【祇園祭】前祭、後祭。あなたは今年もただ山鉾巡行を眺めていただけ?

7月の京都は、祇園祭一色になる。

連日のように祭りの様子が話題になり、なかでもその前祭 (さきまつり) 後祭 (あとまつり) のクライマックスとも目される山鉾巡行の当日は、多くのヒトたちがまちに繰り出し、浴衣姿の人波がゆっくりと押し寄せるなか、市街の中心部には大規模な交通規制が敷かれて、そこではアジール (聖域) さながら、非日常的な、喜びの充溢をいたるところで見ることになる。

~目次~  

祇園祭の歴史

祇園祭のはじまり

2022年 7月撮影

平安時代、京のみやこに疫病が蔓延するなか、ときの朝廷は863年 (貞観5年) 神泉苑において御霊会 (ごりょうえ・死者の怨霊を鎮めるためのまつり) を執り行った。御霊会とされたからには、陰陽寮陰陽師による卜占があったのだろう。非業の死を遂げた早良親王らの怨霊のによるものと見做されていたとされている。

 

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しかし疫病がおさまることはなく、さらに翌864年 (貞観6年) には富士山の大噴火、869年 (貞観11年) には陸奥国での地震など自然災害が次々とおきて、怨霊は鎮まる様子をみせなかった。

そこで869年 (貞観11年) に神祇官・卜部日良麿 (うらべのひらまろ) が神泉苑に当時の国 (律令国) の数と同じ66本の鉾をたて、それに悪霊を移して祇園社 (八坂神社の旧名) にまつられている牛頭天王に病魔退散を祈る祇園御霊会をひらいた。

これが公式な祇園祭のはじまりとされている。

2019年 (令和元年) には祇園祭1150周年が祝賀された。

 

国の数と同じ鉾をたてる…。
これ、荒神谷遺跡を連想させるね。

ああ…、ほんとだ。

荒神谷遺跡■
1983年 (昭和58年) 島根県斐川町神庭 (現、島根県出雲市斐川町神庭) における広域農道敷設工事にともなう調査で、須恵器の破片が見つかったことから、翌年より、本格的な発掘調査が実施され、最終的には銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
それまでに全国で出土した銅剣は約300本。それを上回る数の銅剣が一度に発掘されるという、考古学上の画期となる発見だった。
358という数は、出雲国風土記に記載された神社の数とほぼ同じとなる。

山鉾巡行の変遷

やがて鎌倉時代にはいると、移動する鉾を取り囲むようにして歌い踊る人々があらわれだし、鷺舞などの神事芸能もうまれてくるようになる。

さらに室町時代になると、鉾と屋台が一つになった今に続く鉾車が見られるようになる。

戦乱による中断や疫病による延期などを経ながらも、山鉾巡行は古くから町衆によって支えられて続いてきた。

今では祇園祭の最重要神事・神輿渡御 (みこしとぎょ・練りだした八坂神社の神をのせた神輿が、市中を清め巡る) よりも人々の耳目を集めているかもしれない。

山鉾の作りについて

2022年 7月撮影

美しい彫刻、精緻を極めた細工、タペストリー…。そんな美しい衣装を脱ぎ捨てると、昔ながらの、くぎを使わずに組まれた骨組みを見ることができる。

ウイルス禍をこえて

2022年 7月撮影

昨今のウイルス禍によって、2020年、2021年と神輿渡御、山鉾巡行ともに中止になり、祇園祭は賑わいを欠いた、大幅に縮小されたかたちでの実施となった。

2022年においても、一部の鉾の拝観が見合されるなどした。

そして2023年、祇園祭はいよいよ完全な形で復活の運びとなった。

疫病退散の祈りを起源にはじまった祇園祭が、未だウイルス禍のあけきらぬ2023年、完全復活する意義は大きい。

こころに鉾を立てよ

京都市内は、大規模な交通規制が実施されていた。

ハンドルを握りながら、わたしは煙草に火をつけた。

煙が目の前でゆらめく。

たくさんの浴衣姿、笑顔の列。

わたしはウインドウ越しに、賑わいを取り戻した京都の夏を眺めていた。

いまこそ、こころに鉾を立てよう。

そう、立てるのだ。

すべてが、後の祭りとならないうちに。

 

