【高井田横穴群】横穴墓を築造したのはどのような集団だったのか。彼らの死生観とは。

高井田横穴群の存在をはじめて知ったときの、あの高揚した気持ちを、言葉で表現することはむずかしい。

高井田山は標高わずか65メートル。その丘と呼びたくなるような小さな山に、6世紀中ごろから掘られ始めた横穴墓が、いまもたくさん残っているという。

わたしは魅せられて、これまで何度足を運んだことだろう。

そして秋晴れのなか、いままたそこに向かっていた。

ランカシャーブラックバーンに4000の穴があいていると歌ったのはビートルズだ。

わたしは久方ぶりに、大阪府柏原市高井田で160余の横穴と対峙した。

~目次~

史跡 高井田横穴公園へ

大和川にかかる国豊橋を北に進もうとするころ、顔をあげると、ちょうど高さのそろった四軒の民家の屋根のうえあたりに『史跡 高井田横穴公園』という看板が見えてくる。

高井田横穴公園は高井田横穴群 (高井田横穴墓群) を史跡公園として整備し、平成四年 (1992年) に開園したもの。

 公園の外周道路に面したところには、石室内部の線刻壁画や土器などの副葬品を模したものを刻んだ陶板が飾られている。

わたしはそれらを眺めながら、ゆっくりとクルマをはしらせた。

高井田横穴群

概要

高井田横穴群は、高井田山に残る、かつての二上山の噴火によって形成された (異説あり) 凝灰岩層に掘られた横穴墓。

二上山
大阪と奈良の府県境にある、雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の2つの峰をもつ双耳峰。

築造時期は6世紀中ごろから7世紀前半にかけてであり、現在までに確認されている横穴の数は162基。しかし未調査部分を含めるとゆうに200を超えると考えられている。

そして、そのうちの27基の横穴から線刻壁画が見つかっている。

しかし、すでに確認されている横穴には多くの壁画が見られているものの、新たに見つかった横穴からは発見例がすくないなど、そのすべてを横穴築造当時のものと考えることには慎重であらねばならない。

前の戦争時には、いくつかの横穴は防空壕として利用されていた、との地元住民の証言もある。 

そのようななかでも、1917年 (大正6年) 道路工事の際に見つかった第3支群5号横穴の『船に乗る人物』と題された線刻壁画は、発見時の状況や、人物埴輪の容姿との共通性を感じさせる船上の人物の服装ともあいまって、これは築造当時のものであると見做されている。

現在、その横穴の前には、二枚の線刻壁画のレプリカがたてられている。

 

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高井田横穴群のすぐ北側には、総数2000基とも目されている平尾山古墳群が迫っている。

その築造時期も、おおむね高井田横穴群と重なることから、高井田横穴群を平尾山古墳群の支群のひとつと考えることもできる。

しかし、目覚ましい違いは平尾山古墳群の大半が直径10メートル程度の円墳であるのに対して、高井田横穴群は横穴墓であることだろう。

横穴墓を築造したのは誰か

ここに眠るのは渡来系の人々だと考えられていた時期もあった。

横穴群よりも先行すること約1世紀、高井田山の頂につくられた円墳・高井田山古墳の被葬者が、石室のつくりや副葬品などから渡来系、なかでも百済系だと考えられていることと関連づけられたことも一因だが、現在では、その考えはほぼ否定されている。

かわりに強く支持されるにいたった仮説は、九州の石工集団の移住という考えだ。

阿蘇溶結凝灰岩のなかでもピンク色に発色したものは、とくに阿蘇ピンク石と呼ばれている。

5世紀末ごろから、6世紀前半にかけて、それは畿内の古墳の石棺に用いられるようになるのだが、(九州の古墳からの発見例はひとつもない。ヤマト王権が独占していたか) それ以降は高松塚古墳の石室をはじめ、二上山の凝灰岩が使われることが多くなっていく。

いまも二上山の山中には、石切り場の跡が残る。

 

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彼らなのだろうか。

九州各地に横穴墓を残した (なかでも熊本県人吉市の大村横穴群はとくに有名) 石工たちが、東進してきたのだろうか。

線刻壁画に見る死生観

ここに眠る人々、高井田の横穴墓を築造した人々の死生観を探ることは容易ではない。

横穴墓という墓制と、そこに刻まれた数々の線刻壁画から想像する以外に、現時点では手だてがない。

現代を生きるわたしたちは、生と死を別のもの、対立するものと捉えがちだが、彼らは、おそらく両者を連続するもの、違った表情をしたに過ぎない同一のものと考えていたのではないか。

わたしには、そんな気がしてならない。

『船に乗る人物』や『騎馬人物』などの線刻壁画は、だからこそ死者たちが、この先もいままでどおり自由に動き回れるようにと願いながら、刻まれたのではないか。

「みなさん、お手元の明かりをどうか消してみてください」

そこにいた参加者たちは、次々にスマートフォンの明かりを消した。

普段は金属製の扉で閉じられている横穴墓も、年に2回、特別公開日を設けている。

そのとき、横穴のなかには10名程度の人間がいた。

内部は成人がゆうに立ち上がれるほどの高さが確保されていることに驚いたり、排水用の細い溝が掘られていることに感心したりしながら、わたしは、この公開日をとらえて参加できたことを喜んでいた。

 

「いかがですか、真っ暗でしょう」

わたしは振り返った。

羨道とそれに続く墓道の先には光が見える。しかしそれは玄室内部にとどくことがない。

引率の解説員の男性が言葉を続けた。もっとも、その表情はまったく見えない。

「こんな中で、線刻壁画は刻まれたんですよ。火をつかった? いい質問ですね。しかしどの横穴からも、すすの類は検出されないんです」

稚拙な絵のタッチも、それで合点がいく。

闇黒のなか、死者のすぐそばで線刻壁画を刻むものが、かつてこの場にいた…。

わたしは戦慄を覚えた。

祭りのあと

見学を終えて、ポストカードやボールペンなどの記念品を受け取ると、参加者たちはみな、散り散りに帰って行った。
わたしはなぜかその場を去りがたく、また、公園内をぶらぶらと歩きだした。
見学コースから外れた壁画のない横穴は、普段通りに扉が閉じられていて、今日、あえてそこを見てみようとする者もいないようだった。

静まり返っていた。祭りのあとのように…。

それにしても、わたしは子供のころから横穴が大好きだった。

近鉄生駒駅のちかくにあった横穴、よくそのなかに入ったものだった。

母体回帰というか、むき出しの感覚というか、妙に気持ちが落ち着いて、わくわくした挙句に、そのまま眠ってしまうことさえあった。

あれは何だったのだろうか。

高井田同様の横穴墓だったのだろうか。戦争時の防空壕だったのだろうか。

ずっと後年になって、わたしはそこを訪れようとした。

しかし駅前は再開発の波にのまれてすっかり変貌し、場所さえもわからなくなっていた。

もう、とうになくなっているのだろう。

 

寝ちゃえば?

