【奈良県香芝市】鹿島神社、武甕槌大神をまつる社。下田界隈を散策して

JR香芝駅に列車がはいっていく。

踏切のバーがあがり、わたしは瓦屋根のちいさな駅舎のほうに歩みをすすめた。

やれやれ、こんな風に時間を潰すことになるとは。

今日が4回目のワクチン接種だった。

いったいいつまで続くのだろう、という徒労感にもまして、これ自体正解なのかどうか確信を持てないままに打ち続けていることは大きなストレスだった。

そのせいでもあるまい。予約時間を間違えて2時間もはやく会場に着いたのは。

わたしは会場近くのJR香芝駅のそばにクルマをとめた。

30年近く香芝に住んでいるというのに、このあたりを歩くのは初めてではないか。クルマで通ったことさえ片手で数えるほどだ。

JR下田駅がJR香芝駅へと名称変更されたのは2004年のこと。

あれは国道165号線をはさんですぐそばにある、近鉄下田駅との混同をさけるためだったのだろうか。あるいはその10年前に、大阪ではやはりJR湊町駅がJR難波駅へと名前をかえているのとあわせてみると、ビッグネームのほうに寄せていく、というのがJRの方針なのだろうか。

 

JR香芝駅

香芝市にはJR和歌山線近鉄大阪線近鉄南大阪線と三本の鉄道がはしっている。

直接大阪市内に乗り入れている二本の近鉄線にくらべて、奈良県王寺町和歌山市をむすぶJRのほうは、なにやらのんびりとはしっている印象だ。

そんなわけで市名の「香芝」を冠したJR香芝駅も決して市の中心駅というわけではなく、そこにいたる道路は狭小で、駅への路線バスの乗り入れなどもない。

駅前には公衆電話、そのすぐそばにある数本の樹木は赤く染まった葉をあらかた落としていた。

そのうしろには駐車場。

フェンスのすぐ向こう側に、市内にある、顕宗天皇陵、武烈天皇陵をしめす碑がたっていた。しかし、これではほとんど人目に触れることはないな、と残念に感じながら、今年の春に顕宗天皇陵に参拝したときのことを思い出していた。家を出て、徒歩で、満開の桜並木をぬけて…。あれが初めてだった。向かいのユニクロにはたびたび行くというのに。

あれは小さな旅のはなし。

 

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駅舎のとなりにある駐輪場を過ぎると、まっすぐにのびる細い道と交差した。クルマが一台やっと通れる程度の道幅。そして香芝市発足以前、ここがまだ下田村と呼ばれていた頃に建てられたであろう古い家屋がいくつも残っている。

これはそうだ、美保神社のそばにある青石畳通りに雰囲気が似ている。

この道も、雨に濡れると青く瑠璃色に光るのだろうか。

 

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その道を左に曲がると、小さな金刀比羅宮があった。

わたしは柏手をうった。

わたしはいま来た道をもどり、また踏切をこえてそのまま進んでいった。

左手に鹿島神社の駐車場があった。

そのさきに鳥居が見えた。

鳥居は遠慮がちにあたまをのぞかせていた。

七五三詣でののぼりが見えた。

鹿島神社

狛犬がわたしを出迎えてくれた。

両部鳥居に『御鎮座 850年』と横断幕がかけられていた。

御鎮座の文字に、うまく笑顔がはめ込まれている。

御祭神は神社名から察せられるように、武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ)。

承安2年(1172年)、3月、常陸国・鹿島本宮より御分霊を勧請したとされる。

さらに奥には拝殿。

その前のテントには、美しい花々の鉢植えが置かれていた。

清浄な気がながれていた。

静かだった。

そもそも、鹿島が転訛して香芝という地名になったとも聞く。

もっと早くに参拝しているべきだったかもしれない。

笑み守

それにしても広大な鎮守の杜だ。

わたしはもっとよく見たくて歩道橋のうえから眺めてみた。

それでも全体を見渡すことはできなかった。

わたしは歩道橋からおりた。

神社の外の張り紙が目に入った。

『笑み守』

笑っていなさい、ということか。

笑う門には福来る。そして美しい人生が招来する。あの拝殿前に置かれた花のように。

わたしはにやにやしていたのだろう。

通りかかった年配の男性が (といってもわたしよりは年少だろう) 怪訝な面持ちでこちらを見ていた。

「花がね…」

わたしは小声で言って、その先は言いよどんだ。

…ここからでは見えないんだ。拝殿前の花がね。

わたしは声をあげて笑った。哄笑はやまずに、ついには腹を抱えて長々と笑い続けた。

 