【鳥取県日野町】金持神社、金運招福の社を回想して。

山あいの、片側一車線の曲がりくねった国道を東に向かってはしっていた。並走するように流れている清流・板井原川の川面が、ときおりきらきらとひかっていた。

さきほど、突然山中にあらわれた巨大な緑色の鬼の像のことを思い返していた。それはまるでニューヨークの高層ビルをよじ登るキングコング。古代、このあたりにも鬼とよばれる人々がいた。

鬼住山 (きずみやま・今もこの名前でよばれている) にすむ鬼を笹巻団子をならべておびきだし、みごと矢で射止めて成敗したと伝えられている。

わたしの住む奈良県葛城山麓にも蜘蛛塚 (土蜘蛛塚) と呼ばれるものが多く残る。たいてい大きな石を置いただけのそれは、慰霊ではなく、まるで土蜘蛛のよみがえりを封じるためのものに見える。まつろわぬ民は鬼、土蜘蛛と蔑まれて、かれらのまことの姿が後世に伝えられることはない。

 

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あと小一時間もはしってトンネルを抜け、岡山県との県境を越えたら、たしか道の駅があったはずだ。新庄村。あの、なんとも笑顔がこぼれそうになるあの場所でひと息いれようか。

しかしそのまえに、立ち寄りたいところがあった。

 

金持神社の御祭神について

金持神社 (かもちじんじゃ) の前に来た。

注連縄を渡した石造の鳥居はなんとも雰囲気があって、わたしはたちまち魅了された。まるで後ろに控える山が大きな口をあけて、そこを訪れるヒトを迎えているようだった。

御祭神は天之常立命 (あめのとこたちのみこと)、八束水臣津努命 (やつかみずおみずぬのみこと・出雲国風土記)、淤美豆奴命 (おみずぬのみこと・古事記) としているが、後者二神は同一神に違いないので、実際は二座ということになろうか。もっとも八束水臣津努命 (八束水臣津野命) と淤美豆奴命 を別神としておまつりしている例は、長浜神社 (島根県出雲市) のようにほかにもある。

天之常立命 といえば天地の創成にかかわった天津神だ。八束水臣津努命は出雲国風土記の冒頭、国引きによって出雲の国をつくりたもうた (国引き神話) やはり出雲の創造神 として紹介されている。

そんな神話界のビッグネーム (いささか不謹慎な表現か) をおまつりしているちいさなお社が山あいにある。

そのことが妙に引っかかっていた。

御祭神というのは、多くのお社で今風にいえば上書きされてきている。

実際にそこに行けば、祈りの始源の姿が垣間見えるかもしれない。

そう思えて、わたしはどうしても訪ねて行きたくなったのだ。

 

お社に立ち尽くして

そんな思いは、急な石段をのぼり、その先にあるこじんまりとした社殿を目にしていちだんと強くなった。

やはり、素朴に山の神をまつっているというほうが、しっくりとくる。あるいは中世、このあたりを本拠とした豪族、金持一族の祖先神をまつっているとしたほうが。

金持神社の社記は、弘仁元年 (西暦810年) 伊勢を目指していた旅人がこの金持の地にまで来たとき、お守りとして持っていた玉石が急に重くなり、やむなくそれを置いてふたたび伊勢へと向かっていった。そして、現宮司家、梅林家の祖先吉郎左衛門にこの玉石を崇めまっつて宮造りせよとの夢のお告げがあったのだと、お社の縁起を述べている。

