【壷阪寺】眼病封じの御利益、壺坂霊験記の夫婦愛をいまに伝える

奈良県のほぼ中央に位置する高取町を象徴するものとはなにだろう。

「くすりの町 高取」

日本書紀推古天皇の段にみられるように、古くからこのあたりでは薬猟 (くすりがり・鹿の角や薬草を集めること) がおこなわれていた。土佐街道 (飛鳥時代に土佐高知から移ってきたヒトたちが住まうようになったことが、命名の由来するとされる) 沿いにある、黒の外壁に白い六角形の亀甲型が施された古い蔵を改装したくすり資料館を訪ねれば、薬の歴史を体感することができる。

~目次~

 

また、高取城も忘れることができない。

壺阪山にあって、かつて山城としては異例なほどの荘厳なすがたをみせていた高取城、その城址には、いまも多くの観光客が訪れる。

そして壺阪寺もまた、よく知られるところだ。

壷阪寺へ

壷阪寺を参拝した。

入山料をおさめているあいだ、じっとこちらをうかがっていたネコたちが見送ってくれた。

「ようお参りです。ごゆっくりと」

静かだった。

無理もない。

午後四時、閉山まで、あと一時間しかなかった。

寺院参拝に際しては、いつも夕方の慌ただしい時間になってしまうのは何故だろう、思わず苦笑した。

 

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西に目をむける。

あいにくの曇り空とて、盆地のむこうの二上山生駒山がはっきりと見えた。

どこまでも、のどかな風景がひろがる。

わずか150年あまりまえ、この高取の地が天誅組の変に見舞われたなどとは、いまとなっては想像するのも難しくなってきている。

 

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境内案内

朱色の大講堂を右手に見ながら、わたしは進んでいった。

まず、瀧蔵権現で柏手をうつ。

この地の地主神をまつっているとされる。

つぼさか茶屋。

ここのうどんは美味いのだが、この時間ではどうしようもない。

仁王門をくぐる。

礼堂までは、まだかなりのぼって行かなければならない。

しかし、リフトが設置されている。

わたしもいつかは利用することになるのだろうか。

三重塔が見えた。

そのむこうに礼堂。

もはや息があがっていた。ひざが笑っていた。

ありがたや、ありがたや。

靴を履きなおし、さらに進んでいく。

「釈迦一代記」のレリーフ

スジャータだろうか。

さらに進んでいく。

大観音石像。

唯我独尊。

大涅槃石像。

釈迦入滅の様子。

壺坂霊験記

壷阪寺が眼病封じの寺としてつとに有名になったのは、明治時代初期に成立した浄瑠璃、壺坂霊験記によるところが大きい。

■壺坂霊験記■
「壺阪霊験記」「壺坂観音霊験記」とも。実話をもとにしているとの説もあるが、定かではない。
演目によって筋の細部に違いはあるが、壷阪寺の本尊、十一面観音の霊験によって盲目の澤市の目が見開かれるというところは共通している。
毎日のように明け方になると家を抜け出すお里に不信をもった盲目の澤市は、ほかにおとこでもできたのかと問いただす。しかしお里の返事は、澤市の目が見えるようになりますようにと、壷阪寺に参っていたというものだった。邪推を恥じた澤市は、それ以降、お里とともに壷阪寺に通うようになった。しかし盲目の自分がいてはお里の足手まといになると考えた澤市は身を投げて死んでしまう。そしてお里もまた、あとを追って身投げする。
それを知った十一面観音はふたりの命をよみがえらせ、澤市の目は見開かれた。

 

覗き込んだが、木々が生い茂り谷底は見えない。

礼堂からすこし奥に慰霊碑がたつ。

歌舞伎や浪曲にもなってるね。

そうだね。浪曲妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ…って名調子はよく知られているね。

そろそろ時刻だった。

戻らなければならない。

光のほうへ

わたしは来た道を戻って行った。

あいにく、もうネコたちのすがたは見えなかった。
右手に昔の慈母園の建物がが見えた。
慈母園は昭和36年、盲老人ホームとしてこの山内に開園したが、令和にはいり、おなじ高取町の「たかとり文教福祉ゾーン」に移転を果たしていた。
ネコたちはこの無人の老人ホームへと帰っていったのかもしれない。