行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて

我が国最古の天覧相撲の記録は、日本書紀によると、第11代垂仁天皇の御前での大和国當麻蹶速 (たいまのけはや) と出雲国野見宿禰 (のみのすくね) のとりくみとなる。

もっともこの時代の捔力 (すまひ)、現代の角力 (すもう) とは少々異なっている。

なにしろ野見宿禰は、敗れた當麻蹶速の腰骨を踏み折ったというのだから、いまならさしずめデスマッチのレスリングといったところか。

また、そのとりくみの日が「垂仁天皇7年7月7日」とされているなど、相撲が七夕を中心とした一連の行事のひとつであったとも考えられている。

 

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奈良県葛城市にある、そんな當麻蹶速の名を冠した葛城市相撲館「けはや座」を訪問した。

先月、當麻寺近くにあるそこに着いたときには、すでに閉館時間まぎわで入館をあきらめたのだ。

 

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今回は再訪ということになる。

葛城市相撲館「けはや座」

さあ、行こう。

入館料、大人300円ときわめて良心的。

入り口をはいると、いきなり「闘士」と名づけられた力士像が出迎えてくれた。

このウイルス騒ぎのご時世、しっかりとマスクをつけている。

どこに行っても見慣れた光景とはいえ、その律儀さに感心した。

館内には、大相撲で使われるのとおなじ規格の土俵が設営されている。

非常に立派だ。
客席も充実していて、二階は資料の展示スペースになっている。

携帯電話で友人に小声で言った。

「いま、相撲館に来てるんだ」

「へえ、相撲をとってるのか」

そんなわけがないだろう。

ここではしゃぎまわるなんていうのは、子供くらいのものだ。

静かに見学してきただけだ。

非常にいい施設だった。

小粋で、展示物も充実している。

それにしても驚いたのは「土俵婚」だ。

これ、何組もやっているのだろうか。
盛況とかだろうか。

仲人は行司さんと呼ばれているに違いない。

「ヒガーシー」「ニシ―ッ」の呼び声とともに新郎新婦が入場してくるあたりまでは、あるいはお決まりだろうか。

ふたりががっぷりよつに組むことはあるまいが、クライマックスでは (どのあたりだろう) 升席から投げ込まれた座布団が宙を舞うことだけは間違いあるまいと思われた。 

わたしは外に出た。

すでに日は暮れかけていた。

當麻蹶速之塚

相撲館のすぐまえに、當麻蹶速の塚がある。

一般に蹶速の塚とされているが、これを當麻寺の開山にかかわった當麻国見の塚とする異説もある。

そして、塚のすぐ横には鉄砲柱があった。


わたしは腰をおとして突いた。

一度、二度と突くと、なにやらおもしろくなってきて、声を出していつまでも突き続けた。

「どすこい、どすこい、どすこい!」

鉄砲柱のむこうの植え込みに、たしかつくしがアタマを出しているのが見えた。

そう、あれはたしかにつくしだった。

 

【奈良県葛城市】當麻寺の門前で中将姫の夢をみる

先月のこと。

二月といえば寒気もさかりで、わたしなど、ついつい猫背になってポケットに手をいれて、うつむき加減で過ごしがちだった。

そんななかにあって、うれしいのは日照時間が日に日にながくなってきているのを実感できることだ。日没時間が遅くなって、いつまでも明るいとなんだか得をした気分になる。

夕方四時半、すこし前までならもう薄暗かったのが、まるで嘘のようだった。

そんなわけで、すこし寄り道をしたくなった。

當麻寺に向かって

二上山山麓にのびる国道165号線とそれに続く県道30号線は、地元では文字通り山麓線の愛称でよばれている。

穴虫交差点からのびるバイパスをのぼっていき、こんどは一転下り坂になると、左前方に大和三山の麗しい山容を望むことができる。

 

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さらに数分クルマで進んでいくと、當麻寺 (たいまでら・当麻寺) 交差点に至った。

はじめてそこを右折してみた。

いつもは曲がらずに直進する。

まれに左折して、どんどん道幅が細くなっていくのにうなりながら、大和高田市の市街地のほうへとぬけていくこともある。

ともかく、わたしは右折した。

静かだった。

白壁に格子戸の家屋が、まっすぐな道の両側に並んでいた。

それぞれの建物の高さがわりあいにそろっている。

見事な門前町の風格。

それは以前に見た、手作りの精緻なドールハウスのくにのように見えた。

すぐに行き止まりになる。

つきあたりが當麻寺の仁王門だった。

門のそばにはお寺の駐車場があった。

10台ほどしかとまっていない。

空きスペースがたくさんある。

どうする、参拝したいところだ。

しかし、あとすこしで5時になる。

これではいかんともしがたい。

いつもこうだ。

行き当たりばったりで、結局のところなにもしないで終わってしまう。

去年、京都の笠置寺を訪ねたときもそうだった。

余裕をもって家を出たというのに、途中で、興味をひかれる神社や古墳にふらふらと立ち寄ってしまい、結局時間がおしてしまって、あの笠置山の曲がりくねった細い登山道をクルマでのぼっていくころにはすでに薄暗く、やっとたどり着いた山門は当然しまっていた。

 

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ほんとうにいつもそうだ。

そこにタッチさえできずに、苦笑いを浮かべながら引き返したことのなんと多いことだろう。

中将姫伝説

 

當麻寺のはじまりは推古天皇20年(612年)、聖徳太子の異母弟、麻呂古親王二上山の西側に建立した万法蔵院 (まんぽうぞういん)を祖とすると伝えられている。その院を東麓に遷造するに際しては、役行者から寄進をうけたとされる土地に、天武天皇10年(681年)、金堂に弥勒仏をおまつりして、いまの當麻寺が創建された。

現在は真言宗・浄土宗二宗共立の寺院で、弥勒仏坐像、曼荼羅厨子、我が国最古級とも推定される梵鐘などの数々の国宝や、四天王立像、阿弥陀如来坐像などの多くの重要文化財を広大な境内に有する古刹だ。

