【高井田横穴群】横穴墓を築造したのはどのような集団だったのか。彼らの死生観とは。

高井田横穴群の存在をはじめて知ったときの、あの高揚した気持ちを、言葉で表現することはむずかしい。

高井田山は標高わずか65メートル。その丘と呼びたくなるような小さな山に、6世紀中ごろから掘られ始めた横穴墓が、いまもたくさん残っているという。

わたしは魅せられて、これまで何度足を運んだことだろう。

そして秋晴れのなか、いままたそこに向かっていた。

ランカシャーブラックバーンに4000の穴があいていると歌ったのはビートルズだ。

わたしは久方ぶりに、大阪府柏原市高井田で160余の横穴と対峙した。

~目次~

史跡 高井田横穴公園へ

大和川にかかる国豊橋を北に進もうとするころ、顔をあげると、ちょうど高さのそろった四軒の民家の屋根のうえあたりに『史跡 高井田横穴公園』という看板が見えてくる。

高井田横穴公園は高井田横穴群 (高井田横穴墓群) を史跡公園として整備し、平成四年 (1992年) に開園したもの。

 公園の外周道路に面したところには、石室内部の線刻壁画や土器などの副葬品を模したものを刻んだ陶板が飾られている。

わたしはそれらを眺めながら、ゆっくりとクルマをはしらせた。

高井田横穴群

概要

高井田横穴群は、高井田山に残る、かつての二上山の噴火によって形成された (異説あり) 凝灰岩層に掘られた横穴墓。

二上山
大阪と奈良の府県境にある、雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の2つの峰をもつ双耳峰。

築造時期は6世紀中ごろから7世紀前半にかけてであり、現在までに確認されている横穴の数は162基。しかし未調査部分を含めるとゆうに200を超えると考えられている。

そして、そのうちの27基の横穴から線刻壁画が見つかっている。

しかし、すでに確認されている横穴には多くの壁画が見られているものの、新たに見つかった横穴からは発見例がすくないなど、そのすべてを横穴築造当時のものと考えることには慎重であらねばならない。

前の戦争時には、いくつかの横穴は防空壕として利用されていた、との地元住民の証言もある。 

そのようななかでも、1917年 (大正6年) 道路工事の際に見つかった第3支群5号横穴の『船に乗る人物』と題された線刻壁画は、発見時の状況や、人物埴輪の容姿との共通性を感じさせる船上の人物の服装ともあいまって、これは築造当時のものであると見做されている。

現在、その横穴の前には、二枚の線刻壁画のレプリカがたてられている。

 

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高井田横穴群のすぐ北側には、総数2000基とも目されている平尾山古墳群が迫っている。

その築造時期も、おおむね高井田横穴群と重なることから、高井田横穴群を平尾山古墳群の支群のひとつと考えることもできる。

しかし、目覚ましい違いは平尾山古墳群の大半が直径10メートル程度の円墳であるのに対して、高井田横穴群は横穴墓であることだろう。

横穴墓を築造したのは誰か

ここに眠るのは渡来系の人々だと考えられていた時期もあった。

横穴群よりも先行すること約1世紀、高井田山の頂につくられた円墳・高井田山古墳の被葬者が、石室のつくりや副葬品などから渡来系、なかでも百済系だと考えられていることと関連づけられたことも一因だが、現在では、その考えはほぼ否定されている。

かわりに強く支持されるにいたった仮説は、九州の石工集団の移住という考えだ。

阿蘇溶結凝灰岩のなかでもピンク色に発色したものは、とくに阿蘇ピンク石と呼ばれている。

5世紀末ごろから、6世紀前半にかけて、それは畿内の古墳の石棺に用いられるようになるのだが、(九州の古墳からの発見例はひとつもない。ヤマト王権が独占していたか) それ以降は高松塚古墳の石室をはじめ、二上山の凝灰岩が使われることが多くなっていく。

いまも二上山の山中には、石切り場の跡が残る。

 

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彼らなのだろうか。

九州各地に横穴墓を残した (なかでも熊本県人吉市の大村横穴群はとくに有名) 石工たちが、東進してきたのだろうか。

線刻壁画に見る死生観

ここに眠る人々、高井田の横穴墓を築造した人々の死生観を探ることは容易ではない。

横穴墓という墓制と、そこに刻まれた数々の線刻壁画から想像する以外に、現時点では手だてがない。

現代を生きるわたしたちは、生と死を別のもの、対立するものと捉えがちだが、彼らは、おそらく両者を連続するもの、違った表情をしたに過ぎない同一のものと考えていたのではないか。

