禁煙をしようと思った。
きのうの午前9時、最後の一本に火をつけると「さあ、やりますか!」
わたしは禁煙について語らせれば、日本でも屈指の存在かもしれない。なにしろ過去に百回以上はチャレンジしてきた。
まず家を出るとき、安易にタバコを購入できないようにするために、財布の中身を空にしておく。ピッとスマホ払いだとか、シュッとカード払いであるとか、そういうこじゃれたこととはいっさい無縁だ。そして口寂しさを紛らわせるための、飴とチョコレートをじゅうぶんに用意しておく。コンソメあじのポテトチップスも必須だ。
結果はというと、今回もダメだった。
けさ10時、まる一日達成できた自分へのご褒美のつもりで (いつものことだ) ひと箱買ってしまった。空のはずの財布に、タバコ代程度の小銭ははいっていた。それもいつものこと…。
そんなわたしも、30歳のとき、一度だけ禁煙に成功したことがある。
喉があまりに痛くなって、吸いたくても吸えなくなったからなのだが、あのときの感動は忘れられない。それまで、ニコチンがどれほど自分の神経をスポイルしていたものか、つくづく思い知らされた。
たとえばコーヒーを飲む。
それまでは、にがくて甘い、といったすごく単調な味にしか感じられなかったものが、禁煙して数日たつと、にがさと甘さのあいだに、豆の持つ渋みや苦味、フルーティーなかおりなど、いままでわからなかった奥深い味わいを感じ取れるようになった。
あれは新鮮な驚きだった。
万葉人形劇シアターのいま
三か月前、ドールハウスの製作を思い立ち、それに「万葉人形劇シアター」と名付けることを宣言した。
建設途中の、現在のすがたがこれ。
ホームセンターで購入した三枚の板をただ組み合わせたばかりで、工事などと呼べるものは、まだなにひとつ始まってはいない。
明日やろう、明日やろうと思い続けて三か月。
最近では、これ別の用途でどうだろうかと思い始める始末。
たとえば本棚。
あるいはCDラック。
当初は「59歳ドールハウス製作にいそしむ」にさえならなければいいとのんびりと構えていたのだが、誕生日まで、あとひと月あまりしかない。
期限は6月22日。
ゼレンスキー・カプチーノ
ロシア軍がウクライナに侵攻して、はや数か月。
ニュースでは連日、ウクライナのゼレンスキー大統領を称賛している。
各国の議会でリモートで演説し (日本でも) 、また、報道のテレビカメラのまえで、レンズをじっと見据えて自国への支援を切々と訴える。
この大統領がヒーローだとでもいうのか。
ただの喜劇役者じゃないか。
彼我の国力の差もかえりみず、国際政治のパワーゲームには無頓着で、前後脈略のない理想論を放言し続けたあげくに、国土は蹂躙され、多くの戦死者をだして、自国民に塗炭の苦しみをあじあわせている…。
二つの国が戦争をしている。
一方はか弱い被害者とされ同情をあつめ、他方はただ悪の権化のごとく報道されている。これを日々見せられることへの強烈な違和感と、いったいどう折り合いをつければいいのだろう。
喜劇を悲劇にすり替えようとしてはいないか。
わたしは、夜、自分で淹れたコーヒーを飲むことを習慣にしている。
いつも、三十年近く愛用のマグカップで飲む。
黄土色の本体に描かれたイラストが、熊であるのか、はたまたねずみであるのか、いまもってわからないのはご愛嬌。
このマグカップは不思議だ。
コーヒーであろうと、牛乳であろうと、水でも、緑茶でも、なんであれ、わたしに極上のあじわいを与えてくれる。
今夜も、テレビでゼレンスキー大統領のひとり芝居を見せられるのだろうか。
そのゼレンスキー・カプチーノ、そこにはにがみも、深みも、渋みもない。ただ甘いだけのすごく単純なあじわいだ。芳醇な香りが立ちのぼってくることもない。
愛用のマグカップにいれたとて、わたしの口にはあいそうにない。