【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで

相撲の起源はいつどこに求めればよいのだろう。

向きあった力士どうしが呼吸を合わせ、両手を土俵につけるや、立ち合いの一瞬、バシンッ、と凄まじい音を立ててぶつかりあう二つの巨きなからだ。隆起する二の腕の筋肉、四つの足が土俵にめり込まんばかりになる。

見るものを陶酔と熱狂へと連れ去る、そんな相撲の始まりは、いったいどのようなものだったのだろうか。

 

国譲り神話

神話の世界にまで遡ってみると、古事記における出雲の国譲り神話の、大国主神の子、建御名方神 (たけみなかたのかみ) と天津神・建御雷神 (たけみかづちのかみ) との伊耶佐之小濵 (いなさのおはま・稲佐の浜) でのちからくらべを相撲の起源とみることができる。

■それぞれの国譲り神話■
古事記では、天照大御神は建御雷神に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を付き添わせて天下らせている。しかし日本書紀ではそれが経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)となる。また出雲国造神賀詞では天穂日命が自身の子、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に布都怒志命(経津主神)を従わせ、天下らせて葦原の瑞穂国を平定したとされている。そして出雲国風土記では大穴持命(おおなむぢのみこと・大国主神)が、我が造り坐す八雲立つ出雲の国は青垣山を廻らし賜いて守るとし、出雲以外の国を自らてばなしたとしている。

 

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そして敗れた建御名方神は科野 (信濃) の国に去ったとされている。

野見宿禰當麻蹶速

初の天覧相撲

しかし、より現代の相撲に近い形での伝承となれば、日本書紀に記された垂仁天皇の御前でおこなわれた野見宿禰當麻蹶速の取り組みとなる。
この初の天覧相撲に勝利した野見宿禰は、二上山麓の當麻蹶速の所領を賜ったとされている。

野見宿禰と土師氏■
垂仁天皇32年、皇后日葉酢媛命を葬るにあたって、野見宿禰は殉死をやめ、代わりに土物(はに・埴輪)を埋めるよう奏上した。これをもって野見宿禰は埴輪の製作や陵墓の造営などの葬送儀礼をつかさどった土師氏の祖と見做されている。ながく陵墓の石棺などの切り出し供給地であった二上山麓の土地を賜ったとされるのは、そのような文脈のなかでとらえることができる。

 

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腰折田

當麻蹶速は腰を踏み折られ絶命したことから、没収された所領に「腰折田」があると、日本書紀は記す。

江戸時代の地誌「大和志」はその所在地を良福寺 (現在の奈良県香芝市良福寺) としている。

近年、国道168号線の良福寺交差点からほど近いところに「相撲発祥伝承之地 腰折田」の碑がたてられ、小さな公園として整備されている。しかしながら、そこはたんに「腰折田伝承之地」としたほうが理解されやすかったかもしれない。

実際、現地の案内板のほうはそのようになっている。

そこには現在の土俵 (15尺) よりも小さな、古い時代の土俵 (13尺) が再現されている。

當麻蹶速之塚

 腰折田伝承地からほど近い、奈良県葛城市當麻には當麻蹶速の墓とされる五輪塔がある。

しかし、當麻寺の開山に携わった當麻国見の墓とする異説もある。

いずれにしても、五輪塔自体は、その様式から平安時代末期ないしは鎌倉時代のものとみなされている。

五輪塔のとなりの「葛城市相撲館 けはや座」では、相撲に関する様々な貴重な資料を見ることができる。

 

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奈良時代から江戸時代まで

相撲節会

野見宿禰當麻蹶速の取り組みが、垂仁天皇7年7月7日と日本書紀に記されるなど、宮中にあっては、相撲は七夕の神事、あるいは七夕行事の余興としておこなわれていたと考えられている。

そして聖武朝 (724年~749年) の頃には相撲節会 (すまひのせちえ) として年中行事として定着。射礼 (じゃらい・弓儀式。歩射の一種)、騎射 (きしゃ・馬に乗っての弓競技)とならんで三度節とされた。

やがて桓武朝に健児 (こんでい)の制がはじまると、健児の鍛錬に相撲技が取り入れられるなど、相撲は肉体の鍛錬という面を強くしていくようになる。

■健児の制■
律令制下における各地の軍団に代わり、桓武朝中期の792年、一部の諸国をのぞき新たに布(し)かれた徴兵制度。

その後、平安京にみやこが移ると、相撲節会は次第に優雅な宮中行事へと性格を変えていき、ついには平安時代末期の1174年の開催を最後に相撲節会は廃絶となった。

武家相撲と勧進相撲

肉体の鍛錬としての相撲を、武士が好むのはごく自然なことだった。

鎌倉時代吾妻鏡に記されているように、源頼朝はことのほか相撲を好んだ。鶴岡八幡宮の祭礼には相撲がおこなわれるのが習わしだった。

織田信長豊臣秀吉もたびたび上覧相撲をひらいている。

しかし徳川の天下泰平の世となると、武家相撲は次第に存在意義をうしなって衰退し、代わりにいまに続く民間の勧進相撲が盛んになった。

■お抱え力士■
江戸時代になると、藩の威信を示すために勧進相撲の有力力士を家臣の身分で取り立てることが盛んにになった。雷電為衛門や陣幕久五郎をお抱え力士とした雲州松江藩などが有名。