わたしには、そんな気がしてならない。

『船に乗る人物』や『騎馬人物』などの線刻壁画は、だからこそ死者たちが、この先もいままでどおり自由に動き回れるようにと願いながら、刻まれたのではないか。

「みなさん、お手元の明かりをどうか消してみてください」

そこにいた参加者たちは、次々にスマートフォンの明かりを消した。

普段は金属製の扉で閉じられている横穴墓も、年に2回、特別公開日を設けている。

そのとき、横穴のなかには10名程度の人間がいた。

内部は成人がゆうに立ち上がれるほどの高さが確保されていることに驚いたり、排水用の細い溝が掘られていることに感心したりしながら、わたしは、この公開日をとらえて参加できたことを喜んでいた。

 

「いかがですか、真っ暗でしょう」

わたしは振り返った。

羨道とそれに続く墓道の先には光が見える。しかしそれは玄室内部にとどくことがない。

引率の解説員の男性が言葉を続けた。もっとも、その表情はまったく見えない。

「こんな中で、線刻壁画は刻まれたんですよ。火をつかった? いい質問ですね。しかしどの横穴からも、すすの類は検出されないんです」

稚拙な絵のタッチも、それで合点がいく。

闇黒のなか、死者のすぐそばで線刻壁画を刻むものが、かつてこの場にいた…。

わたしは戦慄を覚えた。

祭りのあと

見学を終えて、ポストカードやボールペンなどの記念品を受け取ると、参加者たちはみな、散り散りに帰って行った。
わたしはなぜかその場を去りがたく、また、公園内をぶらぶらと歩きだした。
見学コースから外れた壁画のない横穴は、普段通りに扉が閉じられていて、今日、あえてそこを見てみようとする者もいないようだった。

静まり返っていた。祭りのあとのように…。

それにしても、わたしは子供のころから横穴が大好きだった。

近鉄生駒駅のちかくにあった横穴、よくそのなかに入ったものだった。

母体回帰というか、むき出しの感覚というか、妙に気持ちが落ち着いて、わくわくした挙句に、そのまま眠ってしまうことさえあった。

あれは何だったのだろうか。

高井田同様の横穴墓だったのだろうか。戦争時の防空壕だったのだろうか。

ずっと後年になって、わたしはそこを訪れようとした。

しかし駅前は再開発の波にのまれてすっかり変貌し、場所さえもわからなくなっていた。

もう、とうになくなっているのだろう。

 

寝ちゃえば?

えっ?

 

寝ちゃえばいいのよ。半世紀ぶりに。

無理だよ。扉が閉まってる。

 

どうして無理って言い切れるの?
扉に手をかけさえしないうちに。

もう、子供じゃないんだよ。

寝ちゃえ! 寝ちゃえ!

わたしは歩み出て、黒い鉄製の扉に手をかけた。

ひんやりとした感覚が伝わってきた。

線刻壁画をめぐる5つの断章

騎馬人物 (第2支群3号墳)

男は馬に揺られ続けたせいで、尻に痛みを感じていた。
長い旅だ。

「どこまで行くつもりだって、馬に訊いてみたいさ。でも、どう言えばいいのかさっぱりわからないな」

手足をひろげた人物 (第2支群10号墳)

気持ちがいいと、手足をひろげてみたくなるもんだ。

今日は気持ちがよかったな。

きのうもそうだった。

その前もな。

明日も気持ちがいいのだろうか。

その次の日はどうだ。

鳥 (第2支群3号墳)

鳥になれぬものか。

凛とした姿で空を行く、みなの憧れる鳥に。

片手をあげる人物 (第3支群5号墳)

高く高くと手を上げて、どれほどの高みにある、何を手にしようとしているのだ。

船に乗る人物 (第3支群5号墳)

舟が川面を進んで行く。

何処へ行くともわからぬまま、どんどんと遠ざかり、小さな点となって、やがては白く光る水平線ににじんだ。

 

 

後記

古い時代には、古(いにしえ)人の墳という意味で古墳という言葉が用いられていたこともあった。しかし現代では墳丘のある墓を指す言葉として定着している。よってここも高井田横穴古墳ではなく、史跡指定名称は高井田横穴であり、高井田横穴群、高井田横穴墓群などと称されている。

しかしこのブログでは、読者の利便性を考慮し、カテゴリー欄を古墳と記し、また古墳とタグをつけた。諸賢のご理解を得たい。