しかしこの寺でもっとも世に知られているのは、なんといっても中将姫伝説だろう。

中将姫は古くから浄瑠璃や歌舞伎にたびたびとりあげられ、近代には折口信夫が姫を題材に幻想小説死者の書』を著している。たとえそれらに馴染みのないヒトでも、その名を冠した葛城銘菓の中将餅を目にしたことならあるかもしれない。あるいはツムラバスクリン(1)のパッケージに描かれた和風美人が中将姫だと言えば、ああ、とうなずかれるむきもおられるだろう。

中将姫は天平19年 (747年) 藤原豊成の娘として奈良の都に生まれたといわれている。

5歳で母を亡くした後は継母から疎まれるようになり、やがて命さえ狙われるようになると、14歳のときに雲雀山(2)に出奔、読経三昧の日々をおくったとされる(3)。

16歳のとき、夕日の沈む空一面に阿弥陀仏をかこむようにひろがる極楽浄土の光景を見た姫は、西方浄土の入り口と都びとからみなされていた二上山の麓に建つ當麻寺に出家(4)。 翌年、中院の小堂(5)で剃髪し、法如 (ほうにょ) の名を得て尼僧となった。

 

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中将姫は、自身が目の当たりにしたあの極楽浄土の姿を今一度見てみたいと願い、蓮の茎から取り出した糸を五色に染め、千手堂のなかでその浄土世界の再現を目指して織り上げたものが、當麻曼陀羅(6)とされている。

それから10年余り、姫は曼陀羅の教えを周囲に熱心に説きつづけた。

そして29歳の春。

桜や桃の花が咲き誇る當麻寺阿弥陀如来がお迎えに来られたなか、姫は御身のまま(7)極楽浄土へ旅立たれたと言われている。

 

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中将姫はなぜこれほどながいあいだ、多くのヒトに慕われ続けているのだろうか。

中将姫を想うとき、わたしがいつも思い起こすのは一陣の風だ。

姫の魅力は、悲劇的な幼少期をのりこえた深い信仰心や、ミカドにのぞまれたというその美貌もさることながら、女人禁制の當麻寺に出家し、そして女性のままに往生したその揺るぎない一途さにあると思う。

 

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そんな當麻寺を参拝するには、せめて半日がかりでゆっくりとのぞみたいものだ。

出直そう。

わたしは山門に背を向けた。

もう背後の二上山のむこうに夕日が隠れたのかどうかは知れなかったが、どうかここで夢みることがかないますようにと願った。

夕日のなかに認めた中将姫の尊いお姿に涙を流すことだろう。

葛城市相撲館「けはや座」

山麓線の當麻寺交差点を過ぎてすぐのところに、葛城市相撲館「けはや座」がある。

相撲の開祖とされる當麻蹶速 (たいまのけはや) の名にちなむ。

となりに當麻蹶速之塚がある。

しかし閉館時間は午後5時だった。

やはりタッチさえかなわずに引き返さなければならなかった。

またしても…。

敷地内に、鉄砲柱があった。
説明版には、ご自由にどうぞとあった。

そこにつけられたのは、断じてわたしの手形ではない。

 

 

(1)長年ツムラ(旧社名・津村順天堂)のバスクリンとして親しまれてきたが、周知のようにバスクリンに関する事業は、2008年ツムラから独立。株式会社バスクリンは、2012年アース製薬グループ(現・アースグループ)に加わった。したがって現在のバスクリンには、あの中将姫のイラストは記されていない。しかし、いまでも株式会社ツムラの創業以来のロングセラー婦人薬、中将湯のパッケージには慈悲深い中将姫のお顔は健在である。

(2)ひばりやま。和歌山県有田市にある雲雀山とする説と、奈良県宇陀市の日張山とする説の二説がある。

(3)そこでの「山中で灯をともす油もないが、こころの月を輝かせればよい」などの姫の尊いお言葉を綴った『中将姫山居語』は現在、當麻寺中之坊霊宝館に収蔵されている。

(4)当時の當麻寺は女人禁制だった。入山を許されなかった中将姫が山門の前にある石のうえでひたすらに読経を続けていると、やがて姫の強い想いによって石に足跡ができた。それに心打たれた実雅和尚は姫を迎え入れることになった。その霊石「中将姫誓いの石」は現在當麻寺中将姫剃髪堂の横に移され、誰もが拝むことができる。

(5)現在では中将姫剃髪堂の名で知られている。

(6)いわゆるマンダラの名で呼ばれているが、真言宗大日如来を中心とした「金剛界曼荼羅」「胎蔵界曼荼羅」とは違い、中将法如が織り上げた阿弥陀仏を取り巻くように極楽浄土をあらわしたこれは、當麻寺真言宗との共立となる時代以前は「感無量寿経浄土変相図」と称されていた。創建時の本尊は金堂に坐す弥勒仏座像であったが、現在では當麻曼陀羅を本尊としている。

(7)当時は、女性は男に生まれ変わってからでないと往生できないとされていた。

因幡の白兎伝承をめぐって。古事記神話、白兎神社、亀井玆矩公の視点から

古事記にあって、もっともよく知られひろく親しまれているのは、因幡の白兎 (稲葉之素菟) のくだりに違いない。

淤岐島(1)から今まさに気多の前に渡り終えようとしたときに、兎は鰐を怒らせてしまい毛皮を剝がれてしまう。そこに八上比賣 (八神姫) に求婚するために通りかかった八十神たち。兎は八十神に教わったままに、海水を浴びて風に当たっていたが、やがて海水が乾くにつれて皮膚がひび割れ、痛みのあまり泣きだしてしまう。

そこに八十神たちに袋を背負わされ、あとを追ってきた大穴牟遅 (おおあなむぢ・大国主命) は 、真水でからだを洗い、蒲の穂を敷いてそのうえで転がるようにと教えて兎がその通りにすると、たちまちカラダは元通りになった。

「八十神たちは、決して八神姫を娶ることはできません。今は袋を背負わされて従者のようにあつかわれていますが、あなた様こそ姫と結ばれるでしょう」

因幡の白兎について

因幡の白兎は不思議なはなしだ。追いかけるほどに次々と別の顔、違った解釈があらわれてきて、どこまでも追い続けることになる。それは捕まえた、とほっとしても難なく腕をすり抜けて、ぴょんぴょんと飛び跳ねて逃げていく兎にも似ている。