えっ?

 

寝ちゃえばいいのよ。半世紀ぶりに。

無理だよ。扉が閉まってる。

 

どうして無理って言い切れるの?
扉に手をかけさえしないうちに。

もう、子供じゃないんだよ。

寝ちゃえ! 寝ちゃえ!

わたしは歩み出て、黒い鉄製の扉に手をかけた。

ひんやりとした感覚が伝わってきた。

線刻壁画をめぐる5つの断章

騎馬人物 (第2支群3号墳)

男は馬に揺られ続けたせいで、尻に痛みを感じていた。
長い旅だ。

「どこまで行くつもりだって、馬に訊いてみたいさ。でも、どう言えばいいのかさっぱりわからないな」

手足をひろげた人物 (第2支群10号墳)

気持ちがいいと、手足をひろげてみたくなるもんだ。

今日は気持ちがよかったな。

きのうもそうだった。

その前もな。

明日も気持ちがいいのだろうか。

その次の日はどうだ。

鳥 (第2支群3号墳)

鳥になれぬものか。

凛とした姿で空を行く、みなの憧れる鳥に。

片手をあげる人物 (第3支群5号墳)

高く高くと手を上げて、どれほどの高みにある、何を手にしようとしているのだ。

船に乗る人物 (第3支群5号墳)

舟が川面を進んで行く。

何処へ行くともわからぬまま、どんどんと遠ざかり、小さな点となって、やがては白く光る水平線ににじんだ。

 

 

後記

古い時代には、古(いにしえ)人の墳という意味で古墳という言葉が用いられていたこともあった。しかし現代では墳丘のある墓を指す言葉として定着している。よってここも高井田横穴古墳ではなく、史跡指定名称は高井田横穴であり、高井田横穴群、高井田横穴墓群などと称されている。

しかしこのブログでは、読者の利便性を考慮し、カテゴリー欄を古墳と記し、また古墳とタグをつけた。諸賢のご理解を得たい。

【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし

大阪府千早赤阪村の不本見神社 (ふもとみじんじゃ) 周辺には不思議な話が伝わる。

むかし、子供たちが不本見山で相撲をとっていたところ、樹々のうえのほうから「ヤーホ、ヤーホ」と声がした。見上げるが誰もいない。ただ風が吹くばかり。そしてどこからか笑い声が聞こえてきた。

子供たちは怖くなって逃げかえり、大人たちをつれて山に戻ってきた。

みなで手分けしてあたりを探しまわるが、誰もいない。

ふと見ると、子供たちが脱ぎ捨てておいた衣服が、きれいに畳まれていたという。

ああ、これはきっと相撲好きの神様が、子供たちの取り組みを楽しみに見に来られたのだということになり、以来、不本見神社では子供たちによる奉納相撲が行われるようになった。

いまも秋祭りには「ヤーホ相撲」がにぎやかにひらかれている。

このはなしを知ってからというもの、わたしはこの神様を相撲の神様「ヤーホ様」と呼び、ひそかに親しみを寄せている。

ヤーホ様に会いたい。

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不本見神社について

間近に千早川の流れる、不本見山の美しさは格別だ。

お椀を伏せたような、いかにも甘南備然としたその低い山容は、一夜にしてあらわれたとの言い伝えがある。
その山頂に坐す不本見神社役行者による創建とされている。

ながらく修験道蔵王権現を御本尊としていたが、維新期の廃仏棄釈の流れのなか、天御柱命国御柱命の風神二柱を勧請し、それをもって現在まで御祭神としている。

ちなみに隣町の太子町の式内社、科長神社も風神を御祭神としている。

この一帯にはかつて、風に親しみを感じる、風俗、心情のようなものがあったのだろうか。

 

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不本見神社へのルート

① わたしの進んだルート

 

千早赤阪村楠木正成公ゆかりの、としばしば称される。

村内のいたるところで楠公に関する史跡を目にすることになる。
府道705号線 (正式には、大阪府道・奈良県道705号富田林五條線) をクルマではしっていると、赤阪城 (下赤阪城) を案内する看板が見えた。

そのまま、さらに南東に進んでいくと、ナビゲーションが坂本橋を渡るようにと告げてきた。

渡ってすぐに左折する。

すると行き止まりになった。

「目的地に到着しました」

画面を見ると、ここからは徒歩だという。

この距離感ならほんの数分だろう。

でも、道はどこにあるというのか。

画面の示す方向に歩いてみる。

しかしこれ、農地だよ。

いかにも私有地だ。

ちょっとマズい感じになってきた。

日の暮れかけた夕刻、白髪の初老の男がスマートフォンを握りしめ、他人の土地に不法侵入したばかりか、あたりをきょろきょろしながら歩いている。

不審者以外の、いったいなにに見えるだろう。

さて、どうしたものかと思っていると、すぐ前の民家の庭に、わたしと同年配の女性がでてきているのが見えた。彼女はきれいに植えられた花々に手をやり、顔もまっすぐにそちらを見ている。が、明らかにこちらを警戒しているようすが、びんびん伝わってくる。

