【大阪市阿倍野区】安倍晴明神社。清明公御生誕伝承の地で葛の葉姫に出会う

平安時代陰陽師 (おんみょうじ)、天文博士安倍晴明公の人気は、現代にいたり世上ますます高まっているように思われる。幾たびも小説や映画に取り上げられ、先日 (2023・4・2~2023・4・27) も、東京銀座の歌舞伎座において、市川猿之助、脚本・演出の『新・陰陽師』が披露されていた。

そんな清明公の生涯には謎が多い。

伝えられている生年や出自にも確たるあかしはなく、御生誕の地としてあげられているところも複数存在する。常陸、讃岐などと並んで、摂津国の、現在では大阪市阿倍野区とされるところもそのうちのひとつだ。

阿倍野区元町に坐す安倍晴明神社は社の由緒書きによると、寛弘4年 (1007年) 花山法皇の命により清明公御生誕の地に創建されたとされる。

しかし江戸時代末には衰微し、明治になる頃には祠と「安倍晴明誕生地」の石碑が残るばかりとなったが、大正14年 (1925年) 阿倍王子神社飛地境内社として、現在の社殿が再建された。

平成17年 (2005年) には安倍晴明公一千年祭が斎行され、現在では清明公の遺徳に触れようと、多くの参拝者が訪れている。

常陸と讃岐の御生誕伝承■
遣唐使として唐に渡った吉備真備が唐で客死した阿倍仲麻呂の霊力の助けを得て、占術の専門書『簠簋内伝・ほきないでん』を日本に持ち帰り、常陸国にいた仲麻呂の子孫、若き日の清明公にその書を譲り渡した。清明公は筑波山で修業を重ね、霊力を得て京にのぼったとされる。
讃岐守護の由佐氏は、もともとは常陸の出。益戸氏は由佐に城を構えて、名を由佐と改めた。常陸にあった清明公御生誕伝承が、讃岐に持ち込まれたのではないか。
他にも、安倍文殊院のある奈良県桜井市を御生誕地とする説もある。

 

安倍晴明神社

神社周辺

あべの筋からすこし奥まっただけだというのに、喧騒からはずいぶんと離れていた。

まわりは閑静な住宅街だ。

日本一高いビル、あべのハルカスが薄緑色にぴかぴかと輝いて威容を誇るさまが、まじかにみえた。

奇妙なかんじがした。

 

いよいよだね。安倍晴明神社。

さっそく境内に入ってみよう。

境内案内

清明公の霊力のなしたことではあるまいが、拝殿に向かう石畳が、右下がりになっている。

そして、背後の流造銅板葺の本殿。

神社の東側をはしる現在の幹線道路、あべの筋 (府道30号線) とは反対の、西向きに建てられている。

それは古来、すぐ西側に熊野街道が通っていたためだろう。

熊野街道とは■
平安時代中期ごろから、京のみやこの皇族、貴人たちのあいだで盛んとなった熊野詣のための、熊野三山へといたる街道。

葛の葉姫

清明公の没後に成立した出生説話に登場する、葛の葉姫の碑がたっていた。

ある時、清明公の父、安倍保名 (あべのやすな) が信太 (しのだ・大阪府和泉市) の森で狩人に追われていた白狐をたすけた。

■安倍保名■
安倍保名は江戸時代中期初演の浄瑠璃芦屋道満大内鑑・あしやどうまんおおうちかがみ』に清明公の父として登場する、創作上の名前。
実際の清明公の父はだれであるか、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)とする説などがあるものの、確たるものではないために、清明公の誕生説話などを語るときには、父としては保名の名前が表記されることが多い。

狐は人間の女 (葛の葉姫) に姿をかえ、保名とともに暮らし童子丸 (後の清明公) を授かった。

しかし童子丸五歳のとき、姫の正体が知られてしまう。

姫は家の障子に和歌をのこし、信太の森へと帰って行った。

恋しくは 訪ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

 ※怨みではなく、裏見。

 

なんだ創作か。これと似たような話、あちこちにあるね。

もちろん狐が人間の子供を産むなんていうのは事実ではないよ。でも神話、民話、説話が生まれる背景には、必ずそれを物語りたいと願った人々の強い動機があるんだ。
その気持ちは真実なんだよ。

 

どういうこと?

