齢制限なんだろうか。

体重制限ならともかく…。

恥ずかしさのあまり照れ笑いを浮かべながら引き返して、さらに園内を登っていく。

そして最近では、休日に出かけるたびに、いつもおなじめにあう。

膝が笑って動けなくなった…。

息も絶え絶えになって、その場にうずくまった…。

手すりの有難さが身に染みた…。

このときも、まさにそのとおりだった。

ここを訪れたという小林一茶の句碑があった。

玉手山丘陵は、大坂夏の陣のなかでも主要な戦闘にあげられる小松山の戦い (国分・道明寺の戦い) が繰り広げられたところだ。

要衝、小松山の争奪をめぐって伊達政宗隊、本田忠政隊、松平忠明隊、水野勝成隊の徳川方2万3千の兵を、後藤又兵衛基次が2千8百の軍勢を引き連れて迎え撃った。

数で圧倒する徳川方のまえに後藤隊は壊滅。

基次は手傷を負ったのち自害した。

歴史の丘には『後藤又兵衛基次之碑』が建てられている。

となりには後藤又兵衛しだれ桜。

春には美しい花を咲かせる。

さらにそばには、柏原市長 (建立当時) の揮毫による、自害した基次を介錯したと伝えられている吉村武右衛門の碑。

歴史の丘の一番高いところには、豊臣方、徳川方双方の戦死者を弔う両軍戦死者供養塔が建つ。

これは安福寺の珂憶上人によるもの。

そしてこの場所は、玉手山7号墳のちょうど後円部にあたる。

前方部は公園に隣接する安福寺の境内となり、そこには尾張藩二代藩主・徳川光友公の墓所がもうけられている。

供養塔の先に出て北西方向を眺めると、大和川の向こうに標高わずか65メートルの高井田山が見えた。

 

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日が暮れかけてきた。

先を急ごう。

蛍の光

野外劇場なるものが見えてきた。

遊園地時代、賑やかだった頃にここで行われていたのは着ぐるみを着たヒーローショーだったろうか。あるいはもっと別の、手に汗握るなにかだったのだろうか。

しかしいまは、人っ子一人いない。

不意にいたずら心が頭をもたげてきた。

わたしはステージにたつ。

なんと滑稽な思い付きだろう。

その隣には『昆虫館・貝 化石館』『おもちゃ館・歴史館』がある。

さらに先に、音楽堂があった。
これは遊園地開園当時に建てられたという貴重なもの。
ここで楽団の奏でる音楽が、園内中に鳴り響いたのだろう。
当時の演奏リストがどうだったのか、わたしには知る由もないが、5時の閉園時間が迫っているいまなら、さしずめ蛍の光だろう。

公園の出入り口付近にでた。
楽しそうな遊具がたくさんあった。

こちらのほうは大人でも利用できるのでしょうか、などと尋ねる度胸は、わたしにあるはずもなかった。




【高井田横穴公園】古墳を頂く史跡公園の魅力を解説。駐車場、アクセス情報も

大阪府柏原市にある高井田横穴公園は、6世紀中ごろから7世紀前半にかけて築造された高井田横穴群を史跡公園として整備し、平成4年 (1992年) 5月に開園された。

現在までに確認されている横穴は162基。

そのうちの27基から線刻壁画が発見されている。

しかし、この公園のもうひとつのハイライトは、園内のもっとも標高の高いところにある。

~目次~

 

高井田山古墳 

標高わずか65メートルの高井田山の山頂には、斜面に掘られた横穴群に先行すること約1世紀、5世紀後半の築造と考えられる高井田山古墳がある。

直径約22メートルの円墳。ただし小さな前方部が接続されている可能性を指摘する声もある。

現在では墳丘部は取り払われ、石室は透明のアクリル板で覆われており、外から石室内部を見ることが可能となっている。

石室から出土した数々の副葬品は史跡公園に隣接する柏原市立歴史資料館 (後述) で保管、展示されており、現在、石室内にはそのレプリカが置かれている。

副葬品のなかでも、もっとも目を引くものとして、古代のアイロン、火熨斗(ひのし) があげられる。

火熨斗は小型のフライパンのような形状で、椀の部分に熱した炭をいれ、底を衣類に押し当ててしわを伸ばすように使用されたもの。国内での出土例はわずか数例で、高井田山古墳から出土したものと類似の火熨斗が、武寧王陵から発見されている。