機先を制しよう。

「こんにちは。不本見神社に行きたいんですけど、どう行けばいいんでしょうか」

「ああ、ちょっと、道ややこしいですで」

お互い、相手のでかたをうかがっていた。

気まずい沈黙がながれる。

5秒…10秒…。

わたしは口をひらいた。

「あそこにはまえから一度、どうしても行ってみたかったんですよね。…ほら、ヤーホ相撲とか」

すると彼女はとつぜん饒舌になった。

それなら、そこの石段をのぼって行きはったらよろしいねん。のぼりきったら道があるから、そこを右に行く。そしたらまた道があるから、今度は左に行く。そしたら正面に見えてきますわ…。足元が悪いから気をつけろ、枝が盛大にでているところでは気を抜くな、ちゃんと前を見ろ…。

「もうすぐ秋祭りやよってな、そのときにもまた来はったらよろしいねん」

わたしは丁寧に礼を述べた。

それにしても、彼女の言うそこの石段とはどこだ。

さらに進んでいく。

これか…、これなのか。

生い茂る雑草をかき分けて、左右から覆い被さる木の枝を押しのけると、なるほど狭い石段が見えた。

しかし、いままでこんなにも急な石段にお目にかかったことはない。

これはもう、ほとんど垂直にかかる梯子と言いたくなるようなあんばいだった。

絶対に無理だ。

なんとか言い訳をして、退散することにしよう。

すぐに、とっておきの理由を思いついた。

 

どうせ、よくない理由だよね。

さあ、どうだか…。

「ああ、そうだ。忘れてました。むこうの橋のところにね…」わたしは指さして言った。「クルマを停めっぱなしにしてたんでした。御迷惑になってもあれなんで、今日のところは帰って出直してきますよ」

「そんなんかめへん。もしも誰かなんか言ってきたらな、 そのヒトやったらいま、不本見さんに参ってはるよってにな、ちょっと待っときなはれって、ちゃんと説明しときますわ。せやから遠慮しやんと、はよ行ってきなはれ」

外堀は埋められた。

元弘元年 (1331年) 9月、後醍醐天皇を奉じた楠公が、鎌倉幕府軍に対して最初に兵をあげた赤阪城 (下赤阪城) は一重の塀をめぐらせただけの、堀さえもない急ごしらえの城だったという。

二段、三段と石段をのぼってみた。そもそも石段に盛大に覆いかぶさってきている木の枝のせいで、立って歩くことも難しい。子供なら可能か。

もう何年も利用されていないのではないか。

それにこれ登って行ったら、もう、ぜんぜん趣旨が変わってしまうところだ。

神社参拝ではなく、ボルダー (ボルダリング) あたりになってしまう…。

わたしは暫くそこにいたが、もうどこにも彼女の姿がないことを確認すると、そそくさとクルマのほうへと戻っていった。

② 橋本橋をわたって右折するルート

しかしどうしても、参拝をはたしたい。
わたしは安全なルートを調べてみた。

一度くらいのダメ出しで、諦めてどうする。

志操堅固、赤阪城から退却した楠公はこんどは千早城にこもり、元弘3年 (1333年) 打ち寄せる鎌倉幕府の大軍と対峙する。そして100日にもわたり幕府軍をみごと釘付けにし、この間に鎌倉幕府は滅亡。ついに建武の新政への道はひらかれた。

橋本橋を渡ってわたしは左 (赤いクルマの見えるほう) へと進んで、行き止まりとなってしまった。

反対に右のほうへ進むと、もうすこしクルマで不本見神社のそばまで行くことができる。

しかし道は非常に狭く、軽自動車がやっとだろう。

行けるところまで行って、クルマを乗り捨てる場所を探すにも、苦労するだろう。

おすすめできるルートではない。

盲導犬訓練センター前を通るルート

府道705号線を富田林市街方面から (わたしが来たのと同じほうから) 進んでくると、富田林警察署 東阪駐在所を過ぎたあたりで左に折れる脇道に入ると、ライトハウス 盲導犬訓練センターのまえにでる。そして、その前の一本道を桝形城跡のわきを抜けるように進んでいくと、不本見神社にいたる。ただし、こちらも道は狭い。しかも一方通行ではないために、万がいち対向車とでも出くわすようなことがあれば、かなり難儀するに違いない。

それになによりも、不本見神社には駐車場がないことから、クルマでの参拝は避けたほうがいいだろう。

ではどうすればよいのか。

④ 道の駅「ちはやあかさか」から徒歩で向かうルート

道の駅「ちはやあかさか」を拠点に、そこから徒歩で向かうというのが、現実的なルートになろうかと思われる。道の駅には「村立 郷土資料館」や「楠公誕生地遺跡」が隣接している。

資料館にはヤーホ相撲に関するパネルも掲示されており、また同村内に伝わる昔話を収録した冊子なども販売されている。


そこから不本見神社までは約2キロ、40分ほどの道のりになる。
最終的には③の盲導犬訓練センターの前の道に出るのが、わかりやすい。

 

40分とか、ほんとに歩けるの?

歩けるさ。

 

うそでしょ。

このルートなら、比較的起伏がおだやかなうちに進むことができるよ。

⑤ 金剛バスを使用するルート

金剛バス・千早線「東阪」バス停下車。

そこからは徒歩で。

やはり盲導犬訓練センターの前の道で向かう。

ヤーホ、ヤーホ、

あの日、クルマへ戻るとき棚田が見えた。

そして視線をあげて不本見山を見た。

風が吹いてきた。

ヤーホ様の声は聞こえず、もちろん姿が見えるはずもなかった。

わたしはただ、棚田のうえを飛び回るトンボを眺めていた。

静寂の中で聞く声とは、いったい誰の声なのだろう。

 

※追記※

本日、金剛バスが路線バス事業から年内いっぱいで撤退するというニュースが飛び込んできた。今後は、バスで不本見神社ちかくまで行くことがかなわなくなる。

残念な知らせだ。  (2023年 9月 11日)

https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230911/2000077770.html

 



 

【壷阪寺】眼病封じの御利益、壺坂霊験記の夫婦愛をいまに伝える

奈良県のほぼ中央に位置する高取町を象徴するものとはなにだろう。

「くすりの町 高取」

日本書紀推古天皇の段にみられるように、古くからこのあたりでは薬猟 (くすりがり・鹿の角や薬草を集めること) がおこなわれていた。土佐街道 (飛鳥時代に土佐高知から移ってきたヒトたちが住まうようになったことが、命名の由来するとされる) 沿いにある、黒の外壁に白い六角形の亀甲型が施された古い蔵を改装したくすり資料館を訪ねれば、薬の歴史を体感することができる。

