大阪府太子町はお勧めの観光スポットがいっぱい。二上山のむこうにいのちの再生を見た。

二上山 (にじょうざん・ふたかみやま) は雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の二つの峰を持つ双耳峰である。

先週の休日、わたしは長いあいだ、その山を奈良県香芝市の千股池のほとりから眺めていた。

暑かった。

まだ五月だというのに、天気予報は夏日だと告げていた。背中がうっすらと汗ばんでいた。

もう二時間もして、二上山の稜線に夕日がかかる頃には、いくぶんかは涼しくなるだろう。

やがて山の向こうに日が沈み、夜が来て、そしてまた東から泰然と朝日が昇る…。

輪廻する太陽の運行の道すじに、二上山があった。

雄岳山頂付近に大津皇子の墓がもうけられたことが象徴的なように、古 (いにしえ) の都びとたちは二上山を生と死の境をなすところ、そして現生と他界とをへだてるところと考えていたことだろう。そして、山のむこうにいのちの再生を凝視していた。

その現在は大阪府太子町となるところには、推古、孝徳、敏達、用明の各天皇陵や、聖徳太子小野妹子といった貴人たちの墓が、エジプトの王家の谷よろしく数多く密集している。

いまは静寂のなかにたたずむ陵墓群は、むしろその静けさゆえに、当時のひとびとの強い想念をわたしたちにはげしく照射してくる。

 

太子町にて

太子町…。ミカン狩り、いちめんにひろがるブドウ畑、ワイナリー、太子温泉。そして日本最古の官道、竹内街道 (たけのうちかいどう) のはしるこの地に、いまは南阪奈道路が通る。ここを訪れるには「太子IC」「羽曳野東IC」でおりるのがよい。
町の玄関口、近鉄上ノ太子駅前のロータリーには聖徳太子立像が立てられ、駅の乗降客を見守っている。

駅からクルマで10分ほどのところに、推古天皇陵がある。

わたしはさらに、小野妹子の墓を目指した。
道がどんどん狭くなる。
いくら軽自動車だとて、その先の道が不安になり、わたしはクルマを乗り捨てて、徒歩でむかった。

スマートフォンのナビ画面がもうそろそろだと告げたとき、道がわかれた。

石段をのぼったさきに小野妹子の墓があることは、すぐに見てとれた。

しかし左手のお社には、いかにも歴史を重ね、すくなからず物語を生み出してきたであろう古社の風格がある。こちらも素通りするにはしのびない。

さて、どちらに行ったものか。

これはいうなれば、このような感じだろうか。

まったくタイプの異なる、とびきり魅力的なふたりの異性が突然目のまえにあらわれ、同時に求愛される。

あるいは大好物の二皿 (わたしのばあい、たこ焼きとお好み焼きに決まっている) をバーンとテーブルに置かれて、おいしそうなにおいにくらくらしながら、ひたすら目移りしてしまう…とか。

いままでのわたしなら、ロングヘアのコも素敵だが、ボブのコもいいな、などとオロオロして迷うばかりで、結局、両方から愛想をつかされてしまう、といった塩梅だった。

しかしもう、そんな笑いまみれの後悔とはおさらばだ。

男なら、人間なら思いのまま突き進め。

両方とも行けばいいんだ!

科長神社 (しながじんじゃ) はもともとは二上山上に鎮座していたものが、13世紀、当地に遷座された。主祭神は科長津彦命・科長津姫命の二神。記紀に登場する風神とされる。

わたしはまず拝殿で参拝し、続いて鳥居の奥にあるちいさな流造の本殿でも柏手をうった。

そののち、小野妹子の墓へと石段をのぼっていった。

荒れ果てているな、というのが第一印象だった。

自然のまま、とも言えるわけだが。

竹内街道の果てに

竹内街道推古天皇の治世、難波宮 (なにわのみや) と飛鳥の京 (みやこ) を結ぶために整備された「大道・だいどう」を祖とする。沿道には昔のひとびとの息遣いが聞こえてきそうな古い町並みがあちらこちらにのこる。

