【奈良県葛城市】當麻寺の門前で中将姫の夢をみる

先月のこと。

二月といえば寒気もさかりで、わたしなど、ついつい猫背になってポケットに手をいれて、うつむき加減で過ごしがちだった。

そんななかにあって、うれしいのは日照時間が日に日にながくなってきているのを実感できることだ。日没時間が遅くなって、いつまでも明るいとなんだか得をした気分になる。

夕方四時半、すこし前までならもう薄暗かったのが、まるで嘘のようだった。

そんなわけで、すこし寄り道をしたくなった。

 

當麻寺に向かって

二上山山麓にのびる国道165号線とそれに続く県道30号線は、地元では文字通り山麓線の愛称でよばれている。

穴虫交差点からのびるバイパスをのぼっていき、こんどは一転下り坂になると、左前方に大和三山の麗しい山容を望むことができる。

 

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さらに数分クルマで進んでいくと、當麻寺 (たいまでら・当麻寺) 交差点に至った。

はじめてそこを右折してみた。

いつもは曲がらずに直進する。

まれに左折して、どんどん道幅が細くなっていくのにうなりながら、大和高田市の市街地のほうへとぬけていくこともある。

ともかく、わたしは右折した。

静かだった。

白壁に格子戸の家屋が、まっすぐな道の両側に並んでいた。

それぞれの建物の高さがわりあいにそろっている。

見事な門前町の風格。

それは以前に見た、手作りの精緻なドールハウスのくにのように見えた。

すぐに行き止まりになる。

つきあたりが當麻寺の仁王門だった。

門のそばにはお寺の駐車場があった。

10台ほどしかとまっていない。

空きスペースがたくさんある。

どうする、参拝したいところだ。

しかし、あとすこしで5時になる。

これではいかんともしがたい。

いつもこうだ。

行き当たりばったりで、結局のところなにもしないで終わってしまう。

去年、京都の笠置寺を訪ねたときもそうだった。

余裕をもって家を出たというのに、途中で、興味をひかれる神社や古墳にふらふらと立ち寄ってしまい、結局時間がおしてしまって、あの笠置山の曲がりくねった細い登山道をクルマでのぼっていくころにはすでに薄暗く、やっとたどり着いた山門は当然しまっていた。

 

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ほんとうにいつもそうだ。

そこにタッチさえできずに、苦笑いを浮かべながら引き返したことのなんと多いことだろう。

中将姫伝説

 

當麻寺のはじまりは推古天皇20年(612年)、聖徳太子の異母弟、麻呂古親王二上山の西側に建立した万法蔵院 (まんぽうぞういん)を祖とすると伝えられている。その院を東麓に遷造するに際しては、役行者から寄進をうけたとされる土地に、天武天皇10年(681年)、金堂に弥勒仏をおまつりして、いまの當麻寺が創建された。

現在は真言宗・浄土宗二宗共立の寺院で、弥勒仏坐像、曼荼羅厨子、我が国最古級とも推定される梵鐘などの数々の国宝や、四天王立像、阿弥陀如来坐像などの多くの重要文化財を広大な境内に有する古刹だ。

しかしこの寺でもっとも世に知られているのは、なんといっても中将姫伝説だろう。

中将姫は古くから浄瑠璃や歌舞伎にたびたびとりあげられ、近代には折口信夫が姫を題材に幻想小説死者の書』を著している。たとえそれらに馴染みのないヒトでも、その名を冠した葛城銘菓の中将餅を目にしたことならあるかもしれない。あるいはツムラバスクリン(1)のパッケージに描かれた和風美人が中将姫だと言えば、ああ、とうなずかれるむきもおられるだろう。

中将姫は天平19年 (747年) 藤原豊成の娘として奈良の都に生まれたといわれている。

5歳で母を亡くした後は継母から疎まれるようになり、やがて命さえ狙われるようになると、14歳のときに雲雀山(2)に出奔、読経三昧の日々をおくったとされる(3)。

16歳のとき、夕日の沈む空一面に阿弥陀仏をかこむようにひろがる極楽浄土の光景を見た姫は、西方浄土の入り口と都びとからみなされていた二上山の麓に建つ當麻寺に出家(4)。 翌年、中院の小堂(5)で剃髪し、法如 (ほうにょ) の名を得て尼僧となった。

