【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて

失われた古代祭祀の全容を知ることは容易ではない。

周知のように銅鐸などはなんらかの祭祀につかわれていたのでは、と考えられているが、それについての詳細な記述は、記紀のような古典においても見ることができない。ただ土の中に埋められて、語られることさえ憚られたとでもいうように忘れ去られてしまい、後世、偶然に掘り返されたときには、みなが首をかしげて言う。

どうしてこんなところに埋めたんだ?

これにはどんな意味があるんだ?

なにに使った?

また荒神谷遺跡 (出雲市斐川町) から、1984年 (昭和59年)に358本もの銅剣が出土したとき、世間はその数の多さから世紀の大発見と騒ぎたてたが、実際に現地に足を運び、遺跡を目前にしたものは、そこが言うべき特徴のない、何の変哲もない谷の斜面であることに驚いたことだろう。

新たな祭祀が生まれるとき、その執行者は、先行する祭祀の伝承を認めることはなかったのだと、想像にかたくない。

しかしそれでも、古典を子細に読み込めば、往古の信仰の残り香を感じ、小さな断片を拾い集めることができる。

~目次~

高木のはなし

古事記仁徳天皇の条に、高木のはなしがみえる。

古事記・要約■
兎寸川の西に一本の高木があった。その影は朝日があたると淡路島にとどき、夕日があたると高安山を越えた。その木を切り倒して作った船は速くはしった。その船は名付けて枯野という。朝夕淡路島の清水を汲んできて、天皇に献上した。
やがて船が破損すると、その材をもって琴をつくった。その音は七里さきまでとどいたという。
『兎寸』はトノキあるいはトキと読むとされ、それは旧河内国兎寸村、現在の大阪府高石市取石あたりと見做されている。いまでは正式な行政名としてはトノキという地名は存在しない。わずかにJR阪和線富木駅、富木筋という道路の名前、それに等乃伎神社 (とのきじんじゃ・とのぎじんじゃ) などの名称にわずかに残るにとどまっている。

高木を切り倒し、それで御用水を運ぶ船をつくったというのは、それはとりもなおさず先行する高木崇拝、巨樹祭祀の否定と、兎寸の地が天皇 (大王) 家が推す祭祀を受け入れたことを意味するのだろう。
しかし、わたしたちは巨樹を敬う気持ちをもち続けてきた。
いまも神様を一柱、二柱と「柱」でもってあらわすのは、その反映に他ならない。

そして、船の廃材でつくったのが琴であるという。
古来、琴は神器、祭器と見做されてきた。

大国主命が、スセリビメ根の国から連れ出すときに持ち出したのも琴であり、出雲国風土記は琴引山の峰にある窟 (いわや) に、所造天下大神 (あめのしたつくらししおおかみ・大国主命) の御琴がおさめられていると記す。

 

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七里さきまで届いたというその琴の音は、巨樹祭祀を奪われた兎寸の人々の慟哭を思わせる。

わたしはクルマをはしらせながら、『兎寸』を現在の大阪府泉南市の『兎田・うさいだ』とする説のあることを思い出した。その場合、兎寸川は樫井川を指しているということになる。

しかしながら神話、なかんずく古事記神話の場合、相容れぬ二つの説を俎上にあげて白黒つけようとすると (そもそも不可能なことだ)、延々とおなじはなしを繰り返しては、結局決着をみないということになる。

国生み神話は、淡路島、四国、隠岐の島の順に国土を生んだとする。

地理的事実として、その順番に国土ができたわけでは無論ない。その順番に国生みされたとするなんらかの歴史的背景や、隠れた伝承があってのことだろう。

因幡の白兎は素朴な白兎の冒険譚に、大国主命の求婚の物語が接続されている。

 

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クルマが表通りからそれると、急に静かになった。

看板が見えてきた。

 

等乃伎神社

等乃伎神社を訪れた。
式内社。しかし、とりわけ南北朝時代にはこのあたりは戦場となり、社殿等焼失したとされている。

それでも、高木を切り倒した跡にたてられたと目されているこのお社に、巨樹祭祀の残像を見てみたくて、わたしは来た。

授与所にはにぎやかにお守りが並んでいる。

『よそでは手に入りにくいお守り』

看板に偽りなしだ。

しかしわたしはお守りは遠慮して、本を頂戴した。

六月の風が心地よかった。
静かに時が流れるとは、まさにこの境内のようすを指す言葉だと思われた。

拝殿で柏手をうつ。

あいにくの薄曇りの中、太陽は見えなかった。

ここからの日の出の推移のようすをあらわした力作動画を、Tamao氏がツイッター上に公開しておられる。

拝殿前には梅の木があり、熟した実がたくさん落ちていた。

いい梅酒ができそうだ。

境内のベンチに腰掛けて『等乃伎神社と古代太陽祭祀』を読む。

和泉黄金塚古墳が、この神社との関わりのなかで語られている。

興味深い。

行ってみようか。

クルマに戻り、ナビをセットする。

1.4キロ、4分。

すぐそこだ。

和泉黄金塚古墳

どうやら、あれのようだ。
しかし道が細くなって、これ以上は進めそうにない。

困った。

通りがかりのヒトに道をたずねる。

「ここからは歩きですな。お墓がありましたやろ。あのまえの細い道を入っていく。しばらく行ったら右手にまた細い道がでてきますんや。けものみちみたいな、えっ、こんなとこ人間行けるんかいな、みたいな。そこ、入って行ったら直ぐですわ」

お墓。

お墓の前の細い道。

近づいてきたのかな…。

けものみち…。

これを行くのか。

本当なのかな。

戻ってもいいか…。

正面に説明版のようなものが見える。

しかし胸くらいの高さまで草木が茂っている。

慎重に、でも勇気をもって。

さんざん、あたりの写真を撮ってから、わたしは来た道をもどって行った。

ふと見ると、梅の実が落ちていた。

またしても…。

あたりを見回しても、いったいどれが梅の木なのか、わたしには判別できなかった。

 

 

参考書籍

等乃伎神社と古代太陽祭祀 金子明彦

参考資料

おりがみの時間

https://origaminojikan.com/36782