路面にあらわに見える、マンホールのふたが少々残念な感じだ。が、それとて聖徳太子のありがたい遺徳をいまを生きるわたしたちに伝えてくれている。

わたしのクルマのタイヤは、不敬にも、そのマンホールのふたのうえをなんど通っただろうか。

今度は孝徳天皇陵に向かうつもりが、道は狭い、クルマをとめる場所はないで、おなじところをぐるぐるとまわる羽目になった。結局、すぐそばの道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にクルマをとめて、徒歩で行くことにした。10分ほどで着くだろう。

わたしは道の駅の奥にある飛鳥橋を渡って、大道をくだっていった。 (そのときにはマンホールのふたをさけて歩いた)

陵 (みささぎ) の参拝道はけっこうな勾配で、かなりの距離があった。

足元の石は少々滑りやすく、注意して登らなくてはならない。

そして宮内庁は、別のものにも注意するよう呼び掛けていた。


うえまで登り切ったわたしは、息をととのえ顔をあげた。
木々の揺らぐかすかな音さえもせず、無音だった。
しかし、なにか規則正しい律動のようなものが迫ってくるのを感じていた。
それは古代からここにつづく山の音…。

なお、参拝道入り口のむかいには、かやぶき屋根の美しい国登録文化財・旧山本家住宅があり、一般に開放されている。

この町にはまだまだ見どころや、ぜひともひとに勧めたい観光スポットが目白押しだが、そろそろ時刻だった。また日をあらためて再訪しよう。

わたしは道の駅までもどった。

ところで、この街道の終着点は正確にはどのあたりなのか確かめたくなって、そこにある大きな案内地図に目をやった。

しかし、たとえどの道を行ったとしても、それがオトコであれオンナであれ、子供であれ、わたしであれ、ほかのだれであったとしても、すべてのヒトの行きつくさきはどうやら笑いまみれの後悔でしかない。

そう思えてきて、わたしはそこから目をそらした。

 

ゼレンスキー・カプチーノの夜、58歳ドールハウス製作にいそしむ (2)

禁煙をしようと思った。

きのうの午前9時、最後の一本に火をつけると「さあ、やりますか!」

わたしは禁煙について語らせれば、日本でも屈指の存在かもしれない。なにしろ過去に百回以上はチャレンジしてきた。

まず家を出るとき、安易にタバコを購入できないようにするために、財布の中身を空にしておく。ピッとスマホ払いだとか、シュッとカード払いであるとか、そういうこじゃれたこととはいっさい無縁だ。そして口寂しさを紛らわせるための、飴とチョコレートをじゅうぶんに用意しておく。コンソメあじのポテトチップスも必須だ。

結果はというと、今回もダメだった。

けさ10時、まる一日達成できた自分へのご褒美のつもりで (いつものことだ) ひと箱買ってしまった。空のはずの財布に、タバコ代程度の小銭ははいっていた。それもいつものこと…。

そんなわたしも、30歳のとき、一度だけ禁煙に成功したことがある。

喉があまりに痛くなって、吸いたくても吸えなくなったからなのだが、あのときの感動は忘れられない。それまで、ニコチンがどれほど自分の神経をスポイルしていたものか、つくづく思い知らされた。

たとえばコーヒーを飲む。

それまでは、にがくて甘い、といったすごく単調な味にしか感じられなかったものが、禁煙して数日たつと、にがさと甘さのあいだに、豆の持つ渋みや苦味、フルーティーなかおりなど、いままでわからなかった奥深い味わいを感じ取れるようになった。

あれは新鮮な驚きだった。

 

万葉人形劇シアターのいま

三か月前、ドールハウスの製作を思い立ち、それに「万葉人形劇シアター」と名付けることを宣言した。

 

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建設途中の、現在のすがたがこれ。

ホームセンターで購入した三枚の板をただ組み合わせたばかりで、工事などと呼べるものは、まだなにひとつ始まってはいない。

明日やろう、明日やろうと思い続けて三か月。

最近では、これ別の用途でどうだろうかと思い始める始末。

たとえば本棚。

あるいはCDラック。

当初は「59歳ドールハウス製作にいそしむ」にさえならなければいいとのんびりと構えていたのだが、誕生日まで、あとひと月あまりしかない。

期限は6月22日。

ゼレンスキー・カプチーノ

ロシア軍がウクライナに侵攻して、はや数か月。

ニュースでは連日、ウクライナのゼレンスキー大統領を称賛している。

各国の議会でリモートで演説し (日本でも) 、また、報道のテレビカメラのまえで、レンズをじっと見据えて自国への支援を切々と訴える。

この大統領がヒーローだとでもいうのか。

ただの喜劇役者じゃないか。

彼我の国力の差もかえりみず、国際政治のパワーゲームには無頓着で、前後脈略のない理想論を放言し続けたあげくに、国土は蹂躙され、多くの戦死者をだして、自国民に塗炭の苦しみをあじあわせている…。

二つの国が戦争をしている。

一方はか弱い被害者とされ同情をあつめ、他方はただ悪の権化のごとく報道されている。これを日々見せられることへの強烈な違和感と、いったいどう折り合いをつければいいのだろう。

喜劇を悲劇にすり替えようとしてはいないか。

わたしは、夜、自分で淹れたコーヒーを飲むことを習慣にしている。
いつも、三十年近く愛用のマグカップで飲む。

黄土色の本体に描かれたイラストが、熊であるのか、はたまたねずみであるのか、いまもってわからないのはご愛嬌。

このマグカップは不思議だ。

コーヒーであろうと、牛乳であろうと、水でも、緑茶でも、なんであれ、わたしに極上のあじわいを与えてくれる。

今夜も、テレビでゼレンスキー大統領のひとり芝居を見せられるのだろうか。

そのゼレンスキー・カプチーノ、そこにはにがみも、深みも、渋みもない。ただ甘いだけのすごく単純なあじわいだ。芳醇な香りが立ちのぼってくることもない。

愛用のマグカップにいれたとて、わたしの口にはあいそうにない。

奴奈川姫 (ぬなかわひめ) の大車輪、得点10・00

我が家の廊下の板には、傷んでいるところが一か所ある。階段のしたあたり。そこを歩くと、かすかにキュッと音をたてる。

この五年来、わたしは帰宅してリビングに向かうとき、いつもわざわざその板を踏む。…ただいま。

ドーン!

テレビを見ていると、廊下で大きな音がした。

扉を開けると、妹だ。

大車輪からみごと着地をきめた鉄棒選手のように、膝をまげ前かがみになって両腕を横にひろげている。

階段の途中から飛んだ…、のかな。

毎朝スーツに身をつつんで有名企業にご出勤のレディーが、自宅では大車輪…。

見ないほうがいいものを見たのかな。

 

新潟紀行

左手に日本海を眺めながら、国道8号線をすすみ、新潟との県境をすぎて糸魚川にはいった。

糸魚川静岡構造線、ヒスイの産地。

やがて親不知子不知 (おやしらず・こしらず) の奇岩のなかをクルマは過ぎていった。大分県耶馬渓にそっくりなながめだ。わたしには、岩の多い景勝地はどこもおなじに見えてしまう。

ただ明らかに違うのは、糸魚川には美しい海があることだった。

青い海、どこまでも広がる水平線。そこに青空が接続すると、海と空の境はあいまいになって、視界は他には何もない、ただ単色の青になる。

神代のころ、奴奈川姫 (ぬなかわひめ) もこの風景を見ていたのだ。

大国主の妻問い。

これが冬、豪雪のころには眺めが一変する。

すこし郊外に出ると、まばらな家屋は雪に覆われ、その輪郭さえ吹きすさぶ雪が見えなくして、そこにどんよりとした雪雲が覆いかぶさって、今度は一面、白一色の世界になる。

クルマですすむには、最徐行以外にない。

どこに側溝があるのか、ガードレールがあるのかわからず、道がまっすぐなのか、カーブしているのかさえわからないで、ただ慎重に、夏の記憶を頼りにいくしかない。

漆黒は美しい

上越市内でひと眠りして、食事をとったあと、さてどこをどうはしったのか。

とにかく北を目指していた。

南魚沼市」という標識が見えた。わたしはさらに山のなかをすすんでいった。

深夜、日付はとうに変わっていた。

行けども行けども、ヘッドライトが漆黒を切りさくばかりだった。

夜は暗い、とその時までわたしは思っていた。しかし違うのだ。夜は黒い。

いっさい照明などない山のなか、月明かり、星明りもさえ鬱蒼としげる木々にさえぎられてとどかぬそこは、まさに漆黒あるのみだった。

もしもいま、クルマをとめてライトを消したなら…。

わたしはたちまちのうちに漆黒に飲み込まれて、同化していたに違いない。

新潟県の県旗がどのようなものか、わたしは知らないが、青、白、黒の三色旗こそふさわしい。

帰宅して

わたしは今日も、明日も、あさってもあの板を踏もう。

我が家の奴奈川姫はもう帰っているのだろうか。

こんどはこのアニが、みごと大車輪を決めてみせるさ。



 

北緯34度47分、東経135度71分に祈りを

7日前、葛城坐火雷神社 (かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ) に参拝した時のようすをしるしたブログを投稿した。そこがいまや鬼滅の刃の聖地と目されていて、多くの若者たちが訪れていること。火雷大神 (ほのいかづちのおおかみ) と天香山命 (あめのかぐやまのみこと) の二神をおまつりしていること。境内には日露戦争当時のロシア製の大砲がおかれていることなどを、つたない文章で紹介した。

そして次の日の朝、OTSHOKOPAN (id:ot_nail) 様より、それに関してブックマークコメントを頂戴した。

 

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わたしはいったいなにを忘れているのだろう

同氏のコメントはロシア製の大砲について触れたのち、こう続いていた。

 今だからこそ、過去を省みるため、平和を祈るためのオブジェとして役立ちそうです。

わたしはそれを読んで、わが意を得たり、と膝を打ったのではなかった。なにやら痛いところをつかれたと言おうか、なにかを言い忘れていたと言おうか、なんとも名状しがたい気持ちになった。

この気持ちは、なんなんだろう。

この7日間、わたしはずっと自分のこころの内を探っていた。

わたしはなにを痛いと感じ、なにを忘れているのだろう…。

わたしは葛城坐火雷神社に詣でる数日前に行った高天彦神社のことが、妙にひっかかっていたのだ。

ふたつの神社はクルマで15分あまり。

山麓線は葛城市を過ぎ御所市にはいると、急なのぼり勾配がしばらくつづいていく。クルマのフロントガラス越しに空を眺めながらすすんでいくと、天へ、天へと駆けのぼっているような錯覚にとらわれる。

主祭神タカミムスビノカミ。

しかし元々は社殿背後にそびえる白雲峰 (標高 694メートル) を崇めていたことだろう。

ここを訪ねるのは、三度目だろうか、四度目になるのだろうか。

参拝のあとは、きまって土蜘蛛塚に頭 (こうべ) をたれることにしている。

しかし今回、神社の周辺を歩き回ったが、塚を見つけることができなかった。

神社のすぐそばにあったはずなのだが、思い出せない。

ただ無骨な岩が置かれただけの、土蜘蛛の墓。それと気づくヒトがいないと困るから、とでも言うかのように土蜘蛛塚と彫られたちいさな石碑がわきに立っていたはずだ…。

最近、どうにも物忘れがひどくなってきた。

歩き回るうちに、塚のかわりに水車を見つけた。

以前にはなかったものだ。

何が起きようとも、水車の回るごとぐ時は流れていく。

土蜘蛛たちのあとに

土蜘蛛、まつろわぬ人々。いまを生きるわれわれは、かれらの習俗、信仰について詳しく知るすべを持たない。かれらは追いたてられ、迫害され、いくたりかは殺され岩のしたに葬られて、あとには蔑称だけが残された。もしも大王 (おおきみ) がかれらと手をたずさえてまつりごとを行っていたなら、記紀神話はいまとは違った、どれほど豊かなものになっていただろう。

そして、それは遠い昔話ばかりだけではない。

いまも連日、新聞の一面に載っている。

ロシアとウクライナのことだ。

「土蜘蛛たちを殲滅せよ!」

「土蜘蛛たちを国境線のむこうへ押し戻せ!」

「土蜘蛛を排除せよ!」

そこに日露戦争当時のロシア製の大砲だ。

そうだ。わたしはこの前に立ち、土蜘蛛塚の前で自然とそうしていたように、ただ頭を垂れていたかったのだ。

そして、これからはどこにいようとも葛城坐火雷神社のほうを見据えて、できるかぎり祈っていこう。

いつの日にか、平和の号砲が鳴り響くことを願おう。

北緯34度47分、東経135度71分、何時でも、そのお社のほうへ向き直り祈りを、とわたしは思った。

だれが大和三山を眺めながら鬼滅の刃を耽読するのか、葛城坐火雷神社をあとにして

赤面確実とは、こういうことを言うのだろう。

二上山葛城山山麓を南北にはしる県道30号線 (御所・香芝線、通称山麓線)の周辺には、葛城坐一言主神社、高鴨神社、高天彦神社などの名だたる古社をはじめ、多くの古墳が点在している。また、そこからは奈良盆地を一望でき、大和三山がまるで手を伸ばせば届くのではと思わせるほど近くに見ることができる。

わたしはこの道を「祈りの道」とひそかに命名し、ひとり悦に入っていた。当地に居を移した30年近くまえのことだ。

普段の生活に、この道を利用することはなかった。

しかし、気分転換をしたいときにはふらりと家を出て、よくここをクルマでのんびりとながすのだった。

つねに同乗者のいないことはさいわいだった。

わたしはきっと小鼻を膨らませ、得意げな顔でいたことだろう。

 

曇天の葛城坐火雷神社にて

祈りの道 (もうやめておこう。山麓線、だ) からクルマでほんの数分、西へ入ったところに、葛城坐火雷神社 (かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ) はある。地元では、笛吹神社と通称されることのほうが多い。

笛吹連 (ふえふきのむらじ) の祖先神・天香山命 (あめのかぐやまのみこと) と火の神・火雷大神 (ほのいかづちのおおかみ) はもとは別々にまつられていたはずだが、現在は合祀され、主祭神二座となっている。「延喜式神名帳」にはすでに葛城坐火雷神社二座とあることから、平安時代にはすでに合祀されていたことになろうか。

以前ここを訪れたときには、名神大社にふさわしく、静謐、清明な気に満ちていたものだった。

しかし最近ではようすが変わったという。

コスチューム・プレイヤーたち

アニメ「鬼滅の刃」が人気だという。

単行本の売り上げは記録的だそうだ。海外にもファンが多いときく。

そのなかの「我妻善逸・あがつまぜんいつ」という登場人物が作中で繰り出すワザに「火雷神」というのがあるのだと、新聞の奈良県版が伝えていた。それがここの御祭神と一字違いなことから、聖地巡礼よろしく、鬼滅の刃風の衣装 (それがいったいどんな衣装だというのか、後日写真を見るまで、わたしには想像さえできなかった) を身に着けた若者たちが境内を闊歩し、さかんに記念撮影に興じているのだと。

葛城市の公式ホームページでかれらの姿を見て、わたしは唖然とした。

かつらをかぶり、薄っぺらな衣装を着ておどけたポーズをとる男の子。

拝殿に上がり、柏手を打つ若い女性たち…。

かれらの身に着けているものといえば、慎重に言葉を吟味していうならば、色鮮やかだった。

奇妙奇天烈な世界…。

しかしかれらは、なんと真剣だろう。なんて楽しそうな表情をしているのだろう。

これほど世上にぎわせている「鬼滅の刃」について、わたしはなにひとつ知らなかった。そればかりか、なんの関心さえ持てないでいた。

すっかり好奇心さえなくしたことが歯がゆく、わたしは自分に腹を立てていた。

10年ぶりに訪ねたお社に「かれら」の姿はなかった。

無理もなかった。平日の午後、いまにも雨が降りだしそうな空模様だ。

境内におかれた、ロシア製の大砲が見えた。

日露戦争当時のものだという。戦利品ということになろうか。

「我妻善逸」が繰り出す「火雷神」は、この大砲よりも凄まじいのだろうか。

バッグパッカー

きょう、山麓線から眺める大和三山はどんなようすだろうか。

曇り空のせいで、はっきりとは見えないかもしれない。

そのときには、道路わきにクルマをとめようか。

そして後部座席にいつも積みっぱなしにしているリュックサックから、きのうレンタルショップで借りてきた「鬼滅の刃・1巻・2巻」を取り出して、読んでみればいい。

とんだバッグパッカーなんだ。

人生の贈り物。春、持田神社でいただいたもの

冬の持田神社は美しい。ソフトビジネスパークから西にのびる農免農道でクルマをとめて、うっすらと雪をかぶったその姿を初めて見たとき、わたしは身じろぎもせず、しばらくの間、見入っていた。鳥居がまるで神域への入り口のように、ぽっかりと口を開けているかのようだった。うしろには鎮守の杜。手前の建物には日章旗が掲げられていた。きょうは旗日だったか。まわりも同じく雪に覆われたなかで、お社のすがたは際立って鮮明だった。まるで一枚のはかない水墨画のように思われた。

しかし島根県松江市にあるそこを再訪したのは、春、草木のめぶく頃だった。

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持田神社を再訪して

参拝者用の駐車場にクルマをとめた。一礼して鳥居をくぐる。左手にある手水舎の水はとめられていた。このウイルス騒ぎ以降、多くの神社でこうなっている。

わたしは衣服を整え、両方のてのひらで交互に上着をはたいて身を清めたつもりになって、拝殿で参拝した。

なにかを願ったわけではなかった。祈るようなこともなかった。

ただ無心に手を合わせて参拝をおえると、左手にある摂社にも、おなじようにまいった。

その前には、小さな石像が数体置かれていた。東照宮の見ざる聞かざる言わざるにすこしにている。石の表面の状態から、相当ふるいものだと見て取れた。わたしはかがみこんでそのちいさな頭を撫でた。頭のない像もいたが、それは欠損なのか、頭痛に御利益(ごりやく)ということに関連してそうなのかはわからなかった。わたしはながいあいだそうしていた。冬に訪れたときと同様に…。

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神様の贈り物

春の陽気に誘われたのかもしれない。

わたしは本殿の裏手の杜(もり)のなかに進んでいった。薄茶色の作業着風の身なりの男性が地面にかがみこんでいる。いったいなにをしているのだろう。

「こんにちは」わたしは話しかけた。

そのヒトは顔をあげた。わたしよりもかなり年長に見受けられた。「たけのこはお好きですか」

見ると、薄いプラスチックの箱に、土のついたたけのこが整然と並べられている。たけのこを採っておられたのだ。ここ(神社)のヒトなのだろう。

「ええ、大好きですよ。でも、こんな自然のたけのこを見たのははじめてです」

「あなたの足元にもありますが!」

わたしの靴先すぐのところに、地面からわずか数センチの突起があたまをのぞかせている。わたしは思わず足を引いた。そのヒトは手際よく掘り出すと、軍手をはめた手で土をぬぐった。

「ひとつ、さしあげましょう」

わたしは神社を後にした。

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わたしは嬉しかった。いつまでもニコニコと顔をくずしていたことだろう。なんの屈託もない会話をかわすのも久しぶりに思えたし、ヒトの好意に気付かされるのもそうだった。

助手席に置かれたたけのこが大きな幸運のしるしに思われて、わたしはながい時間、それを撫でていた。

琴引山で大国主の御琴を聞いた、騒擾(そうじょう)を止めるもの、平和の琴の音

琴の音を最後に生で聞いたのは、もう半世紀近く前のことになろうか。

親戚の家で、いとこの女の子たちが、ハレの日にはよく座敷で琴を弾いていたものだ。そう、女の子…。趣味のいい調度品、高価な掛け軸、手入れの行き届いた中庭。琴というと、いまでは和服に身を包んだ上品な女性が優雅にかなでるものといったイメージだ。かしこまって、静かに耳を傾ける…。

では、むかしのひとはどうだったろう。

孔子柿本人麻呂もたしなんだという琴について、平安人はどう思っていたのだろう。実際に琴の音を耳にした貴族階級のひとたちは、なんと感じたのだろう。

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琴引山の大国主

広島を出発して国道54号線を北にむかっていた。最後まで進めば、右側目前に宍道湖を見ることになる。

島根県との県境を越えるころには、どこまでも続く深い山々の眺めにもすっかり慣れてきていた。長々と続くかわり映えのしない風景のなか、すでに飯南町に至っているはずなのに、はたしてここのどこが琴引山なのか見当がつかずに、わたしは途方に暮れかけていた。

出雲国風土記は、琴引山の峰にある窟(いわや)に、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ・大国主命)の御琴がおさめられているという。たんなる伝承にしては記述が具体的だ。長さ七尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸ありとある。それは、根の国から大国主命スセリビメを連れ出すときにいっしょに持ち出したという、あの琴なのだろうか。琴が木に触れて大きな音をたて、目を覚ましたスサノオ黄泉比良坂(伊賦夜坂)まで追いかけられたというあの琴…。イザナギが駆けたあの坂道を、こんどは大国主がはしる。

黄泉比良坂(伊賦夜坂)については、まえに「人生の円環、勝者なき……」で触れた。

 

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わたしは琴引山(標高1,014メートル)山頂近くにある琴弾山神社に参拝するつもりだった。

頓原(とんばら)ラムネ銀泉

わたしは脇道にはいり、クルマで坂道をのぼっていった。

まだ青々とした稲が尖った葉先を空に向けている。

すると見覚えのあるちいさな建物が見えた。

「頓原天然炭酸温泉・ラムネ銀泉」は、その名の通り、豊富に炭酸を含んだ天然温泉だ。

以前、はじめてここに来た時には、山の中にぽつんと、まだ建って間もないようなきれいな温泉施設をたまたま見つけて、ずいぶんと感激したものだ。

素通りは、ありえなかった。

なかに入ると、販売コーナーに並べられた、色鮮やかな、いかにも瑞々しげな野菜が出迎えてくれた。そしてここでしか飲めないであろうラムネ「頓原の銀泉」

わたしは服を脱ぎ、とびらをあけた。

驚いたのなんの、思わずあとずさりそうになった。

湯船の湯が濃緑色をしていた。ほとんど黒に近い。

記憶違いなのか、透明ではなかったか。

わたしのあまりにいぶかしがった表情を見て取ったのか、肩まで浸かってほんのり顔を上気させたオトコが話しかけてきた。

「ここの湯はさあ、日によって色が違うんだよ。緑、黄緑、オレンジ、黄色。いろいろとね。天然温泉ならではさ。大自然の神秘ってやつだね。わたしみたいにひと月も通えば、全部の色を体験できるさ。」

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騒擾(そうじょう)の琴の音

思うさま湯を堪能したあとで建物を出た。ずいぶんと影が長くなっている。そんなになが湯したのか。きもちのいい温泉だった。

さて、急いで仕切りなおしだ。琴弾山神社に向かおう。

わたしは湯冷ましのつもりで、ほんの数分、歩いて坂をくだっていき、立ち止まった。

音はなく、風がそよぐこともなかった。

鳥は鳴かず、虫の羽音さえ聞こえない。

眼下に国道が小さく見えていた。

無音だった。ほかに人影はなかった。

何もないところに、わたしは至っていた。

もうすぐだ、とわたしは思った。

右のてのひらをじっとみて、ゆっくりと、空に向かって腕を上げた。

もう、準備はできている。もうすぐだ。

わたしは耳を澄ませて、琴の音がするのを待った。

眠り込んでいたスサノオを起こすほどの騒がしい音をたてる琴の音。もしその音がしたならば、いま起きている、ありとあらゆることをたちまちのうちに止められるのではないか。いま世界中を覆っているこのウイルス騒ぎも、欧州で起きている面子ばかりの遠慮がちな戦争も、飢餓も、クーデターも、不正な会計操作も、この星の温暖化までも…。

もうすぐだ。

たとえ耳の鼓膜が破れようとも、わたしはしっかり聞きたいと願った。

琴引山でつま弾かれる、大国主の騒擾の琴の音を。

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※追記、

箏(そう)と琴(きん)のちがいについて。

箏と琴は違うものです。柱(じ)のないものが琴。あるものが箏になります。大国主の御琴は琴。時代背景からして、おそらくは七弦琴。わたしが親戚の家で目にし、また今現在世間でひろく「お琴」と認識されているものは、実は箏になります。大国主の御琴のほうは、座って腿の上において演奏する、ラップスティールギターのようなものを思い起こしていただけたらよいかと思います。しかし、ここではわかりやすさを第一に考え、すべて琴で統一しました。何卒、ご理解を賜りたいと思います。