休日の朝、庭先の白い花が芳香を放つ。
その花をつけた木は、玄関からガレージにむかうあいだにある。大豪邸ではあるまいにほんのわずかな距離、前日も、前々日も、毎日そのよこを通っていたのに、気づいてやれなかった。
元々、そこには背の高いハナミズキが植わっていた。
リードをつけて、庭でひなたぼっこをするしまこ (愛猫) が、よくそのそばで寝そべっていたものだ。
しかし、しまこが亡くなると、翌年、ハナミズキの木も後を追うように枯れてしまった。
かわりに植えたのがいまの木だ。
ガレージのすみにあったちいさな鉢植え。
最初の数年間は、花をつけなかった。
それがどんどん大きくなり、やがて白い花を咲かせるようになった。
この木の名前をわたしは知らない。
我が家では「しまこの木」と呼んでいる。
「しまこの木に花咲いてる!」
「このこ、白い花を咲かすんやったんや!」
花に顔を近づけてみた。
こんなかおりはいままで知らなかった。どんどんアタマがクリアになっていく。
いつまでもこうしていたかった。
N君のこと
ちょっとした日帰り旅行が好きで、休日にはよくドライブをする。
東に向かうときは針の温泉につかったあとで、名張にまであしを伸ばすことが多い。南なら吉野になる。吉野川のゆったりとした流れを日がな一日眺めている。西なら、何といっても大阪府の太子町だ。陵墳を巡ったあとで、ブドウ畑のなかをきょろきょろして歩く。盗人 (ぬすっと)に間違われやしないかと、すこしだけ不安になりながら。
N君と知り合ったのは、その太子町にある道の駅でだった。
「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」わたしは赤い軽自動車で。N君は四代目の黒いフェアレディZ (形式名 Z32)で。
Z32 は1989年デビュー。2000年まで生産された息の長いモデルだ。20年以上前のクルマを、30代半ばとおぼしきN君が新車で買えるはずはない。憧れのクルマを、中古車店巡りのすえに手に入れたのか。あるいは親父さんの、アニキのものなのだろうか。
伝統の三連メーターを排して操作系を左右のサテライトスイッチに集約した内装は未来的で、流麗なスタイルの外観と相まって、さながら宇宙船のようだ。
人目を惹くクルマなので、わたしはいつも気になっていた。
そうしてなんどか顔を合わすうち、わたしたちはどちらからともなく、短いながらも言葉をかわすようになっていった。
最初わたしは、きちんとした身なりのN君のことを失業中だと決めつけていた。会社の倒産を家族に告げることができずに、今までどおりに家を出て、夕方、笑顔で帰宅する。そんなかわいそうなヒトの記事を安手の週刊誌で読んだばかりだったせいだが、なんど会っても、N君からはそんな悲惨さは微塵も感じられなかった。ただ、わたしと同様に休みが平日、というだけのことだったのだ。家業の工場を手伝っているのだという。すっかり気心が知れるようになったころ、わたしはN君に、その誤解をあやまりながら打ち明けてみた。すると、かれのほうでもわたしのことを同様に思っていたのだと知らされて、わたしたちはゲラゲラと笑いあった。
大きな笑い声は、広い駐車場にえんえんと響いた。
腹がよじれそうだった…。
快晴。平日の午後、駐車場はいつものようにすいていた。
二上山山中の史跡について
その日、いつものように道の駅にクルマを乗り入れると、さきに来ていたN君が、待ちかねたとばかりに近づいてきた。目にちからがこもっている。
何事だろうか。
「ああ、すいません…。唐突なんですが、すぐそこの二上山登山口、ご存じですか」
「おう、わかるよ。この国道のすぐさき」
「勘弁してくださいよ、国道なんて味気ない言葉は。官道と言ってくださいよ。せめて竹内街道って」
いつものシャイなN君ではない。普段わたしたちは、当たり障りのないことしか話さなかった。天気のこと、コーヒーのこと、タバコのこと、そしてフェアレディZのこと…。会話は面白かった。
「今朝、すごく早くにここに来たもんで、あそこから二上山に登ってみたんですよ。清明な朝の空気に誘われたってところでしょうか。で、この山はすごい。二上山は」
いったいなにを言いたいんだろう。