武寧王陵■
大韓民国広州市にある宗山里古墳群にある古墳。1971年、そのなかのひとつから墓誌が出土し、そこが武寧王とその妃の陵であると特定された。日本書紀によれば百済第25代の王、武寧王 (462年~523年) は筑紫の各羅嶋 (かからのしま・加唐島) で生まれ、百済に送り返されたとされている。
石室内のふたりの棺が、日本にしか自生していない常緑樹、高野槙 (こうやまき) でできていたことも話題となった。 

これも資料館に展示されている。

この高井田山古墳は、石室の造りや出土品が百済との関連を思わせることから、その被葬者には、昆伎王 (こんきおう) と同妃がしばしば擬せられる。

 

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■昆伎王■
昆伎王 (?~477年)は百済の王族。日本書紀によると雄略天皇5年 (461年) に日本に遣わされたとされている。朝鮮の正史『三国史記』によると武寧王の祖父にあたる。
古代の飛鳥戸郡 (安宿部郡・あすかべのこおり) に勢力を持っていた渡来系氏族、飛鳥戸氏の祖とされており、かつては飛鳥戸神社 (大阪府羽曳野市) にその御魂がまつられていたとも (現在の祭神は素戔嗚尊) 考えられている。 
なお、昆伎王と称されているが、正式に百済の王位に就いたことはない。

高井田横穴群

6世紀中ごろから築造の始まった、現在までに162基が確認されている高井田横穴群は、東から順に第1支群から第4支群へと、大きく四つの支群に分けることができる。

第1支群は、わたしは未見ではあるが、比較的大きな横穴が多いとされている。ここは史跡公園の外、府立学校の敷地内にあり、通常は見ることができない。

第2支群は高井田横穴群のなかで、最も早くから築造が始まったと考えられている。

第3支群には『船に乗る人物』と題された線刻壁画をもつ、有名な第3支群5号横穴がある。

 

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公園内の一番西に位置する横穴群は、第4支群と称されている。

ここ柏原市には、ほかにも太平寺横穴群、安福寺横穴群、玉手山東横穴群がある。最近になってアゼクラ遺跡 (大阪府枚方市) が発見されるまでは、大阪府内で横穴群のあるのは柏原市が唯一だった。

とはいえ、柏原市のすぐ東、金剛・生駒山地をこえて奈良県に入れば、多くの横穴群が存在している。

駐車場、アクセス情報

ここを訪れるには、断然、公共交通機関がおすすめだ。

公園の目の前にJR高井田駅があり、これを利用しない手はない。

ほかに、近鉄河内国分駅で下車するという選択もある。

この場合は、公園入口までは約800メートル、途中の信号を考慮すれば、徒歩で10分はみておきたい。

そしてクルマでとなると、公園自体には駐車場が未整備なので、隣接する柏原市立歴史資料館の駐車場を利用することになる。
しかし台数にかぎりがあり (7台分) 休館日には利用できない。

その場合には高井田駅、河内国分駅のちかくにある民間の駐車場にとめることになる。

公園周辺はすぐそばまで民家がたてこんでいる。

路上駐車などは厳につつしみたい。

柏原市立歴史資料館

平成4年 (1992年) 5月の高井田横穴公園の開園から遅れること半年、同年11月に柏原市立歴史資料館はオープンした。

高井田山古墳や高井田横穴群から出土した副葬品などを、保管、展示するのみならず、期間をもうけて様々な企画展なども随時ひらかれている。

休館日は年末年始と毎週月曜日。

入館料無料。

園内散策

それにしても、この公園の緑の濃密さはどうだろう。
なんと美しいことか。

園内には、いくつも東屋が設けられている。

気ままなひとりでの散策にも、家族連れの行楽にも向いている。

なにだろうか。

道になにかの実がいっぱい落ちている。

近づいてみた。

園内のあちこちに、出土品のレプリカがさりげなく置かれている。

また、線刻壁画をもつ横穴群の全国分布図や、横穴墓内の玄室の様子を再現した模型なども設置されており、散策のうちに、自然と横穴群や古墳時代について学習できるよう配慮されてもいる。