兎は時折ふり返り、いたずらっぽく首を傾げては、また走り去ってこちらを森の奥へ、さらに奥へと連れていこうとする。

因幡伯耆隠岐の三国にのこる白兎ゆかりの地。そして、そのそれぞれの地に伝わる様々なバリエーション(2)の白兎伝承の森は深い…。

『しろうさぎ』という絵本を手にした子供たちは、それを白兎の毛がもとどおりによみがえったハッピーエンドな童話として理解する。しかしよく知られているように、これは大穴牟遅 (大国主命)  自身の四つの連なる再生譚の発端にほかならない。

因幡の白兎」(一) のあとに、「赤猪岩・あかいいわ」(二) のはなしが続く。大穴牟遅は嫉妬に狂った八十神たちから、この山から赤い猪が下って来る、それを捕まえろ、と言われ、実際に転がってきた赤く焼けた岩を抱きとめようとして、それに焼き付かれて死んでしまう。そして「氷目矢・くさび」(三) のはなしが続く。

(二) (三) での死と再生を経た大穴牟遅は最後に須佐之男命のいる「根の堅州国訪問」(四) でこの再生譚を閉じることとなる。根の国での数々の試練に耐え抜いた大穴牟遅は宇都志国主神 (うつしくにぬしのかみ) となり、大国主神 (おおくにぬしのかみ) となって、伊賦夜坂 (いふやざか・黄泉比良坂) をぬけて葦原中国 (あしはらのなかつくに)で、いよいよ国づくりを始める。

 

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このように、兎はその始まりにおいて、ただ道化者の役割を振られているに過ぎない。

しかしこの道化者、非常に重要な位置にいる。

古事記は兎について、次のように述べている。

『このものは稲葉の素菟ぞ。いまでは兎神ともいう』

白兎神社について

白兎神社 (はくとじんじゃ・鳥取市白兎) はそんな因幡の白兎、白兎神を主祭神としておまつりしている。

その創建は明らかではない。

往古より、すでに式外の社(3)として存在していたが、いくたびか戦乱に巻き込まれるなかで兵火にあい、社殿等焼失した時期がつづいた。

江戸時代の地誌『因幡民談記』(4)によると、社殿の再建は慶長年間 (1596年~1615年) 、因幡国鹿野城主、亀井玆矩 (かめいこれのり) 公の夢に白兎があらわれて、自分の住む社がない、と訴えたのだと述べられている。

さっそく翌日から社のあった場所を探し回ったが、知るものは誰もいない。ただ一人、九十歳の老人だけがかくのところにあったと覚えていて、そこに神殿を建て、大兎明神をおまつりしたという。

そのときの名称は「兎宮」(4)とされている。

こうして白兎神社は再建された。

世にひろまっている白兎神社の来歴はこのようなものだろう。

白兎神社の社記にも、おおむねそのように記されている。

わたしはこの拙稿を「鹿野城主、亀井玆矩公がそれまでにないかみまつりのかたちを模索するなかで、因幡の白兎伝承を援用して兎宮をあらたに創建した」との立場から、以下、行をかさねていく。

そしてその結論に導かれるにいたった推論を提示すると同時に、その論拠となるものもいくつか明らかにしていく。

とはいえ、それはわたしの白兎神社に対する尊崇の気持ちが、まったく揺らぐものでないことをはじめに申し添えておきたい。

美しい砂浜の白兎海岸。そのすぐ先に浮かぶ岩島、淤岐ノ島の向こうに夕日が沈むさま、その神々しさは格別だ。濃い茜色に染まった空の色。波穏やかな海面がそのやさしい色を静かにうける。小さな淤岐ノ島はその輪郭だけが強調される。

道の駅・白うさぎに先日着任した新任の駅長、オスの兎「縁(えにし)」クンは、もう新しい環境にすこしは慣れたのだろうか。

その道の駅から、うしろの小高い砂丘のうえに建つ白兎神社のほうをはじめて見上げるヒトは、その様子をなにやら危なげ、はかなげに感じることもあるだろう。

この神話の里には、多くのヒトを惹きつける魅力がある。

 

亀井玆矩公

亀井武蔵守玆矩。

弘治3年 (1557年) 、出雲国八束郡湯之荘 (現在の島根県松江市玉湯町) に尼子氏家臣、湯永綱の長男として生をうけた。

山中幸盛(6)の養女 (亀井秀綱の次女) を娶り亀井姓となる。

尼子氏が毛利軍に滅ぼされると、わずかな兵力で尼子氏再興を目指して毛利軍と戦ったが、かんばしい戦果をあげることはかなわなかった。

やがて織田信長が中国地方をうかがう情勢となると、羽柴秀吉傘下となり各地を転戦、天正9年(1581年)、鳥取城攻めの戦功によって気多郡1万3,500石を与えられ、因幡国鹿野城主となる。

天正10年(1582年)、明智謀反の報を受けた秀吉は急ぎ姫路城まで戻り (中国大返し) 毛利方との講和がなったために、毛利戦後に約束されていた出雲半国の恩賞を受けることができなくなった。玆矩公はその代わりとして琉球を所望し、琉球守の称号を授けられている。しかし、すでに島津家の琉球に対する影響力が強まる時節となっていたなか、玆矩公が直接琉球接触をもつことはかなわなかった。(7) 

その後、一時は武蔵守を名乗っていたが、二度の朝鮮出兵のころには台州(8)としている。しかし明征服挫折後はふたたび武蔵守とした。

秀吉亡き後は徳川家康に接近。

関ヶ原の合戦後、高草郡2万4200石を加増され、3万8000石の鹿野藩(9)初代藩主となる。

領国経営にも目を見張るものがあった。

日光池、湖山池の干拓。河川の改修。その距離20キロ余りにもおよぶ大井手用水路の敷設。銀山開発。

しかしもっとも特筆すべきは朱印船貿易だろう。

わずか3万8000石の小身、しかも日本海側の大名が朱印船貿易にのりだすのは稀有なことだった。

香木類、珊瑚、象牙などの珍しい品々が持ち込まれた。

ロバなどの珍しい生き物も、次々と海をこえてやってきた。

また、棕櫚 (しゅろ) や白檀などの輸入材をつかい、いくつもの御殿が建てられたという。

領内はさながら異国の情緒を見せ、日々にぎわっていたことだろう。

そんな常に海の向こうに目を向けていた、南蛮大名とも称えられた異色の殿様は、慶長14年 (1609年) 家督を嫡子、政矩に譲り、慶長17年 (1612年) 鹿野城で病没。