 

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中将姫は、自身が目の当たりにしたあの極楽浄土の姿を今一度見てみたいと願い、蓮の茎から取り出した糸を五色に染め、千手堂のなかでその浄土世界の再現を目指して織り上げたものが、當麻曼陀羅(6)とされている。

それから10年余り、姫は曼陀羅の教えを周囲に熱心に説きつづけた。

そして29歳の春。

桜や桃の花が咲き誇る當麻寺阿弥陀如来がお迎えに来られたなか、姫は御身のまま(7)極楽浄土へ旅立たれたと言われている。

 

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中将姫はなぜこれほどながいあいだ、多くのヒトに慕われ続けているのだろうか。

中将姫を想うとき、わたしがいつも思い起こすのは一陣の風だ。

姫の魅力は、悲劇的な幼少期をのりこえた深い信仰心や、ミカドにのぞまれたというその美貌もさることながら、女人禁制の當麻寺に出家し、そして女性のままに往生したその揺るぎない一途さにあると思う。

 

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そんな當麻寺を参拝するには、せめて半日がかりでゆっくりとのぞみたいものだ。

出直そう。

わたしは山門に背を向けた。

もう背後の二上山のむこうに夕日が隠れたのかどうかは知れなかったが、どうかここで夢みることがかないますようにと願った。

夕日のなかに認めた中将姫の尊いお姿に涙を流すことだろう。

葛城市相撲館「けはや座」

山麓線の當麻寺交差点を過ぎてすぐのところに、葛城市相撲館「けはや座」がある。

相撲の開祖とされる當麻蹶速 (たいまのけはや) の名にちなむ。

となりに當麻蹶速之塚がある。

しかし閉館時間は午後5時だった。

やはりタッチさえかなわずに引き返さなければならなかった。

またしても…。

敷地内に、鉄砲柱があった。
説明版には、ご自由にどうぞとあった。

そこにつけられたのは、断じてわたしの手形ではない。

 

 

(1)長年ツムラ(旧社名・津村順天堂)のバスクリンとして親しまれてきたが、周知のようにバスクリンに関する事業は、2008年ツムラから独立。株式会社バスクリンは、2012年アース製薬グループ(現・アースグループ)に加わった。したがって現在のバスクリンには、あの中将姫のイラストは記されていない。しかし、いまでも株式会社ツムラの創業以来のロングセラー婦人薬、中将湯のパッケージには慈悲深い中将姫のお顔は健在である。

(2)ひばりやま。和歌山県有田市にある雲雀山とする説と、奈良県宇陀市の日張山とする説の二説がある。

(3)そこでの「山中で灯をともす油もないが、こころの月を輝かせればよい」などの姫の尊いお言葉を綴った『中将姫山居語』は現在、當麻寺中之坊霊宝館に収蔵されている。

(4)当時の當麻寺は女人禁制だった。入山を許されなかった中将姫が山門の前にある石のうえでひたすらに読経を続けていると、やがて姫の強い想いによって石に足跡ができた。それに心打たれた実雅和尚は姫を迎え入れることになった。その霊石「中将姫誓いの石」は現在當麻寺中将姫剃髪堂の横に移され、誰もが拝むことができる。

(5)現在では中将姫剃髪堂の名で知られている。

(6)いわゆるマンダラの名で呼ばれているが、真言宗大日如来を中心とした「金剛界曼荼羅」「胎蔵界曼荼羅」とは違い、中将法如が織り上げた阿弥陀仏を取り巻くように極楽浄土をあらわしたこれは、當麻寺真言宗との共立となる時代以前は「感無量寿経浄土変相図」と称されていた。創建時の本尊は金堂に坐す弥勒仏座像であったが、現在では當麻曼陀羅を本尊としている。

(7)当時は、女性は男に生まれ変わってからでないと往生できないとされていた。