 

全国的に見ても、線刻壁画のある横穴墓ってめずらしいんだよね。

そうなるね。
ここ柏原以外では、熊本に多くあるんだ。古代の熊本の石工たちが東進してきて高井田横穴群を築造したって説を唱えるヒトもいるくらいなんだ。

 

ふーん。
ところで、もう歴史資料館にもどろうよ。駐車場に向かって北進開始!

ちょっと待って。
竹林広場にも行ってみたい。

さっき通ったよ。
第二支群に行くとき。

そうだったかな。
でも、きみが言うんならきっとそうだ。そうだよ、もどろう。

わたしは歴史資料館のほうへ顔を上げた。

そこに続くコンクリート製の階段が見えた。

おわりに

階段のわきに、小さな石碑があるのが目に入った。

近寄ってしゃがんで見てみる。

すでに肉眼では読み取りづらくなっているが、柏原市教育委員会 編集・発行の「国史高井田横穴」によると、正面には『李王並同妃両殿下台覧横穴』そして背面には『昭和十六年四月十八日建之』と刻されていると説明されている。

これは1926年 (大正15年) に王位を継いだ最後の李王 (すでに韓国皇帝ではない。韓国併合は1910年) 昌徳宮 李垠 (李王垠) 殿下と李方子 (梨本宮方子女王) 妃殿下のことにほかならないだろう。

李垠殿下は日本陸軍所属。

1940年 (昭和15年) には大阪へ赴任。陸軍中将となっている。

おそらくこの頃に、お出ましの機会を得たのだろう。

 

 

【高井田横穴群】横穴墓を築造したのはどのような集団だったのか。彼らの死生観とは。

高井田横穴群の存在をはじめて知ったときの、あの高揚した気持ちを、言葉で表現することはむずかしい。

高井田山は標高わずか65メートル。その丘と呼びたくなるような小さな山に、6世紀中ごろから掘られ始めた横穴墓が、いまもたくさん残っているという。

わたしは魅せられて、これまで何度足を運んだことだろう。

そして秋晴れのなか、いままたそこに向かっていた。

ランカシャーブラックバーンに4000の穴があいていると歌ったのはビートルズだ。

わたしは久方ぶりに、大阪府柏原市高井田で160余の横穴と対峙した。

~目次~

史跡 高井田横穴公園へ

大和川にかかる国豊橋を北に進もうとするころ、顔をあげると、ちょうど高さのそろった四軒の民家の屋根のうえあたりに『史跡 高井田横穴公園』という看板が見えてくる。

高井田横穴公園は高井田横穴群 (高井田横穴墓群) を史跡公園として整備し、平成四年 (1992年) に開園したもの。

 公園の外周道路に面したところには、石室内部の線刻壁画や土器などの副葬品を模したものを刻んだ陶板が飾られている。

わたしはそれらを眺めながら、ゆっくりとクルマをはしらせた。

高井田横穴群

概要

高井田横穴群は、高井田山に残る、かつての二上山の噴火によって形成された (異説あり) 凝灰岩層に掘られた横穴墓。

二上山
大阪と奈良の府県境にある、雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の2つの峰をもつ双耳峰。

築造時期は6世紀中ごろから7世紀前半にかけてであり、現在までに確認されている横穴の数は162基。しかし未調査部分を含めるとゆうに200を超えると考えられている。

そして、そのうちの27基の横穴から線刻壁画が見つかっている。

しかし、すでに確認されている横穴には多くの壁画が見られているものの、新たに見つかった横穴からは発見例がすくないなど、そのすべてを横穴築造当時のものと考えることには慎重であらねばならない。

