【八幡神社 (八井神社) 】神武天皇の皇子、神八井耳命の墳墓伝承地

神武天皇の皇子、神八井耳命 (かむやいみみのみこと) は第二代・綏靖天皇の兄御子で、多氏の祖とされている。

日本書紀畝傍山の北に葬られたと記す。

かつて八井神社と称されていたとされる八幡神社 (橿原市山本町) の本殿がたつ、盛り土状の小丘が、その神八井耳命の墳墓であると見做されている。

 

~目次~

八幡神社

橿原市山本町 (旧 山本村) の集落からすこし離れて、畝傍山の山中にあしを踏み入れたとき、ちいさな八幡神社を見過ごさずに立ちどまれたことは、幸運だった。
それは八幡神、あるいは村の鎮守といった言葉から想像されるたたずまいからは幾分かかけ離れた、不思議な光景だった。

 

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いったいどこからが境内なのか、それを示すものはなにもなく、わずかばかりの平らな土地に、いきなり石造の鳥居と灯籠が目にとびこんできた。

そして鳥居の奥には白壁の拝殿。

拝殿に扁額は掛けられておらず、作りつけの鳥居のそれにも、いっさい文字は彫られていない。

そしてあたりを見回してみても、どこにも八幡神社、あるいは八幡宮の文字を見つけることはできず、神社名を示すものはなにひとつない。

ただ、灯篭に『大神宮』との文字があるのみだ。

わたしは拝殿で柏手をうち、しばらくそこに立ち尽くしていた。

八幡神社? それは役所に届ける際の便宜上の名前なんだよ」

なにやら無言で、そう訴えかけられているような気がした。

拝殿のうしろにまわってみる。

盛り土のうえに、祠と呼びたくなるほどの小さな本殿。

 

こここそが、神八井耳命の墳墓と考えられているところなのだろう。

御陵山

享保年間に編纂された最初の幕撰地誌書『五畿内志』のなかの『大和志』において、ここは御陵山 (みささぎやま) の名称で簡単に紹介されている。すなわち「御陵山  山本村にあり。神八井耳命の墓なり。小祠あり。綏靖帝の兄にてまします」
また明治時代に入って刊行された地名辞典、地誌書である『大日本地名辞書』(吉田東伍) は畝火山北稜との項目を設け、この伝承地について長文の解説を寄せている。

この辞書はしばしば過去の歴史書の記述に疑問を呈し、また冷静な筆づかいのうちにも、随所に著者の私見が披瀝されたりしていて、歴史読み物としてみても興味深い著作だが、その魅力はここでも十全に示されている。

■大日本地名辞書 畝火山北稜 (要旨)■
神八井耳命 (綏靖帝兄) の墓なり。大字山本にあり。御陵山とよばれている。小祠があり、墳丘然とした隆起が認められる。ここが神武天皇の皇子の墓であるならば、なぜ御陵山と名付けられたのか。古事記では神武陵は畝火山の北方、白橿の尾根の上とされているが、現在の神武陵は平地にあり、その記述と符合しない。こここそが神武陵なのか、それとも神武皇子の墓なのか、今後検討を要する。

 

御陵山と名付けられた所以は、畝傍山周辺でひろく信仰されていたとみられる、神功皇后信仰にもとめられるかもしれない。

神功皇后信仰

畝火山口神社

畝傍山の西麓に坐す畝火山口神社
ほかの多くの山口神社がそうであったように、その始源においてはここでも素朴な、名もない山の神、水の神に祈りを捧げていたものと考えられるが、その後、御祭神は大山祇命と定められた。しかしかつては「神功社」と称されていたことからもわかるように、古い時代から、現在のように神功皇后がおまつりされていたと考えられる。

第14代・仲哀天皇の皇后。天皇崩御後、その遺志を受け継ぎ熊襲征伐を成し遂げたのち、新羅に進軍し服属させた (新羅征討説話、三韓征伐とも)。新羅への渡海時には身籠っていたが、鎮懐石、月延石を下腹にしのばせ、さらしを巻いて出産を遅らせたとされている。九州に戻ったのち誉田別尊 (ほむたわけのみこと・応神天皇) を御生みになったことから、安産の神としてひろく信仰をあつめている。
また、明治時代以前には神功皇后を第15代天皇とみなす考えもあったが、現代の皇統譜では、天皇からは除外されている。

その時期は、埴土神事 (摂津国一之宮、住吉大社の神事で用いる土器を作るための土を、畝傍山山頂より採取する神事。現在に至るまで続いている) の始まった頃であろうか。

