古事記にあって、もっともよく知られひろく親しまれているのは、因幡の白兎 (稲葉之素菟) のくだりに違いない。
淤岐島から今まさに気多の前に渡り終えようとしたときに、兎は鰐を怒らせてしまい毛皮を剝がれてしまう。そこに八上比賣 (八神姫) に求婚するために通りかかった八十神たち。兎は八十神に教わったままに、海水を浴びて風に当たっていたが、やがて海水が乾くにつれて皮膚がひび割れ、痛みのあまり泣きだしてしまう。
そこに八十神たちに袋を背負わされ、あとを追ってきた大穴牟遅 (おおあなむぢ・大国主命) は 、真水でからだを洗い、蒲の穂を敷いてそのうえで転がるようにと教えて兎がその通りにすると、たちまちカラダは元通りになった。
「八十神たちは、決して八神姫を娶ることはできません。今は袋を背負わされて従者のようにあつかわれていますが、あなた様こそ姫と結ばれるでしょう」
因幡の白兎について
因幡の白兎は不思議なはなしだ。追いかけるほどに次々と別の顔、違った解釈があらわれてきて、どこまでも追い続けることになる。それは捕まえた、とほっとしても難なく腕をすり抜けて、ぴょんぴょんと飛び跳ねて逃げていく兎にも似ている。
兎は時折ふり返り、いたずらっぽく首を傾げては、また走り去ってこちらを森の奥へ、さらに奥へと連れていこうとする。
因幡、伯耆、隠岐の三国にのこる白兎ゆかりの地。そして、そのそれぞれの地に伝わる様々なバリエーションの白兎伝承の森は深い…。
『しろうさぎ』という絵本を手にした子供たちは、それを白兎の毛がもとどおりによみがえったハッピーエンドな童話として理解する。しかしよく知られているように、これは大穴牟遅 (大国主命) 自身の四つの連なる再生譚の発端にほかならない。
「因幡の白兎」(一) のあとに、「赤猪岩・あかいいわ」(二) のはなしが続く。大穴牟遅は嫉妬に狂った八十神たちから、この山から赤い猪が下って来る、それを捕まえろ、と言われ、実際に転がってきた赤く焼けた岩を抱きとめようとして、それに焼き付かれて死んでしまう。そして「氷目矢・くさび」(三) のはなしが続く。
(二) (三) での死と再生を経た大穴牟遅は最後に須佐之男命のいる「根の堅州国訪問」(四) でこの再生譚を閉じることとなる。根の国での数々の試練に耐え抜いた大穴牟遅は宇都志国主神 (うつしくにぬしのかみ) となり、大国主神 (おおくにぬしのかみ) となって、伊賦夜坂 (いふやざか・黄泉比良坂) をぬけて葦原中国 (あしはらのなかつくに)で、いよいよ国づくりを始める。
このように、兎はその始まりにおいて、ただ道化者の役割を振られているに過ぎない。
しかしこの道化者、非常に重要な位置にいる。
古事記は兎について、次のように述べている。
『このものは稲葉の素菟ぞ。いまでは兎神ともいう』
白兎神社について
白兎神社 (はくとじんじゃ・鳥取市白兎) はそんな因幡の白兎、白兎神を主祭神としておまつりしている。
その創建は明らかではない。
往古より、すでに式外の社として存在していたが、いくたびか戦乱に巻き込まれるなかで兵火にあい、社殿等焼失した時期がつづいた。
式外の社って?