~目次~

 

また、高取城も忘れることができない。

壺阪山にあって、かつて山城としては異例なほどの荘厳なすがたをみせていた高取城、その城址には、いまも多くの観光客が訪れる。

そして壺阪寺もまた、よく知られるところだ。

壷阪寺へ

壷阪寺を参拝した。

入山料をおさめているあいだ、じっとこちらをうかがっていたネコたちが見送ってくれた。

「ようお参りです。ごゆっくりと」

静かだった。

無理もない。

午後四時、閉山まで、あと一時間しかなかった。

寺院参拝に際しては、いつも夕方の慌ただしい時間になってしまうのは何故だろう、思わず苦笑した。

 

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西に目をむける。

あいにくの曇り空とて、盆地のむこうの二上山生駒山がはっきりと見えた。

どこまでも、のどかな風景がひろがる。

わずか150年あまりまえ、この高取の地が天誅組の変に見舞われたなどとは、いまとなっては想像するのも難しくなってきている。

 

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境内案内

朱色の大講堂を右手に見ながら、わたしは進んでいった。

まず、瀧蔵権現で柏手をうつ。

この地の地主神をまつっているとされる。

つぼさか茶屋。

ここのうどんは美味いのだが、この時間ではどうしようもない。

仁王門をくぐる。

礼堂までは、まだかなりのぼって行かなければならない。

しかし、リフトが設置されている。

わたしもいつかは利用することになるのだろうか。

三重塔が見えた。

そのむこうに礼堂。

もはや息があがっていた。ひざが笑っていた。

ありがたや、ありがたや。

靴を履きなおし、さらに進んでいく。

「釈迦一代記」のレリーフ

スジャータだろうか。

さらに進んでいく。

大観音石像。

唯我独尊。

大涅槃石像。

釈迦入滅の様子。

壺坂霊験記

壷阪寺が眼病封じの寺としてつとに有名になったのは、明治時代初期に成立した浄瑠璃、壺坂霊験記によるところが大きい。

■壺坂霊験記■
「壺阪霊験記」「壺坂観音霊験記」とも。実話をもとにしているとの説もあるが、定かではない。
演目によって筋の細部に違いはあるが、壷阪寺の本尊、十一面観音の霊験によって盲目の澤市の目が見開かれるというところは共通している。
毎日のように明け方になると家を抜け出すお里に不信をもった盲目の澤市は、ほかにおとこでもできたのかと問いただす。しかしお里の返事は、澤市の目が見えるようになりますようにと、壷阪寺に参っていたというものだった。邪推を恥じた澤市は、それ以降、お里とともに壷阪寺に通うようになった。しかし盲目の自分がいてはお里の足手まといになると考えた澤市は身を投げて死んでしまう。そしてお里もまた、あとを追って身投げする。
それを知った十一面観音はふたりの命をよみがえらせ、澤市の目は見開かれた。

 

覗き込んだが、木々が生い茂り谷底は見えない。

礼堂からすこし奥に慰霊碑がたつ。

歌舞伎や浪曲にもなってるね。

そうだね。浪曲妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ…って名調子はよく知られているね。

そろそろ時刻だった。

戻らなければならない。

光のほうへ

わたしは来た道を戻って行った。

あいにく、もうネコたちのすがたは見えなかった。
右手に昔の慈母園の建物がが見えた。
慈母園は昭和36年、盲老人ホームとしてこの山内に開園したが、令和にはいり、おなじ高取町の「たかとり文教福祉ゾーン」に移転を果たしていた。
ネコたちはこの無人の老人ホームへと帰っていったのかもしれない。
 

【祇園祭】前祭、後祭。あなたは今年もただ山鉾巡行を眺めていただけ?

7月の京都は、祇園祭一色になる。

連日のように祭りの様子が話題になり、なかでもその前祭 (さきまつり) 後祭 (あとまつり) のクライマックスとも目される山鉾巡行の当日は、多くのヒトたちがまちに繰り出し、浴衣姿の人波がゆっくりと押し寄せるなか、市街の中心部には大規模な交通規制が敷かれて、そこではアジール (聖域) さながら、非日常的な、喜びの充溢をいたるところで見ることになる。

~目次~  

祇園祭の歴史

祇園祭のはじまり

2022年 7月撮影

平安時代、京のみやこに疫病が蔓延するなか、ときの朝廷は863年 (貞観5年) 神泉苑において御霊会 (ごりょうえ・死者の怨霊を鎮めるためのまつり) を執り行った。御霊会とされたからには、陰陽寮陰陽師による卜占があったのだろう。非業の死を遂げた早良親王らの怨霊のによるものと見做されていたとされている。

 

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しかし疫病がおさまることはなく、さらに翌864年 (貞観6年) には富士山の大噴火、869年 (貞観11年) には陸奥国での地震など自然災害が次々とおきて、怨霊は鎮まる様子をみせなかった。

そこで869年 (貞観11年) に神祇官・卜部日良麿 (うらべのひらまろ) が神泉苑に当時の国 (律令国) の数と同じ66本の鉾をたて、それに悪霊を移して祇園社 (八坂神社の旧名) にまつられている牛頭天王に病魔退散を祈る祇園御霊会をひらいた。

これが公式な祇園祭のはじまりとされている。

2019年 (令和元年) には祇園祭1150周年が祝賀された。

 

国の数と同じ鉾をたてる…。
これ、荒神谷遺跡を連想させるね。

ああ…、ほんとだ。

荒神谷遺跡■
1983年 (昭和58年) 島根県斐川町神庭 (現、島根県出雲市斐川町神庭) における広域農道敷設工事にともなう調査で、須恵器の破片が見つかったことから、翌年より、本格的な発掘調査が実施され、最終的には銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
それまでに全国で出土した銅剣は約300本。それを上回る数の銅剣が一度に発掘されるという、考古学上の画期となる発見だった。
358という数は、出雲国風土記に記載された神社の数とほぼ同じとなる。