前の戦争時には、いくつかの横穴は防空壕として利用されていた、との地元住民の証言もある。 

そのようななかでも、1917年 (大正6年) 道路工事の際に見つかった第3支群5号横穴の『船に乗る人物』と題された線刻壁画は、発見時の状況や、人物埴輪の容姿との共通性を感じさせる船上の人物の服装ともあいまって、これは築造当時のものであると見做されている。

現在、その横穴の前には、二枚の線刻壁画のレプリカがたてられている。

 

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高井田横穴群のすぐ北側には、総数2000基とも目されている平尾山古墳群が迫っている。

その築造時期も、おおむね高井田横穴群と重なることから、高井田横穴群を平尾山古墳群の支群のひとつと考えることもできる。

しかし、目覚ましい違いは平尾山古墳群の大半が直径10メートル程度の円墳であるのに対して、高井田横穴群は横穴墓であることだろう。

横穴墓を築造したのは誰か

ここに眠るのは渡来系の人々だと考えられていた時期もあった。

横穴群よりも先行すること約1世紀、高井田山の頂につくられた円墳・高井田山古墳の被葬者が、石室のつくりや副葬品などから渡来系、なかでも百済系だと考えられていることと関連づけられたことも一因だが、現在では、その考えはほぼ否定されている。

かわりに強く支持されるにいたった仮説は、九州の石工集団の移住という考えだ。

阿蘇溶結凝灰岩のなかでもピンク色に発色したものは、とくに阿蘇ピンク石と呼ばれている。

5世紀末ごろから、6世紀前半にかけて、それは畿内の古墳の石棺に用いられるようになるのだが、(九州の古墳からの発見例はひとつもない。ヤマト王権が独占していたか) それ以降は高松塚古墳の石室をはじめ、二上山の凝灰岩が使われることが多くなっていく。

いまも二上山の山中には、石切り場の跡が残る。

 

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彼らなのだろうか。

九州各地に横穴墓を残した (なかでも熊本県人吉市の大村横穴群はとくに有名) 石工たちが、東進してきたのだろうか。

線刻壁画に見る死生観

ここに眠る人々、高井田の横穴墓を築造した人々の死生観を探ることは容易ではない。

横穴墓という墓制と、そこに刻まれた数々の線刻壁画から想像する以外に、現時点では手だてがない。

現代を生きるわたしたちは、生と死を別のもの、対立するものと捉えがちだが、彼らは、おそらく両者を連続するもの、違った表情をしたに過ぎない同一のものと考えていたのではないか。

わたしには、そんな気がしてならない。

『船に乗る人物』や『騎馬人物』などの線刻壁画は、だからこそ死者たちが、この先もいままでどおり自由に動き回れるようにと願いながら、刻まれたのではないか。

「みなさん、お手元の明かりをどうか消してみてください」

そこにいた参加者たちは、次々にスマートフォンの明かりを消した。

普段は金属製の扉で閉じられている横穴墓も、年に2回、特別公開日を設けている。

そのとき、横穴のなかには10名程度の人間がいた。

内部は成人がゆうに立ち上がれるほどの高さが確保されていることに驚いたり、排水用の細い溝が掘られていることに感心したりしながら、わたしは、この公開日をとらえて参加できたことを喜んでいた。

「いかがですか、真っ暗でしょう」

わたしは振り返った。

羨道とそれに続く墓道の先には光が見える。しかしそれは玄室内部にとどくことがない。

引率の解説員の男性が言葉を続けた。もっとも、その表情はまったく見えない。

「こんな中で、線刻壁画は刻まれたんですよ。火をつかった? いい質問ですね。しかしどの横穴からも、すすの類は検出されないんです」

稚拙な絵のタッチも、それで合点がいく。

闇黒のなか、死者のすぐそばで線刻壁画を刻むものが、かつてこの場にいた…。

わたしは戦慄を覚えた。

祭りのあと

見学を終えて、ポストカードやボールペンなどの記念品を受け取ると、参加者たちはみな、散り散りに帰って行った。
わたしはなぜかその場を去りがたく、また、公園内をぶらぶらと歩きだした。
見学コースから外れた壁画のない横穴は、普段通りに扉が閉じられていて、今日、あえてそこを見てみようとする者もいないようだった。