【京都市南区】東寺 (教王護国寺) のアオサギ、真言密教の教えを体現するもの

東寺のアオサギ、と聞いてピンとくるヒトが世間にいくらもいるとは思えない。

しかしわたしのまわりには「ああ、あいつね」と言って目じりをさげるヒトが何人もいる。そのことはちょっとした驚きだった。「へえ、おまえも気になってたんだ」

こうして自宅にいるいまでも、あの白く大きな鳥、細く長い脚で微動だにせず、黒いショールを肩に羽織ったような優美なたたずまいをみせるあの鳥に会いたい。

 

東寺のアオサギ

平安のむかし、京の入り口に建てられた巨大な羅城門を過ぎてすぐのところ、ちょうど左右対称に、東寺・西寺という二つの官寺が建てられた。

西寺のほうは官寺のまま時を経るなかで衰微し、廃寺となったのにたいして、建立後、嵯峨天皇によって空海 (弘法大師) に下賜された東寺は、真言密教の根本道場として、また弘法大師信仰の寺院としてひろく信仰をあつめ、現在でも多くのヒトに親しまれている。

いまも南大門横の茶色く変色した歴史を感じさせる石の碑に『根本道場 真言宗総本山 東寺』と彫られている。若いころ、その前を通るときにはいつも根本道場、根本道場と心の中でつぶやいていた。その音がなんとも愉快で、繰り返すうちに楽しい気分になったものだ。

その東寺の南大門まえのお堀に、一羽のアオサギがいた。

いつも毎日、おなじ場所にたち続け、正面の九条通りのほうを向いている。微動だにしないその様子は、さながら修行僧を思わせた。しかしごくまれに、すこし立ち位置を変え大宮通りのほうを向いているときもあった。そんなときは「きょうはオフさ。思い切りはねを伸ばすんだ」と言っているように見えた。(もっともはねはいつも通り閉じられていた)

「なあ、いつもひとりきりで寂しくないのかい。もうすこしむこう、鴨川までいけば仲間もいるだろうに」

わたしはいつしかアオサギに話しかけるようになっていた。

京都のランドマーク

東寺の五重塔は高さ約五十五メートル、いまも京都のランドマークとしての存在感を示している。過去何度か焼失しており、現在のものは五代目、徳川家光の寄進によって建てられたものだ。

鳥羽伏見の戦いのさい、西郷公はこの塔にのぼり戦況を眺めて新政府軍の優勢を確信したという。

五重塔の姿がお堀の水面にうつる。それを見たアオサギが塔にむかって飛んでいく。

そんなとりとめのないことを、ぼんやりと思った。

真言密教の教えを体現するもの

ある日、お堀からアオサギがいなくなった。

別の日に通りかかっても、やはり姿が見えない。

「渡り鳥なんだよ。寒くなったんでどこかに飛んで行ったんだ」そんなことを言うヒトもいた。本当だろうか。

東寺では毎月21日、露店がならび市がたつ。弘法市、弘法大師が承和2年3月21日に入定されたことに因む。

その弘法市の日、クルマの中から、行き交うヒトのながれのなかに、こちらをじっと見つめるアオサギをわたしは確かに見た。

次の日、わたしは東寺に向かった。いない。

わたしは南大門から中に入った。

正面には威風堂々、金堂が見えた。

右手には八島社。

ここの地主神をまつっているとされる。

左手にも、アオサギはいなかった。

わたしは南大門から表へ出た。

すると門の左右に一羽ずつ、アオサギがたたずんでいた。

「おまえ、ひとりぼっちじゃなかったんだな」
そればかりではなかった。

壬生通りのほうにも一羽、大宮通りのほうには二羽とアオサギがいた。

なんということだ!

