【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~

京都の晴明神社というと、なにやら魑魅魍魎の跋扈するといったイメージを抱くヒトもおられるのだろうか。曰く、陰陽師安倍晴明公、式神…。

しかし、それらは人気の歌舞伎や映画などの創作の世界にに引きずられたものだ。

実際の晴明神社の坐すのは、京都御所から西にわずか1キロ足らず、様々な伝承をもつ一条戻り橋からすぐのところになる。

 

鬱蒼とした鎮守の杜に囲まれているのではなく (しかし立派な御神木はある)、境内は日の光をいっぱいにうけて、突き抜けるように明るい。そして、清浄な風が吹き抜けている。

京都を南北にはしる幹線道路、堀川通に面し、日々多くの参拝者が訪れている。

~目次~

晴明神社の創建

清明公屋敷跡

晴明神社は1005年 (寛弘2年)、清明公が没すると、その死を悼んだ一条天皇の命により、2年後の1007年 (寛弘4年)、公の屋敷跡に創建されたとされている。

 

いきなりだけど、ちょっと待って。京都ブライトンホテル!
たしか京都御所晴明神社のあいだくらいにあったよね。もうちょっと南か…。土御門(つちみかど)町。あそこの敷地が屋敷跡じゃなかったの?

おお!

 

あのホテル、セイメイってカクテルを出してくれるんだよ。友達が飲んだって。

すごいね。
たしかに『今昔物語』にも清明公の屋敷は「土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東」と書かれているからね。それに中世のほかの書物も、おおむねそれに準じた記述になってる。
いまでは土御門町のそのあたりだったと考えることに、ほぼ定まってるとみていいね。

■土御門家■
安倍晴明公の子孫は室町時代になると、家名を「土御門」と称するようになった。江戸時代中期の当主、土御門泰福土御門神道 (安倍神道) を大成させた。明治維新後は華族となり、子爵に列せられた。
土御門の名は大内裏に設けられた屋根を持たない築地を開いただけの簡便な門、土の門、土御門に由来する。

晴明神社陰陽道

平安京造成時、大内裏 (だいだいり) の北西の「天門」の方角に、陰陽道信仰にあって重要な方忌に関する神、大将軍神をまつる大将軍堂 (現在の大将軍八神社) が建てられた。それと同様に、北東の「鬼門」を封ずるために、現社地に晴明神社を建てたとする考えも成り立つだろう。その際には、いまにのこる清明公は稲荷神の生まれ変わりとする伝承を考えると、稲荷社であった可能性もあるだろう。

創建とされる1007年、一条天皇には厳重に鬼門を封じたいという強い思いが確かにあった。

元々は平安京における天皇の在所である内裏のことを大内裏と称したが、やがて宮城全体を大内裏と称するようになり、こちらが一般化した。内裏には天皇の住居である清涼殿をはじめ、後宮などが配され、内裏の外に朝堂院や豊楽院などのまつりごとに関する施設がおかれた。
しかし大内裏・内裏はたびたび焼失にみまわれた。
そのたびに天皇は仮宮 (里内裏という) での暮らしを余儀なくされた。やがて焼亡から再建までの期間がのびる傾向が顕著になり、天皇の里内裏暮らしが常態化するようになっていく。
現在の京都御所北朝初代の天皇光厳天皇 (在位1331年~1333年) の里内裏であった土御門東洞院殿の後裔にあたる。

一条天皇と怨霊伝説

菅原道真公の怨霊伝説はわたしたちもよく知るところだ。

讒言を受け入れた醍醐天皇によって、道真公は大宰府へと排されて (昌泰の変・しょうたいのへん)、903年 (延喜3年)、かの地で憤死する。

京のみやこでは908年 (延喜8年)、参議・藤原菅根 (ふじわらのすがね) が落雷をうけ絶命すると、その後も皇族、貴人たちの死が相次ぐようになった。

みやこびとたちは、これを道真公の怨霊によるものだと噂しあい、恐れた。

絶え間なく平安京を襲う水害、旱魃、疫病、火災…。

そして、あろうことか930年 (延長8年)、 天皇の住居、清涼殿が落雷をうける (清涼殿落雷事件)。

藤原清貫 (ふじわらのきよつら)、平希世 (たいらのまれよ)など7名もが、惨たらしい姿で亡くなった。

惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、体調を崩し、皇太子・寛明親王に譲位。そして出家した醍醐上皇はその日のうちに崩御された。

道真公は天神となって雷をあやつり怨念を晴らそうとしている。

みやこの恐怖はきわみにまで達した。

 

天神様がみやこを焼き尽くすぞ!

