飛鳥戸神社と観音塚古墳に行ってきた。うかつにも子供のころの甘い思い出がよみがえってきた。

「近つ飛鳥博物館」「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」「飛鳥ワイン」「飛鳥橋」…。

遠方から大阪府太子町や隣接する羽曳が丘 (大阪府羽曳野市) のあたりにはじめて来たヒトのなかには、首をかしげるむきもおられるだろう。

ねえ、飛鳥って奈良じゃなかったかな、飛鳥ナンバーのクルマって奈良だよね、と。

飛鳥という地名自体は全国あちこちにあり、とりたてて特殊な名称ではない。

古事記は、その由来をつぎのように記述している。

いのちを狙われ、難波 (なにわ) から石上神宮に退避した履中天皇のもとへ向かう弟の水齒別命 (みずはわけのみこと・後の反正天皇) が、仮宮をたて最初に宿泊したあたりを近つ飛鳥 (難波から近いほうの飛鳥)、翌日やまと入りし、神宮にむかうまえに泊まったところ周辺を遠つ飛鳥 (現在の奈良県の明日香村) と呼ぶと。

そして、近つ飛鳥を飛鳥戸 (あすかべ) ともいい、近年では河内飛鳥ともいう。

ここは不思議なところだ。

あたりを見回してみる。

遠くの山並みを見ているときには、なんの違和感もない。しかしひとたび視点をちかくに移すと、駅舎、神社、コンビニ、古墳…、薄い膜をとおして風景を見ているような奇妙な気持になる。なにやら退行して母体にまい戻ったような、あるいは前世を見ているような。

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だからわたしは、なんども繰り返しこのあたりをよく散策する。

また、ちょっとした驚きに出会いたくて。

 

飛鳥戸神社に詣でて

羽曳野市に来た。

すぐむこうは太子町になる。

丘陵地のいたるところ、ビニールに覆われたブドウ畑でしめられている。

遠くに二上山のふたつの峰がはっきりと見えた。あの山を越えると奈良県になる。

わたしは近鉄上ノ太子駅前を通り過ぎ、すぐさきにある飛鳥戸神社 (あすかべじんじゃ) を目指していた。

もう、なんどめかの参拝になる。

駐車場のないことはわかっていたので、近くにクルマをとめて徒歩でむかった。

飛鳥戸神社は創建年は不詳。

元々は飛鳥戸造 (飛鳥戸氏) の祖神、百済の昆伎王 (こんきおう) を祀っていたとされている。延喜式神名帳では名神大社に列せられている格式高いお社だが、明治41年、近隣の壷井八幡宮に合祀された。そして昭和27年、分祀され、以前の社地近くの現在地に再建された。そのような経緯から、いまでは名神大社の格式と結びつかないほどこじんまりとしているが、そこからずいぶんと離れたところにある石造りの鳥居が、かつての広大な神域を偲ばせてくれる。

短い参拝道に咲く花が、わたしを出迎えてくれた。

石段のさきで、わたしと同年代の夫婦が、ほうきを持って落ち葉を掃いていた。

「こんにちは」

「ごくろうさまです。ようお参りで」

拝殿の奥に引き戸があり、本殿にすすむには、そこを通らなければならない。わたしはなぜかしら引き戸を開けるのがためらわれ、いつも拝殿で柏手を打って、そこを辞する。

本殿のまわりに、幾本かのちいさな木が植樹されていた。

数年前、夕刻にここの参拝をおえて背後から流造の本殿を見返したとき、ぎょっとしたものだ。

鎮守の杜のないむきだしのそれは、まるで墓標のように、卒塔婆のように見えた。

いつの日か、植えられた木々が大きく成長し、杜となって、その見事さにわたしは息をのむことになるのだろうか。

観音塚古墳

飛鳥戸神社をあとにして、わたしはすぐ近くにある観音塚古墳にむかった。

めったにない経験だった。ナビゲーションをたよりに進んで、道に迷うのは。

南河内グリーンロード (広域農道) を突っ切って、そのまま直進する。

すぐに左手にため池が見えてくる。

そこを左折しなければならない。

うかつにもまっすぐに行った場合、どんどん道が狭くなっていく。Uターンするにも決死の覚悟がいる。もしもあなたが、すこしくらいクルマのボディーに傷がついても、ぜんぜん気にしないぜ、というのであれば、いちど行かれてみるといい。

とにかく、そこで左折する。

ちいさいが、標識がたっている。

すると、コンクリート製の階段が見えてくる。

そこをのぼって行く。

そのさきに、観音塚古墳がある。

かなりののぼり勾配だ。

わたし (60歳目前、体脂肪多し) は、途中でいちど足を止めなければ登り切れなかった。

この観音塚古墳は発掘調査がおこなわれていないため、詳細はわからないまでも、7世紀に築かれた、円墳ないし方墳とされている。

ぽっかりとあいた古墳の穴。

わたしはそれを眺めるうちに、小学生時代に夢中になった無数の穴のことを思い出した。

「こっちへこいよ。いいものみせてやる」

小学校一年生、集団下校の途中で、級友が声をはずませて言った。

下校ルートを外れるのは悪いことだと思いながらも、好奇心には勝てなかった。

われわれ5,6にん。かれのあとに続いた。

「ほら、これ!」

目の前の、粘土質の切り立った斜面に多くの横穴が開いていた。30ばかりだったろうか。

級友はハナの穴をひろげて続けた。

「これ、原始人のイエなんだ。ここでマンモスとか、食べてたんだよ。骨がでてきたって、お兄ちゃんが言ってた」

それからは、いつも下校時にはその穴に寄り道をしたものだ。

めいめいが、ここはボクの穴と勝手に決めて、そこにお気に入りのおもちゃを隠したり、駄菓子を持ち寄って食べたりした。

しかしクラス替えがおこなわれて、二年もすると、次第に横穴へは行かなくなった。

四年生になっていた。

わたしは例の級友に、横穴のことをもちだしてみた。

かれの返事は、意外だった。

「違うんたよ。あれは防空壕だったんだ。まえの戦争のときのね」

あれから半世紀たった。

近鉄生駒駅のすぐそば、あのあたりにも何度か再開発の波が来たことだろう。もう、残ってはおるまい。もっとも、ほんとうに原始人のイエや、防空壕であったとしたら別だが。

いま、この観音塚古墳の穴を、これは自分の穴だとひとり宣言したところで、もうあの頃にはもどれない…。