これは住吉大社による畝傍山の祭祀権への干渉と考えるべきかも知れず、神武東征の終盤、奈良の吉野山中において、神武天皇は天の香久山の土で厳瓮をつくり戦勝を祈念した、との逸話を容易に連想できる。このころ畝火山口神社は、住吉大社の御祭神である神功皇后と住𠮷三神の一、表筒男命を 受け入れたのだろう。 

神武天皇が戦勝を祈念して厳瓮 (いつべ) を沈めたと伝わる夢淵。奈良県東吉野村
そして、この式内社 (名神大社)、畝火山口神社の神功皇后信仰が、畝傍山周辺の集落に影響を与えなかったとは考えられない。
どの集落でも、四季折々の日々のなかで神功皇后をふと意識する、といったことはじゅうぶんにありえただろう。そんななかで、集落ごとに異なった神功神話といったものが形成されていった。

仙洞御所

八幡神社のある山本町 (旧 山本村) のとなりに、かつて洞村という集落が存在した。

村のもっとも畝傍山の山頂寄りには丸山という円丘があり、そこは神武天皇の御陵とも見做されていた。

しかし、ながらく公式には所在不明とされていた神武陵は、幕末、孝明天皇の御沙汰によって丸山ではなく、四条ミサンザイ (現在の神武天皇陵) に決することとなる。

■洞村■
かつて畝傍山山麓に存在した集落。神武陵を見下ろす場所にあるのは不敬であるとされ、大正時代に総戸数約200、住民1000人あまりの洞村は全村移転 (廃村) となった。

 

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その洞村の口伝には、やまとにお戻りになった神功皇后が洞の地に仙洞御所 (離宮) をたてられた。それが洞という地名の由来である、というものがある。

全村移転までは丸山のすぐ目前にあった生玉社は、現在、生国魂神社の名称で橿原市大久保町に遷座されているが、ここには、神功皇后と、もうひとり竹内宿禰とも見える白いあごひげをたくわえた人物とが、赤子 (誉田別尊だろう) をあやしている様子を描いた額が奉納されている。

同様に御陵山 (畝火山北稜) のある山本村においても、神功皇后 (先に記したように、あるいは神功天皇と見做されていたのかもしれない) が信仰されていたと考えるとき、そこにある祠が、後世、八幡神 (誉田別尊) をまつる八幡神社と称されるようになったことも、筋道がとおっており無理なく理解できる。

そして、そこでは皇后にあやかって安産を祈念していたのだろうか。

そう考えるに足る遺物が、八幡神社の本殿前に残されている。

陽物信仰

陽物信仰などの言葉で言い表されている、安産、多産、豊穣の恵みなどを願う祈りの場には、ふつう、陰と陽、ふたつの依り代が示されている場合が多い。

畝火山口神社の陰陽石

では、何故ここでは陽物だけなのだろうか (勿論、そのような例がめずらしいわけではない)。
わたしは、これは旧 洞村にのこる丸山のすぐ下にある洞 (穴) と対照をなしているとみる。

 

この洞村の水利施設、しばしば井戸と紹介されているが、正確には井戸ではない。

むかって右側、標高の高いほうの山肌からここで地下水が流れ出てきて、その水が凹んだ洞 (穴) にたまり、あふれた分は左側の低い方へと流れ出るようになっている。

洞村という村名も、おそらくはこれに因んでのことだろう。

レンガ造りの部分などは近代にはいってからのものに違いないが、内部の石積みの奥壁などは、相当に先行した時代のものであることが見て取れる。

古書に『洞之清水』と記されているものが、これにあたるのだろう。

降雨の少ない奈良盆地にあって、この湧き水は、まさに神の恵みと思われたことだろう。

そして古人 (いにしえびと) たちは、その水のたまる洞 (穴) を陰に見立てた…。

だからこそ隣村の山本村の村人が、洞之清水の神威をさらに大きなものとし、その恵みにあずかろうとして、御殿山のまえに陽物をまつり祈った。

まさに陽物の角度、向きが、ちょうど洞之清水のほうを示しているのを見るにつけ、わたしにはそう思われてならない。

おわりに

大和三山のひとつ、畝傍山ときいて大抵のひとが思い浮かべるのは橿原神宮神武天皇陵、それに畝火山口神社といったところだろうか。

しかしわたしは丸山 (洞村、大正時代に全村移転) や御陵山 (山本村、現 山本町) にこそ強く惹かれる。

御陵山にのぼって八幡神社のほうをふり返った。

丸山との形状のあまりの類似にはっとさせられる。

木漏れ日がさしてきた。

それまで無風だった小丘のうえに急に吹きつけてきた南からの風が、わたしを戸惑わせた。

 

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参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)

 

恐懼に堪えざることに抗してー天皇 (制) による洞部落「強制」移転ー

 発行 / おおくぼまちづくり館保存会