この玉石という言葉を重く見るならば、はじめにここで鉄神をまつっていたということはないだろうか。

かつてこのあたりは『金にも勝る』と言われた鉄の産地だった。そして多くの鉄山を持つ里、というところから『金持』の地名がついたのだという。

その玉石が鉄鉱石だったとしたら…。

わたしの想像はどんどん膨らんでいった。

鉄神、産鉄神をまつることは珍しくはない。

こと中国地方にかぎっても金屋子神がおり、須佐之男命にしてからが産鉄の影が見え隠れしているのだから。

風が吹いてきた。

わたしは誰ひとりいない山中にある社殿をまえにして、妙な思いにとらわれだした。

この社殿には後戸があり、そこが突然バタンと開いて、中から何百何千という太古からの御祭神があふれ出てきて、この山を覆いつくしていくのだと。

わたしはいつまでもそこに立ち尽くしていた。

お社を参拝していると、強烈に名残惜しく、どうしてもそこを立ち去りがたいと感じるときがある。

金持神社はまさしくそんなお社だった。

金運招福の社

あのとき、境内で立ち尽くしていたときの感覚がいまもときおりよみがえる。

ところで、この金持を大抵のヒトが「かねもち」と読んでしまうことから、金持神社はいまではすっかり金運招福の社として名を売っている。

金運お守りが用意され、御朱印帳も黄金色ですっかり「その気」にさせてくれる。ジャンボ宝くじの時期になると、参拝者が押し寄せるという。

さて、金持神社に参拝したわたしの現在の金運がどうだか知りたいというヒトもおられるのだろうか。

なら、どうかわたしのそばに来られるといい。

財布のファスナーをそっと開いて、中身を御覧にいれよう。

【鳥取県米子市】粟島神社 。 静の岩屋、八百比丘尼の眠る洞 (あな)

よく晴れた日だった。

道路の見通しはよく、行き交うクルマもすくなかったが、けっしてとばしたりはしなかった。

速度を50キロにあわせることに集中する。スピードメーターとにらめっこだ。

突然、路面からの細かな突き上げを感じ、大きな音が響きわたる。雪解けの舗装路をスパイクタイヤではしっているようなにぎやかな音。ゴーっという音が、ときおり高くなったり低くなったりと、まるで手動でラジオのチューニングをあわせているときのような調子で耳をおおう。

音はしばらくつづいて、不意にやんだ。

指揮者に命じられたオーケストラ団員がいっせいに手を止めたように。

メロディーロード。

米子・境港線 (県道47号線) を境水道のほうに向かってはしっていた。大橋をこえると美保関町になる。

米子空港 (鳥取県境港市。ただし敷地の一部は米子市) の巨大な敷地がせまるあたりまで来ると、路面に深さ数ミリ程度の溝を約300メートルにわたってきざんである。クルマのタイヤが定速でそのうえをはしると、あのおなじみの「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマ曲を奏でるようになっている。

境港は鬼太郎の作者、水木しげる氏が幼少期を過ごしたことから、水木しげるロード水木しげる記念館といった関連施設が設けられ、それを目当てに多くの観光客が訪れている。そんなかれらにたいする予祝の意味合いでもあるのだろうか。ようこそ鬼太郎の里へ! そして盛大にテーマ曲で出迎える。 

そのはずだった。

しかし5回、6回と何度試してみてもそれっぽいメロディーには聞こえなかった。ただの騒音。安い省燃費タイヤではうまく鳴らないというのか、まさか!

もう一度挑戦だ、と思ったわたしは脇道にはいり、また戻ろうとして、はたと思い出した。

鬼太郎のテーマ曲を聞くためにここに来たんじゃないぞ。

 

粟島神社

米子市彦名町に坐す粟島神社 (あわしまじんじゃ) はその地名がしめすとおり、少彦名命 (スクナヒコナノミコト) を主祭神としておまつりしている。

江戸時代の宝暦年間に干拓がおこなわれるまで、粟島は中海に浮かぶ標高わずか36メートルの小島だった。現在、米子・境港線から参道のほうを見ると、まったく起伏のない開けた土地が鳥居まで続いていて、なるほど干拓地なんだと 容易に納得させられる。

島だった頃に麓にあった社殿は、干拓の前に島の (山の) 頂に移された。

見上げるほど長い、急な石段をのぼる。途中で二度三度とあしをとめた。石段の先には青空しか見えない。

ようやく拝殿の前までたどりついたときには、もうすっかり息があがっていた。

小さな神スクナヒコナは、美保の岬で出会ったオオナムチ (大穴牟遅・大汝・大国主) とともにこの国を巡り、国づくりを終えると、ひとりこの島にたどり着き、粟の穂にはじかれて (粟の穂にしがみつき、茎がもとに戻ろうとする反力をつかい飛び立って) 常世国に帰って行ったという。

 

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スクナヒコナ、植物でできた船に乗り海の向こうから美保の岬にあらわれて、またひとり、そんなふうに飄々と常世国へともどっていった小さな小さな神様。

