日本海軍発祥の地
名高い神武東征は、いまの宮崎県美々津を船出して始まったと伝えられている。初代天皇神武(イワレヒコ)は途中、宇佐などに立ち寄りながら瀬戸内海を東進、生駒山を越えて大和入りを目指すもナガスネヒコと衝突して敗走。再び海路、紀伊半島をまわり熊野に再上陸すると、幾多の苦難をはねのけ、霊剣・布都御魂(ふつのみたま)を授かり、ヤタガラスに導かれるなどしてついに大和入りをはたし、畝傍山(うねびやま)の麓、橿原宮で初代天皇として即位する。
この東征神話には、どのような史実が反映されているのだろう。史実などなにひとつない。天皇家の権威づけのための壮大な創作だ、と言うひとがいる。饒速日(ニギハヤヒ)の九州からの東進譚をなぞったものだと言うひとがいる。銀を求めて移動したという説もあれば、いや、すべてが史実だ。神武こそは神の御子なのだと、声高に叫ぶひともいる。
神武天皇が御船出に先立ち、住𠮷三神、すなわち底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を奉斎し、航海の無事を祈念したとして、第十二代景行天皇の御代、この地に立磐神社が創祀された。境内には「神武天皇御腰掛之磐」があり、注連縄をかけ、玉垣を巡らせて御神体としている。そしてすこし離れたところに、東征神話に因んで「日本海軍発祥之地」という石碑が誇らしげに、高々と建っている。こちらは米内光政、元内閣総理大臣・海軍大将の揮毫(きごう)による。
しかし実際の美々津は「東征」「日本海軍」といった勇ましいいずれの言葉とも、いっけんかけ離れた穏やかなところだ。
耳川が波おだやかな日向灘にそそぐ河口付近には、かつて「美々津千軒」とも称された京風、上方風の白壁に出格子をそなえた多くの町屋が、江戸時代から明治、大正と海運で栄えた当時のおもかげをいまに伝えている…。
船出せよ
その古い町並みを、わたしはゆっくりと歩いた。何軒かの建物はカフェに改装されて、営業していた。石畳の通りは、日々、磨かれているのではないかと思わせるほどなめらかで、周囲の風景を映している。まるで一個の虹色のジオラマのように美しい、美々津の町は。すると、ここに立ち尽くしているわたしは、その中の小さなオブジェでしかないのか。ふとそんなことを考えると、急に、自分のことがちっぽけな存在に思えてきた。
…船出せよ
わたしは、いままでに何度の船出を経験しただろうか。若いころ、どこにも出かけず雨戸をしめて自室にこもり、寝食を忘れて何年も好きな小説を読み耽(ふけ)っていた。あれは船出だったろうか。しかしどこにも橿原宮は見えなかった。あるいは転勤で見知らぬ山陰の地にながくいたこと。あれが船出なのか。ついぞおきよ丸は現れなかった。
…船出せよ
船出のない人生にいったいどんな価値を見出せばいいのか。
いま、海原に漕ぎ出そう。錨をあげて、ちからの限り大声で叫ぶのだ。たとえ1メートル、また1メートルだとしても、船は前へと進んでいくはずだ。たとえ待ち受けるのが難破や遭難だとしても、恐れるな。船出だ。
わたしは、国道わきにとめていた車のほうに歩いて行った。
不意にうしろから吹きつけた風に背中を押され、足早になった。