つまり清明公は信太とゆかりがあってほしい、と強く願ったヒトがいたんだと思う。たぶん信太の民がそう考えたんだと思うよ。

 

難しい話をするね。

難しい話もするさ。

■葛の葉姫■
それまでは単に「信太妻」と呼ばれていた白狐に「葛の葉」の名前がつけられたのは、江戸時代中期の歌舞伎『しのだづま』が初出とされている。

阿倍王子神社

安倍晴明神社から50メートルほどさきにある阿倍王子神社にも参拝した。

熊野街道に面していたという西側の鳥居をくぐり、境内にはいる。

社伝によると、仁徳天皇の創建とされている。

そして、当地は古代豪族・安倍氏の居住した土地であり、往古にはその氏寺・阿部寺があったとされる。

しかし平安時代にはいると、阿部寺は四天王寺に吸収されてなくなり、あとには氏神社 (うじがみのやしろ) だけが残されることとなったが、ちょうど四天王寺住吉大社の中間に位置することから王子社へと姿をかえた。

おりから盛んになってきた熊野詣のための街道が社の西側に整備された。

■王子社とは■
熊野詣の途上において参拝者の庇護を願い、奉幣や読経がおこなわれた場所。熊野の修験者によって組織化されたとされており、神仏習合的。もともとは在地の神をまつっていた社に熊野権現御子神 (王子神)を勧請するなどした。
なお九十九王子 (つくもおうじ・くじゅうくおうじ) などとも称されるが、実際の王子の数が九十九あったのではなく、たくさんあることの例え。短い期間で姿を消す王子もあったことから、その実数には諸説あるが、百余ともされている。

えっ、王子ってそんな意味だったんだ。

どんな意味だと思ってたの?
まあ、察しはついてるけどね。

 

清明公が若いころ阿倍王子 (あべのおうじ) って呼ばれていたからだって思ってた。
だって映画やドラマにでてくる清明公はみんなイケメン。

そんなふうに勘違いしているヒトは、案外多いよ。
ちなみに「の」はいらないんだ。あべおうじじんじゃ。

左右に二本ずつ、四本の見上げるような御神木に囲まれて、参道が続いていた。

正面に社務所が見えた。

由緒書きを頂戴する。

開いてみる。

おお!

裏返した。

拝殿に歩み出て、柏手を打つ。

許可なく境内の撮影をすることを禁ずる旨の看板が立てられていた。

もう、若い頃のようにあれもこれもと記憶しておくことは難しくなってきた。最近では、神社仏閣を訪れたときには、いつも備忘録的に写真を撮ることにしている。

しかし、社務所にわざわざ申し入れるのもなんだか憚られた。

わたしはスマートフォンをズボンのうしろのポケットにねじ込んで、となりに建つ入母屋造のちいさな社を見た。

前面の朱色が鮮やかだ。

葛之葉稲荷神社。

葛の葉姫がおまつりされていた。

もっと姫を身近に感じたくなった。

いまから信太の森に向かおうか。

■あべのせいめい?■
清明公が実在の人物であったことは確実だが、存命中、どういう名で呼ばれていたかさえ、実は定かではない。音読みが本来の読みだとは考えづらいので、おそらくは「はれあき」「はるあき」「はるあきら」などというのが本来の読み方だろう。しかし多くのヒトの口にのぼり、その名がひろく世間にひろまるうちにいつしか「せいめい」と呼ばれるようになっていったのだろう。
このようなことはめずらしくはない。
『神賀詞・かむ(の)よごと』は現代ではしばしば「しんがし」と呼ばれるようになった。また、その編纂時にはおそらく「ふることぶみ」「ふることのふみ」などと呼ばれていたであろう書物は、いまでは『古事記こじき』としか呼ばれなくなっている。
こうして単なる固有名詞であったものは、公然たる一般名詞へと昇華されていく。

信太の森へ

聖神社

演目によって設定は様々だが、保名 (やすな) が信太の森で白狐と出会ったのは、信太明神 (現在の聖神社大阪府和泉市) に参拝していたおりだとされている。

聖大神 (ひじりのおおかみ)、渡来人、信太首 (しのだのおびと)…。

興味は尽きなかった。

 

聖神社、いまから行くの?