曼荼羅に描かれた如来のように、鳥たちはわたしを魅了した。

わたしは立ち尽くしていた。

どうか連れて行ってください。余人の立ち入れぬ、未聞の境地へ。

【鳥取県日野町】金持神社、金運招福の社を回想して。

山あいの、片側一車線の曲がりくねった国道を東に向かってはしっていた。並走するように流れている清流・板井原川の川面が、ときおりきらきらとひかっていた。

さきほど、突然山中にあらわれた巨大な緑色の鬼の像のことを思い返していた。それはまるでニューヨークの高層ビルをよじ登るキングコング。古代、このあたりにも鬼とよばれる人々がいた。

鬼住山 (きずみやま・今もこの名前でよばれている) にすむ鬼を笹巻団子をならべておびきだし、みごと矢で射止めて成敗したと伝えられている。

わたしの住む奈良県葛城山麓にも蜘蛛塚 (土蜘蛛塚) と呼ばれるものが多く残る。たいてい大きな石を置いただけのそれは、慰霊ではなく、まるで土蜘蛛のよみがえりを封じるためのものに見える。まつろわぬ民は鬼、土蜘蛛と蔑まれて、かれらのまことの姿が後世に伝えられることはない。

 

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あと小一時間もはしってトンネルを抜け、岡山県との県境を越えたら、たしか道の駅があったはずだ。新庄村。あの、なんとも笑顔がこぼれそうになるあの場所でひと息いれようか。

しかしそのまえに、立ち寄りたいところがあった。

 

金持神社の御祭神について

金持神社 (かもちじんじゃ) の前に来た。

注連縄を渡した石造の鳥居はなんとも雰囲気があって、わたしはたちまち魅了された。まるで後ろに控える山が大きな口をあけて、そこを訪れるヒトを迎えているようだった。

御祭神は天之常立命 (あめのとこたちのみこと)、八束水臣津努命 (やつかみずおみずぬのみこと・出雲国風土記)、淤美豆奴命 (おみずぬのみこと・古事記) としているが、後者二神は同一神に違いないので、実際は二座ということになろうか。もっとも八束水臣津努命 (八束水臣津野命) と淤美豆奴命 を別神としておまつりしている例は、長浜神社 (島根県出雲市) のようにほかにもある。

天之常立命 といえば天地の創成にかかわった天津神だ。八束水臣津努命は出雲国風土記の冒頭、国引きによって出雲の国をつくりたもうた (国引き神話) やはり出雲の創造神 として紹介されている。

そんな神話界のビッグネーム (いささか不謹慎な表現か) をおまつりしているちいさなお社が山あいにある。

そのことが妙に引っかかっていた。

御祭神というのは、多くのお社で今風にいえば上書きされてきている。

実際にそこに行けば、祈りの始源の姿が垣間見えるかもしれない。

そう思えて、わたしはどうしても訪ねて行きたくなったのだ。

 

お社に立ち尽くして

そんな思いは、急な石段をのぼり、その先にあるこじんまりとした社殿を目にしていちだんと強くなった。

やはり、素朴に山の神をまつっているというほうが、しっくりとくる。あるいは中世、このあたりを本拠とした豪族、金持一族の祖先神をまつっているとしたほうが。

金持神社の社記は、弘仁元年 (西暦810年) 伊勢を目指していた旅人がこの金持の地にまで来たとき、お守りとして持っていた玉石が急に重くなり、やむなくそれを置いてふたたび伊勢へと向かっていった。そして、現宮司家、梅林家の祖先吉郎左衛門にこの玉石を崇めまっつて宮造りせよとの夢のお告げがあったのだと、お社の縁起を述べている。

