路面電車が大好きなのは、おそらくその開放的な様子に惹かれるからだと思う。
二両編成の列車がコトコトとはしる…。地下にもぐったり、高架のうえを猛スピードで行き過ぎることはなく、いつもわたしたちとおなじ目線で街なかをめぐる。さらに駅舎にいたっては、すべてのヒトにおいでよ、と呼びかけているような垣根の低いつくりだ。おいでよ、おいでよ、おいでよ。
そんなわけで、阪堺電車の花田口駅で下車したわたしは、きっと笑顔でいたことだろう。
目の前に、ザビエル公園のみどりがひろがっていた。
おいでよ。
ザビエル公園 その1
ここがザビエル公園と呼ばれていると知ったとき、なんとも妙なかんじがしたものだ。
わたしがフランシスコ・ザビエルと聞いてまず思い浮かぶのは九州、なかんづく鹿児島だった。多くのヒトがそうかもしれない。実際に鹿児島市内には同じ名前の立派な公園があるという。
無論、京にのぼったことも、堺に滞在したことも知ってはいるものの、ここに名前を冠されるいわれはなになのか、わたしには見当がつかなかった。
フランシスコ・ザビエル その1
フランシスコ・ザビエルは1506年4月、北スペインのナバラ王国で生をうけた。しかし、その王国は1515年スペインに併合される。
1525年、パリ大学に留学。そこでのちにイエズス会初代総長となるイグナチオ・デ・ロヨラの知遇をえた。
1534年8月、ロヨラ、ザビエル、ほか数名の青年たちは生涯を神に捧げるという誓いをたてた。モンマルトルの誓いだ。
1540年9月27日、時の教皇パウルス3世によって、会は正式に認可された。
「神のより大いなる栄光のために」
ザビエル公園 その2
わたしは公園の奥へと進んでいった。
犬を散歩させているヒトが何人もいた。犬同士が鼻を突き合わせて挨拶をかわしている。日陰のベンチに腰を下ろしている老夫婦らしき二人。これ見よがしに (というふうにわたしの目には映った) 太極拳をきめる男性…。かれが黒いマントを羽織ってくれでもしていれば、ずいぶん愉快だったろう。ザビエルあらわる!
園内の説明版によれば、中世、このあたりが海岸線であったという。
1550年、堺に立ち寄ったザビエルを手厚くもてなした豪商日比屋了慶の屋敷が付近にあったことから、ザビエル公園と呼ばれるようになったという。
しかし直接にザビエルに言及しているものといえば、芳躅碑 (ほうちょくひ) が唯一のものだった。
フランシスコ・ザビエル その2
1541年4月7日、世界宣教のためリスボンを出発。同年8月、東アフリカのモザンビークに到着。ときにザビエル35歳。
1542年2月、モザンビーク出立。5月、インド・ゴアに到着し宣教にいそしんだ。
1549年4月、鹿児島出身のヤジロウらとともにゴアを出航、日本を目指した。
ザビエル公園 その3
そんなわけで、ザビエルの名前に思い入れをもってここを訪れると、すこしだけ肩透かしをくらった気分になるかもしれない。
総花的で、あれもこれも詰め込み過ぎだと感じるヒトもいるだろう。
鉄砲之碑というのがあった。
すぐ近くに鉄砲町という地名が残っていることから察せられるように、このあたりは鉄砲 (火縄銃) の製造地だったのだろう。
あるいは黒い金属でできた現代美術風のオブジェも置かれていた。
ポルトガルの芸術家、ジョルジ・ビィエイラの手になる「東と西の接点」と名付けられたそれは、ヨーロッパの西の果てに位置するポルトガルと東の果てにある日本との出会いをテーマとしているという。
1970年の日本万国博覧会のポルトガル館に展示されたあと、堺市に寄贈された。
ほかにも堺出身の詩人、安西冬衛の詩碑あり、中世祭事の解説版あり、むかしの海岸線をしめす石積みありと、なにやらこれでどうだと言わんばかりだった。
わたしはすっかりうれしくなった。
小説家の処女作は上滑りな失敗作に終わることがめずらしくない。
まだ技巧のつたないところに、あれも書きたい、これも書きたいと詰め込み過ぎたあげくに破綻してしまう。しかし書き手の熱量が異様な迫力で迫って来る。
そして、この公園からも同様の熱量が感じられた。
わたしは処女作が好きだ。その後の代表作と同様に。
その日、わたしは日の光のしたで処女作ばかりをえんえんと読み継いだのだ。
フランシスコ・ザビエル その3
1549年、ザビエル一行は薩摩半島の坊津に上陸。9月に伊集院城にて薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、布教の許可を得るも、その後は行く先々で布教を続けながら、陸路、京を目指した。
1550年8月、平戸入り。同年12月、周防国の守護大名・大内義隆に謁見するも、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りをかい、岩国から海路で堺に到着。
1551年1月、堺で知遇を得た豪商日比屋了慶の支援のもと、京入りをはたした。しかし後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への謁見を請願するもかなわず、京をはなれ西へとくだることとなった。
同年9月、豊後国に到着した。
ザビエル公園 その4
帆船を模した遊具もあった。
ザビエルののってきた船をイメージしているのだろう。
船体には「ebisu」の文字。この公園の正式名称・戎公園に因む。
この遊具にわたしがよじ登ったとしても、べつにおかしくはない。
恥ずかしがる理由はなにもない。
どこまでも続く大海原が見えるだろう。
フランシスコ・ザビエル その4
1551年11月、いったんインドに戻ることを決意して出帆。翌52年2月、インドに到着すると同年9月、さらに中国・上川島へとすすんだ。
しかしその数ヶ月後、肺炎をこじらせて46歳の生涯を閉じた。