死後、墓所は鹿野の城山を望む武蔵山に建てられた。その墓石には「中山道月大居士」と刻まれている。

中山道・ちゅうざんどう」とは琉球を指す別称である。

柱状節理の里で

白兎神社の南、4キロほどの山中にある御熊(みくま)神社は、延喜式神名帳に高草郡七座のひとつとして、阿太賀都健御熊命神社の名で記された古社だ。

因幡民談記』『因幡志』によると、古くは三蔵(みくら)社、柱大明神とも称されていたとされる。

御熊神社にいたるまでの参道といわず、わずかばかりの狭い境内といわず、小さな流造りの社殿の裏山といわず、まわりはことごとく玄武岩の柱状節理 (ちゅうじょうせつり・柱状の岩石が集合した地形のこと)が露出している。よく海岸の絶壁や山深い峡谷などで見られるように、多くは縦型の岩脈としてあらわれる。しかし御熊のそれは横型である。おびただしい数の石柱が無造作に横倒しにされたようなそのさまを見れば、誰もが柱大明神と号されたことに納得するだろう。

そして、その柱大明神、御熊の神は架橋伝説をまとっている。

隠岐の島に渡ろうとした御熊の神は、一夜のうちに橋を架けようとした。しかしあまのじゃくが鶏のまねをして鳴いたので、もう朝がきたのだと勘違いした神は、橋架けを途中でやめてしまった。御熊の地、そしてその北の海中に残る石柱群はその時に捨て置かれたものという。

因幡志』はこの架橋伝説を葛城の一言主神の故事(10)を彷彿とさせる、と記している。

 

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現在、鳥取県を東西にはしる国道9号線は、江戸時代以降に整備された近世の山陰街道とほぼ軌を一にしている。しかしそれ以前の山陰道は、因幡国内においてはもっと内陸よりの、湖山池の南側を西へと進み、御熊の地を通るルートであったと推定されている。

玆矩公は高草郡を拝領するより以前、かなりはやい時点で御熊の神に接していたとみて間違いない。

そしてその神業がのこした石柱群に息をのんだことだろう。

しかしはたして御熊の神を崇めまつる気持ちになったのだろうか。

海外へのつよい憧憬の念を抱き続けてきた玆矩公には、海の向こうへとのびる橋が未完で終わることなど、断じてあってはならないことだっただろう。

架橋は成し遂げられていなければならない。

因幡の白兎伝承と御熊の架橋伝説は多くの点で対称をなしている。

隠岐から因幡へ、と因幡から隠岐へ。橋の完成と未完。渡海の成就と未成就…。

玆矩公は御熊の神を超えるものとして、因幡の白兎伝承を援用したのではないか。(11)

海の向こうに架かる橋は、必ずや完成していなければならなかった。

あちら側とこちら側に通じ、自在の往来を担保するものでなければならなかった。

橋架けるもの

誰もいない松林のなかを玆矩公が歩く。

すでに家督を譲り数年のときを経ていた。

松の枝のはるかうえに満月が見えている。

たいまつのあかりが、周囲を赤く染めている。

砂地に足をとられ、立ちどまった。

かたわらには小さな社殿、扁額には「兎宮」と墨書してある。

静かだった。

すぐ背後の海岸からは、波の音とて届いてはこない。

時折、パキッ、パキッとたいまつの薪のはぜる音だけが響く。玆矩公はいさましくたちのぼる炎に顔をむけていた。

振り向けば、自身の揺らめく影が、海を越えてのびる長い橋のように見えるだろう。

 

(1)島根半島の50キロ北方に位置する隠岐の島とする説が有力。しかし、同じ古事記の国生みのくだりには淡路島、四国と国生みしたあとに、隠伎の三つ子の島を生んだ、と隠岐の島のことを表していることを踏まえれば、これを白兎海岸のさき、150メートルの海上にある小さな岩島、淤岐ノ島と考えることもできる。もっともそれは古事記等にならって後代に名付けられたものに違いなく、それまでは長い間、名もなき岩島に過ぎなかったのではないか。

(2)兎が海の向こうへ流されていった理由をを冒頭に述べるものや、八十神が登場しない、最初期のものとおぼしき素朴なはなし。天下った天照大神を白兎が道案内したという、鳥取県八頭町でいまも語り伝えられているはなしなど、様々なバリエーションが存在する。

(3)延喜式神名帳(927年)に記載のない社のこと。しかし因幡の白兎や大国主命に関係する社がそこから漏るということがはたしてあるだろうか。記載がないのなら、社自体が存在していなかったと考えるのが自然だろう。

(4)鳥取藩の典医、小泉友賢が職を辞したのち1688年(貞享5年、元禄元年)に完成させた地誌書。

(5)霊夢にあらわれたのは白兎とされているが、その宮は白兎宮ではなく、兎宮であることにはとくに留意したい。また、まつられているのも白兎明神ではなく、大兎明神となっている。必ずしもいまのわたしたちが知るような「白い」兎が活躍する神話をイメージしたものでないことは明らかだ。しかし『民談記』から約100年後、江戸時代後期に世に出た『因幡志』(1795年)には、白兎神社、白兎大明神の記述がみられる。これがいまにつづく因幡の白兎神話の起点となったのだろう。

(6)巷間、鹿介の名のほうが有名。尼子三傑のひとり。亀井家に養子入りしていたときには亀井甚次郎を名乗っていた。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の祈りの文言はあまりにも有名。しかしそれは後世の創作とする説もある。のちに玆矩公は非業の死をとげた義父、山中幸盛の墓を領内の持西寺に建てた。その際に寺の名前を幸盛寺にあらためている。

(7)しかし、はたして座して琉球をあきらめたのだろうか。玆矩公は林業の保護育成のために薩摩から取り寄せた杉苗を鷲峰山に植林させ、また慶長13年(1608年)、大型朱印船を建造する際には、薩摩の豪商を通じてわざわざ薩摩産の木材を大量に取り寄せている。これなどは島津方とのなんらかの交渉の余地を探っていたことの傍証になりえないだろうか。