静まり返っていた。祭りのあとのように…。

それにしても、わたしは子供のころから横穴が大好きだった。

近鉄生駒駅のちかくにあった横穴、よくそのなかに入ったものだった。

母体回帰というか、むき出しの感覚というか、妙に気持ちが落ち着いて、わくわくした挙句に、そのまま眠ってしまうことさえあった。

あれは何だったのだろうか。

高井田同様の横穴墓だったのだろうか。戦争時の防空壕だったのだろうか。

ずっと後年になって、わたしはそこを訪れようとした。

しかし駅前は再開発の波にのまれてすっかり変貌し、場所さえもわからなくなっていた。

もう、とうになくなっているのだろう。

 

寝ちゃえば?

えっ?

 

寝ちゃえばいいのよ。半世紀ぶりに。

無理だよ。扉が閉まってる。

 

どうして無理って言い切れるの?
扉に手をかけさえしないうちに。

もう、子供じゃないんだよ。

寝ちゃえ! 寝ちゃえ!

わたしは歩み出て、黒い鉄製の扉に手をかけた。

ひんやりとした感覚が伝わってきた。

線刻壁画をめぐる5つの断章

騎馬人物 (第2支群3号墳)

男は馬に揺られ続けたせいで、尻に痛みを感じていた。
長い旅だ。

「どこまで行くつもりだって、馬に訊いてみたいさ。でも、どう言えばいいのかさっぱりわからないな」

手足をひろげた人物 (第2支群10号墳)

気持ちがいいと、手足をひろげてみたくなるもんだ。

今日は気持ちがよかったな。

きのうもそうだった。

その前もな。

明日も気持ちがいいのだろうか。

その次の日はどうだ。

鳥 (第2支群3号墳)

鳥になれぬものか。

凛とした姿で空を行く、みなの憧れる鳥に。

片手をあげる人物 (第3支群5号墳)

高く高くと手を上げて、どれほどの高みにある、何を手にしようとしているのだ。

船に乗る人物 (第3支群5号墳)

舟が川面を進んで行く。

何処へ行くともわからぬまま、どんどんと遠ざかり、小さな点となって、やがては白く光る水平線ににじんだ。

 

 

後記

古い時代には、古(いにしえ)人の墳という意味で古墳という言葉が用いられていたこともあった。しかし現代では墳丘のある墓を指す言葉として定着している。よってここも高井田横穴古墳ではなく、史跡指定名称は高井田横穴であり、高井田横穴群、高井田横穴墓群などと称されている。

しかしこのブログでは、読者の利便性を考慮し、カテゴリー欄を古墳と記し、また古墳とタグをつけた。諸賢のご理解を得たい。

【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし

大阪府千早赤阪村の不本見神社 (ふもとみじんじゃ) 周辺には不思議な話が伝わる。

むかし、子供たちが不本見山で相撲をとっていたところ、樹々のうえのほうから「ヤーホ、ヤーホ」と声がした。見上げるが誰もいない。ただ風が吹くばかり。そしてどこからか笑い声が聞こえてきた。

子供たちは怖くなって逃げかえり、大人たちをつれて山に戻ってきた。

みなで手分けしてあたりを探しまわるが、誰もいない。

ふと見ると、子供たちが脱ぎ捨てておいた衣服が、きれいに畳まれていたという。

ああ、これはきっと相撲好きの神様が、子供たちの取り組みを楽しみに見に来られたのだということになり、以来、不本見神社では子供たちによる奉納相撲が行われるようになった。