 

松江は相撲が盛んだったんだね。やはり野見宿禰と関係があるのかしら。

そうかもしれないね。亨和元年 (1801年) の番付表では西の大関以下、上位6名が松江の力士だったんだよ。

横綱は違ったの?

当時は大関が最高位だったんだ。そのころには雲州の力士がいなければ興行が開けないと言われていたそうだよ。

奉納相撲の跡をたずねて

腰折田とおなじ香芝市内の穴虫にある大坂山口神社に向かった。

かつては、盛んに奉納相撲がおこなわれていたという。

鳥居の向こうに、石垣を組んだ桟敷席が設けられているのが見えた。

割拝殿をくぐると、鹿が描かれた額が目に飛び込んできた。

安政六年ということは江戸時代の1859年、安政の大獄があったころだ。
奈良に鹿はつきものとはいえ、奈良公園からずいぶんと離れたここで鹿と出会えるとは思わなかった。

振り返ると、反対側には相撲の額。

奉納されたのは昭和のようだが、描かれている土俵のサイズはどうやら小さい、昔の13尺のようだ。

さらに石段をのぼって参拝。

参拝を終えると、わたしは石段を下りて行った。

その左手に、かつては土俵が設けられていたという。

しかし、いまではその取り壊されてひらけた更地を桟敷席だけが無言で見つめるばかりだ。

わたしは土俵があったとおぼしき場所に立ち尽くしていた。

桟敷席を埋め尽くすにぎやかな歓声に負けじと、力んだ大声で「はっけよい、のこった!」と叫ぶ掛け声が聞こえたような気がした。

 

おもしろそうね。こんど行ってみようかな。

いいね。ちょっと注意してほしいのは、香芝市内には大坂山口神社というのが、この穴虫以外にもう一か所、逢坂というところにもあるんだ。どちらも式内・大坂山口神社の論社と目されているんだ。

 

ややこしいね。

ふたつは歩いて10分程しか離れていないんだ。両方参拝するのがおすすめさ。 

■「はっけよい」と「のこった」■
相撲には、野球における「プレイボール」のような開始の合図は存在しない。二人の力士の両手が土俵についたそのとき、取り組みが開始されることになる。よく「はっけよい、のこった」をそうだと誤解している向きもあるが、あれはまだ勝負のついていない両力士に、はやく決着をつけるよううながしているにすぎない。
「のこった」は相手のからだがまだ土俵上に残っているぞ、あるいはあなたのからだはまだ土俵上に踏みとどまっているぞ、という意味だとすぐに理解できる。では「はっけよい」とはなにか。
諸説ありそのどれもが決定打に欠けるが、相撲がその起源から神事としての側面を持ち合わせてきたことを考えると「八卦よい」にその語源を求める説には、一定の説得力がある。
 

おわりに

腰折田、大坂山口神社と香芝市内の相撲ゆかりの地を巡ったあとに、さあ、こんどは食事だと思ったなら、香芝市内にぜひとも立ち寄りたい店がある。
近鉄大阪線・関谷駅のすぐ目の前にある「相撲茶屋 ちゃんこ好の里」だ。
かつての井筒部屋の力士、好の里関が店長をつとめるこの店でおもいきり胃袋を満たしたいものだ。
 

ちょっと待って。相撲の歴史を教えてくれるって言ったのに、神事相撲についてはあまり触れてないね。相撲節会についても通りいっぺんだった。どうして?

現存する資料がすくないからさ。でももっと詳しく知りたいなら、愛媛県今治市大山祇神社に行くといいよ。いまでも神事として一人角力がおこなわれているんだ。

 

一人角力 (ひとりずもう) ?

そう。稲の精霊相手に角力をとるんだよ。もちろん精霊のすがたは見えないので、まるで一人で角力をとっているように見えるんだ。

 

へえ、一人角力って言葉、神事が語源だったんだ。

いまみたいに空回りみたいなネガティブな意味で使われるようになったのは、明治以降のことなんだ。

 

なるほどね。
じゃあ、はやくちゃんこを食べに行きましょうよ。日が暮れてしまう。ところで、この旅ながらの日々ってブログ、ずいぶん空回りな一人角力ってことはないかしら。

えっ?

 

 

ごっつあんです。

ごっつあんです。