7月の京都は、祇園祭一色になる。
連日のように祭りの様子が話題になり、なかでもその前祭 (さきまつり) 後祭 (あとまつり) のクライマックスとも目される山鉾巡行の当日は、多くのヒトたちがまちに繰り出し、浴衣姿の人波がゆっくりと押し寄せるなか、市街の中心部には大規模な交通規制が敷かれて、そこではアジール (聖域) さながら、非日常的な、喜びの充溢をいたるところで見ることになる。
~目次~
祇園祭の歴史
祇園祭のはじまり
2022年 7月撮影
平安時代、京のみやこに疫病が蔓延するなか、ときの朝廷は863年 (貞観5年) 神泉苑において御霊会 (ごりょうえ・死者の怨霊を鎮めるためのまつり) を執り行った。御霊会とされたからには、陰陽寮・陰陽師による卜占があったのだろう。非業の死を遂げた早良親王らの怨霊のによるものと見做されていたとされている。
しかし疫病がおさまることはなく、さらに翌864年 (貞観6年) には富士山の大噴火、869年 (貞観11年) には陸奥国での地震など自然災害が次々とおきて、怨霊は鎮まる様子をみせなかった。
そこで869年 (貞観11年) に神祇官・卜部日良麿 (うらべのひらまろ) が神泉苑に当時の国 (律令国) の数と同じ66本の鉾をたて、それに悪霊を移して祇園社 (八坂神社の旧名) にまつられている牛頭天王に病魔退散を祈る祇園御霊会をひらいた。
これが公式な祇園祭のはじまりとされている。
2019年 (令和元年) には祇園祭1150周年が祝賀された。
国の数と同じ鉾をたてる…。
これ、荒神谷遺跡を連想させるね。
ああ…、ほんとだ。
それまでに全国で出土した銅剣は約300本。それを上回る数の銅剣が一度に発掘されるという、考古学上の画期となる発見だった。
358という数は、出雲国風土記に記載された神社の数とほぼ同じとなる。
山鉾巡行の変遷
やがて鎌倉時代にはいると、移動する鉾を取り囲むようにして歌い踊る人々があらわれだし、鷺舞などの神事芸能もうまれてくるようになる。
この八坂神社の舞踊の動画を拝見していて、わあ、島根県津和野町の鷺舞神事にそっくりだ、となつかしさでいっぱいになった。
— 松野文彦 (@ma2no_z32) 2023年7月10日
鷺舞神事は祗園社(八坂神社の旧名)から山口、そして津和野へと伝えられたもの。#津和野町#八坂神社#鷺舞神事 https://t.co/1QoRPBCI8l
さらに室町時代になると、鉾と屋台が一つになった今に続く鉾車が見られるようになる。
戦乱による中断や疫病による延期などを経ながらも、山鉾巡行は古くから町衆によって支えられて続いてきた。
今では祇園祭の最重要神事・神輿渡御 (みこしとぎょ・練りだした八坂神社の神をのせた神輿が、市中を清め巡る) よりも人々の耳目を集めているかもしれない。
山鉾の作りについて
2022年 7月撮影
美しい彫刻、精緻を極めた細工、タペストリー…。そんな美しい衣装を脱ぎ捨てると、昔ながらの、くぎを使わずに組まれた骨組みを見ることができる。
ウイルス禍をこえて
2022年 7月撮影
昨今のウイルス禍によって、2020年、2021年と神輿渡御、山鉾巡行ともに中止になり、祇園祭は賑わいを欠いた、大幅に縮小されたかたちでの実施となった。
2022年においても、一部の鉾の拝観が見合されるなどした。
そして2023年、祇園祭はいよいよ完全な形で復活の運びとなった。
疫病退散の祈りを起源にはじまった祇園祭が、未だウイルス禍のあけきらぬ2023年、完全復活する意義は大きい。
こころに鉾を立てよ
京都市内は、大規模な交通規制が実施されていた。
ハンドルを握りながら、わたしは煙草に火をつけた。
煙が目の前でゆらめく。
たくさんの浴衣姿、笑顔の列。
わたしはウインドウ越しに、賑わいを取り戻した京都の夏を眺めていた。
いまこそ、こころに鉾を立てよう。
そう、立てるのだ。
すべてが、後の祭りとならないうちに。