よく晴れた日だった。
道路の見通しはよく、行き交うクルマもすくなかったが、けっしてとばしたりはしなかった。
速度を50キロにあわせることに集中する。スピードメーターとにらめっこだ。
突然、路面からの細かな突き上げを感じ、大きな音が響きわたる。雪解けの舗装路をスパイクタイヤではしっているようなにぎやかな音。ゴーっという音が、ときおり高くなったり低くなったりと、まるで手動でラジオのチューニングをあわせているときのような調子で耳をおおう。
音はしばらくつづいて、不意にやんだ。
指揮者に命じられたオーケストラ団員がいっせいに手を止めたように。
メロディーロード。
米子・境港線 (県道47号線) を境水道のほうに向かってはしっていた。大橋をこえると美保関町になる。
米子空港 (鳥取県境港市。ただし敷地の一部は米子市) の巨大な敷地がせまるあたりまで来ると、路面に深さ数ミリ程度の溝を約300メートルにわたってきざんである。クルマのタイヤが定速でそのうえをはしると、あのおなじみの「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマ曲を奏でるようになっている。
境港は鬼太郎の作者、水木しげる氏が幼少期を過ごしたことから、水木しげるロード、水木しげる記念館といった関連施設が設けられ、それを目当てに多くの観光客が訪れている。そんなかれらにたいする予祝の意味合いでもあるのだろうか。ようこそ鬼太郎の里へ! そして盛大にテーマ曲で出迎える。
そのはずだった。
しかし5回、6回と何度試してみてもそれっぽいメロディーには聞こえなかった。ただの騒音。安い省燃費タイヤではうまく鳴らないというのか、まさか!
もう一度挑戦だ、と思ったわたしは脇道にはいり、また戻ろうとして、はたと思い出した。
鬼太郎のテーマ曲を聞くためにここに来たんじゃないぞ。
粟島神社
米子市彦名町に坐す粟島神社 (あわしまじんじゃ) はその地名がしめすとおり、少彦名命 (スクナヒコナノミコト) を主祭神としておまつりしている。
江戸時代の宝暦年間に干拓がおこなわれるまで、粟島は中海に浮かぶ標高わずか36メートルの小島だった。現在、米子・境港線から参道のほうを見ると、まったく起伏のない開けた土地が鳥居まで続いていて、なるほど干拓地なんだと 容易に納得させられる。
島だった頃に麓にあった社殿は、干拓の前に島の (山の) 頂に移された。
見上げるほど長い、急な石段をのぼる。途中で二度三度とあしをとめた。石段の先には青空しか見えない。
ようやく拝殿の前までたどりついたときには、もうすっかり息があがっていた。
小さな神スクナヒコナは、美保の岬で出会ったオオナムチ (大穴牟遅・大汝・大国主) とともにこの国を巡り、国づくりを終えると、ひとりこの島にたどり着き、粟の穂にはじかれて (粟の穂にしがみつき、茎がもとに戻ろうとする反力をつかい飛び立って) 常世国に帰って行ったという。
スクナヒコナ、植物でできた船に乗り海の向こうから美保の岬にあらわれて、またひとり、そんなふうに飄々と常世国へともどっていった小さな小さな神様。
静の岩屋
人魚の肉を食べたせいで不死となり延々と生き続ける。そんな八百比丘尼 (やおびくに・はっぴゃくびくに) の伝説が日本各地にのこされている。
日本において、人魚がはじめて記録されたのはふるく日本書紀になる。
推古天皇の治世、近江国の蒲生川にヒトのようにも見える不思議なものが浮かんだ。また摂津国の堀江で漁師がはった網に魚でもなく、人間でもない赤子のようなものがかかったと。
粟島の西側にある洞窟「静の岩屋」は、そんな八百比丘尼伝説をいまに伝えている。
ある者がふるまわれた人魚の肉を家に持ち帰ったところ、それと知らない娘が口にしてしまった。以来、娘は歳をとることがなくなり、自らの身の上をはかなんで粟島の洞窟にこもって絶食し、命を絶った。このとき800歳であったという。
いまでは岩屋の入り口には柵が設けられ、前には鳥居がたてられて「八百姫宮」と称されている。
白木の鳥居がいっぱいに西日をうけていた。しかしそれも岩屋のなかにまではとどかない。
この岩屋を万葉集にうたわれたオオナムチとスクナヒコナが国造りの相談をした仮の住まい「志都の岩屋」と見る向きもある。
歌碑が立てられていた。
「大汝少彦名のいましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」
鳥居が反射させる強いひかりのせいで、思わず目を細めた。
さきへと急ごう、とわたしは思った。
永遠のいのちなどこの世に存在しないと、わかったではないか。