山鉾巡行の変遷

やがて鎌倉時代にはいると、移動する鉾を取り囲むようにして歌い踊る人々があらわれだし、鷺舞などの神事芸能もうまれてくるようになる。

さらに室町時代になると、鉾と屋台が一つになった今に続く鉾車が見られるようになる。

戦乱による中断や疫病による延期などを経ながらも、山鉾巡行は古くから町衆によって支えられて続いてきた。

今では祇園祭の最重要神事・神輿渡御 (みこしとぎょ・練りだした八坂神社の神をのせた神輿が、市中を清め巡る) よりも人々の耳目を集めているかもしれない。

山鉾の作りについて

2022年 7月撮影

美しい彫刻、精緻を極めた細工、タペストリー…。そんな美しい衣装を脱ぎ捨てると、昔ながらの、くぎを使わずに組まれた骨組みを見ることができる。

ウイルス禍をこえて

2022年 7月撮影

昨今のウイルス禍によって、2020年、2021年と神輿渡御、山鉾巡行ともに中止になり、祇園祭は賑わいを欠いた、大幅に縮小されたかたちでの実施となった。

2022年においても、一部の鉾の拝観が見合されるなどした。

そして2023年、祇園祭はいよいよ完全な形で復活の運びとなった。

疫病退散の祈りを起源にはじまった祇園祭が、未だウイルス禍のあけきらぬ2023年、完全復活する意義は大きい。

こころに鉾を立てよ

京都市内は、大規模な交通規制が実施されていた。

ハンドルを握りながら、わたしは煙草に火をつけた。

煙が目の前でゆらめく。

たくさんの浴衣姿、笑顔の列。

わたしはウインドウ越しに、賑わいを取り戻した京都の夏を眺めていた。

いまこそ、こころに鉾を立てよう。

そう、立てるのだ。

すべてが、後の祭りとならないうちに。

 

【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて

失われた古代祭祀の全容を知ることは容易ではない。

周知のように銅鐸などはなんらかの祭祀につかわれていたのでは、と考えられているが、それについての詳細な記述は、記紀のような古典においても見ることができない。ただ土の中に埋められて、語られることさえ憚られたとでもいうように忘れ去られてしまい、後世、偶然に掘り返されたときには、みなが首をかしげて言う。

どうしてこんなところに埋めたんだ?

これにはどんな意味があるんだ?

なにに使った?

また荒神谷遺跡 (出雲市斐川町) から、1984年 (昭和59年)に358本もの銅剣が出土したとき、世間はその数の多さから世紀の大発見と騒ぎたてたが、実際に現地に足を運び、遺跡を目前にしたものは、そこが言うべき特徴のない、何の変哲もない谷の斜面であることに驚いたことだろう。

新たな祭祀が生まれるとき、その執行者は、先行する祭祀の伝承を認めることはなかったのだと、想像にかたくない。

しかしそれでも、古典を子細に読み込めば、往古の信仰の残り香を感じ、小さな断片を拾い集めることができる。

~目次~

高木のはなし

古事記仁徳天皇の条に、高木のはなしがみえる。

古事記・要約■
兎寸川の西に一本の高木があった。その影は朝日があたると淡路島にとどき、夕日があたると高安山を越えた。その木を切り倒して作った船は速くはしった。その船は名付けて枯野という。朝夕淡路島の清水を汲んできて、天皇に献上した。
やがて船が破損すると、その材をもって琴をつくった。その音は七里さきまでとどいたという。
『兎寸』はトノキあるいはトキと読むとされ、それは旧河内国兎寸村、現在の大阪府高石市取石あたりと見做されている。いまでは正式な行政名としてはトノキという地名は存在しない。わずかにJR阪和線富木駅、富木筋という道路の名前、それに等乃伎神社 (とのきじんじゃ・とのぎじんじゃ) などの名称にわずかに残るにとどまっている。

高木を切り倒し、それで御用水を運ぶ船をつくったというのは、それはとりもなおさず先行する高木崇拝、巨樹祭祀の否定と、兎寸の地が天皇 (大王) 家が推す祭祀を受け入れたことを意味するのだろう。
しかし、わたしたちは巨樹を敬う気持ちをもち続けてきた。
いまも神様を一柱、二柱と「柱」でもってあらわすのは、その反映に他ならない。

そして、船の廃材でつくったのが琴であるという。
古来、琴は神器、祭器と見做されてきた。

大国主命が、スセリビメ根の国から連れ出すときに持ち出したのも琴であり、出雲国風土記は琴引山の峰にある窟 (いわや) に、所造天下大神 (あめのしたつくらししおおかみ・大国主命) の御琴がおさめられていると記す。

 

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七里さきまで届いたというその琴の音は、巨樹祭祀を奪われた兎寸の人々の慟哭を思わせる。

わたしはクルマをはしらせながら、『兎寸』を現在の大阪府泉南市の『兎田・うさいだ』とする説のあることを思い出した。その場合、兎寸川は樫井川を指しているということになる。

しかしながら神話、なかんずく古事記神話の場合、相容れぬ二つの説を俎上にあげて白黒つけようとすると (そもそも不可能なことだ)、延々とおなじはなしを繰り返しては、結局決着をみないということになる。

国生み神話は、淡路島、四国、隠岐の島の順に国土を生んだとする。

地理的事実として、その順番に国土ができたわけでは無論ない。その順番に国生みされたとするなんらかの歴史的背景や、隠れた伝承があってのことだろう。

因幡の白兎は素朴な白兎の冒険譚に、大国主命の求婚の物語が接続されている。

 

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クルマが表通りからそれると、急に静かになった。

看板が見えてきた。

 