「この山中には、史跡がいっぱい点在してるんですよ、石造の。ご存じでしたか。この山に入ったこと、おありですか」
「いや、山中にはいったことはないな。でも、すこしは知ってるよ。岩屋とか、ほかにも…」
「そうそう、それに鹿谷寺跡 (ろくたんじあと)」
わたしは二度、小さくうなずいた。
「どちらも奈良時代の仏教遺跡ですよね。見事でしたよ。それにしても鹿谷寺跡、ボクはあれをまぢかに見て、カラダが震えました。あの十三重の石塔。高さは5メートルでしたか。あれはよそで造った塔をあの険しい山中に持ち込んで、組み立てて設置した、そんなもんじゃないんです。それだって途方もないことだ。でもそうじゃなくて、まわりの凝灰岩の岩盤を掘り込んで、掘り下げていって、最後にあの石塔を残したんですよ!つまりあの塔は、足下の岩盤と同体ってわけです。これって人力のなせる業なんでしょうか。なにを想えば、そんなことができるんですかね」
「それは違うと思うよ。最初から石塔の建立だけを意図してたんじゃなくて、そこはもともとは石切り場だったはずなんだ。さんざん石を切り出し、運び出して、最後にのこった部分を石塔に加工したんじゃないかな」
「石切り場。そう、岩屋のすぐそばにも石切り場跡が残っていましたよ。高松塚の石棺はここから切り出されたんだって、プレートがありました。つまりこの二上山は、古墳文化と仏教文化のあいだのミッシング・リンクってわけなんですよ」
なぜ、そうなるんだ。
「大阪と奈良の府県境には、山々が連なってますよね。北から、生駒山、信貴山、二上山、葛城山、金剛山…。この一連の山系には…」
山中でおかしなガスでも吸ったのかい、などとは言わなかった。
「ちょっとコーヒーブレイクにするか。歴史談義、興味深いよ。なにか買ってこよう」
売店にむかうわたしの背後で、N君の声がした。
「この山系で修験道がおこったこと、これは必然だったんですよ」
屯鶴峰駅を夢見て
わたしはN君にコーヒーを差し出した。N君はブラック一本やりだが、わたしは甘いのを好む。
さあ、Zの話でもしようじゃないか。もうすぐ新型がでる。プロトタイプを見たぞ。すごくいかしてる。
それにしても、いつもピカピカにしているZ32、きょうは埃まみれだ。どうしたんだろう。
N君はひとくち飲むと、言葉を続けた。今日はどうしてもこの山のことを話したいらしい。
「ここには、ひとつ気になることがあるんです。上ノ太子駅と二上山駅のあいだに、むかし、もうひとつ駅があったってご存知でしたか」
「屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) だね。最近ウィキで知ったよ」
「ボクもおなじく…、です。それって正確にはどのあたりにあったんでしょうかね。ボクは屯鶴峯の駐車場のあたりじゃないかって思ってるんですよ。ちょうど線路のすぐ横ですしね。あそこに駅があって、にぎやかな家族連れがおおぜいおりてくる。そんなところを想像すると、なんかワクワクしてきませんか。それでみんなして白い岩の上に腰を下ろしてお弁当をひろげるんです。なんか楽しくありませんか」
わたしのほうから誘ってみた。
「いまから行ってみるか、屯鶴峯」
ちょうど山の反対側になるとはいえ、20分ほどで二台のクルマは屯鶴峯の駐車場に着いた。
わたしたちはクルマからおりて、あたりを見まわした。ほかのクルマはなかった。道路をはさんだ向かい側に、ちいさなため池があった。
すでに日は暮れかけていた。
遠くから、はしる列車の音が近づいてきた。
突然、N君は駐車場の柵を飛び越え、線路のうえに立った。
笑っていた。
「おい、なんの真似だ!」
N君はわたしのほうに向きなおると、右手を腰に当て、左手を真横に伸ばすと、近づく列車のほうを指さした。
「思ったとおりだ。やっぱりここなんだ!」
おい!わたしは叫んだ。
迫りくる列車のライトが、一瞬N君の姿を照らし出す。そしてすぐさま、その強烈で、猛々しい白い光。激烈で、有無を言わせぬ強い光がわたしの視界を覆いつくした。
「みんなどうして気づかないんだ!いまもここが駅なんだ!無くなってなんてなかったんだ!列車はここにとまるんだ!」
しかし、列車はとまらなかった。