大和三山のひとつ、畝傍山は古来より幾たびもうたによまれ、また祈りの対象ともなってきた。いま、その優美な山容を眺めるとき、思わず静かに手をあわせたくなるのも至極当然のことなのかもしれない。
山麓にひろがる橿原神宮の杜に、初代・神武天皇陵、第二代・綏靖天皇陵、第三代・安寧天皇陵の深い緑がつづいて、そこはさながら広大な神域の様相を呈している。
しかし、横大路をみやこから難波 (なにわ) に向かう古人 (いにしえびと) たちが畝傍山を眺めたとき、いまのわたしたちとはすこし違う印象をもったに違いない。
麓には、未だ木々に囲まれた大きな陵も神宮もなく、そこには田畑がひろがり、いくつもの集落があった。
かまどからは、幾筋の煙が上がっていたことだろうか。
お山は聖なる山であるよりもまず、芝や薪といった民の暮らしに必要な恵みをもたらすところであり、誰しもが自由に立ち入ることができた。
幕末、大和国の儒学者・谷 三山は幼少の頃、八木村 (現 橿原市八木町) の生家のあたりから、目前の畝傍山を見てなにを思っただろう。
~目次~
神武天皇陵の治定
いくつもの鳥居のむこうにひろがる、墳丘を覆う木々。皇族方もしばしば訪れる神武天皇陵の荘厳さは格別なものがある。
これよりもはるかに面積の大きい仁徳天皇陵 (大山古墳) でさえ、前方部のまえを通る府道から拝所がよく見渡せて、ずっと近しい印象をうけるものだ。しかし、鬱蒼としげる橿原の杜をぬける幅の広い参拝道 (通常の自動車道なら、いったいなん車線分になるだろう) をえんえんと歩くあいだ、耳に届くのは踏みしめる玉砂利の音ばかり。やがて桜川にかかる小さな石橋をわたると、急に杜がとぎれ、いっきに視界がひろがって目前に大きな鳥居が迫ってくる。すると不可侵で、神聖な、常とは隔絶した圧倒的なものが、このはるか向こうにひろがっているのだという気持ちにさせられる。
しかし、ここは江戸時代末期に神武陵と治定されるまでは、古墳とも知れぬ、田んぼのなかにぽつんと浮かび上がった小さな円丘にすぎなかった。
こうして神武天皇の御陵と見做された神武田は、その後は建国神話の核心を具現化すべく大規模に改修されていく。
神武天皇陵の参拝者のなかで、すぐそばにある第二代綏靖天皇陵にまであしを伸ばすヒトはほとんどいない。畝傍山東北陵も、幕末に神武陵と治定され大規模に整備されるまでは、いまの綏靖天皇陵と変わらない人目を引かない小さな円丘にすぎなかった。
— 松野文彦 (@ma2no_z32) 2023年10月3日
欠史八代におもいを馳せながら綏靖天皇陵にもぜひ。 pic.twitter.com/HwrSLbcVNr
神武天皇陵の修陵
文久3年5月にはじまり同年12月に終えた修陵 (文久の修陵) において、ミサンザイの円丘は急ごしらえの柵で囲まれ、神武天皇陵が誕生した。
これは新たな陵の築造と呼んでいい。
そしてそのあとも、時代を経るごとに陵は目まぐるしく変貌を続けていく。
まず円丘を大量の盛り土で覆い、そこに石垣をめぐらせて八角墳へとつくりかえられたのち、時代が大正に移ると、こんどはさらに大きな円墳へと姿を変えていった。
橿原神宮の創建
神武天皇陵の南、畝傍山の東南麓に1890年 (明治23年) 4月、神武天皇御鎮座、橿原神宮が創建された。
京都御所から下賜された賢所と神嘉殿を、それぞれ本殿と拝殿とした。
この官幣大社の出現によって、またひとつ、橿原宮祉という神武天皇の聖蹟が立ち現れることになった。
こうして参拝の役割を神宮が担うようになると、神武陵のほうは信仰や慰霊とは切り離されていき、いまわたしたちが感じるような厳粛、深淵な印象を強めていくことになる。
そしてこの橿原神宮の創建と、その後における畝傍山を含む神苑拡張、整備の実施は、吉野神宮創建 (1889年・明治22年)、平安神宮創建 (1895年・明治28年)、および宮崎神宮の拡大整備の実施とそれに続く神宮号授与 (1913年・大正2年) などと同時期に並んで進行していくことになる。
おわりに
四条ミサンザイ (神武田) が神武天皇陵とされるまでそれと見做されていた現在の綏靖天皇陵は、いまはただ静寂につつまれている。ここに陵のあることに気付いているひとは、地元にもおおくはいないだろう。
新たに神武陵を治定するにさいに、ミサンザイとともに候補にあがった丸山のほうは、さらに忘れ去られている。
いまそこを訪ねても、尾根の上にあったとされている墳丘らしきものを確認することは容易ではない。
大正時代における、丸山に隣接する洞村の全村移転をうけて、あたり一帯は植林され、いまは畝傍山の一部と見紛う景観をみせている。
「わたしたちのご先祖は、神武天皇のお供をして九州からやってまいったんです。神武さんが丸山にお隠れになってからは、代々あそこをお守りもうしあげてきたわけです」と、旧村の古老が語り伝える伝承なども、いま急速に失われつつある。
山中にたつ『宮』と彫られた腰の高さほどの5本の石柱で囲まれたあたりが、一応の目安になる。
そしてそこは、現在ではしばしば丸山宮址と称されている。
橿原という地名は、ながらく失われて所在不明だった。
本居宣長のように、現在の御所市柏原を推する説もあった。
1956年 (昭和31年)、耳成村、畝傍町、鴨公村、八木町、今井町、真菅村の6町村が合併し橿原市が発足した。
参考資料・参考書籍
近代における神話的古代の創造 ー畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武聖蹟ー
京都大学人文科学研究所『人文學報』83巻 P19-38 (2000年3月)
著 / 高木 博志
著 / 窪 壮一朗 刊行 / 法藏館 (2022年6月)