静の岩屋

人魚の肉を食べたせいで不死となり延々と生き続ける。そんな八百比丘尼 (やおびくに・はっぴゃくびくに) の伝説が日本各地にのこされている。

日本において、人魚がはじめて記録されたのはふるく日本書紀になる。

推古天皇の治世、近江国の蒲生川にヒトのようにも見える不思議なものが浮かんだ。また摂津国の堀江で漁師がはった網に魚でもなく、人間でもない赤子のようなものがかかったと。

粟島の西側にある洞窟「静の岩屋」は、そんな八百比丘尼伝説をいまに伝えている。

ある者がふるまわれた人魚の肉を家に持ち帰ったところ、それと知らない娘が口にしてしまった。以来、娘は歳をとることがなくなり、自らの身の上をはかなんで粟島の洞窟にこもって絶食し、命を絶った。このとき800歳であったという。

いまでは岩屋の入り口には柵が設けられ、前には鳥居がたてられて「八百姫宮」と称されている。

白木の鳥居がいっぱいに西日をうけていた。しかしそれも岩屋のなかにまではとどかない。

この岩屋を万葉集にうたわれたオオナムチとスクナヒコナが国造りの相談をした仮の住まい「志都の岩屋」と見る向きもある。

歌碑が立てられていた。

「大汝少彦名のいましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」

鳥居が反射させる強いひかりのせいで、思わず目を細めた。

さきへと急ごう、とわたしは思った。

永遠のいのちなどこの世に存在しないと、わかったではないか。

【奈良県橿原市】大和三山・天の香久山訪問記、登山道、磐座、神社、国見台からの眺め。

香久山、耳成山畝傍山…。大和三山の中でも、古よりしばしば「天の」と尊称を冠して呼びあらわされ、一等神聖視されてきたのが香久山だ。

天照大御神の天岩屋戸神話、神武東征のさい香久山の埴土 (はにつち) で祭器をつくり、天神地祇 (あまつかみくにつかみ) を敬いまつったという伝承。

やまとの国の始源の物語に、この山は深くかかわってきた。

 

天香山神社

香久山に到着した。

遠くから眺めているうちはあれほど美しい山容を見せていたものが、いざ目前まで来てみると、なんだかぼんやりとした姿に映ってしまう。

遠くから眺めるにとどめておくにかぎるなどと軽口をたたいたなら、なにやら高慢ちきな美人のようになってしまう。

でも実際に、すこし離れた、右手に見える耳成山は凛と整った姿をしめしていた。

わたしはまず、「月の誕生石」と名付けられた、香久山にいくつも残る磐座のひとつにむかった。

これは奈良市東部の柳生の里にある、柳生宗厳が刀で真っ二つに切り裂いたと伝わる巨石「一刀石」にそっくりだ。
その柳生の里も、本殿をもたずに三つの巨石を御神体と崇める天乃石立神社 (あめのいわだてじんじゃ)をはじめとして、磐座信仰のようすを色濃くのこすところだ。

天香山神社の鳥居をくぐると、右手に波波迦 (ははか・植物の名称とも、香久山の場所の名前とも) の木が見える。
天照大御神が天岩屋戸にお隠れになったあと、布刀玉命 (ふとたまのみこと) がこの木を用いて占いをしたという。

令和への御代替わりの大嘗祭に際しても、ここの波波迦が宮中三殿に献進されている。
わたしは拝殿へと進み、参拝をおえると、参道横にある登山道から山頂を目指した。

ふりしきる雨音が、いっそう激しくなってきた。

それでも頭上を覆う木々の枝葉のおかげで、傘なしで歩けたことは幸いだった。

それにしても、この急勾配の階段状の登山道、20日ほど前に登った二上山・雌岳のそれと瓜二つだ。一瞬、自分はまだ二上山にいるのかと思ってしまったほどだった。

 

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國常立神社そしてミカドの国見

山頂に到着した。
わずかにひらけた平らな土地に坐す國常立神社 (くにとこたちじんじゃ) がわたしを迎えてくれた。

遠くに目をやると、畝傍山が見えた。

国見だ!

舒明天皇はここからやまとの国を眺め、あちこちから立ち上がるかまどの煙を見て、民の豊かな生活を大層お喜びになり、神武天皇の国見歌を踏まえながら「あきづ島 大和の国は」というあのよく知られたうたを詠まれたのだ。あるいはそうあれと願ったことほぎのうただったのだろうか。

国土神・國常立尊を迎えた山頂で、やまとの国の安寧を願った舒明天皇に思いをはせながら、わたしは反対側の登山道から山をくだっていった。

まだ、肩で息をしていた。

標識があった。

ここから4分ほどくだったところに、国見台跡があるという。

山頂から国見をしたのではなかったのか。

これはもう、なにがなんでもその場所を見ておかねばならない。

しかし、生い茂る下草のせいで、もはやどこが道なのかも判別できないありさまだった。しかもますます、地面はぬかるんできていた。

いったいどこをどう行けばいいのか…。

それでもわたしは歩みをとめることはしなかった。

困難にあたっても決して逃げることなく愚直に突き進み、たとえこの身が尽きようとも、初志貫徹、思いを遂げること。それが大和魂

4分ほど歩くと、登山道口に出てしまった。
いったいどこから国見を…。
ここからなのか。

大きな石碑の裏手あたりが、台形上に開けている。

あるいはそこが国見台だというのか。

そこから眺める畝傍山は、ちいさな踏み台の上から見たように、ずいぶん身近に感じられた。

わたしも日々、このやまとの国を見ている。

10日ほど前、元首相が奈良市内で銃撃されて亡くなった。ウイルスの感染者数が過去最高を更新した。連日、食料品値上げのニュースが報じられている。数日おきに国のどこかでゲリラ豪雨が発生し、災害被害がでている。

きのう、古い友人から連絡があって、ひさかたぶりに会った。

冷凍うなぎを三尾、もらった。

 

奴奈川姫 (ぬなかわひめ) の大車輪、得点10・00

我が家の廊下の板には、傷んでいるところが一か所ある。階段のしたあたり。そこを歩くと、かすかにキュッと音をたてる。

この五年来、わたしは帰宅してリビングに向かうとき、いつもわざわざその板を踏む。…ただいま。

ドーン!

テレビを見ていると、廊下で大きな音がした。

扉を開けると、妹だ。

大車輪からみごと着地をきめた鉄棒選手のように、膝をまげ前かがみになって両腕を横にひろげている。

階段の途中から飛んだ…、のかな。

毎朝スーツに身をつつんで有名企業にご出勤のレディーが、自宅では大車輪…。

見ないほうがいいものを見たのかな。

 

新潟紀行

左手に日本海を眺めながら、国道8号線をすすみ、新潟との県境をすぎて糸魚川にはいった。

糸魚川静岡構造線、ヒスイの産地。

やがて親不知子不知 (おやしらず・こしらず) の奇岩のなかをクルマは過ぎていった。大分県耶馬渓にそっくりなながめだ。わたしには、岩の多い景勝地はどこもおなじに見えてしまう。

ただ明らかに違うのは、糸魚川には美しい海があることだった。

青い海、どこまでも広がる水平線。そこに青空が接続すると、海と空の境はあいまいになって、視界は他には何もない、ただ単色の青になる。

神代のころ、奴奈川姫 (ぬなかわひめ) もこの風景を見ていたのだ。

大国主の妻問い。

これが冬、豪雪のころには眺めが一変する。

すこし郊外に出ると、まばらな家屋は雪に覆われ、その輪郭さえ吹きすさぶ雪が見えなくして、そこにどんよりとした雪雲が覆いかぶさって、今度は一面、白一色の世界になる。

クルマですすむには、最徐行以外にない。

どこに側溝があるのか、ガードレールがあるのかわからず、道がまっすぐなのか、カーブしているのかさえわからないで、ただ慎重に、夏の記憶を頼りにいくしかない。

漆黒は美しい

上越市内でひと眠りして、食事をとったあと、さてどこをどうはしったのか。

とにかく北を目指していた。

南魚沼市」という標識が見えた。わたしはさらに山のなかをすすんでいった。

深夜、日付はとうに変わっていた。

行けども行けども、ヘッドライトが漆黒を切りさくばかりだった。

夜は暗い、とその時までわたしは思っていた。しかし違うのだ。夜は黒い。

いっさい照明などない山のなか、月明かり、星明りもさえ鬱蒼としげる木々にさえぎられてとどかぬそこは、まさに漆黒あるのみだった。

もしもいま、クルマをとめてライトを消したなら…。

わたしはたちまちのうちに漆黒に飲み込まれて、同化していたに違いない。

新潟県の県旗がどのようなものか、わたしは知らないが、青、白、黒の三色旗こそふさわしい。

帰宅して

わたしは今日も、明日も、あさってもあの板を踏もう。

我が家の奴奈川姫はもう帰っているのだろうか。

こんどはこのアニが、みごと大車輪を決めてみせるさ。



 

琴引山で大国主の御琴を聞いた、騒擾(そうじょう)を止めるもの、平和の琴の音

琴の音を最後に生で聞いたのは、もう半世紀近く前のことになろうか。

親戚の家で、いとこの女の子たちが、ハレの日にはよく座敷で琴を弾いていたものだ。そう、女の子…。趣味のいい調度品、高価な掛け軸、手入れの行き届いた中庭。琴というと、いまでは和服に身を包んだ上品な女性が優雅にかなでるものといったイメージだ。かしこまって、静かに耳を傾ける…。

では、むかしのひとはどうだったろう。

孔子柿本人麻呂もたしなんだという琴について、平安人はどう思っていたのだろう。実際に琴の音を耳にした貴族階級のひとたちは、なんと感じたのだろう。

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琴引山の大国主

広島を出発して国道54号線を北にむかっていた。最後まで進めば、右側目前に宍道湖を見ることになる。

島根県との県境を越えるころには、どこまでも続く深い山々の眺めにもすっかり慣れてきていた。長々と続くかわり映えのしない風景のなか、すでに飯南町に至っているはずなのに、はたしてここのどこが琴引山なのか見当がつかずに、わたしは途方に暮れかけていた。

出雲国風土記は、琴引山の峰にある窟(いわや)に、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ・大国主命)の御琴がおさめられているという。たんなる伝承にしては記述が具体的だ。長さ七尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸ありとある。それは、根の国から大国主命スセリビメを連れ出すときにいっしょに持ち出したという、あの琴なのだろうか。琴が木に触れて大きな音をたて、目を覚ましたスサノオ黄泉比良坂(伊賦夜坂)まで追いかけられたというあの琴…。イザナギが駆けたあの坂道を、こんどは大国主がはしる。

黄泉比良坂(伊賦夜坂)については、まえに「人生の円環、勝者なき……」で触れた。

 

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わたしは琴引山(標高1,014メートル)山頂近くにある琴弾山神社に参拝するつもりだった。

頓原(とんばら)ラムネ銀泉

わたしは脇道にはいり、クルマで坂道をのぼっていった。

まだ青々とした稲が尖った葉先を空に向けている。

すると見覚えのあるちいさな建物が見えた。

「頓原天然炭酸温泉・ラムネ銀泉」は、その名の通り、豊富に炭酸を含んだ天然温泉だ。

以前、はじめてここに来た時には、山の中にぽつんと、まだ建って間もないようなきれいな温泉施設をたまたま見つけて、ずいぶんと感激したものだ。

素通りは、ありえなかった。

なかに入ると、販売コーナーに並べられた、色鮮やかな、いかにも瑞々しげな野菜が出迎えてくれた。そしてここでしか飲めないであろうラムネ「頓原の銀泉」

わたしは服を脱ぎ、とびらをあけた。

驚いたのなんの、思わずあとずさりそうになった。

湯船の湯が濃緑色をしていた。ほとんど黒に近い。

記憶違いなのか、透明ではなかったか。

わたしのあまりにいぶかしがった表情を見て取ったのか、肩まで浸かってほんのり顔を上気させたオトコが話しかけてきた。

「ここの湯はさあ、日によって色が違うんだよ。緑、黄緑、オレンジ、黄色。いろいろとね。天然温泉ならではさ。大自然の神秘ってやつだね。わたしみたいにひと月も通えば、全部の色を体験できるさ。」