延喜式神名帳に記載のないお社のことだよ。
江戸時代の地誌『因幡民談記』によると、社殿の再建は慶長年間 (1596年~1615年) 、因幡国鹿野城主、亀井玆矩 (かめいこれのり) 公の夢に白兎があらわれて、自分の住む社がない、と訴えたのだと述べられている。
さっそく翌日から社のあった場所を探し回ったが、知るものは誰もいない。ただ一人、九十歳の老人だけがかくのところにあったと覚えていて、そこに神殿を建て、大兎明神をおまつりしたという。
そのときの名称は「兎宮」とされている。
こうして白兎神社は再建された。
世にひろまっている白兎神社の来歴はこのようなものだろう。
白兎神社の社記にも、おおむねそのように記されている。
わたしはこの拙稿を「鹿野城主、亀井玆矩公がそれまでにないかみまつりのかたちを模索するなかで、因幡の白兎伝承を援用して兎宮をあらたに創建した」との立場から、以下、行をかさねていく。
そしてその結論に導かれるにいたった推論を提示すると同時に、その論拠となるものもいくつか明らかにしていく。
とはいえ、それはわたしの白兎神社に対する尊崇の気持ちが、まったく揺らぐものでないことをはじめに申し添えておきたい。
美しい砂浜の白兎海岸。そのすぐ先に浮かぶ岩島、淤岐ノ島の向こうに夕日が沈むさま、その神々しさは格別だ。濃い茜色に染まった空の色。波穏やかな海面がそのやさしい色を静かにうける。小さな淤岐ノ島はその輪郭だけが強調される。
道の駅・白うさぎに先日着任した新任の駅長、オスの兎「縁(えにし)」クンは、もう新しい環境にすこしは慣れたのだろうか。
ニュースで見たよ。縁(えにし)クンかわいかった。
そうだね。
でも、あまりかまったりしないで、そっと見守ってあげてほしいよね。
その道の駅から、うしろの小高い砂丘のうえに建つ白兎神社のほうをはじめて見上げるヒトは、その様子をなにやら危なげ、はかなげに感じることもあるだろう。
この神話の里には、多くのヒトを惹きつける魅力がある。
亀井玆矩公
亀井武蔵守玆矩。
弘治3年 (1557年) 、出雲国八束郡湯之荘 (現在の島根県松江市玉湯町) に尼子氏家臣、湯永綱の長男として生をうけた。
尼子氏が毛利軍に滅ぼされると、わずかな兵力で尼子氏再興を目指して毛利軍と戦ったが、かんばしい戦果をあげることはかなわなかった。
やがて織田信長が中国地方をうかがう情勢となると、羽柴秀吉傘下となり各地を転戦、天正9年(1581年)、鳥取城攻めの戦功によって気多郡1万3,500石を与えられ、因幡国・鹿野城主となる。
天正10年(1582年)、明智謀反の報を受けた秀吉は急ぎ姫路城まで戻り (中国大返し) 毛利方との講和がなったために、毛利戦後に約束されていた出雲半国の恩賞を受けることができなくなった。玆矩公はその代わりとして琉球を所望し、琉球守の称号を授けられている。しかし、すでに島津家の琉球に対する影響力が強まる時節となっていたなか、玆矩公が直接琉球と接触をもつことはかなわなかった。
その後、一時は武蔵守を名乗っていたが、二度の朝鮮出兵のころには台州守としている。しかし明征服挫折後はふたたび武蔵守とした。
秀吉亡き後は徳川家康に接近。
関ヶ原の合戦後、高草郡2万4200石を加増され、3万8000石の鹿野藩初代藩主となる。
領国経営にも目を見張るものがあった。
日光池、湖山池の干拓。河川の改修。その距離20キロ余りにもおよぶ大井手用水路の敷設。銀山開発。
しかしもっとも特筆すべきは朱印船貿易だろう。
わずか3万8000石の小身、しかも日本海側の大名が朱印船貿易にのりだすのは稀有なことだった。
香木類、珊瑚、象牙などの珍しい品々が持ち込まれた。
ロバなどの珍しい生き物も、次々と海をこえてやってきた。
また、棕櫚 (しゅろ) や白檀などの輸入材をつかい、いくつもの御殿が建てられたという。
領内はさながら異国の情緒を見せ、日々にぎわっていたことだろう。