いまも秋祭りには「ヤーホ相撲」がにぎやかにひらかれている。

このはなしを知ってからというもの、わたしはこの神様を相撲の神様「ヤーホ様」と呼び、ひそかに親しみを寄せている。

ヤーホ様に会いたい。

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~目次~

不本見神社について

間近に千早川の流れる、不本見山の美しさは格別だ。

お椀を伏せたような、いかにも甘南備然としたその低い山容は、一夜にしてあらわれたとの言い伝えがある。
その山頂に坐す不本見神社役行者による創建とされている。

ながらく修験道蔵王権現を御本尊としていたが、維新期の廃仏棄釈の流れのなか、天御柱命国御柱命の風神二柱を勧請し、それをもって現在まで御祭神としている。

ちなみに隣町の太子町の式内社、科長神社も風神を御祭神としている。

この一帯にはかつて、風に親しみを感じる、風俗、心情のようなものがあったのだろうか。

 

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不本見神社へのルート

① わたしの進んだルート

 

千早赤阪村楠木正成公ゆかりの、としばしば称される。

村内のいたるところで楠公に関する史跡を目にすることになる。
府道705号線 (正式には、大阪府道・奈良県道705号富田林五條線) をクルマではしっていると、赤阪城 (下赤阪城) を案内する看板が見えた。

そのまま、さらに南東に進んでいくと、ナビゲーションが坂本橋を渡るようにと告げてきた。

渡ってすぐに左折する。

すると行き止まりになった。

「目的地に到着しました」

画面を見ると、ここからは徒歩だという。

この距離感ならほんの数分だろう。

でも、道はどこにあるというのか。

画面の示す方向に歩いてみる。

しかしこれ、農地だよ。

いかにも私有地だ。

ちょっとマズい感じになってきた。

日の暮れかけた夕刻、白髪の初老の男がスマートフォンを握りしめ、他人の土地に不法侵入したばかりか、あたりをきょろきょろしながら歩いている。

不審者以外の、いったいなにに見えるだろう。

さて、どうしたものかと思っていると、すぐ前の民家の庭に、わたしと同年配の女性がでてきているのが見えた。彼女はきれいに植えられた花々に手をやり、顔もまっすぐにそちらを見ている。が、明らかにこちらを警戒しているようすが、びんびん伝わってくる。

機先を制しよう。

「こんにちは。不本見神社に行きたいんですけど、どう行けばいいんでしょうか」

「ああ、ちょっと、道ややこしいですで」

お互い、相手のでかたをうかがっていた。

気まずい沈黙がながれる。

5秒…10秒…。

わたしは口をひらいた。

「あそこにはまえから一度、どうしても行ってみたかったんですよね。…ほら、ヤーホ相撲とか」

すると彼女はとつぜん饒舌になった。

それなら、そこの石段をのぼって行きはったらよろしいねん。のぼりきったら道があるから、そこを右に行く。そしたらまた道があるから、今度は左に行く。そしたら正面に見えてきますわ…。足元が悪いから気をつけろ、枝が盛大にでているところでは気を抜くな、ちゃんと前を見ろ…。

「もうすぐ秋祭りやよってな、そのときにもまた来はったらよろしいねん」

わたしは丁寧に礼を述べた。

それにしても、彼女の言うそこの石段とはどこだ。

さらに進んでいく。

これか…、これなのか。

生い茂る雑草をかき分けて、左右から覆い被さる木の枝を押しのけると、なるほど狭い石段が見えた。

しかし、いままでこんなにも急な石段にお目にかかったことはない。

これはもう、ほとんど垂直にかかる梯子と言いたくなるようなあんばいだった。

絶対に無理だ。

なんとか言い訳をして、退散することにしよう。

すぐに、とっておきの理由を思いついた。

 

どうせ、よくない理由だよね。

さあ、どうだか…。

「ああ、そうだ。忘れてました。むこうの橋のところにね…」わたしは指さして言った。「クルマを停めっぱなしにしてたんでした。御迷惑になってもあれなんで、今日のところは帰って出直してきますよ」

「そんなんかめへん。もしも誰かなんか言ってきたらな、 そのヒトやったらいま、不本見さんに参ってはるよってにな、ちょっと待っときなはれって、ちゃんと説明しときますわ。せやから遠慮しやんと、はよ行ってきなはれ」

外堀は埋められた。

元弘元年 (1331年) 9月、後醍醐天皇を奉じた楠公が、鎌倉幕府軍に対して最初に兵をあげた赤阪城 (下赤阪城) は一重の塀をめぐらせただけの、堀さえもない急ごしらえの城だったという。