静かにしてよ。お願いします。

■天満大自在天神■
晩年の道真公が天拝山にのぼり、無実を訴えていると、天から「天満大自在天神」と記された祭文が降ってきたとの伝承があるように、道真公は天満大自在天神となったとされるようになり、それが北野 (現・京都市上京区) の火之御子社の火雷神と結びついて、公は雷神とも見做されるようになっていった。
947年 (天暦元年)、 道真公をまつる北野天神社 (現・北野天満宮) が創建された。
987年 (永延元年) には初めての勅祭 (ちょくさい・天皇の勅使が派遣されて執行される祭祀) が執り行われ、一条天皇より「北野天満天神」の神号が贈られている。
それでも怨霊はしずまる気配をみせなかった。
一条天皇 (980年・天元3年~1011年・寛弘8年) は日本の第66代天皇花山天皇の出家により、わずか7歳で即位。在位は986年・寛和2年~1011年・寛弘8年。一条の名は長く暮らした里内裏・一条院 (一条大宮院) の名による。
999年 (長保元年) 、1001年 (長保3年)、1005年 (寛弘2年) と三度までも内裏は焼亡。一条天皇は里内裏と再建なった内裏への遷御を繰り返すこととなる。
「天門」に道真公をまつるだけでは怨霊は鎮まることはなかった。厳重に「鬼門」を封じなければならない。
やがてみかどは譲位の意を口にするようになったと伝えられている。

境内案内

一の鳥居

堀川通に面した一の鳥居に掛けられた扁額には社紋の五芒星。

二の鳥居

二の鳥居に掛かる「晴明社」の扁額は1854年 (安政元年)、土御門晴雄が奉納したものを忠実に再現したものとされている。
 
■土御門晴雄■
土御門晴雄 (つちみかど はれたけ) は江戸時代末期の公卿。江戸幕府14代将軍・徳川家茂の将軍就任に際しては勅使として江戸城に赴いた。1869年 (明治2年没)。翌年、新政府は陰陽寮を解体、1872年 (明治5年) には太陽暦に移行したことから、事実上、公式な陰陽道家としての土御門家最後の当主となった。
 

一条戻り橋

境内を進んでいくと、左手にミニチュアサイズの一条戻り橋が再現されている。
数々の怨霊伝説に登場し、また清明公ともゆかりの深いこの橋のレプリカが当地にあることは意義深いと言うほかない。
レプリカとはいえ、以前の戻り橋で実際に供されていた欄干の親柱 (一條、戻橋と彫られている左右の柱)を移築したもの。
その横には式神のすがた。
清明公は普段はこの橋のしたに式神を住まわせていたという。
式神とは■
陰陽師が占いで用いる式盤と関わりがあるとされる、鬼神の一種。

五芒星



いたるところで、五芒星 (晴明桔梗) を目にする。

清明

清明公の法力によって湧き出たとされている。
上部は可動式で、毎年立春の日にその年の恵方の方角に向けられる。
その水を飲むと、大きな御利益があるという。

聚楽屋敷跡

かつての聚楽第そばにあった千利休の屋敷は、いまの晴明神社のあたりであったともされている。
すると、利休の末期の茶は清明井の水でたてられたことになるのだろうか。

またしても、利休だ。

 

どういうこと?

葛葉稲荷神社を覚えてるよね。

 

葛の葉姫だ。 安倍晴明公御母君の古里。

 

tabinagara.jp

 

そう。あそこも利休ゆかりの社なんだ。
利休が寄進した灯篭、ふくろうの灯篭がある。

 

どこにあったの? 知らない。

子安石のとなりだよ。

 

えっ、真っ暗でなにも見えなかったよ。

 

あれからひとりで行ったんだ。いつ行ったの?
じぶんひとりで行った!

うーん。
とにかく、利休についてもいろいろと知りたいことが出てきたね。あちこち訪ねてみたい。

 

利休にたずねよ

うーん。

死後、利休の首は一条戻り橋に晒された、とも言われている。

■利休切腹?■
利休は秀吉の勘気をこうむり、大徳寺山門から引きずり降ろされた利休の等身大の木像は一条戻り橋で磔にされた。やがて利休は切腹。その首は木像に踏みつけられるかたちで晒された…。
映画などでは、利休の最後は切腹というのがお決まりになっているが、はたしてそうだろうか。
当時の人々の日記には「利休は逐電された」「行方不明になった」「高野山に上った」などと記されたものも複数存在する。
また、木像に踏みつけられたことが事実なら、その像は間違いなく、即座に派手に破却され、その様子はいまに伝聞として残っていたことだろう。
大徳寺にあった木像が、その後、どのような経緯を経たかは定かではない。現在では茶道の裏千家が秘匿しているとも、また、いまも大徳寺のどこかに匿われているともされている。

一条戻り橋を越えて

わたしは晴明神社をあとにした。
晴明神社バス停 (正式名称は一条戻り橋・晴明神社前) を横目で見ながら、一条戻り橋のほうへと歩いて行った。
ほんの数分で橋を渡ることになるだろう。
行くあてなどなかったが、不意に、話に聞く京都ブライトンホテルの「セイメイ」というカクテルを口にしてみたくなった。
■セイメイとヒロマサ■
京都ブライトンホテルではセイメイ (安倍晴明) とヒロマサ (源 博雅) という二種類のオリジナルカクテルを供している。
いにしえに想いを馳せながらグラスを見つめれば、みやびなうたげの気分にひたれるだろう。是非。

kyoto.brightonhotels.co.jp

一条戻り橋まで来ると、子供の泣き声が聞こえてきた。
したを流れる堀川の両岸は、遊歩道として整備されている。
のぞきこむと、幼い女の子が泣きじゃくりながら歩いていた。その前を進むのは母親らしき女性。子供のことが心配でたまらない、といった表情。しかし、こころを鬼にしてうしろを振り向かない、といった様子。
どんな悪さをして、お母さんをおこらせたのだろう。

 

現代の式神はよく泣く。

そして母式神は、子供を泣きやませるのに難儀している。