そんな常に海の向こうに目を向けていた、南蛮大名とも称えられた異色の殿様は、慶長14年 (1609年) 家督を嫡子、政矩に譲り、慶長17年 (1612年) 鹿野城で病没。
死後、墓所は鹿野の城山を望む武蔵山に建てられた。その墓石には「中山道月大居士」と刻まれている。
柱状節理の里で
白兎神社の南、4キロほどの山中にある御熊(みくま)神社は、延喜式神名帳に高草郡七座のひとつとして、阿太賀都健御熊命神社の名で記された古社だ。
『因幡民談記』『因幡志』によると、古くは三蔵(みくら)社、柱大明神とも称されていたとされる。
御熊神社にいたるまでの参道といわず、わずかばかりの狭い境内といわず、小さな流造りの社殿の裏山といわず、まわりはことごとく玄武岩の柱状節理 (ちゅうじょうせつり・柱状の岩石が集合した地形のこと)が露出している。よく海岸の絶壁や山深い峡谷などで見られるように、多くは縦型の岩脈としてあらわれる。しかし御熊のそれは横型である。おびただしい数の石柱が無造作に横倒しにされたようなそのさまを見れば、誰もが柱大明神と号されたことに納得するだろう。
そして、その柱大明神、御熊の神は架橋伝説をまとっている。
隠岐の島に渡ろうとした御熊の神は、一夜のうちに橋を架けようとした。しかしあまのじゃくが鶏のまねをして鳴いたので、もう朝がきたのだと勘違いした神は、橋架けを途中でやめてしまった。御熊の地、そしてその北の海中に残る石柱群はその時に捨て置かれたものという。
『因幡志』はこの架橋伝説を葛城の一言主神の故事、葛城山と金峯山との架橋説話を彷彿とさせる、と記している。
現在、鳥取県を東西にはしる国道9号線は、江戸時代以降に整備された近世の山陰街道とほぼ軌を一にしている。しかしそれ以前の山陰道は、因幡国内においてはもっと内陸よりの、湖山池の南側を西へと進み、御熊の地を通るルートであったと推定されている。
玆矩公は高草郡を拝領するより以前、かなりはやい時点で御熊の神に接していたとみて間違いない。
そしてその神業がのこした石柱群に息をのんだことだろう。
しかしはたして御熊の神を崇めまつる気持ちになったのだろうか。
海外へのつよい憧憬の念を抱き続けてきた玆矩公には、海の向こうへとのびる橋が未完で終わることなど、断じてあってはならないことだっただろう。
架橋は成し遂げられていなければならない。
因幡の白兎伝承と御熊の架橋伝説は多くの点で対称をなしている。
隠岐から因幡へ、と因幡から隠岐へ。橋の完成と未完。渡海の成就と未成就…。
玆矩公は御熊の神を超えるものとして、因幡の白兎伝承を援用したのではないか。
海の向こうに架かる橋は、必ずや完成していなければならなかった。
あちら側とこちら側に通じ、自在の往来を担保するものでなければならなかった。
橋架けるもの
誰もいない松林のなかを玆矩公が歩く。
すでに家督を譲り数年のときを経ていた。
松の枝のはるかうえに満月が見えている。
たいまつのあかりが、周囲を赤く染めている。
砂地に足をとられ、立ちどまった。
かたわらには小さな社殿、扁額には「兎宮」と墨書してある。
静かだった。
すぐ背後の海岸からは、波の音とて届いてはこない。
時折、パキッ、パキッとたいまつの薪のはぜる音だけが響く。玆矩公はいさましくたちのぼる炎に顔をむけていた。
振り向けば、自身の揺らめく影が、海を越えてのびる長い橋のように見えるだろう。
参考文献
『比較神話から読み解く 因幡の白兎神話の謎』
編 / 門田 眞知子
参考資料
『オホクニヌシと因幡の白兎』
著 / 小島 瓔禮
比較神話から読み解く 因幡の白兎神話の謎、収録
『因幡の白兎説話伝承地考』
著 / 石破 洋
島根女子短期大学紀要 Vol. 32 収録
『亀井玆矩公の歴史』
著 / 鳥取市西部地域文化活用実行委員会
鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」
『折り紙「うさぎ」の折り方まとめ34選』
著 / おりがみの時間