この玉石という言葉を重く見るならば、はじめにここで鉄神をまつっていたということはないだろうか。

かつてこのあたりは『金にも勝る』と言われた鉄の産地だった。そして多くの鉄山を持つ里、というところから『金持』の地名がついたのだという。

その玉石が鉄鉱石だったとしたら…。

わたしの想像はどんどん膨らんでいった。

鉄神、産鉄神をまつることは珍しくはない。

こと中国地方にかぎっても金屋子神がおり、須佐之男命にしてからが産鉄の影が見え隠れしているのだから。

風が吹いてきた。

わたしは誰ひとりいない山中にある社殿をまえにして、妙な思いにとらわれだした。

この社殿には後戸があり、そこが突然バタンと開いて、中から何百何千という太古からの御祭神があふれ出てきて、この山を覆いつくしていくのだと。

わたしはいつまでもそこに立ち尽くしていた。

お社を参拝していると、強烈に名残惜しく、どうしてもそこを立ち去りがたいと感じるときがある。

金持神社はまさしくそんなお社だった。

金運招福の社

あのとき、境内で立ち尽くしていたときの感覚がいまもときおりよみがえる。

ところで、この金持を大抵のヒトが「かねもち」と読んでしまうことから、金持神社はいまではすっかり金運招福の社として名を売っている。

金運お守りが用意され、御朱印帳も黄金色ですっかり「その気」にさせてくれる。ジャンボ宝くじの時期になると、参拝者が押し寄せるという。

さて、金持神社に参拝したわたしの現在の金運がどうだか知りたいというヒトもおられるのだろうか。

なら、どうかわたしのそばに来られるといい。

財布のファスナーをそっと開いて、中身を御覧にいれよう。

【奈良県橿原市】丸山古墳、奈良県内最大の前方後円墳、認知度が低いたった一つの理由とは。月が昇っていた…。

いまも古都の面影を色濃くのこす奈良市内にたいして、ずっと南の御所市までくだってくると、山々に囲まれた土地のあちらこちらに、唐突に緑濃い小山があらわれて、あれは古墳なのだろうか、それとも鎮守の杜かしら、などと想像を巡らせるとココロが踊る。

グーグルマップのナビを頼りにクルマをはしらせていた。

「200メートル先、櫛羅を左折です」

ああ、これはクジラって読むんだ。

さすがはグーグル、なんでも知ってるってわけだ。

朝起きると、いつもぼんやりとした意識の中でスマートフォンを起動させて「G」のアルファベットをタップする。

ニュースの一覧がながれる。

そのいずれもが、わたしの興味をひく事柄ばかりだ。

わたしの趣味を理解し、分析する…。

そして毎日グーグル検索を利用するうちに、時々、こいつにすっかり支配されてからめとられているような気になることがある。もうわたしなどに勝ちめはないということなのか。

そういう時代さ、まわりのみんな、訳知り顔で言う。

近鉄御所駅の駅舎が見えてきた。

「200メートル先、ゴショ駅南を左折です」

「続いてゴショ駅前を直進です」

なんてことだ。

これはゴショではない。ゴセだ、ゴセ。奈良県ゴセ市。

どうしたんだ…。

グーグルよ、まだわたしにも勝ち目があるというわけだ。

 

丸山古墳を訪ねて

大和高田バイパスから京奈和道にはいる。

以前、この道をとおって丹生川上神社・中社に参拝したときのことが思い出された。

初詣だった。

見事なお社、息をのむようなまわりの美しい自然、瑠璃色の淵。

わたしはそのことをすぐにブログにしたためた。

『新年あけましておめでとうございます』

いやはや、だ。このタイトル。検索エンジンをまったく意識していないことはともかく、恥ずかしくも二重敬語みたいになっている。

「新年おめでとうございます」か「あけましておめでとうございます」にしないと。

でも、訂正したり削除したりする気にはなれない。

あれを読むと、いまでもあのとき中社をはじめて目の前にしたときの興奮、そして、それをすぐにだれかに伝えたいという高揚した気持ちのまま、いっきにキーボードを叩いたときのことがまざまざとおもいだされるから。

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京奈和道を途中でおりたわたしは、片側一車線の国道を高取町、明日香村を過ぎて橿原市をのんびりとはしっていた。

日は暮れかけていた。

右手に奈良県内最大の前方後円墳、丸山古墳が見えた。

奈良県内最大の前方後円墳

丸山古墳の名称は全国に多くあり、丸い山、すなわち円墳であるところから名付けられている場合が大半だという。

この丸山古墳も長いあいだ円墳と見做されていたが、近年の調査で全長318メートルを誇る奈良県内最大の前方後円墳であることが確認された。

後円部は宮内庁によって天武天皇、および持統天皇が被葬候補者とされ、畝傍陵墓参考地とされている。地元にはここを欽明天皇陵とする言い伝えがあり、また、蘇我稲目を被葬者とみるむきもある。

わたしはクルマをおりて古墳に登った。(もちろん、後円部には柵が設けられ立ち入れない)

予想通り、人っ子一人いなかった。

時間の問題もあったろう。

しかし、それ以上に世間の認知度が低いせいなのは間違いない。

たとえば高松塚古墳 (奈良県明日香村) といえば色鮮やかな壁画を誰もが思い浮かべる。そして大仙古墳 (仁徳天皇陵大阪府堺市) といえば、言わずと知れた我が国最大の古墳であり、世界遺産だ。近辺には公園が整備され、資料館が建ち、飲食店もある。後円部側 (大阪中央環状線側) には「こ・ふんカフェ」なる店まであるが、その店がどんなこふんな (古風な) 料理を提供しているのか、残念ながらわたしは知るよしもない。