(8)台湾ではない。中国浙江省台州市。東シナ海に面した貿易拠点。

(9)亀井家は嫡子、政矩公のときに石見国津和野に転封となり鹿野藩は消滅。鳥取藩領となった。一行は玆矩公の木座像とともに津和野入りしたという。

(10)葛城山と金峯山との架橋説話。

(11)因幡民談記に地元でも知るものがいない、と記されているほどなので、玆矩公が知ったのは古典によって、ということになろうか。江戸後期に国学が盛んになるまでは古事記は世間でひろく読まれる書物ではなかったので、先代旧事本紀によったのだろうか。

 

参考文献

『比較神話から読み解く 因幡の白兎神話の謎』

編 / 門田 眞知子

今井出版 (鳥取県米子市) 2008年5月刊行

 

参考資料 

『オホクニヌシと因幡の白兎』

著 / 小島 瓔禮

比較神話から読み解く 因幡の白兎神話の謎、収録

 

因幡の白兎説話伝承地考』

著 / 石破 洋

島根女子短期大学紀要  Vol. 32 収録

 

『亀井玆矩公の歴史』

著 / 鳥取市西部地域文化活用実行委員会

  鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」

 

『折り紙「うさぎ」の折り方まとめ34選』

著 / おりがみの時間

 

後記

この記事も、本日で脱稿となる。

この15年来、ずっとこころに引っかかっていた因幡の白兎に、長い時間向き合えたことは兎にも角にも収穫だったと自分に言いきかせている。

前回の記事のコメント欄に、わたしは次のように書いた。

要約を再掲する。

「わたし10年前に奈良の実家にもどりましたが、それまでは長い間山陰におりました。いま、因幡の白兎について書いています。これはむこうにいるころから、ずっとこころに引っかかっている神話で、書き始めたのが去年の11月ですから、かなり苦戦しています。しかし、いま書くべきだと考えています。それは意地です。白兎にオトシマエをつける時期がきたのだと感じています」

いま、この記事にたいして後悔じみた心持になることが二点ある。

まずは気多信仰について触れなかったことだ。

能登国一之宮の氣多大社をあげるまでもなく、山陰から北陸の日本海側は気多信仰のさかんなところだ。

そして兎が渡ってきたところが気多の前なのだから、当然、気多信仰との関わりを連想してしまう。

はたして 小島 瓔禮氏は、御熊神社が中世には気多明神と称されていた可能性を指摘しておられる。

では何故割愛したのかというと、それは前回の天誅組の記事中、神武東征に触れたところで、厳瓮 (いつべ・御神酒をいれるかめ) に酒をくんで夢淵に沈めたのではなく、それは丹生 (朱砂水銀) だったのではないかという私見を割愛したのとおなじ理由による。

 

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面白いのだが、そこまではなしをひろげてしまうと、筋立ての焦点がぼやけてしまうと考えたからだ。

もう一点は、一次資料に触れる機会に乏しかったことだろう。

とはいえ、この記事の文責がすべてわたしにあることは、あらためて申し上げるまでもない。

読者諸賢のお叱りを待ちたい。

ふひとべのべ (id:fuhitobeno2110) 様。

以前にも申し上げましたが、わたしのブログを書く動機は貴殿に笑われないのもを書きたい、という一点にあります。貴殿がいなければ、このはなしももっと未完成のまま (これを完成形だと自惚れているわけでは決してありません) 去年のうちに世に送り出していたはずです。生煮えのうさぎ汁など、口にできるものではありません。感謝しております。

 

ニール・ちくわ(id:neilchikuwa) 様。

数日中に脱稿したい、と記してから二週間以上たってしまいました。自分の筆力のなさにあきれかえっております。前回の記事でお褒めのコメントを頂戴しましたこと、感謝しております。如何でしたでしょうか。こんな「オトシマエ」のつけかたは。

 

marco (id:garadanikki) 様。

前の天誅組の記事、お褒め頂いてありがとうございました。あのような形で他人様の記事中に大々的に引用していただいて過分な言葉を頂戴しましたのは、じつははじめてでした。なにやらもう有頂天で、それがあったからこそ、今回の記事執筆の三ヶ月の長旅に耐えられたのだと思っております。感謝しております。

 

【奈良県東吉野村】天誅組終焉の地、烈士の熱き誠のあとを訪ねて

天誅組の変に対する世間の評価は、令和のいまとなっても定まっているとは言い難い。

おなじ江戸時代の大塩平八郎の乱などには、われわれは散りゆく美学のようなものをそこに見る。

しかし40日にわたって大和国を転戦した天誅組にたいしては、そのような視線を向ける者ばかりではない。

暴徒、あだ花と一蹴する向きもある。

文久3年8月13日、孝明天皇による大和行幸詔勅が発せられると、公卿 中山忠光 (孝明天皇の元侍従、明治天皇の叔父) を主将とする天誅組は「皇軍御先鋒」を自負し同17日、幕府天領の五條 (現在の奈良県五條市) にあった五條代官所を焼き払い、近くの桜井寺を本陣に定めると「五條御政府」の表札を門前に掲げた。

あとは御親兵として天皇をお迎えするはずだった。

しかし翌18日、京の政局は一変する。

攘夷派の公卿は官位を剝奪されて失脚し、長州藩は御所の御門警護の任を解かれ (8月18日の政変) 、大和行幸詔勅は偽勅とされて、天誅組は挙兵の根拠を失うことになった。

京都守護職 松平容保から天誅組討伐令が出され、朝廷からも忠光を逆賊とする令旨が下るなか、それでも一時は高取城 (奈良県高取町) を攻めて気勢をあげるなどしたものの、その後は敗走に敗走を重ね、多くの離脱者、戦死者を出しながら、9月24日、鷲家口とその先の鷲家 (いずれも奈良県東吉野村) に討伐令を受けて陣をはっていた彦根、津、紀州の各藩兵と最後の戦闘になる。

