敏達天皇はその在位中、まさに難問山積だった。
外にあっては任那再興をはかるがおもうにまかせず、国内では崇仏・廃仏の争いが大きくなっていった。
585年、崩御のあと、母、石姫皇女の墓であるこの磯長 (科長・しなが) の陵に追葬された。
生前、物部守屋らの奏上をうけいれて、はっきりと廃仏の側に立っていた自身の陵のすぐそばに、後年、仏教の強力な庇護者である聖徳太子の墓がもうけられ、さらに時を経てこのあたりが太子町と名付けられるとは、なんという皮肉だろう。
ふたりはいま、なにを語らうのか。
そこには美酒と、尽きせぬ笑い声があるといい。
敏達天皇陵参拝道へ
府道33号線 (富田林・太子線) からのびる細い脇道を、ひたいから汗をたらしながら、まるで丘の上を目指す棄権寸前のマラソンランナーよろしく、一歩一歩のぼっていった。
そして左手に参拝道入り口を見つけたとき、すこし意外な感じがした。へえ、ほんとうにこんなところにあるんだ…。
天皇陵というと、わたしはまず、頭上にひろがる大空を連想する。
しかしここに来るまでの道すがら、目にしたのはいくつもの事業所の建物と、道を覆うようにのびる木々だけで、なにやら空はちいさく切り取られたようにしか見えなかったから。
わたしはクルマが乗り入れられないようにと渡してある赤茶けた鎖の横から、先へと歩いていった。
両脇は木々で覆われている。しかしその切れ目から、ビニールハウスの枠のようなものが見える。ほかにも、人の手が加えられたとみられるあともある。
道には、所々途切れているとはいえ玉砂利が敷かれ、それを踏みしめる靴音がする。お社に詣でているような気分になる。
奥に拝所が見えてきた。
わたしはさらに進んでいき、そして立ち尽くした。
わずかに届く木漏れ日。
耳を圧するセミの鳴き声。暦の上ではもうすっかり秋だというのに。
慈愛の声がきこえるところ
わたしは母子の眠る陵を後にした。
玉砂利を踏みしめる足元に、十ほどの赤とんぼが前になり、うしろになりしてまとわりついてきた。秋の訪れを待ちくたびれたと言わんばかりの様子だった。
そしてあれほど小さくしか見えなかった空が、帰路、正反対の方向から見上げるととても大きく見えていた。
わたしは振り返った。
拝所の鳥居が、どこからか差し込んできた一条の光にあてられて、鏡のようにきらきらと輝いていた。そしてその輝きはどんどん強くなってきているように感じられた。
気づくと、セミの声も止んでいるようだった…。
「おかえりなさい。わたしのいとしい御子よ」