たいして、ここ丸山古墳にはキャッチーなうり文句になりそうなものがなにもない。

大きな古墳だが、日本一ではない。天皇が眠っているらしいが、被葬者は特定されていない。もっとも多くの天皇陵において、被葬者がそのヒトであるという確たる証などなにもないわけだが。

そんな丸山古墳だが、過去に一度、全国ニュースになったことがある。

1991年5月、大雨により古墳の土砂が崩れ横穴式石室羨道への入り口が露出、付近の住民がそこから石室内部へと入っていきカメラで撮影した。このことは大きな話題となり、様々な考古学的収穫をもたらした。しかし単発の打ち上げ花火で終わり、それきりだった。

翌年、宮内庁書陵部によって、開口部の閉塞工事がおこなわれた。

絶好の機会をみすみす逃したわけだ。

誰もいない古墳を訪れたときの寂寥感たるや、言葉ではうまく言い表せない。そこが大きな古墳であればあるほど。そしてこの時のように、日が暮れかかっていればなおさら。

丸山古墳のうえに月が昇っていた

しかし、そんな丸山古墳をめぐる状況にも変化が訪れるかもしれない。

大和三山世界遺産に、という声があがっているときく。

首尾よく成就すれば、三山のそばにある丸山古墳にもいい影響があるだろう。

わたしは古墳の周辺部を歩いていた。

丸山古墳のうえに月が昇っていた。

近くに三山のいずれかが見えるだろう、わたしはあたりを見回した。

さらに遠くには二つの峰を持つ双耳峰、二上山がちいさく見えた。

そして丸山古墳のうえには確かに月が昇っていた。

【大阪市住吉区】止止呂支比賣命神社、そうだトトロに会いに行こう!

となりのトトロが好きだ。

メイとサツキはお父さんに連れられて田舎の一軒家に引っ越してくる。そこには「まっくろくろすけ」というまりものようなススのお化けが住みついていて、空き家を好むかれらは一家がやってくると、その夜、次の居場所をもとめて空へといっせいに舞い上がっていく。

観るもの誰もが、この冒頭から異世界へとごく自然に誘われていく。

 

トトロに会いに行こう!

止止呂支比賣命神社の名前を自宅の書斎ではじめて本のなかで目にしたとき、わたしは思わずにやけてしまった。「トトロだ!」

しかし残念ながらトトロではなく、すぐに「とどろきひめみことじんじゃ」と読むのだと知れたわけだが、以来、いちどゆっくりと時間をかけて、そのお社を参拝してみたいとずっと思い続けていた。こじつけ、思い込みでもかまわないから、境内のどこかにトトロにゆかりのものを見つけたくて。

 

わたしが不思議に思うのは、そこがとなりのトトロのファンやジブリの信奉者たちから、聖地として崇められているようすがまったくないことだった。トトロと関連づけて語られた様子もない。

新しい映画やアニメが公開されると、名前が似ている等の理由から、特定の神社に聖地巡礼よろしく多くのファンが押し寄せてきて、にぎわうことがよくある。

たとえば奈良県葛城市の葛城坐火雷神社は、鬼滅の刃のファンのあいだで聖地とされている。火雷神という技が作品中に登場する理由による。

そして秋深まる先日、ついに念願かなって止止呂支比賣命神社をたずねることができた。

 

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大和川をこえた。

そのままあべの筋を北にすすみ、南海高野線の踏切をこえると、左手すぐのところに止止呂支比賣命神社の豊かな杜 (もり) が見えた。

大阪の都心にほど近いところに、これほどの緑があることにまず驚かされる。

駐車場の案内板が見えた。

ほかにクルマはなかったので、好きなところにとめることができた。

朱色があざやかな本殿はまだ真新しい印象をうけたが、拝殿のほうは歴史を感じさせるどっしりとした風格があった。住吉造り。

素戔嗚尊稲田姫尊、止止呂支比賣命の三柱をおまつりしている。

古くは住吉大社奥の院 (境外摂社) であったとされているが、創建年をはじめ不明な点も多い。

神社名にしても、稲田姫をトドロキヒメと呼んだことに由来するという説や、境内を流れていた小川の音がとどろいたから、あるいはその小川にかかっていた橋の名前から採ったなど諸説ある。

それにたいして、ここが若松神社の別称で呼ばれるようになったいわれのほうは、はっきりと知られている。

十一世紀、承久の乱の緒のときになる。

承久三年、後鳥羽上皇が倒幕の兵を集めるため、熊野詣を装い墨江の里に行幸される際に、この神社にひろがる松林のなかに若松御所を造営し行宮とされて、国家安泰武運長久を祈らせた。

