香久山、耳成山、畝傍山…。大和三山の中でも、古よりしばしば「天の」と尊称を冠して呼びあらわされ、一等神聖視されてきたのが香久山だ。
天照大御神の天岩屋戸神話、神武東征のさい香久山の埴土 (はにつち) で祭器をつくり、天神地祇 (あまつかみくにつかみ) を敬いまつったという伝承。
やまとの国の始源の物語に、この山は深くかかわってきた。
天香山神社
香久山に到着した。
遠くから眺めているうちはあれほど美しい山容を見せていたものが、いざ目前まで来てみると、なんだかぼんやりとした姿に映ってしまう。
遠くから眺めるにとどめておくにかぎるなどと軽口をたたいたなら、なにやら高慢ちきな美人のようになってしまう。
でも実際に、すこし離れた、右手に見える耳成山は凛と整った姿をしめしていた。
わたしはまず、「月の誕生石」と名付けられた、香久山にいくつも残る磐座のひとつにむかった。
これは奈良市東部の柳生の里にある、柳生宗厳が刀で真っ二つに切り裂いたと伝わる巨石「一刀石」にそっくりだ。
その柳生の里も、本殿をもたずに三つの巨石を御神体と崇める天乃石立神社 (あめのいわだてじんじゃ)をはじめとして、磐座信仰のようすを色濃くのこすところだ。
天香山神社の鳥居をくぐると、右手に波波迦 (ははか・植物の名称とも、香久山の場所の名前とも) の木が見える。
天照大御神が天岩屋戸にお隠れになったあと、布刀玉命 (ふとたまのみこと) がこの木を用いて占いをしたという。
令和への御代替わりの大嘗祭に際しても、ここの波波迦が宮中三殿に献進されている。
わたしは拝殿へと進み、参拝をおえると、参道横にある登山道から山頂を目指した。
ふりしきる雨音が、いっそう激しくなってきた。
それでも頭上を覆う木々の枝葉のおかげで、傘なしで歩けたことは幸いだった。
それにしても、この急勾配の階段状の登山道、20日ほど前に登った二上山・雌岳のそれと瓜二つだ。一瞬、自分はまだ二上山にいるのかと思ってしまったほどだった。
國常立神社そしてミカドの国見
山頂に到着した。
わずかにひらけた平らな土地に坐す國常立神社 (くにとこたちじんじゃ) がわたしを迎えてくれた。
遠くに目をやると、畝傍山が見えた。
国見だ!
舒明天皇はここからやまとの国を眺め、あちこちから立ち上がるかまどの煙を見て、民の豊かな生活を大層お喜びになり、神武天皇の国見歌を踏まえながら「あきづ島 大和の国は」というあのよく知られたうたを詠まれたのだ。あるいはそうあれと願ったことほぎのうただったのだろうか。
国土神・國常立尊を迎えた山頂で、やまとの国の安寧を願った舒明天皇に思いをはせながら、わたしは反対側の登山道から山をくだっていった。
まだ、肩で息をしていた。
標識があった。
ここから4分ほどくだったところに、国見台跡があるという。
山頂から国見をしたのではなかったのか。
これはもう、なにがなんでもその場所を見ておかねばならない。
しかし、生い茂る下草のせいで、もはやどこが道なのかも判別できないありさまだった。しかもますます、地面はぬかるんできていた。
いったいどこをどう行けばいいのか…。
それでもわたしは歩みをとめることはしなかった。
困難にあたっても決して逃げることなく愚直に突き進み、たとえこの身が尽きようとも、初志貫徹、思いを遂げること。それが大和魂!
4分ほど歩くと、登山道口に出てしまった。
いったいどこから国見を…。
ここからなのか。
大きな石碑の裏手あたりが、台形上に開けている。
あるいはそこが国見台だというのか。
そこから眺める畝傍山は、ちいさな踏み台の上から見たように、ずいぶん身近に感じられた。
わたしも日々、このやまとの国を見ている。
10日ほど前、元首相が奈良市内で銃撃されて亡くなった。ウイルスの感染者数が過去最高を更新した。連日、食料品値上げのニュースが報じられている。数日おきに国のどこかでゲリラ豪雨が発生し、災害被害がでている。
きのう、古い友人から連絡があって、ひさかたぶりに会った。
冷凍うなぎを三尾、もらった。