近鉄南大阪線・上ノ太子駅と次の二上山駅のあいだは、わずか5キロあまり。その短い距離のあいだに、じつは戦前まで、もうひとつ駅があったとつい最近になって知って、たいへん驚いたものだ。どこにあったにせよ、それは山深いところにポツンと駅があったことになる。いまでは周辺のどこにも、その面影をみいだすことは難しい。
屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) は1937年 (昭和12年) 12月、屯鶴峯 (屯鶴峰とも) を訪れる行楽客の便を図るためにつくられた。しかし1945年 (昭和20年) 運用を停止。そして1974年 (昭和49年) 応神御陵前駅などとともに、正式に廃駅にいたったという…。
奇勝・屯鶴峯
太子町の観光みかん園を眺めながら、穴虫峠をクルマはのぼっていった。
大阪と奈良の府県境を越えて、今度はすぐにくだり坂になる。
ハイキング姿の四人連れが、屯鶴峯の入り口で楽しそうに記念写真を撮っていた。わたしと同年配の男女、夫婦だろうか。そして若い女性ふたり、かれらの娘だろう。
こんなウイルス騒ぎのさなかでも、(だからこそ) ここは根強い人気があるようだった。
雨上がりの曇り空。気温のあがりきらない今日のような日は、歩くには好都合といえる。
わたしはクルマをとめて、かれらのあとに続いた。
屯鶴峯は金剛生駒紀泉国定公園の一角を占める、奇岩群・奇勝地である。
二上山の火山活動 (最終活動期は1400万年前とも) により堆積、その後、隆起して露出し、長い年月の風化、浸食を経た白色の凝灰岩のみせる景観は、まさにまれにみるものだ。そして、これが鶴が屯 (たむろ) しているさまを想わせることが命名の由来だという。
わたしは首をかしげるばかりだった。
いくら目をこらしても、どこにも鶴はいない。
上半身をひねって眺めたり、天橋立よろしく股のあいだからみてみても、おなじだった (上半身をもとに戻したとき、頭がくらくらした) 。いまもまだらに斜面に雪ののこる春の雪山にしかみえなくて、わたしはくすくすと笑いだした。
しかし、白色が目にあざやかなここの眺望景観がみごとに美しいことに異を唱えるかたは、おそらくおられないだろう。
二上山から切り出された石材は、高松塚古墳の石室をはじめ、おおくの古墳に使用された。
鶴が、石切り場から運んだわけではあるまいが…。
暗闇の中で
その夜、暗闇をみた。
あれは明かりを消した部屋の天井だったのか、タバコを吸うために外へ出たときに眺めた夜空だったろうか。それともわたしの瞼の裏だったのか。
赤茶色の、四両編成の近鉄電車が、左手からななめ上方にゆっくりと、音もなくのぼってきた。そしてぐるぐると、おなじところをまわりはじめた。ぐるぐると、いつまでも…。
自分の停まるべき駅がみつけられなくて、所在なさげに、いつまでも、いつまでも。