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騒擾(そうじょう)の琴の音

思うさま湯を堪能したあとで建物を出た。ずいぶんと影が長くなっている。そんなになが湯したのか。きもちのいい温泉だった。

さて、急いで仕切りなおしだ。琴弾山神社に向かおう。

わたしは湯冷ましのつもりで、ほんの数分、歩いて坂をくだっていき、立ち止まった。

音はなく、風がそよぐこともなかった。

鳥は鳴かず、虫の羽音さえ聞こえない。

眼下に国道が小さく見えていた。

無音だった。ほかに人影はなかった。

何もないところに、わたしは至っていた。

もうすぐだ、とわたしは思った。

右のてのひらをじっとみて、ゆっくりと、空に向かって腕を上げた。

もう、準備はできている。もうすぐだ。

わたしは耳を澄ませて、琴の音がするのを待った。

眠り込んでいたスサノオを起こすほどの騒がしい音をたてる琴の音。もしその音がしたならば、いま起きている、ありとあらゆることをたちまちのうちに止められるのではないか。いま世界中を覆っているこのウイルス騒ぎも、欧州で起きている面子ばかりの遠慮がちな戦争も、飢餓も、クーデターも、不正な会計操作も、この星の温暖化までも…。

もうすぐだ。

たとえ耳の鼓膜が破れようとも、わたしはしっかり聞きたいと願った。

琴引山でつま弾かれる、大国主の騒擾の琴の音を。

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※追記、

箏(そう)と琴(きん)のちがいについて。

箏と琴は違うものです。柱(じ)のないものが琴。あるものが箏になります。大国主の御琴は琴。時代背景からして、おそらくは七弦琴。わたしが親戚の家で目にし、また今現在世間でひろく「お琴」と認識されているものは、実は箏になります。大国主の御琴のほうは、座って腿の上において演奏する、ラップスティールギターのようなものを思い起こしていただけたらよいかと思います。しかし、ここではわかりやすさを第一に考え、すべて琴で統一しました。何卒、ご理解を賜りたいと思います。

出雲日御碕灯台が照らし出すもの

日御碕神社を染めるもの

出雲大社からくるまで15分あまり、県道29号を北に進むと朱色に塗られた見事な権現造の日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)に至る。現在の社殿は三代将軍、徳川家光の命により日光東照宮の…、

「いやあ、立派ですなあ。だいだい色、きれいわ。伏見稲荷と一緒や。」誰なんだ、行く手を阻むこのおやじ。大声で、ところかまわずに勘弁してほしい。

かかわらないで通り過ぎよう。「なあ、大将!」

つかまった。

「はあ…」

「わしな、前からここ、いっぺん来たい来たい思もてましたんや。ヨメがここえらい好きでなあ…。あっちがな、アマテラスまつってますねん。ほんでこっちがスサノオ。御存じでしたか。」

「いや……」どうしてなのだろう。なぜここで関西弁なんだ。「今日は奥さんは」

「なんかこう、身が引き締まるような気持ちになりますなあ。厳粛な気持ちって言いますんかな」

なったかもしれない。あなたがいなくてひとりきりなら。

「ご病気かなにかですか」

「いや、離婚しましてん。二年前」

「……」

「それにしてもきれいわ。だいだい色。ここ、あれですやろ。もうちょっとむこう行ったら、水平線にダーッとおひさん沈んでいくのん見れますんやろ。その夕日に染められたみたいですわな。もともと古代にはその夕日を拝んでたんですやろな。日沈の宮、言うぐらいですさかいな」

そんなわけで、わたしはいま日御碕神社にいた。

そして海岸を目指して歩いて行った。

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出雲日御碕灯台

180度ひろがる水平線が見えた。

小さな子供をつれた家族連れ、岩場に腰を下ろす恋人たち。そのうしろを海鳥がてくてくと歩く。まるで若い二人をはやし立てているみたいだ。お幸せに!そして正面には白亜の出雲日御碕灯台。さきほどの男性ならきっと、京都タワーみたいやと、大声をあげていたに違いない。

あいにくの曇天のせいで、夕日は見えなかった。しかし広がるのは見事な海。わたしの両腕いっぱいに、ただ海だけが広がっていた。立ち尽くすうちに、波の音に包まれるうちに、この海がわたしから虚栄や不安などの一切の雑味を洗い流してくれるのではないかと、そんな思いにとらわれた。裸のわたしがそこにいるはずだった。

わたしは日暮れまでそこにいた。

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あの日、出雲日御碕灯台が照らし出したわたしは、どんな風に生まれ変わったわたしだったのだろう。