二段、三段と石段をのぼってみた。そもそも石段に盛大に覆いかぶさってきている木の枝のせいで、立って歩くことも難しい。子供なら可能か。

もう何年も利用されていないのではないか。

それにこれ登って行ったら、もう、ぜんぜん趣旨が変わってしまうところだ。

神社参拝ではなく、ボルダー (ボルダリング) あたりになってしまう…。

わたしは暫くそこにいたが、もうどこにも彼女の姿がないことを確認すると、そそくさとクルマのほうへと戻っていった。

② 橋本橋をわたって右折するルート

しかしどうしても、参拝をはたしたい。
わたしは安全なルートを調べてみた。

一度くらいのダメ出しで、諦めてどうする。

志操堅固、赤阪城から退却した楠公はこんどは千早城にこもり、元弘3年 (1333年) 打ち寄せる鎌倉幕府の大軍と対峙する。そして100日にもわたり幕府軍をみごと釘付けにし、この間に鎌倉幕府は滅亡。ついに建武の新政への道はひらかれた。

橋本橋を渡ってわたしは左 (赤いクルマの見えるほう) へと進んで、行き止まりとなってしまった。

反対に右のほうへ進むと、もうすこしクルマで不本見神社のそばまで行くことができる。

しかし道は非常に狭く、軽自動車がやっとだろう。

行けるところまで行って、クルマを乗り捨てる場所を探すにも、苦労するだろう。

おすすめできるルートではない。

盲導犬訓練センター前を通るルート

府道705号線を富田林市街方面から (わたしが来たのと同じほうから) 進んでくると、富田林警察署 東阪駐在所を過ぎたあたりで左に折れる脇道に入ると、ライトハウス 盲導犬訓練センターのまえにでる。そして、その前の一本道を桝形城跡のわきを抜けるように進んでいくと、不本見神社にいたる。ただし、こちらも道は狭い。しかも一方通行ではないために、万がいち対向車とでも出くわすようなことがあれば、かなり難儀するに違いない。

それになによりも、不本見神社には駐車場がないことから、クルマでの参拝は避けたほうがいいだろう。

ではどうすればよいのか。

④ 道の駅「ちはやあかさか」から徒歩で向かうルート

道の駅「ちはやあかさか」を拠点に、そこから徒歩で向かうというのが、現実的なルートになろうかと思われる。道の駅には「村立 郷土資料館」や「楠公誕生地遺跡」が隣接している。

資料館にはヤーホ相撲に関するパネルも掲示されており、また同村内に伝わる昔話を収録した冊子なども販売されている。


そこから不本見神社までは約2キロ、40分ほどの道のりになる。
最終的には③の盲導犬訓練センターの前の道に出るのが、わかりやすい。

 

40分とか、ほんとに歩けるの?

歩けるさ。

 

うそでしょ。

このルートなら、比較的起伏がおだやかなうちに進むことができるよ。

⑤ 金剛バスを使用するルート

金剛バス・千早線「東阪」バス停下車。

そこからは徒歩で。

やはり盲導犬訓練センターの前の道で向かう。

ヤーホ、ヤーホ、

あの日、クルマへ戻るとき棚田が見えた。

そして視線をあげて不本見山を見た。

風が吹いてきた。

ヤーホ様の声は聞こえず、もちろん姿が見えるはずもなかった。

わたしはただ、棚田のうえを飛び回るトンボを眺めていた。

静寂の中で聞く声とは、いったい誰の声なのだろう。

 

※追記※

本日、金剛バスが路線バス事業から年内いっぱいで撤退するというニュースが飛び込んできた。今後は、バスで不本見神社ちかくまで行くことがかなわなくなる。

残念な知らせだ。  (2023年 9月 11日)

https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230911/2000077770.html

 



 