そのことから、ここは若松神社の別称でよばれるようになったという。

行宮祉のすぐうしろを南海電車がはしる。

神々の集う杜 (もり) を歩いて

境内にある稲荷社。

狐がたくさんいた。

境内摂社の天水分豊浦命神社 (あめのみくまりとようらのみことじんじゃ・別名 霰松原荒神社) は元は近くの安立町に鎮座されていたものを、明治四十年、当地に移されたもの。

天水分神、澳津彦神 (おきつひこのかみ)、澳津姫神 (おきつひめのかみ) 、三座の祭神を竈神 (かまどがみ) としておまつりしている。

境内はことごとく清浄な気で満ちていた。


そして、そのいずれもが御神木と呼ばれるにふさわしい見事な巨木が、鎮守の杜をつくっていた。

となりのトトロに登場したクスノキの御神木の根っこにそっくりなものもあった。もっともサイズ感はまったく違うわけだが。

御神木にあらわれた蛇をおまつりしている黒長社。

授与所でお守りを頂戴した。

ただ一文字「止」とあるのが、なんだかおかしかった。

あらゆる悪い流れを「止」めて、運気を好転させるという。

拝殿のまえに、地下水が湧き出ていた。

この水は、むかしこの境内に流れていたという小川とおなじ水脈ということになるのだろうか。

「願いの御神水」と名づけられたそこに願い事を書いた神札を浮かべると、願いがかなうという。

わたしはさっそく神札に向き合った。

しかし、いっこうに手が動かない。そしてはたと思いいたった。

願い事なんてなにひとつないぞ…。

自分はけっこう恵まれているんだな。

これはうれしい気づきだった。

 

うわあ、願いがなにもないなんて気取ったヒト、ちょっと苦手かも。

うーん。

しかしせっかくだからと「大金かくとく」とかいてみた。獲得の漢字がとっさに出てこなくて、ひらかななあたり、あまりに悲しすぎた。

神札はすぐに水に溶けると説明を受けていたのだが、これがなかなか溶けなかった。

まわりに誰もいなかったからよかったものの、もしも他人に「大金かくとく」を見られていたらと思うと、冷や汗ものだ。

いっきに日がかげり、暗くなった。

わたしはもちろん承知していた。

空へとのぼっていった、まっくろくろすけの大群が太陽を隠したのではないことくらいは。

【鳥取県米子市】粟島神社 。 静の岩屋、八百比丘尼の眠る洞 (あな)

よく晴れた日だった。

道路の見通しはよく、行き交うクルマもすくなかったが、けっしてとばしたりはしなかった。

速度を50キロにあわせることに集中する。スピードメーターとにらめっこだ。

突然、路面からの細かな突き上げを感じ、大きな音が響きわたる。雪解けの舗装路をスパイクタイヤではしっているようなにぎやかな音。ゴーっという音が、ときおり高くなったり低くなったりと、まるで手動でラジオのチューニングをあわせているときのような調子で耳をおおう。

音はしばらくつづいて、不意にやんだ。

指揮者に命じられたオーケストラ団員がいっせいに手を止めたように。

メロディーロード。

米子・境港線 (県道47号線) を境水道のほうに向かってはしっていた。大橋をこえると美保関町になる。

米子空港 (鳥取県境港市。ただし敷地の一部は米子市) の巨大な敷地がせまるあたりまで来ると、路面に深さ数ミリ程度の溝を約300メートルにわたってきざんである。クルマのタイヤが定速でそのうえをはしると、あのおなじみの「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマ曲を奏でるようになっている。

境港は鬼太郎の作者、水木しげる氏が幼少期を過ごしたことから、水木しげるロード水木しげる記念館といった関連施設が設けられ、それを目当てに多くの観光客が訪れている。そんなかれらにたいする予祝の意味合いでもあるのだろうか。ようこそ鬼太郎の里へ! そして盛大にテーマ曲で出迎える。 

そのはずだった。

しかし5回、6回と何度試してみてもそれっぽいメロディーには聞こえなかった。ただの騒音。安い省燃費タイヤではうまく鳴らないというのか、まさか!

