天誅組の変に対する世間の評価は、令和のいまとなっても定まっているとは言い難い。
おなじ江戸時代の大塩平八郎の乱などには、われわれは散りゆく美学のようなものをそこに見る。
しかし40日にわたって大和国を転戦した天誅組にたいしては、そのような視線を向ける者ばかりではない。
暴徒、あだ花と一蹴する向きもある。
文久3年8月13日、孝明天皇による大和行幸の詔勅が発せられると、公卿 中山忠光 (孝明天皇の元侍従、明治天皇の叔父) を主将とする天誅組は「皇軍御先鋒」を自負し同17日、幕府天領の五條 (現在の奈良県五條市) にあった五條代官所を焼き払い、近くの桜井寺を本陣に定めると「五條御政府」の表札を門前に掲げた。
しかし翌18日、京の政局は一変する。
攘夷派の公卿は官位を剝奪されて失脚し、長州藩は御所の御門警護の任を解かれ (8月18日の政変) 、大和行幸の詔勅は偽勅とされて、天誅組は挙兵の根拠を失うことになった。
京都守護職 松平容保から天誅組討伐令が出され、朝廷からも忠光を逆賊とする令旨が下るなか、それでも一時は高取城 (奈良県高取町) を攻めて気勢をあげるなどしたものの、その後は敗走に敗走を重ね、多くの離脱者、戦死者を出しながら、9月24日、鷲家口とその先の鷲家 (いずれも奈良県東吉野村) に討伐令を受けて陣をはっていた彦根、津、紀州の各藩兵と最後の戦闘になる。
ここに天誅組は壊滅した。
その後も幕府による追討は徹底的に行われた。
忠光はわずかな従者に守られながら、27日、大坂の長州藩邸にたどり着き、下関に落ちのびたが、藩の実権を恭順派 (俗論派) が握るなか、 殺害されてしまう。
最終的に、維新後も生きのびた烈士はわずか数名であったという。
天誅組終焉之地
宇陀市を発って、鷲家川に寄り添うようにのびる県道16号を通り、東吉野村にはいった。
日陰の路肩には雪が解けずにそのまま残っていた。
すこし開けていたクルマの窓から、外の冷気が吹きこんでくる。
行く手に碑が見えた。
わたしはクルマをおりて、碑の横にかかる橋を渡った。
橋のかかりのところに、のぼりがはためいていた。
橋を渡りきると、すぐに「天誅組遺跡」と記された解説板が目に飛び込んできた。ここは天誅組三総裁のひとり、吉村寅太郎無念の地。
薄暗かったそこに、急に光が射してきた。
さらにクルマで進んでいく。
よく見ると、村のいたるところに「天誅組遺跡」「天誅組史跡」の説明版が掲げられ、碑がたてられている。ここが最後の激戦地であったことを否応なく知らされることになる。
さらにさきには「明治谷墓所」
かなりののぼり勾配だ。しかもけっこう距離もある。
わたしは途中で何度か休まなければならなかった。手すりのあることはありがたい、と思いながらのぼっていると、はて、この感じは以前にもあったな、と思った。そうだ、羽曳野市の壷井八幡宮に参拝したあとに、河内源氏三代の墓所を訪ねたときだ。
あのときも、手すりの有難さが身に染みたものだ。
年齢を否応なく思い知らされる。
口で息をして、胸をおさえ、前かがみになってのぼりきった。
物言えぬ烈士たちの墓石が並んでいた。
ニホンオオカミ、そして神武東征
すこし後戻りして、脇道にそれよう。
絶滅したニホンオオカミ、その最後の捕獲例は明治38年、ここ東吉野村で捕らえられたものとなる。東吉野村役場から、高見川をはさんでほどちかいところにニホンオオカミの像がたてられている。
さらに高見川の上流へと進んでいく。
丹生川上神社・中社にいたる。
ここをはじめて訪れたのは、去年の元日のことだ。
中社の先、蟻通橋の向こうに「夢淵」と名づけられた瑠璃色の深淵がある。
「夢淵」の名称は、斎 (いみ) 潔 (きよめ) る「斎淵 (いみぶち)」が訛ったものとも、また神武天皇が東征のおり、夢にあらわれた天神の教えにしたがって天の香久山の土で厳瓮 (いつべ・御神酒をいれるかめ) をつくり、戦勝を祈念してそれを沈めた場所だからともいわれている。
それを伝える聖蹟碑がたてられている。
天誅組史跡公園
「激戦のあと、集落に散乱する死体を片付け、弔うのが大変だったそうだ」といまも村の古老が語り伝える凄惨さを、この静かな現在の東吉野村から想像することは難しくなってきている。
わたしは最後に、天誅組史跡公園に向かった。
ここは村民が、自らの私有地を整備してつくりあげ、一般に開放しているもの。
山中で戦死した天誅組三総裁のひとり、松本奎堂最後の地へのちょうど登り口にあたる。
墓所まで900メートル、いざ行かん。
まだ所々、雪がのこっている。
大丈夫だろうか。
しばらくすると、丸太橋らしきものが見えてきた。
無事渡ることができるのか。
穴などあいてはいないのか。
しかも足跡が見えるのだが、これ、妙なかんじだ。
手前のほうは橋の右側ぎりぎり、そして斜めに渡って行って、渡り切る頃にはこんどは左側ぎりぎりを進んでいる。
ふつう、真ん中を進まないか。
そんな端を行って、もしも足を滑らせでもしたら転落してしまうのだから。
「人間なら」こんな歩き方はしないはずだ。
さきに渡られたのは、いったいどなた…。
しかし、わたしは進んだ。
そこからさきは、本格的に山中にわけ入る感じになる。
そして手作り風の案内板。
1000メートル!
距離、増えてないか。
最初、900メートルの表示があって、あれから200メートルは登ってきているぞ。
おかしいではないか。
どうなっているんだろうか。
ともかく、急ごう。
ますます周囲は雪に覆われて、どこが道なのかさえ見分けられなくなったきていた。
わたしは振り返った。
ずいぶんと登ってきたことには間違いない。
しかし、ここまでだった。
もはや、足をあげることさえ苦しかった。
総裁戦死の地まで、あと800メートル。
わずか150年前、この山中で志を打ち砕かれ、散った命があったのだ。
のぼりよりも、くだりのほうが難儀する。
日常生活で身に染みていることだが、滑りやすい雪の残る山中ではなおさらだった。
公園の入り口まで戻ったとき、わたしは精根尽きかけていた。
そして周囲を見渡す。
墓所まで900メートルの碑
そのとなりに、山中で見かけたのとおなじ案内板があった。
なるほど、わたしが見落として、勘違いしていたのだ。
天誅組、しかし自身はまえに記したように「皇軍御先鋒」「五條御政府」を名乗っていたのであり、いつからかそう自称するようになったのか、あるいは周囲がそう呼ぶようになったのかは、いまとなっては定かでない。
風が吹いてきた。
山から吹きおろす風が、公園入り口の黄色い天誅組ののぼりをはたはたと揺らした。