【磐船神社】饒速日命の降臨伝承地、天の磐船、岩窟めぐりも

瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト) が日向の高千穂に天下られた、ということは周知の神話だが、日本書紀は、別の天孫降臨神話を記してもいる。

饒速日命 (ニギハヤヒノミコト) が天の磐船に乗り河上哮ケ峯に降臨されたという、その雄大な神話は、知るほどにわたしたちを魅了してやまない。

かつてはこの列島の各地に、在地の国津神、祖先神をたたえる同様の神話がほかにも存在していたと考えることもできる。しかし、日本書紀採録されなかった (ヤマト王権に公認されなかった) それらの神話は、次第に語られることがなくなり、天津神や皇統につらなる天孫に徐々に置き換えられていったのかもしれない。

ヤマト王権には、饒速日命の神話を、書きとどめておかなくてはならない理由があったと考えなければならない。

天の磐船を御神体とする磐船神社 (大阪府交野市) を訪ねた。

~目次~ 

天の磐船

磐船神社の境内を、一級河川天野川がながれ、朱色の橋が架けられている。

川をくだっていくと、その両岸には巨岩、奇岩があつまって、思わず息をのむ景観を見ることができる。その府指定名勝・磐船峡のなかにあっても、磐船神社御神体・天の磐船ほどユニークなかたちのものを目にすることはまれだ。

この交野市一帯は、かつての「肩野物部」の本貫地であったと見做されている。

そして物部氏の権勢が陰りをみせ、このお社の祭祀から離れて以降も、天の磐船はここに御鎮座を続けられている。

天野川が氾濫し、境内に濁流が氾濫したことも一度ならずと伝えられている。

しかしそのようなときにも、磐船は寸分も動じることはなかった。

また、いまでは風化のために確認できなくなったとされているものの、かつては『加藤肥後守』の名が、この磐船に刻まれていたという。

大坂城築城のおり、秀吉公の命を受けた加藤清正公がこの磐船を切り出そうとし、石工がまさに刃を突き立てた刹那、たちまち鮮血がふきだして、みなが慌てふためいて逃げ出してしまい、磐船は難を逃れた、との逸話が残されている。

■info■
この加藤肥後守のはなし、いかにも古社に伝わっていそうな面白いもので、とくに関西地方では人の口の端に上がることもままあるのだが、そもそも築城のはじまった時期、清正公はまだ肥後守などではなかったはずなので、首をひねらざるおえない。
では、まったくの作り話かというと、そうでもないようだ。
大坂の陣で焼け落ちたあとの再建・大坂城。その天下普請に加わった清正公の子、忠広公の手配により運び入れられたとみられる巨石のいくつかには『加 (藤) 肥後守内』の刻印が認められている。
その事実が「清正公さん (せいしょうこうさん、せいしょこさん)」人気、築城の名手という生前の評判、それに太閤贔屓のなにわという土地柄などによって変質せられたものが、磐船信仰と結びついたのだろう。

 

いまも天の磐船は船首を天に向け、ふたたび大空へと飛び立たんという様子で御鎮座されている。

 

ほんとに船みたいなかたちだね。

大昔は、この生駒山系のすぐ西麓まで海だったんだよ。いまの大阪平野というのはまだなくて、潟になってたんだ。ほら、東大阪市の水走(みずはい)、あのあたりが水際だったんだよ。

 

水走、確かにそれっぽい名前だよね。

この饒速日命の降臨伝承は、なんらかの史実を反映したものかもしれないね。たとえば物部氏の祖先が瀬戸内海を東進して天野川をさかのぼってきたというような。

 

彦火火出見(ヒコホホデミ)とおなじだ。

そうだね。彦火火出見神武天皇の東征神話の経路を連想させるよね。

 

でも彦火火出見饒速日命を奉斎する長脛彦(ナガスネヒコ)に行く手を阻まれて、紀伊半島を迂回した。

そもそも東征におもむく動機のひとつが、塩土老翁(しおつちのおじ)から、東に美しい国がある。そこに天の磐船に乗っておりた者がいる、と聞かされたことなんだから、おなじ経路になるのは必然ともいえるよね。

饒速日命について

古事記では、磐船神社の御祭神・饒速日命は長脛彦の妹を娶り、可美真手命をいう子までもうけていたが、天津瑞を神武天皇に奉じて帰順した天津神として描かれている。

しかし日本書紀においては、天照大神から十種神宝をさずかり天下った天孫の位置づけとなり、神武天皇への抵抗をやめない長脛彦を誅殺したとされている。

そして先代旧事本紀においては天火明命と同一神と見做され、膨大な随伴神の名前なども記されるなど、その記述は子細におよんでいる。

境内案内

境内の岩に、不動明王が彫られている。
そのとなりには、稲荷神社が見える。

自然崇拝、神道、仏教、密教修験道と、境内を見まわすと様々な信仰のありようが見てとれる。それは他の神社にあっても見受けられることではあるが、この磐船神社が稀有なのは、そのいずれもが、現在まで純粋なまま命脈をたもっているように感じられることだ。