もう一度挑戦だ、と思ったわたしは脇道にはいり、また戻ろうとして、はたと思い出した。

鬼太郎のテーマ曲を聞くためにここに来たんじゃないぞ。

 

粟島神社

米子市彦名町に坐す粟島神社 (あわしまじんじゃ) はその地名がしめすとおり、少彦名命 (スクナヒコナノミコト) を主祭神としておまつりしている。

江戸時代の宝暦年間に干拓がおこなわれるまで、粟島は中海に浮かぶ標高わずか36メートルの小島だった。現在、米子・境港線から参道のほうを見ると、まったく起伏のない開けた土地が鳥居まで続いていて、なるほど干拓地なんだと 容易に納得させられる。

島だった頃に麓にあった社殿は、干拓の前に島の (山の) 頂に移された。

見上げるほど長い、急な石段をのぼる。途中で二度三度とあしをとめた。石段の先には青空しか見えない。

ようやく拝殿の前までたどりついたときには、もうすっかり息があがっていた。

小さな神スクナヒコナは、美保の岬で出会ったオオナムチ (大穴牟遅・大汝・大国主) とともにこの国を巡り、国づくりを終えると、ひとりこの島にたどり着き、粟の穂にはじかれて (粟の穂にしがみつき、茎がもとに戻ろうとする反力をつかい飛び立って) 常世国に帰って行ったという。

 

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スクナヒコナ、植物でできた船に乗り海の向こうから美保の岬にあらわれて、またひとり、そんなふうに飄々と常世国へともどっていった小さな小さな神様。

静の岩屋

人魚の肉を食べたせいで不死となり延々と生き続ける。そんな八百比丘尼 (やおびくに・はっぴゃくびくに) の伝説が日本各地にのこされている。

日本において、人魚がはじめて記録されたのはふるく日本書紀になる。

推古天皇の治世、近江国の蒲生川にヒトのようにも見える不思議なものが浮かんだ。また摂津国の堀江で漁師がはった網に魚でもなく、人間でもない赤子のようなものがかかったと。

粟島の西側にある洞窟「静の岩屋」は、そんな八百比丘尼伝説をいまに伝えている。

ある者がふるまわれた人魚の肉を家に持ち帰ったところ、それと知らない娘が口にしてしまった。以来、娘は歳をとることがなくなり、自らの身の上をはかなんで粟島の洞窟にこもって絶食し、命を絶った。このとき800歳であったという。

いまでは岩屋の入り口には柵が設けられ、前には鳥居がたてられて「八百姫宮」と称されている。

白木の鳥居がいっぱいに西日をうけていた。しかしそれも岩屋のなかにまではとどかない。

この岩屋を万葉集にうたわれたオオナムチとスクナヒコナが国造りの相談をした仮の住まい「志都の岩屋」と見る向きもある。

歌碑が立てられていた。

「大汝少彦名のいましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」

鳥居が反射させる強いひかりのせいで、思わず目を細めた。

さきへと急ごう、とわたしは思った。

永遠のいのちなどこの世に存在しないと、わかったではないか。

【大阪府堺市】ザビエル公園に停泊中の帆船で大海原を見た

路面電車が大好きなのは、おそらくその開放的な様子に惹かれるからだと思う。

二両編成の列車がコトコトとはしる…。地下にもぐったり、高架のうえを猛スピードで行き過ぎることはなく、いつもわたしたちとおなじ目線で街なかをめぐる。さらに駅舎にいたっては、すべてのヒトにおいでよ、と呼びかけているような垣根の低いつくりだ。おいでよ、おいでよ、おいでよ。

そんなわけで、阪堺電車花田口駅で下車したわたしは、きっと笑顔でいたことだろう。

目の前に、ザビエル公園のみどりがひろがっていた。

おいでよ。

 

ザビエル公園 その1

ここがザビエル公園と呼ばれていると知ったとき、なんとも妙なかんじがしたものだ。

わたしがフランシスコ・ザビエルと聞いてまず思い浮かぶのは九州、なかんづく鹿児島だった。多くのヒトがそうかもしれない。実際に鹿児島市内には同じ名前の立派な公園があるという。

