住吉神社(おまつの宮・生駒市南田原町)、饒速日尊、星が森に抱かれた古社

大阪府奈良県のあいだにつらなる生駒山系。数々の饒速日 (ニギハヤヒ) 伝承に彩られているその山系の北部は、同時にまた住𠮷神の足跡が色濃く刻まれている土地でもある。

なぜ、この一帯で住𠮷神がさかんにまつられるようになったのだろうか。

磐船神社 (大阪府交野市) は、天孫饒速日尊が御降臨の際に乗られてきたという船形の巨岩、天の磐船を御神体としているが、そのそばに屹立するべつの巨岩には四体の住𠮷神の本地仏が彫られている。また周辺には複数の住吉神社が存在している。

奈良県生駒市の南田原町にある住吉神社もそのうちのひとつだ。

~目次~

 

境内案内

参道を進んで行くと、左手に境内社が見えてくる。

左手が祓戸社。そして真ん中と右手側にそれぞれ天神様と饒速日尊をおまつりしている。

その隣、饒速日尊をまつる社に背を向けるように、成人の背丈ほどの高さの石板。

榊が供されて、大切にされている様子が伝わってくる。

文字等は確認できないが、これは饒速日尊の依り代としてまつられてきたものだろうか。

それとも、クルマでほんの数分はしったところにある別の住吉神社 (大阪府四条畷市) の境内にいまもたくさん残されているように、元々は石仏が彫られでもしていたのだろうか。

住吉神社(大阪府四条畷市・2024年 5月 18日撮影)

鳥居から参道をまっすぐ進んださきに舞殿。

この鳥居と本殿とをむすぶ一直線上に舞殿を設ける配置は、四条畷市住吉神社もまったくおなじだ。
在りし日の、この近在の里のハレの日のにぎやかさがよみがえってくる。

そして本殿。

四座の御祭神 (住𠮷三神と息長帯姫命神功皇后) が坐すのが見て取れる。

本殿前には武人像。

説明版のたぐいはないが、鎧に菊水紋が描かれているところから、楠公に違いないだろう。

正成公ではなく、このちかくの四条畷の戦いで散った、子の正行公 (小楠公) だろう。

おまつの宮

このお社が、おまつの宮と称されるようになったいわれは定かではないが、さきに触れた、ここから数キロ離れた磐船神社はえる松の木の苗を持ち帰り、境内に植えたから、などと語られることもある。

わたしなどは、住吉大社 (大阪市住吉区) が白砂青松で知られ、和歌にも多くよまれていることから、そちらを連想するのだが。

 

ねえ、おまつの宮はわかった。住𠮷神について教えてよ。住𠮷神はいつごろ、ここに勧請されてきたの? どうしてこんな山深いところに、住吉神社がたくさんあるの?

詳しいことはわからないんだ。神社の創建自体は奈良時代とも伝えられているけれどもね。

 

そのときから、住𠮷神が勧請されていたの? 

それもよくわからないんだよ。このお社と住𠮷神との関わりは、すぐちかくの岩倉寺との関係でよく語られるんだ。

 

岩倉寺?

うん。弘法大師がその寺にやってきたとき、ひとりの老人があらわれて役行者開山という寺の縁起をかたりはじめた。太師が名をたずねると「我は住𠮷明神である」と答えたというんだけれども…。

この地域と住𠮷神との関係を考えるとき、住吉大社神代記の記述は無視できない。

住吉大社神代記

膽駒甘南備山本記

住吉大社神代記 (以下、神代記と記す) は国指定、重要文化財天平3年 (713年) の撰と記されている。住吉三神神功皇后の事跡や由来に関する記述が過半をしめているが、そのなかに膽駒山 (現在の生駒山。以下、生駒山と記す) を甘南備山として天皇から賜ったとの一文がある。畿内の各地に自らの神威がおよぶ神領があると主張するなかで、生駒山神領、神域ではなく、わざわざ甘南備山と表現していることには、特に留意する必要があるのではないか。

 

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そして神代記は生駒山の北至 (北限) を饒速日山としている。

饒速日山とは聞きなれない名前だが、これは饒速日尊が御降臨された河上哮ケ峯、磐船神社のあたりとみて間違いない。

では、甘南備 (かむ・なび) とはなにか。

「かむ」が神を意味していることはまちがいないとして、「なび」については諸説ある。が、いずれにせよ、現在では「神の坐す山」という意味で考えられている。

では、神代記の撰者である津守氏はどのような意味で、甘南備としたのであろうか。やはり現代に生きる我々とおなじ意味で、この言葉を選択したのだろうか。

それを明らかにすることは、いまとなってはむずかしい。

しかし、神代記と同時代の書から推測することはできる。

出雲国風土記

天平5年 (733年) 成立の出雲国風土記には、甘南備 (神名樋、神名火)という表記が4箇所にみられる。

これを地図に落とし込んでみる。

国土地理院HPより作成

甘南備山が、宍道湖を取り囲んでいることが見て取れる。

出雲国風土記の冒頭に記されている雄大国引き神話。遠方から島根半島や弓ヶ浜を引き寄せて、まだ小さかったこの国に縫い合わせた出雲の国の国土創世神八束水臣津野命 (やつかみず・おみずぬのみこと) は、その名がしめすように (やつかみず---たくさんの水、おみずぬ---大水の意だろう) 水神であると考えられるが、四つの山を甘南備と定めた当時の出雲の人々 (それは出雲国風土記の撰者である出雲国造と言い換えてもいい) は、臣津野命は宍道湖 (当時は入海) に坐す神であると考えていたのではないだろうか。

冬の朝、湖面から蒸気がたちのぼり深い霧に覆われるさまを目にしたものは、そこに人知を超えたものを感じたに違いない。

出雲の四つの甘南備は、それ自体、神の坐す山であると同時に、この水神を受け入れるための依り代として構想されたものだと考えたい。ちょうど神を迎え入れるために高木をたてたように。

そうであるならば、住吉大社の甘南備としての生駒山は、住𠮷神を受け入れ、その神威をさらに東、奈良のみやこのほうに広めていく役割を担うことではなかったか。

 

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そのような文脈のなかでなら、たとえば畝傍山の埴土神事なども理解できるかもしれない。

■埴土神事■
住吉大社の祭祀に用いる土器をつくるための土を、大和三山のひとつ、畝傍山の山頂より採取する神事。現在にいたるまで続いている。

星が森

それにしても、このお社の杜は見事と言うほかない。

とくに本殿の裏にひろがるその深い緑は、見るものを惹きつけてやまない。

そこは、古くから星が森の名でよばれている。

遠い昔、いくつもの星が降り落ちてきたのだという。

それは天の磐船のかけらだったのかもしれない。

 

註  住𠮷三神に息長足姫命 (神功皇后) をあわせた住吉大社の御祭神を、この拙稿では住𠮷神と表記した。