ここに天誅組は壊滅した。

その後も幕府による追討は徹底的に行われた。

忠光はわずかな従者に守られながら、27日、大坂の長州藩邸にたどり着き、下関に落ちのびたが、藩の実権を恭順派 (俗論派) が握るなか、 殺害されてしまう。

最終的に、維新後も生きのびた烈士はわずか数名であったという。

天誅組終焉之地

宇陀市を発って、鷲家川に寄り添うようにのびる県道16号を通り、東吉野村にはいった。

日陰の路肩には雪が解けずにそのまま残っていた。

すこし開けていたクルマの窓から、外の冷気が吹きこんでくる。

行く手に碑が見えた。

わたしはクルマをおりて、碑の横にかかる橋を渡った。

橋のかかりのところに、のぼりがはためいていた。

橋を渡りきると、すぐに「天誅組遺跡」と記された解説板が目に飛び込んできた。ここは天誅組三総裁のひとり、吉村寅太郎無念の地。

薄暗かったそこに、急に光が射してきた。

さらにクルマで進んでいく。

よく見ると、村のいたるところに「天誅組遺跡」「天誅組史跡」の説明版が掲げられ、碑がたてられている。ここが最後の激戦地であったことを否応なく知らされることになる。

天誅組菩提寺、宝泉寺が見えてきた。

さらにさきには「明治谷墓所

かなりののぼり勾配だ。しかもけっこう距離もある。

わたしは途中で何度か休まなければならなかった。手すりのあることはありがたい、と思いながらのぼっていると、はて、この感じは以前にもあったな、と思った。そうだ、羽曳野市の壷井八幡宮に参拝したあとに、河内源氏三代の墓所を訪ねたときだ。

 

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あのときも、手すりの有難さが身に染みたものだ。

年齢を否応なく思い知らされる。

口で息をして、胸をおさえ、前かがみになってのぼりきった。

物言えぬ烈士たちの墓石が並んでいた。

ニホンオオカミ、そして神武東征

すこし後戻りして、脇道にそれよう。

絶滅したニホンオオカミ、その最後の捕獲例は明治38年、ここ東吉野村で捕らえられたものとなる。東吉野村役場から、高見川をはさんでほどちかいところにニホンオオカミの像がたてられている。

さらに高見川の上流へと進んでいく。

丹生川上神社・中社にいたる。

ここをはじめて訪れたのは、去年の元日のことだ。

 

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中社の先、蟻通橋の向こうに「夢淵」と名づけられた瑠璃色の深淵がある。

「夢淵」の名称は、斎 (いみ) 潔 (きよめ) る「斎淵 (いみぶち)」が訛ったものとも、また神武天皇が東征のおり、夢にあらわれた天神の教えにしたがって天の香久山の土で厳瓮 (いつべ・御神酒をいれるかめ) をつくり、戦勝を祈念してそれを沈めた場所だからともいわれている。

 

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それを伝える聖蹟碑がたてられている。

天誅組史跡公園

「激戦のあと、集落に散乱する死体を片付け、弔うのが大変だったそうだ」といまも村の古老が語り伝える凄惨さを、この静かな現在の東吉野村から想像することは難しくなってきている。

わたしは最後に、天誅組史跡公園に向かった。

ここは村民が、自らの私有地を整備してつくりあげ、一般に開放しているもの。

山中で戦死した天誅組三総裁のひとり、松本奎堂最後の地へのちょうど登り口にあたる。

墓所まで900メートル、いざ行かん。

まだ所々、雪がのこっている。

大丈夫だろうか。

しばらくすると、丸太橋らしきものが見えてきた。

無事渡ることができるのか。

穴などあいてはいないのか。

しかも足跡が見えるのだが、これ、妙なかんじだ。

手前のほうは橋の右側ぎりぎり、そして斜めに渡って行って、渡り切る頃にはこんどは左側ぎりぎりを進んでいる。

ふつう、真ん中を進まないか。

そんな端を行って、もしも足を滑らせでもしたら転落してしまうのだから。

「人間なら」こんな歩き方はしないはずだ。

さきに渡られたのは、いったいどなた…。

しかし、わたしは進んだ。

そこからさきは、本格的に山中にわけ入る感じになる。

そして手作り風の案内板。

1000メートル!

距離、増えてないか。

最初、900メートルの表示があって、あれから200メートルは登ってきているぞ。

おかしいではないか。

どうなっているんだろうか。

ともかく、急ごう。

ますます周囲は雪に覆われて、どこが道なのかさえ見分けられなくなったきていた。

わたしは振り返った。

ずいぶんと登ってきたことには間違いない。

しかし、ここまでだった。

もはや、足をあげることさえ苦しかった。

総裁戦死の地まで、あと800メートル。

わずか150年前、この山中で志を打ち砕かれ、散った命があったのだ。

 

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のぼりよりも、くだりのほうが難儀する。

日常生活で身に染みていることだが、滑りやすい雪の残る山中ではなおさらだった。

公園の入り口まで戻ったとき、わたしは精根尽きかけていた。

そして周囲を見渡す。

墓所まで900メートルの碑

そのとなりに、山中で見かけたのとおなじ案内板があった。

なるほど、わたしが見落として、勘違いしていたのだ。

天誅組、しかし自身はまえに記したように「皇軍御先鋒」「五條御政府」を名乗っていたのであり、いつからかそう自称するようになったのか、あるいは周囲がそう呼ぶようになったのかは、いまとなっては定かでない。

風が吹いてきた。

山から吹きおろす風が、公園入り口の黄色い天誅組ののぼりをはたはたと揺らした。

 

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【奈良県香芝市】鹿島神社、武甕槌大神をまつる社。下田界隈を散策して

JR香芝駅に列車がはいっていく。

踏切のバーがあがり、わたしは瓦屋根のちいさな駅舎のほうに歩みをすすめた。

やれやれ、こんな風に時間を潰すことになるとは。

今日が4回目のワクチン接種だった。

いったいいつまで続くのだろう、という徒労感にもまして、これ自体正解なのかどうか確信を持てないままに打ち続けていることは大きなストレスだった。

そのせいでもあるまい。予約時間を間違えて2時間もはやく会場に着いたのは。

わたしは会場近くのJR香芝駅のそばにクルマをとめた。

30年近く香芝に住んでいるというのに、このあたりを歩くのは初めてではないか。クルマで通ったことさえ片手で数えるほどだ。

JR下田駅がJR香芝駅へと名称変更されたのは2004年のこと。

あれは国道165号線をはさんですぐそばにある、近鉄下田駅との混同をさけるためだったのだろうか。あるいはその10年前に、大阪ではやはりJR湊町駅がJR難波駅へと名前をかえているのとあわせてみると、ビッグネームのほうに寄せていく、というのがJRの方針なのだろうか。

JR香芝駅

香芝市にはJR和歌山線近鉄大阪線近鉄南大阪線と三本の鉄道がはしっている。

直接大阪市内に乗り入れている二本の近鉄線にくらべて、奈良県王寺町和歌山市をむすぶJRのほうは、なにやらのんびりとはしっている印象だ。

そんなわけで市名の「香芝」を冠したJR香芝駅も決して市の中心駅というわけではなく、そこにいたる道路は狭小で、駅への路線バスの乗り入れなどもない。

駅前には公衆電話、そのすぐそばにある数本の樹木は赤く染まった葉をあらかた落としていた。

そのうしろには駐車場。

フェンスのすぐ向こう側に、市内にある、顕宗天皇陵、武烈天皇陵をしめす碑がたっていた。しかし、これではほとんど人目に触れることはないな、と残念に感じながら、今年の春に顕宗天皇陵に参拝したときのことを思い出していた。家を出て、徒歩で、満開の桜並木をぬけて…。あれが初めてだった。向かいのユニクロにはたびたび行くというのに。

あれは小さな旅のはなし。

 

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駅舎のとなりにある駐輪場を過ぎると、まっすぐにのびる細い道と交差した。クルマが一台やっと通れる程度の道幅。そして香芝市発足以前、ここがまだ下田村と呼ばれていた頃に建てられたであろう古い家屋がいくつも残っている。

これはそうだ、美保神社のそばにある青石畳通りに雰囲気が似ている。

この道も、雨に濡れると青く瑠璃色に光るのだろうか。

 

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その道を左に曲がると、小さな金刀比羅宮があった。

わたしは柏手をうった。

わたしはいま来た道をもどり、また踏切をこえてそのまま進んでいった。

左手に鹿島神社の駐車場があった。

そのさきに鳥居が見えた。

鳥居は遠慮がちにあたまをのぞかせていた。

七五三詣でののぼりが見えた。

鹿島神社

狛犬がわたしを出迎えてくれた。

両部鳥居に『御鎮座 850年』と横断幕がかけられていた。

御鎮座の文字に、うまく笑顔がはめ込まれている。

御祭神は神社名から察せられるように、武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ)。

承安2年(1172年)、3月、常陸国・鹿島本宮より御分霊を勧請したとされる。

さらに奥には拝殿。

その前のテントには、美しい花々の鉢植えが置かれていた。

清浄な気がながれていた。

静かだった。

そもそも、鹿島が転訛して香芝という地名になったとも聞く。

もっと早くに参拝しているべきだったかもしれない。

笑み守

それにしても広大な鎮守の杜だ。

わたしはもっとよく見たくて歩道橋のうえから眺めてみた。

それでも全体を見渡すことはできなかった。

わたしは歩道橋からおりた。

神社の外の張り紙が目に入った。

『笑み守』

笑っていなさい、ということか。

笑う門には福来る。そして美しい人生が招来する。あの拝殿前に置かれた花のように。

わたしはにやにやしていたのだろう。

通りかかった年配の男性が (といってもわたしよりは年少だろう) 怪訝な面持ちでこちらを見ていた。

「花がね…」

わたしは小声で言って、その先は言いよどんだ。

…ここからでは見えないんだ。拝殿前の花がね。

わたしは声をあげて笑った。哄笑はやまずに、ついには腹を抱えて長々と笑い続けた。

 

【京都市南区】東寺 (教王護国寺) のアオサギ、真言密教の教えを体現するもの

東寺のアオサギ、と聞いてピンとくるヒトが世間にいくらもいるとは思えない。

しかしわたしのまわりには「ああ、あいつね」と言って目じりをさげるヒトが何人もいる。そのことはちょっとした驚きだった。「へえ、おまえも気になってたんだ」

こうして自宅にいるいまでも、あの白く大きな鳥、細く長い脚で微動だにせず、黒いショールを肩に羽織ったような優美なたたずまいをみせるあの鳥に会いたい。

東寺のアオサギ

平安のむかし、京の入り口に建てられた巨大な羅城門を過ぎてすぐのところ、ちょうど左右対称に、東寺・西寺という二つの官寺が建てられた。

西寺のほうは官寺のまま時を経るなかで衰微し、廃寺となったのにたいして、建立後、嵯峨天皇によって空海 (弘法大師) に下賜された東寺は、真言密教の根本道場として、また弘法大師信仰の寺院としてひろく信仰をあつめ、現在でも多くのヒトに親しまれている。

いまも南大門横の茶色く変色した歴史を感じさせる石の碑に『根本道場 真言宗総本山 東寺』と彫られている。若いころ、その前を通るときにはいつも根本道場、根本道場と心の中でつぶやいていた。その音がなんとも愉快で、繰り返すうちに楽しい気分になったものだ。

その東寺の南大門まえのお堀に、一羽のアオサギがいた。

いつも毎日、おなじ場所にたち続け、正面の九条通りのほうを向いている。微動だにしないその様子は、さながら修行僧を思わせた。しかしごくまれに、すこし立ち位置を変え大宮通りのほうを向いているときもあった。そんなときは「きょうはオフさ。思い切りはねを伸ばすんだ」と言っているように見えた。(もっともはねはいつも通り閉じられていた)

「なあ、いつもひとりきりで寂しくないのかい。もうすこしむこう、鴨川までいけば仲間もいるだろうに」

わたしはいつしかアオサギに話しかけるようになっていた。

京都のランドマーク

東寺の五重塔は高さ約五十五メートル、いまも京都のランドマークとしての存在感を示している。過去何度か焼失しており、現在のものは五代目、徳川家光の寄進によって建てられたものだ。

鳥羽伏見の戦いのさい、西郷公はこの塔にのぼり戦況を眺めて新政府軍の優勢を確信したという。

五重塔の姿がお堀の水面にうつる。それを見たアオサギが塔にむかって飛んでいく。

そんなとりとめのないことを、ぼんやりと思った。

真言密教の教えを体現するもの

ある日、お堀からアオサギがいなくなった。

別の日に通りかかっても、やはり姿が見えない。

「渡り鳥なんだよ。寒くなったんでどこかに飛んで行ったんだ」そんなことを言うヒトもいた。本当だろうか。

東寺では毎月21日、露店がならび市がたつ。弘法市、弘法大師が承和2年3月21日に入定されたことに因む。

その弘法市の日、クルマの中から、行き交うヒトのながれのなかに、こちらをじっと見つめるアオサギをわたしは確かに見た。

次の日、わたしは東寺に向かった。いない。

わたしは南大門から中に入った。

正面には威風堂々、金堂が見えた。

右手には八島社。

ここの地主神をまつっているとされる。

左手にも、アオサギはいなかった。

わたしは南大門から表へ出た。

すると門の左右に一羽ずつ、アオサギがたたずんでいた。

「おまえ、ひとりぼっちじゃなかったんだな」
そればかりではなかった。

壬生通りのほうにも一羽、大宮通りのほうには二羽とアオサギがいた。

なんということだ!

曼荼羅に描かれた如来のように、鳥たちはわたしを魅了した。

わたしは立ち尽くしていた。

どうか連れて行ってください。余人の立ち入れぬ、未聞の境地へ。

 

【鳥取県日野町】金持神社、金運招福の社を回想して。

山あいの、片側一車線の曲がりくねった国道を東に向かってはしっていた。並走するように流れている清流・板井原川の川面が、ときおりきらきらとひかっていた。

さきほど、突然山中にあらわれた巨大な緑色の鬼の像のことを思い返していた。それはまるでニューヨークの高層ビルをよじ登るキングコング。古代、このあたりにも鬼とよばれる人々がいた。

鬼住山 (きずみやま・今もこの名前でよばれている) にすむ鬼を笹巻団子をならべておびきだし、みごと矢で射止めて成敗したと伝えられている。

わたしの住む奈良県葛城山麓にも蜘蛛塚 (土蜘蛛塚) と呼ばれるものが多く残る。たいてい大きな石を置いただけのそれは、慰霊ではなく、まるで土蜘蛛のよみがえりを封じるためのものに見える。まつろわぬ民は鬼、土蜘蛛と蔑まれて、かれらのまことの姿が後世に伝えられることはない。

 

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あと小一時間もはしってトンネルを抜け、岡山県との県境を越えたら、たしか道の駅があったはずだ。新庄村。あの、なんとも笑顔がこぼれそうになるあの場所でひと息いれようか。

しかしそのまえに、立ち寄りたいところがあった。

金持神社の御祭神について

金持神社 (かもちじんじゃ) の前に来た。

注連縄を渡した石造の鳥居はなんとも雰囲気があって、わたしはたちまち魅了された。まるで後ろに控える山が大きな口をあけて、そこを訪れるヒトを迎えているようだった。

御祭神は天之常立命 (あめのとこたちのみこと)、八束水臣津努命 (やつかみずおみずぬのみこと・出雲国風土記)、淤美豆奴命 (おみずぬのみこと・古事記) としているが、後者二神は同一神に違いないので、実際は二座ということになろうか。もっとも八束水臣津努命 (八束水臣津野命) と淤美豆奴命 を別神としておまつりしている例は、長浜神社 (島根県出雲市) のようにほかにもある。

天之常立命 といえば天地の創成にかかわった天津神だ。八束水臣津努命は出雲国風土記の冒頭、国引きによって出雲の国をつくりたもうた (国引き神話) やはり出雲の創造神 として紹介されている。

そんな神話界のビッグネーム (いささか不謹慎な表現か) をおまつりしているちいさなお社が山あいにある。

そのことが妙に引っかかっていた。

御祭神というのは、多くのお社で今風にいえば上書きされてきている。

実際にそこに行けば、祈りの始源の姿が垣間見えるかもしれない。

そう思えて、わたしはどうしても訪ねて行きたくなったのだ。

 

お社に立ち尽くして

そんな思いは、急な石段をのぼり、その先にあるこじんまりとした社殿を目にしていちだんと強くなった。

やはり、素朴に山の神をまつっているというほうが、しっくりとくる。あるいは中世、このあたりを本拠とした豪族、金持一族の祖先神をまつっているとしたほうが。

金持神社の社記は、弘仁元年 (西暦810年) 伊勢を目指していた旅人がこの金持の地にまで来たとき、お守りとして持っていた玉石が急に重くなり、やむなくそれを置いてふたたび伊勢へと向かっていった。そして、現宮司家、梅林家の祖先吉郎左衛門にこの玉石を崇めまっつて宮造りせよとの夢のお告げがあったのだと、お社の縁起を述べている。

この玉石という言葉を重く見るならば、はじめにここで鉄神をまつっていたということはないだろうか。

かつてこのあたりは『金にも勝る』と言われた鉄の産地だった。そして多くの鉄山を持つ里、というところから『金持』の地名がついたのだという。

その玉石が鉄鉱石だったとしたら…。

わたしの想像はどんどん膨らんでいった。

鉄神、産鉄神をまつることは珍しくはない。

こと中国地方にかぎっても金屋子神がおり、須佐之男命にしてからが産鉄の影が見え隠れしているのだから。

風が吹いてきた。

わたしは誰ひとりいない山中にある社殿をまえにして、妙な思いにとらわれだした。

この社殿には後戸があり、そこが突然バタンと開いて、中から何百何千という太古からの御祭神があふれ出てきて、この山を覆いつくしていくのだと。

わたしはいつまでもそこに立ち尽くしていた。

お社を参拝していると、強烈に名残惜しく、どうしてもそこを立ち去りがたいと感じるときがある。

金持神社はまさしくそんなお社だった。

金運招福の社

あのとき、境内で立ち尽くしていたときの感覚がいまもときおりよみがえる。

ところで、この金持を大抵のヒトが「かねもち」と読んでしまうことから、金持神社はいまではすっかり金運招福の社として名を売っている。

金運お守りが用意され、御朱印帳も黄金色ですっかり「その気」にさせてくれる。ジャンボ宝くじの時期になると、参拝者が押し寄せるという。

さて、金持神社に参拝したわたしの現在の金運がどうだか知りたいというヒトもおられるのだろうか。

なら、どうかわたしのそばに来られるといい。

財布のファスナーをそっと開いて、中身を御覧にいれよう。