南北朝時代の作と伝えられている (境内の説明板による)、四体の住𠮷神の本地仏

はるか下方に天野川が流れるここに、どのようにして彫ったものだろうか。

川から高い足場を組み上げたのか。それともからだに縄を巻きつけられた彫師が、岩の上から吊り下げられたのだろうか。

いずれにせよ、それ自体、苦行、修行のたぐいであったことは間違いない。

そして、ここに住𠮷神がまつられている理由を「船つながり(天の磐船と航海の神・住𠮷三神)」と説明されることがしばしばあるが、それは附会に過ぎるかもしれない。

天平3年 (713年) の撰とされている住吉大社神代記は、そのなかの膽駒 (生駒、以下生駒と記す) 甘南備山本記において、住𠮷大社 (大阪市住吉区) は天皇より生駒山を甘南備山として賜った、その生駒山の北限は饒速日山であると記している。饒速日山とは聞きなれない名前だが、その候補地、伝承地は生駒山系北部に複数存在している。

いずれにせよ、磐船神社をふくむ、その周辺地とみて間違いない。

大社には、住𠮷神の神威を生駒山周辺にあまねくひろめることを是とするに足る論拠があった。

この住吉大社神代記をぬきにして、住𠮷神と生駒山、そして生駒山以東との関係は考えられない。

 

tabinagara.jp

 

1987年、境内に伴林 光平の歌碑が建立された。

住吉大社宮司・西本 泰氏の揮毫による、二首の和歌が掲げられている。

梶をなみ 乗りてのがれむ世ならねば 岩船山も甲斐なかりけり 

君が代は 巌とともに動かねば くだけてかへれ沖津白波

■伴林 光平■
幕末の国学者歌人河内国志紀郡真宗・尊光寺にて生をうける。朱子学国学、和歌を学ぶために江戸や因幡など諸国を遊歴。長じて成法寺村 (現 大阪府八尾市南本町) 教恩寺の住職となるも、1861年、還俗。1863年大和国でおこった天誅組の変 (大和義挙) に参加。挙兵鎮圧後、磐船街道を敗走するなか、南田原村 (現 奈良県生駒市田原町) にて捕縛。のち、京都に移送され斬首。著作に『大和國陵墓検考』『南山踏雲録』などがある。享年53。
 
「岩船山」の和歌は、いまの世のなかは舵をうしなった船のようなもので、乗って逃れることもままならない。これではせっかくの岩船山の天の磐船もそこにある甲斐がないものだ、という意味になろうか。
「沖津白波」のほうは、世上、伴林 光平のもっともよく知られた和歌だろう。

南田原なら、磐船神社のすぐ手前だよね。

そうだね。大坂に逃れようとしてたのかな?

岩船山…、無念の気持ちが伝わって来るね。
この国を想う熱い気持ちも。

光平烈士のことを考えているうちに、一首できてしまったよ。

きかせて、きかせて。

磐船は きよき祈りの万華鏡
照らし翔けるや やまとの国を

うーん。
まあ…、頂戴しました。

まあ!

岩窟めぐり

最後に岩窟めぐりについて、紹介しておきたい。

天の磐船のむこうにひろがる岩窟めぐりを体験することができる。

年齢制限等がある。

入山料は500円 (令和6年6月現在)。

詳しくは磐船神社のホームページを参照されたいが、一点、注意されたいのが、ひとりでは参加できない、ということだ。

これは滑落などの不慮の事故にそなえての措置で、むやみに怖がることはないとはいえ、軽い気持ちでのぞまれることは避けたい。

岩窟内部には経路が表示されているなど、最大限安全に配慮がなされているが、かつては修験道の行場であったことを思い出させる、険しい場所がのこるのも事実。

上に貼り付けたツイッター (X) 内の老ブロガーの画像をご覧あれ。

これは岩窟めぐりをおえた直後に自撮りしたものだが、髪はみだれにみだれ、その目に光はない。

ところで、ひとりの場合はどうするのか。

わたしもそうしたのだが、土日の朝に社務所に赴かれることをおすすめする。

平日よりも人出の多い土日なら、すぐに別の人が来られるので、ご一緒させていただくことができる。

このすばらしい体験を、多くの人と分かちあいたい。

どうか皆様が、みごと満願を迎えられますことを。

 

神名は日本書紀に記されたものを基本とした。

住𠮷三神に息長足姫命 (神功皇后) をあわせた住吉大社の御祭神を、住𠮷神と表記した。

 

参考資料 参考書籍

徳川時代大坂城再建工事をめぐって ー甲山石切丁場と城内巨石の紹介を中心にー

 第14回 (2005年度) 大学図書館学術資料講演会要旨 P18-23

  著 / 大阪城天守閣館長 中村 博司

 

伴林光平

  著 / 上司小劍原 刊行(再販) / 中村 宏 (2022年1月)

 

生駒の古道 ー生駒市古道調査ー

  編著 / 生駒民俗会古道調査委員会 発行人 / 今木 義法

  発行所 / 生駒民俗会 (2014年3月)