無論、京にのぼったことも、堺に滞在したことも知ってはいるものの、ここに名前を冠されるいわれはなになのか、わたしには見当がつかなかった。

フランシスコ・ザビエル その1

フランシスコ・ザビエルは1506年4月、北スペインのナバラ王国で生をうけた。しかし、その王国は1515年スペインに併合される。

1525年、パリ大学に留学。そこでのちにイエズス会初代総長となるイグナチオ・デ・ロヨラの知遇をえた。

1534年8月、ロヨラ、ザビエル、ほか数名の青年たちは生涯を神に捧げるという誓いをたてた。モンマルトルの誓いだ。

1540年9月27日、時の教皇パウルス3世によって、会は正式に認可された。

「神のより大いなる栄光のために」

ザビエル公園 その2

わたしは公園の奥へと進んでいった。

犬を散歩させているヒトが何人もいた。犬同士が鼻を突き合わせて挨拶をかわしている。日陰のベンチに腰を下ろしている老夫婦らしき二人。これ見よがしに (というふうにわたしの目には映った) 太極拳をきめる男性…。かれが黒いマントを羽織ってくれでもしていれば、ずいぶん愉快だったろう。ザビエルあらわる!

園内の説明版によれば、中世、このあたりが海岸線であったという。

1550年、堺に立ち寄ったザビエルを手厚くもてなした豪商日比屋了慶の屋敷が付近にあったことから、ザビエル公園と呼ばれるようになったという。

しかし直接にザビエルに言及しているものといえば、芳躅碑 (ほうちょくひ) が唯一のものだった。

フランシスコ・ザビエル その2

1541年4月7日、世界宣教のためリスボンを出発。同年8月、東アフリカのモザンビークに到着。ときにザビエル35歳。

1542年2月、モザンビーク出立。5月、インド・ゴアに到着し宣教にいそしんだ。

1549年4月、鹿児島出身のヤジロウらとともにゴアを出航、日本を目指した。

ザビエル公園 その3

そんなわけで、ザビエルの名前に思い入れをもってここを訪れると、すこしだけ肩透かしをくらった気分になるかもしれない。

総花的で、あれもこれも詰め込み過ぎだと感じるヒトもいるだろう。

鉄砲之碑というのがあった。

すぐ近くに鉄砲町という地名が残っていることから察せられるように、このあたりは鉄砲 (火縄銃) の製造地だったのだろう。

あるいは黒い金属でできた現代美術風のオブジェも置かれていた。

ポルトガルの芸術家、ジョルジ・ビィエイラの手になる「東と西の接点」と名付けられたそれは、ヨーロッパの西の果てに位置するポルトガルと東の果てにある日本との出会いをテーマとしているという。

1970年の日本万国博覧会ポルトガル館に展示されたあと、堺市に寄贈された。

ほかにも堺出身の詩人、安西冬衛の詩碑あり、中世祭事の解説版あり、むかしの海岸線をしめす石積みありと、なにやらこれでどうだと言わんばかりだった。

わたしはすっかりうれしくなった。

小説家の処女作は上滑りな失敗作に終わることがめずらしくない。

まだ技巧のつたないところに、あれも書きたい、これも書きたいと詰め込み過ぎたあげくに破綻してしまう。しかし書き手の熱量が異様な迫力で迫って来る。

そして、この公園からも同様の熱量が感じられた。

わたしは処女作が好きだ。その後の代表作と同様に。

その日、わたしは日の光のしたで処女作ばかりをえんえんと読み継いだのだ。

フランシスコ・ザビエル その3

1549年、ザビエル一行は薩摩半島の坊津に上陸。9月に伊集院城にて薩摩国守護大名島津貴久に謁見、布教の許可を得るも、その後は行く先々で布教を続けながら、陸路、京を目指した。

1550年8月、平戸入り。同年12月、周防国守護大名大内義隆に謁見するも、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りをかい、岩国から海路で堺に到着。

1551年1月、堺で知遇を得た豪商日比屋了慶の支援のもと、京入りをはたした。しかし後奈良天皇および征夷大将軍足利義輝への謁見を請願するもかなわず、京をはなれ西へとくだることとなった。

同年9月、豊後国に到着した。

ザビエル公園 その4

帆船を模した遊具もあった。

ザビエルののってきた船をイメージしているのだろう。

船体には「ebisu」の文字。この公園の正式名称・戎公園に因む。

この遊具にわたしがよじ登ったとしても、べつにおかしくはない。

恥ずかしがる理由はなにもない。

どこまでも続く大海原が見えるだろう。

 

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フランシスコ・ザビエル その4

1551年11月、いったんインドに戻ることを決意して出帆。翌52年2月、インドに到着すると同年9月、さらに中国・上川島へとすすんだ。

しかしその数ヶ月後、肺炎をこじらせて46歳の生涯を閉じた。

1622年3月12日、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられた。