家を出て、川沿いの桜並木を眺めながらのんびりと歩いてみた。
そこにいたるわずか10分ほどの間にも、途中にタバコ休憩をはさむ。
なにも急ぐことはない。それに、わたしにとって気負いなく出かけられるのは、いまはまだこの辺りくらいなものだ。
雑踏にまぎれるのは気が進まない。
この二年間、わたしたちはいつも伏し目がちになり、それを気取(けど)られぬためでもなかろうが、大きなマスクをつけて顔の半分を隠してすごしてきた。
疑心暗鬼、沈黙、楽観、噂話…。
わたしたちが恐れるのは、ウイルスばかりではないようだ。
満開の桜の下で
すぐそばの児童公園で、散る桜の花びらを受けながら弁当をひろげる家族連れ。かれらが笑顔でいてくれたのが、わたしにはたまらなくうれしかった。
どの木も見事な枝ぶりで、まわりに日陰をくれている。
重く垂れさがり、川面(かわも)に届こうとしている枝が何本もあった。
小さな子供を連れた若い母親。その子が落ちた花びらを拾い集めるのを、目を細めて見守っている。
無言で写真を撮り続ける若者。かれは半ズボンすがただった。いくらなんでも、何故だろう。
この桜並木の下には、なにか、わたしが欲しかったものが確かにあったような気がする。
それが正解なのか、何であるのか、わたしには知る由もなかった。
顕宗天皇陵をのぞんで
桜並木の途切れるころ、バイパスの向こうに見える顕宗天皇陵に、人影はなかった。
敷き詰められた玉砂利が、陽だまりを受けるばかりで、静まり返っていた。
御陵(みささぎ)のうえには、小さな雲が浮かんでいた。
いま、わたしのこころを慰めてくれるのは、そして自信に満ちて語れるのは、こんな小さな旅のはなし。