いや、今日はやめておくよ。別のところに行く。
ところで、聖神社の住所を調べてみてよ。

 

えーっと。
大阪府和泉市王子町…、あっ!

そうなんだよ、そこもまた篠田王子  (しのだおうじ) という王子のあったところなんだ。

 

すると清明公ゆかりの神社が、ことごとく熊野街道でつながっていたってことになるね。

そうなんだ。
聖神社も、安倍晴明神社や阿倍王子神社と同様に熊野街道がすぐ前を通っていた。
そこは修験の道、はるか熊野三山へとつづく密教の道だったんだ。
修験道陰陽道密教三者は親和性が高い。

 

清明公の伝承には熊野信仰の影響がある…、ってせっかく盛り上がってきたのに、ここをスルーしていったいどこに行くの?

それはね…、

信太森葛葉稲荷神社

わたしは、聖神社から1.5キロほど離れた信太森葛葉稲荷神社を訪ねた。

いまでは周辺もずいぶんと開発がすすみ、家屋なども建ち並ぶようになったが、ほんの百年も遡れば、二つの神社はおなじ信太の森に坐す社として知られていたことだろう。

その正式名称は信太森神社。

いまでは関西三大稲荷にも数えられる信太森葛葉稲荷神社だが、もともと聖神社末社のひとつを起源とするここに稲荷神を勧請したのは18世紀半ばと、それほど古いものではない。

特筆すべきは、そのひろい境内にまつられた幾多の神仏だろう。

案内図によると、その数じつに68にものぼる神仏ではあるが、巧みに図られた周回路によって、そのすべてに手を合わせることが出来るようになっている。

このような景観をみせる神社は、なかなかほかに例を見ない。

はじめてここを訪れたヒトは、きっと神仏のテーマパークといった感想を抱くだろう。

すっかり日は傾いていた。

参道を進み、本殿にむかう。

本殿わきには、楠の御神木。

樹齢二千年とも言われている。

そのうしろには、ブランコ、滑り台などの遊具が照明に照らされていた。

周回路を巡る。

「姿見の井戸」

白狐が葛の葉姫に化身したときに、御身を鏡代わりのこの井戸に映し見たとされている。

 

tabinagara.jp

 

すごいね。
伝承に出てくるようなところがちゃんと残ってるなんてね。

むしろ反対だろうね。
ここにあるものを伝承に擬した。あるいは伝承にあわせて作り上げた。
ここがながらく個人所有の神社だったからなしえたことなんだね。
幾多の神仏を勧請できたのもおなじ理由でしょう。

 

ふーん。

社名に葛葉とあることからも知れると思うけど、江戸時代中期に披露された歌舞伎や浄瑠璃で人気を集めた葛葉伝承に、お社自身を寄せていった、整備していった。そうして安倍晴明公御母君の古里、と称するにいたった。
そこには非常に強い想いがあったはずなんだ。それが多くのヒトを惹きつけているんだね。
いまも古典芸能や演劇の関係者の参拝が絶えないそうだよ。

清明公由来の「子安石」

 

暗くてなんにも見えないよ。

もっとあかりを。

 

もっと早い時間に来たかった。暗くなるまえに。
それにこんどは聖神社にも行きたい。

そうだね。明るいうちに来れればよかったね。
神様はいっぱい。それに遊具もあって公園みたいだ。
一日中過ごせそうだね。
次はお子さんも連れてくるといいよ。

 

そうしようかな。
ここすごく楽しそう。

それがいい。
社務所では葛葉にかけて葛餅を販売しているらしいよ。
それもワクワクだね。

わたしは社務所のまえで立ち尽くしていた。

ここにとめておいたはずのクルマがない。

わたしの赤いクルマ。

きょろきょろと見回すが、どこにもない。

大きなショッピングモールの駐車場でどこにとめたか思い出せずに、探し回った経験はある。

しかしこの状況で、いったいなにを思い出せというのか。

わたしは境内を出て、来た道をもどっていった。

表通りの、朱色の鳥居が見えてきた。

その先で、見覚えのあるクルマがハザードを点滅させていた。

絶対に、こんなところに駐車などしていない。

しかしドアには鍵がかかっている。

わたしなのか。

そして神社まで歩いたとでも…。

よもや狐に化かされたのではあるまいが。

                                                                                                   

 (最終更新日 2023.5.20)