等乃伎神社

等乃伎神社を訪れた。
式内社。しかし、とりわけ南北朝時代にはこのあたりは戦場となり、社殿等焼失したとされている。

それでも、高木を切り倒した跡にたてられたと目されているこのお社に、巨樹祭祀の残像を見てみたくて、わたしは来た。

授与所にはにぎやかにお守りが並んでいる。

『よそでは手に入りにくいお守り』

看板に偽りなしだ。

しかしわたしはお守りは遠慮して、本を頂戴した。

六月の風が心地よかった。
静かに時が流れるとは、まさにこの境内のようすを指す言葉だと思われた。

拝殿で柏手をうつ。

あいにくの薄曇りの中、太陽は見えなかった。

ここからの日の出の推移のようすをあらわした力作動画を、Tamao氏がツイッター上に公開しておられる。

拝殿前には梅の木があり、熟した実がたくさん落ちていた。

いい梅酒ができそうだ。

境内のベンチに腰掛けて『等乃伎神社と古代太陽祭祀』を読む。

和泉黄金塚古墳が、この神社との関わりのなかで語られている。

興味深い。

行ってみようか。

クルマに戻り、ナビをセットする。

1.4キロ、4分。

すぐそこだ。

和泉黄金塚古墳

どうやら、あれのようだ。
しかし道が細くなって、これ以上は進めそうにない。

困った。

通りがかりのヒトに道をたずねる。

「ここからは歩きですな。お墓がありましたやろ。あのまえの細い道を入っていく。しばらく行ったら右手にまた細い道がでてきますんや。けものみちみたいな、えっ、こんなとこ人間行けるんかいな、みたいな。そこ、入って行ったら直ぐですわ」

お墓。

お墓の前の細い道。

近づいてきたのかな…。

けものみち…。

これを行くのか。

本当なのかな。

戻ってもいいか…。

正面に説明版のようなものが見える。

しかし胸くらいの高さまで草木が茂っている。

慎重に、でも勇気をもって。

さんざん、あたりの写真を撮ってから、わたしは来た道をもどって行った。

ふと見ると、梅の実が落ちていた。

またしても…。

あたりを見回しても、いったいどれが梅の木なのか、わたしには判別できなかった。

 

 

参考書籍

等乃伎神社と古代太陽祭祀 金子明彦

参考資料

おりがみの時間

https://origaminojikan.com/36782

【信太の森】葛の葉姫伝承をうんだ悠久の森を行く。聖神社を中心に

関西地方に住まうものにはとくによく知られているように、信太の森 (しのだのもり) は大阪府和泉市にひろがる、古来よりいまに至るまでつづく悠久の森だ。

森は信太の森」と清少納言枕草子において称えたそこにも、しかし近年においては開発の波が押し寄せて、信太山丘陵の斜面にも家々など建ち並び、豊かな自然はすこしずつ浸食されるに及んでいる。

しかし、人々がこの地に魅了され集うのは、故なきことではないのかもしれない。

はるか昔より、そこでは日々の営みといえるものが盛んにおこなわれていた。

信太山丘陵をくだってすぐのところには、国内屈指の規模を誇る弥生時代中期の環濠遺跡、池上・曽根遺跡が間近にせまっている。当時にあっては、海岸線はいまよりもさらに近く、森に入れば食用のどんぐりなども取れたとされている。

平安時代になると、京のみやこの皇族、貴人たちが熊野詣に向かうための街道 (熊野街道) が信太を通る。街道沿いにはその参拝者たちの庇護を願い、奉幣や読経をおこなう王子社、篠田王子 (信太王子・しのだおうじ) がたてられた。

そして、在りし日に篠田王子があったと目されているところからほど近くに、聖神社 (ひじりじんじゃ) の、石造りの見事な一の鳥居がたっている。

~目次~

境内案内

二の鳥居

一の鳥居をぬけて500メートルほどクルマで住宅街のなかを駆け上がっていくと、二の鳥居が見えてきた。

平日の午後、人影のない長い参道はやがて左に折れ曲がった。

境内の全景が見える。

正面遠くに朱色の末社がたっていた。

左手に本殿。

そのいずれもが、なにやら隅の方へと追いやられているような印象をうけた。

境内の中央にはなにもない。

空虚、という言葉があたまをよぎる。

その開けた空間は、傾きかけた日の光に照らされるにまかせていた。

本殿

聖神社の本殿は豊臣秀吉の根来攻めの際に焼失、所領も没収となったが、1604年 (慶長9年)、豊臣秀頼の命により、再建された。
現在では2019年の修復工事を経て、極彩色も鮮やかによみがえっている。

末社

向かって右が三神社、左が瀧神社。

末社

平岡神社。
聖神社本殿と同時期に再建。春日造り。

大阪府指定有形文化財

 

不動明王

神仏習合時代の名残り。
かつては神宮寺・万松院が存在したが、明治期初頭の神仏分離の流れの中で廃寺となった。

お塚

数多くのお塚がたち、あまり一般には馴染みのないたくさんの神仏がまつられている。

ここから1.5キロほどさきにある、信太森葛葉稲荷神社 (信太森神社) との類似にはっとさせられる。

安倍保名と白狐は信太の森で出会い、その白狐が化身した葛の葉姫とのあいだに生まれたのが安倍晴明公であるとする歌舞伎や浄瑠璃で有名な話がうまれる素地が、信太にはあった。

かつて信太の地には声聞師 (しょうもじ) と称された民間の陰陽師・職業芸人が集っていた。

かれらが自らの姿を実在の安倍晴明公に仮託し、葛の葉姫伝承をうんだ、と考えるのはうがちすぎだろうか。

 

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創建の由来

675年 (白鳳3年) 天武天皇の勅願によって、百済系渡来氏族の信太首 (しのだのおびと) が聖神 をまつったのが始まりであるとされている。

助松浜 (大阪府泉大津市) に上陸した聖神は信太の森まで布を敷き、いまの聖神社に坐 (いま) すに至ったという布引の道伝承が、いまも地元にのこる。

 

レッドカーペットみたいだね。

泉南地方はいまに至るまで繊維産業がさかんだからね。それとの関連も気になってくるね。

なお聖は聖なる意とも、また「日知り」の意とも目されている。

現在の大阪府奈良県のあいだには山々が連なっている。

北より、生駒山高安山信貴山二上山葛城山金剛山…。

どの頂から朝日が昇ったかで季節を知ったであろうと、想像することもできる。

聖神
古事記によると、大年神伊怒比売とのあいだに生まれた五神 (大国御魂神・韓神・曾富理神白日神聖神) の末の神とされている。

 

相撲はいかが

境内を散策していても、その真ん中にひろがるなにもない空間がずっと気になっていた。

もう帰ろうか。そう思いながら、わたしは木々のあいだを覗き込んだ。

土俵だ。
奉納相撲がおこなわれていた証だろうか。

わたしは嬉しくてたまらなくなった。

 

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さあ、見合って見合って。

見ますとも。あなただけを、永遠に。

 

えーっ!

