もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山宮祉を行く

幕末の文久年間に、現在の四条ミサンザイが神武天皇陵と治定される際には、そこからすこし離れた畝傍山の尾根のうえにある、墳丘状の丸山と呼ばれていた場所も有力な候補地だった。

遠く歴史の向こうに置いてこられたまま、いまでは顧みられることさえまれな、その丸山を訪ねた。

 

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~目次~

 

洞村について

全村移転

神武天皇陵の参拝道から、石段をのぼったさきに西へとぬける脇道がつづいている。

その道にそうようにして、かつて洞村という集落が存在した。

しかし明治以降、政府や奈良県などが推し進める畝傍山神武天皇陵、橿原神宮を一体化した神園化のながれのなかで (いにしえの荘厳な風景を現出させる)、時代が大正にうつると、神武陵のすぐ目前で日々の生活を営んでいた総戸数約200、村民1000人にもおよぶ洞村は全村移転となる。

家屋はいうに及ばず、お寺や神社、共同浴場に墓地などいっさいが立ち退きを余儀なくされて、いまその跡地は植林された木々に覆われ畝傍山の一部と見紛う光景をみせている。

丸山は、そんな洞村のもっとも山頂寄りに存在した。

その高みから、かつては村全体を両腕をひろげていつくしむように見守っていたであろう丸山は、いまも、ひとけの失せた畝傍山山麓にひっそりと眠っている。

村人の息づかい

わたしは旧 洞村をのぼっていった。

地面がじっとりと湿っている。

地下の水脈が、地表から近いところを流れているような印象だ。

突然、水の流れが露出しているところに出くわした。

なにかがきらきらとひかっている。

覗き込むと、瀬戸物のかけらだった。

茶碗だろうか。

わたしはその場にしゃがみこんだ。

あわただしく荷造りをして、住み慣れた土地を離れていく無念と不安の顔が列なす光景が目にうかんだ。

名状しがたい感情に襲われる。

それでもわたしは、掛け声を発して立ち上がると、ふたたび歩きだした。

あとすこしで、丸山が見えてくるだろう。

丸山宮祉

腰の高さほどの石柱が見えてきた。
『宮』と彫られている。

1本、2本、3本…、樹木が生い茂り落ち葉が一面を覆うなかで、都合5本の石柱が円形に配されているのが確認できた。

直径は15メートルといったところだろうか。20メートルはいかないだろう。

その墳丘状のものが、方形の平らな土地のうえにのっているようにも見える。

そして元々は、下のようなかたちだったのではないか。

新沢千塚古墳群 (奈良県橿原市・2024年2月1日撮影)

それにしても『宮』と彫られた理由はいったい…。
ここが神武陵であるとともに橿原宮でもあるとの主張だろうか。あるいは神武天皇の御霊をまつった生玉社の元宮がかつてはここにあったということなのだろうか。もしかするとたんに『陵・ミササギ』とするのを憚られてのことかもしれない。

事情は年月の流れのなかで、わからなくなってきている。

「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武さんが丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。

わたしにはわからないが、畝傍のお山は知っている。

洞之清水

丸山のすぐ下 (平らな方形状の土地の下) に洞村の水利施設がいまも残されている。
ここはしばしば、井戸と紹介されているが、それは正確ではない。

古書に『洞之清水』と記されているのが、これにあたるだろう。

地下の水脈が、向かって右側 (標高の高い側) から流れてきてここで露出し、洞 (穴) にたまり、水位が上がり過ぎた分は左側 (標高の低い側) から抜けるようになっている。

いわば天然のダムのようになっている。

レンガ造りの外観などは (内部の天井部も) 近代になってから造られたものに違いないが、覗き込んでみると、奥壁 (それは丸山の外周部にもあたる) は小さな石を積み上げてできており、相当に先行した時代のものであることが見てとれる。

 

洞というめずらしい村名の由来についてはさまざまな推論が示されているが、わたしはそのいずれもが要領を得ないと、ずっと感じていた。

この場所、この洞こそがその由来だとわたしには思われる。

山肌から流れでる清水が洞にたまり、過ぎたるぶんは里のほうへと押し出されていく。

この場所で水の神、山の神に感謝と祈りをささげたのが丸山信仰、丸山祭祀の始源のすがたであったと考えたい。

それが律令国家の成立、そして中世へと時代を経るなかで、素朴な水の神、山の神はこの国のいたるところでそうであったように、天津神やそれにつながる天皇へと置き換えられていったのではないか。

 

結局、丸山と四条ミサンザイ、どっちが本当の神武陵なの? どっちが嘘?

どちらも本当なんだよ。
そこが神武陵だと信じて長い年月祈る人々がいた。ならそこが神武陵なんだよ。

 

なんかモヤモヤする。
いっそ、丸山を子細に調べてほしいよね。いまの公式な神武陵、四条ミサンザイを発掘調査するよりも社会的なハードル低そうだし。

そうなれば間違いなく古代祭祀の痕跡が見つかるんじゃあないかな。
いずれにせよ、神話や伝承というものは、いまみたいに国家に押し付けられるものではないんだ。我々の手に取り戻さなければいけないんだ。

(洞) 穴のちから

われわれのいちばん最初の穴の記憶は、誕生に際しての女性のそれだろうか。

そして、そのことを記憶の奥底に閉じ込めたままでいるのならば、祈りの始源を穴にもとめることは、じゅうぶん理にかなったことと言わねばならない。

穴に祈り、穴に魅了されて、ときには山肌に穴を掘る…。

 

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そしてこの洞村の水利施設のすぐ前にも『宮』と彫られた短い石柱があった。

あるいは上の5本と同様の長さであったものが、土砂に埋もれてしまっているのかもしれない。

いずれにせよ、かつてはここまでが聖域であると認識されていたのだろう。

おわりに

わたしは丸山からくだって行って、用水池のまえにでた。

たくさんの水鳥たちがはねを休めていた。

わたしが近づいても、いっこうに飛び立つ気配がない。

かつてはこの池の東隣に、洞村の墓地があった。

いまは墓石のないその場所の墓守りのように、鳥たちは動かなかった。

それはまるで、洞の村民たちが丸山を先祖代々守り通してきた姿とかさなって見えた。

わたしは家路についた。

部屋にはいると、ズボンのポケットからはみ出していたタオルに植物の種子がたくさんついているのが見て取れた。

それは執拗にへばりついていた。

ひとつひとつ、丹念に取り除く。

来週の休みには、また丸山に行こう。

そこでこれを撒けばいい。

春には芽を出すだろう。

 

 

 

参考資料・参考書籍

近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟

  京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)

  著 / 高木 博志

 

明治維新と神代三陵 ー廃仏毀釈薩摩藩国家神道

  著 / 窪 壮一朗   刊行 / 法藏館 (2022年6月)

 

隠された神々

 著 / 吉野 裕子 刊行 / 講談社 (1975年)

         同 / 河出書房新社 (2014年11月)