【壷阪寺】眼病封じの御利益、壺坂霊験記の夫婦愛をいまに伝える

奈良県のほぼ中央に位置する高取町を象徴するものとはなにだろう。

「くすりの町 高取」

日本書紀推古天皇の段にみられるように、古くからこのあたりでは薬猟 (くすりがり・鹿の角や薬草を集めること) がおこなわれていた。土佐街道 (飛鳥時代に土佐高知から移ってきたヒトたちが住まうようになったことが、命名の由来するとされる) 沿いにある、黒の外壁に白い六角形の亀甲型が施された古い蔵を改装したくすり資料館を訪ねれば、薬の歴史を体感することができる。

~目次~

 

また、高取城も忘れることができない。

壺阪山にあって、かつて山城としては異例なほどの荘厳なすがたをみせていた高取城、その城址には、いまも多くの観光客が訪れる。

そして壺阪寺もまた、よく知られるところだ。

壷阪寺へ

壷阪寺を参拝した。

入山料をおさめているあいだ、じっとこちらをうかがっていたネコたちが見送ってくれた。

「ようお参りです。ごゆっくりと」

静かだった。

無理もない。

午後四時、閉山まで、あと一時間しかなかった。

寺院参拝に際しては、いつも夕方の慌ただしい時間になってしまうのは何故だろう、思わず苦笑した。

 

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西に目をむける。

あいにくの曇り空とて、盆地のむこうの二上山生駒山がはっきりと見えた。

どこまでも、のどかな風景がひろがる。

わずか150年あまりまえ、この高取の地が天誅組の変に見舞われたなどとは、いまとなっては想像するのも難しくなってきている。

 

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境内案内

朱色の大講堂を右手に見ながら、わたしは進んでいった。

まず、瀧蔵権現で柏手をうつ。

この地の地主神をまつっているとされる。

つぼさか茶屋。

ここのうどんは美味いのだが、この時間ではどうしようもない。

仁王門をくぐる。

礼堂までは、まだかなりのぼって行かなければならない。

しかし、リフトが設置されている。

わたしもいつかは利用することになるのだろうか。

三重塔が見えた。

そのむこうに礼堂。

もはや息があがっていた。ひざが笑っていた。

ありがたや、ありがたや。

靴を履きなおし、さらに進んでいく。

「釈迦一代記」のレリーフ

スジャータだろうか。

さらに進んでいく。

大観音石像。

唯我独尊。

大涅槃石像。

釈迦入滅の様子。

壺坂霊験記

壷阪寺が眼病封じの寺としてつとに有名になったのは、明治時代初期に成立した浄瑠璃、壺坂霊験記によるところが大きい。

■壺坂霊験記■
「壺阪霊験記」「壺坂観音霊験記」とも。実話をもとにしているとの説もあるが、定かではない。
演目によって筋の細部に違いはあるが、壷阪寺の本尊、十一面観音の霊験によって盲目の澤市の目が見開かれるというところは共通している。
毎日のように明け方になると家を抜け出すお里に不信をもった盲目の澤市は、ほかにおとこでもできたのかと問いただす。しかしお里の返事は、澤市の目が見えるようになりますようにと、壷阪寺に参っていたというものだった。邪推を恥じた澤市は、それ以降、お里とともに壷阪寺に通うようになった。しかし盲目の自分がいてはお里の足手まといになると考えた澤市は身を投げて死んでしまう。そしてお里もまた、あとを追って身投げする。
それを知った十一面観音はふたりの命をよみがえらせ、澤市の目は見開かれた。

 

覗き込んだが、木々が生い茂り谷底は見えない。

礼堂からすこし奥に慰霊碑がたつ。

歌舞伎や浪曲にもなってるね。

そうだね。浪曲妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ…って名調子はよく知られているね。

そろそろ時刻だった。

戻らなければならない。

光のほうへ

わたしは来た道を戻って行った。

あいにく、もうネコたちのすがたは見えなかった。
右手に昔の慈母園の建物がが見えた。
慈母園は昭和36年、盲老人ホームとしてこの山内に開園したが、令和にはいり、おなじ高取町の「たかとり文教福祉ゾーン」に移転を果たしていた。
ネコたちはこの無人の老人ホームへと帰っていったのかもしれない。