晴れているというのに、急に雨がふりだしてきた。

ここで雨がふるなどというのは、なにかの作為かしらと勘繰りたくなるところだ。

狐の嫁入り

わたしは急いでクルマにもどった。

聖なるものを求めて

明治維新はこの国の姿を一変させた。

聖神社の場合も、神宮寺が姿をけしている。

それは文化の面でも例外ではなく、外国から怒涛のようにやってくる新たな知識、概念を咀嚼することに追われた。

「宗教」という言葉もそのとき「Religion」の訳語として採用された。


www.youtube.com

 わたしはこの曲が好きで、運転中によく聴く。

オールドロックファンはR.E.Mも「ドキュメント」までだったよね、などと言う。わからなくもないが、この曲は異彩を放っている。もっともこのタイトルは宗教とは関係はないのだが。(宗教心、信じるものを失ったように)取り乱してしまった、我を忘れてしまった、という意味。

 

すみっこにいるのはぼくだ。

スポットライトを浴びているのはぼくなんだよ。

われを忘れちまったんだ。

        (ルージング マイ レリジョン)


クルマは一の鳥居を過ぎて、北に向かった。

その道が、以前の熊野街道であるのかどうか、わたしにはわからなかった。

雨があがった。

きらきらと光を反射させたアスファルトの路面は、真夏の砂浜のようだった。

遠くに虹がかかるだろうか。

 

                                                                              (最終更新日 2023.7.10)

【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~

京都の晴明神社というと、なにやら魑魅魍魎の跋扈するといったイメージを抱くヒトもおられるのだろうか。曰く、陰陽師安倍晴明公、式神…。

しかし、それらは人気の歌舞伎や映画などの創作の世界にに引きずられたものだ。

実際の晴明神社の坐すのは、京都御所から西にわずか1キロ足らず、様々な伝承をもつ一条戻り橋からすぐのところになる。

 

鬱蒼とした鎮守の杜に囲まれているのではなく (しかし立派な御神木はある)、境内は日の光をいっぱいにうけて、突き抜けるように明るい。そして、清浄な風が吹き抜けている。

京都を南北にはしる幹線道路、堀川通に面し、日々多くの参拝者が訪れている。

~目次~

晴明神社の創建

清明公屋敷跡

晴明神社は1005年 (寛弘2年)、清明公が没すると、その死を悼んだ一条天皇の命により、2年後の1007年 (寛弘4年)、公の屋敷跡に創建されたとされている。

 

いきなりだけど、ちょっと待って。京都ブライトンホテル!
たしか京都御所晴明神社のあいだくらいにあったよね。もうちょっと南か…。土御門(つちみかど)町。あそこの敷地が屋敷跡じゃなかったの?

おお!

 

あのホテル、セイメイってカクテルを出してくれるんだよ。友達が飲んだって。

すごいね。
たしかに『今昔物語』にも清明公の屋敷は「土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東」と書かれているからね。それに中世のほかの書物も、おおむねそれに準じた記述になってる。
いまでは土御門町のそのあたりだったと考えることに、ほぼ定まってるとみていいね。

■土御門家■
安倍晴明公の子孫は室町時代になると、家名を「土御門」と称するようになった。江戸時代中期の当主、土御門泰福土御門神道 (安倍神道) を大成させた。明治維新後は華族となり、子爵に列せられた。
土御門の名は大内裏に設けられた屋根を持たない築地を開いただけの簡便な門、土の門、土御門に由来する。

晴明神社陰陽道

平安京造成時、大内裏 (だいだいり) の北西の「天門」の方角に、陰陽道信仰にあって重要な方忌に関する神、大将軍神をまつる大将軍堂 (現在の大将軍八神社) が建てられた。それと同様に、北東の「鬼門」を封ずるために、現社地に晴明神社を建てたとする考えも成り立つだろう。その際には、いまにのこる清明公は稲荷神の生まれ変わりとする伝承を考えると、稲荷社であった可能性もあるだろう。

創建とされる1007年、一条天皇には厳重に鬼門を封じたいという強い思いが確かにあった。

元々は平安京における天皇の在所である内裏のことを大内裏と称したが、やがて宮城全体を大内裏と称するようになり、こちらが一般化した。内裏には天皇の住居である清涼殿をはじめ、後宮などが配され、内裏の外に朝堂院や豊楽院などのまつりごとに関する施設がおかれた。
しかし大内裏・内裏はたびたび焼失にみまわれた。
そのたびに天皇は仮宮 (里内裏という) での暮らしを余儀なくされた。やがて焼亡から再建までの期間がのびる傾向が顕著になり、天皇の里内裏暮らしが常態化するようになっていく。
現在の京都御所北朝初代の天皇光厳天皇 (在位1331年~1333年) の里内裏であった土御門東洞院殿の後裔にあたる。

一条天皇と怨霊伝説

菅原道真公の怨霊伝説はわたしたちもよく知るところだ。

讒言を受け入れた醍醐天皇によって、道真公は大宰府へと排されて (昌泰の変・しょうたいのへん)、903年 (延喜3年)、かの地で憤死する。

京のみやこでは908年 (延喜8年)、参議・藤原菅根 (ふじわらのすがね) が落雷をうけ絶命すると、その後も皇族、貴人たちの死が相次ぐようになった。

みやこびとたちは、これを道真公の怨霊によるものだと噂しあい、恐れた。

絶え間なく平安京を襲う水害、旱魃、疫病、火災…。

そして、あろうことか930年 (延長8年)、 天皇の住居、清涼殿が落雷をうける (清涼殿落雷事件)。

藤原清貫 (ふじわらのきよつら)、平希世 (たいらのまれよ)など7名もが、惨たらしい姿で亡くなった。

惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、体調を崩し、皇太子・寛明親王に譲位。そして出家した醍醐上皇はその日のうちに崩御された。

道真公は天神となって雷をあやつり怨念を晴らそうとしている。

みやこの恐怖はきわみにまで達した。

 

天神様がみやこを焼き尽くすぞ!

静かにしてよ。お願いします。

■天満大自在天神■
晩年の道真公が天拝山にのぼり、無実を訴えていると、天から「天満大自在天神」と記された祭文が降ってきたとの伝承があるように、道真公は天満大自在天神となったとされるようになり、それが北野 (現・京都市上京区) の火之御子社の火雷神と結びついて、公は雷神とも見做されるようになっていった。
947年 (天暦元年)、 道真公をまつる北野天神社 (現・北野天満宮) が創建された。
987年 (永延元年) には初めての勅祭 (ちょくさい・天皇の勅使が派遣されて執行される祭祀) が執り行われ、一条天皇より「北野天満天神」の神号が贈られている。
それでも怨霊はしずまる気配をみせなかった。
一条天皇 (980年・天元3年~1011年・寛弘8年) は日本の第66代天皇花山天皇の出家により、わずか7歳で即位。在位は986年・寛和2年~1011年・寛弘8年。一条の名は長く暮らした里内裏・一条院 (一条大宮院) の名による。
999年 (長保元年) 、1001年 (長保3年)、1005年 (寛弘2年) と三度までも内裏は焼亡。一条天皇は里内裏と再建なった内裏への遷御を繰り返すこととなる。
「天門」に道真公をまつるだけでは怨霊は鎮まることはなかった。厳重に「鬼門」を封じなければならない。
やがてみかどは譲位の意を口にするようになったと伝えられている。

境内案内

一の鳥居

堀川通に面した一の鳥居に掛けられた扁額には社紋の五芒星。

二の鳥居

二の鳥居に掛かる「晴明社」の扁額は1854年 (安政元年)、土御門晴雄が奉納したものを忠実に再現したものとされている。
 
■土御門晴雄■
土御門晴雄 (つちみかど はれたけ) は江戸時代末期の公卿。江戸幕府14代将軍・徳川家茂の将軍就任に際しては勅使として江戸城に赴いた。1869年 (明治2年没)。翌年、新政府は陰陽寮を解体、1872年 (明治5年) には太陽暦に移行したことから、事実上、公式な陰陽道家としての土御門家最後の当主となった。
 

一条戻り橋

境内を進んでいくと、左手にミニチュアサイズの一条戻り橋が再現されている。
数々の怨霊伝説に登場し、また清明公ともゆかりの深いこの橋のレプリカが当地にあることは意義深いと言うほかない。
レプリカとはいえ、以前の戻り橋で実際に供されていた欄干の親柱 (一條、戻橋と彫られている左右の柱)を移築したもの。
その横には式神のすがた。
清明公は普段はこの橋のしたに式神を住まわせていたという。
式神とは■
陰陽師が占いで用いる式盤と関わりがあるとされる、鬼神の一種。

五芒星



いたるところで、五芒星 (晴明桔梗) を目にする。

清明

清明公の法力によって湧き出たとされている。
上部は可動式で、毎年立春の日にその年の恵方の方角に向けられる。
その水を飲むと、大きな御利益があるという。

聚楽屋敷跡

かつての聚楽第そばにあった千利休の屋敷は、いまの晴明神社のあたりであったともされている。
すると、利休の末期の茶は清明井の水でたてられたことになるのだろうか。

またしても、利休だ。

 

どういうこと?

葛葉稲荷神社を覚えてるよね。

 

葛の葉姫だ。 安倍晴明公御母君の古里。

 

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そう。あそこも利休ゆかりの社なんだ。
利休が寄進した灯篭、ふくろうの灯篭がある。

 

どこにあったの? 知らない。

子安石のとなりだよ。

 

えっ、真っ暗でなにも見えなかったよ。

 

あれからひとりで行ったんだ。いつ行ったの?
じぶんひとりで行った!

うーん。
とにかく、利休についてもいろいろと知りたいことが出てきたね。あちこち訪ねてみたい。

 

利休にたずねよ

うーん。

死後、利休の首は一条戻り橋に晒された、とも言われている。

■利休切腹?■
利休は秀吉の勘気をこうむり、大徳寺山門から引きずり降ろされた利休の等身大の木像は一条戻り橋で磔にされた。やがて利休は切腹。その首は木像に踏みつけられるかたちで晒された…。
映画などでは、利休の最後は切腹というのがお決まりになっているが、はたしてそうだろうか。
当時の人々の日記には「利休は逐電された」「行方不明になった」「高野山に上った」などと記されたものも複数存在する。
また、木像に踏みつけられたことが事実なら、その像は間違いなく、即座に派手に破却され、その様子はいまに伝聞として残っていたことだろう。
大徳寺にあった木像が、その後、どのような経緯を経たかは定かではない。現在では茶道の裏千家が秘匿しているとも、また、いまも大徳寺のどこかに匿われているともされている。

一条戻り橋を越えて

わたしは晴明神社をあとにした。
晴明神社バス停 (正式名称は一条戻り橋・晴明神社前) を横目で見ながら、一条戻り橋のほうへと歩いて行った。
ほんの数分で橋を渡ることになるだろう。
行くあてなどなかったが、不意に、話に聞く京都ブライトンホテルの「セイメイ」というカクテルを口にしてみたくなった。
■セイメイとヒロマサ■
京都ブライトンホテルではセイメイ (安倍晴明) とヒロマサ (源 博雅) という二種類のオリジナルカクテルを供している。
いにしえに想いを馳せながらグラスを見つめれば、みやびなうたげの気分にひたれるだろう。是非。

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一条戻り橋まで来ると、子供の泣き声が聞こえてきた。
したを流れる堀川の両岸は、遊歩道として整備されている。
のぞきこむと、幼い女の子が泣きじゃくりながら歩いていた。その前を進むのは母親らしき女性。子供のことが心配でたまらない、といった表情。しかし、こころを鬼にしてうしろを振り向かない、といった様子。
どんな悪さをして、お母さんをおこらせたのだろう。

 

現代の式神はよく泣く。

そして母式神は、子供を泣きやませるのに難儀している。