【大阪府堺市】ザビエル公園に停泊中の帆船で大海原を見た

路面電車が大好きなのは、おそらくその開放的な様子に惹かれるからだと思う。

二両編成の列車がコトコトとはしる…。地下にもぐったり、高架のうえを猛スピードで行き過ぎることはなく、いつもわたしたちとおなじ目線で街なかをめぐる。さらに駅舎にいたっては、すべてのヒトにおいでよ、と呼びかけているような垣根の低いつくりだ。おいでよ、おいでよ、おいでよ。

そんなわけで、阪堺電車花田口駅で下車したわたしは、きっと笑顔でいたことだろう。

目の前に、ザビエル公園のみどりがひろがっていた。

おいでよ。

ザビエル公園 その1

ここがザビエル公園と呼ばれていると知ったとき、なんとも妙なかんじがしたものだ。

わたしがフランシスコ・ザビエルと聞いてまず思い浮かぶのは九州、なかんづく鹿児島だった。多くのヒトがそうかもしれない。実際に鹿児島市内には同じ名前の立派な公園があるという。

無論、京にのぼったことも、堺に滞在したことも知ってはいるものの、ここに名前を冠されるいわれはなになのか、わたしには見当がつかなかった。

フランシスコ・ザビエル その1

フランシスコ・ザビエルは1506年4月、北スペインのナバラ王国で生をうけた。しかし、その王国は1515年スペインに併合される。

1525年、パリ大学に留学。そこでのちにイエズス会初代総長となるイグナチオ・デ・ロヨラの知遇をえた。

1534年8月、ロヨラ、ザビエル、ほか数名の青年たちは生涯を神に捧げるという誓いをたてた。モンマルトルの誓いだ。

1540年9月27日、時の教皇パウルス3世によって、会は正式に認可された。

「神のより大いなる栄光のために」

ザビエル公園 その2

わたしは公園の奥へと進んでいった。

犬を散歩させているヒトが何人もいた。犬同士が鼻を突き合わせて挨拶をかわしている。日陰のベンチに腰を下ろしている老夫婦らしき二人。これ見よがしに (というふうにわたしの目には映った) 太極拳をきめる男性…。かれが黒いマントを羽織ってくれでもしていれば、ずいぶん愉快だったろう。ザビエルあらわる!

園内の説明版によれば、中世、このあたりが海岸線であったという。

1550年、堺に立ち寄ったザビエルを手厚くもてなした豪商日比屋了慶の屋敷が付近にあったことから、ザビエル公園と呼ばれるようになったという。

しかし直接にザビエルに言及しているものといえば、芳躅碑 (ほうちょくひ) が唯一のものだった。

フランシスコ・ザビエル その2

1541年4月7日、世界宣教のためリスボンを出発。同年8月、東アフリカのモザンビークに到着。ときにザビエル35歳。

1542年2月、モザンビーク出立。5月、インド・ゴアに到着し宣教にいそしんだ。

1549年4月、鹿児島出身のヤジロウらとともにゴアを出航、日本を目指した。

ザビエル公園 その3

そんなわけで、ザビエルの名前に思い入れをもってここを訪れると、すこしだけ肩透かしをくらった気分になるかもしれない。

総花的で、あれもこれも詰め込み過ぎだと感じるヒトもいるだろう。

鉄砲之碑というのがあった。

すぐ近くに鉄砲町という地名が残っていることから察せられるように、このあたりは鉄砲 (火縄銃) の製造地だったのだろう。

あるいは黒い金属でできた現代美術風のオブジェも置かれていた。

ポルトガルの芸術家、ジョルジ・ビィエイラの手になる「東と西の接点」と名付けられたそれは、ヨーロッパの西の果てに位置するポルトガルと東の果てにある日本との出会いをテーマとしているという。

1970年の日本万国博覧会ポルトガル館に展示されたあと、堺市に寄贈された。

ほかにも堺出身の詩人、安西冬衛の詩碑あり、中世祭事の解説版あり、むかしの海岸線をしめす石積みありと、なにやらこれでどうだと言わんばかりだった。

わたしはすっかりうれしくなった。

小説家の処女作は上滑りな失敗作に終わることがめずらしくない。

まだ技巧のつたないところに、あれも書きたい、これも書きたいと詰め込み過ぎたあげくに破綻してしまう。しかし書き手の熱量が異様な迫力で迫って来る。

そして、この公園からも同様の熱量が感じられた。

わたしは処女作が好きだ。その後の代表作と同様に。

その日、わたしは日の光のしたで処女作ばかりをえんえんと読み継いだのだ。

フランシスコ・ザビエル その3

1549年、ザビエル一行は薩摩半島の坊津に上陸。9月に伊集院城にて薩摩国守護大名島津貴久に謁見、布教の許可を得るも、その後は行く先々で布教を続けながら、陸路、京を目指した。

1550年8月、平戸入り。同年12月、周防国守護大名大内義隆に謁見するも、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りをかい、岩国から海路で堺に到着。

1551年1月、堺で知遇を得た豪商日比屋了慶の支援のもと、京入りをはたした。しかし後奈良天皇および征夷大将軍足利義輝への謁見を請願するもかなわず、京をはなれ西へとくだることとなった。

同年9月、豊後国に到着した。

ザビエル公園 その4

帆船を模した遊具もあった。

ザビエルののってきた船をイメージしているのだろう。

船体には「ebisu」の文字。この公園の正式名称・戎公園に因む。

この遊具にわたしがよじ登ったとしても、べつにおかしくはない。

恥ずかしがる理由はなにもない。

どこまでも続く大海原が見えるだろう。

 

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フランシスコ・ザビエル その4

1551年11月、いったんインドに戻ることを決意して出帆。翌52年2月、インドに到着すると同年9月、さらに中国・上川島へとすすんだ。

しかしその数ヶ月後、肺炎をこじらせて46歳の生涯を閉じた。

1622年3月12日、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられた。

【大阪市住之江区】大阪護国神社、桜の舞い散る頃に

護国神社ってのは年々参拝者が減少しているんだろうねえ。なにしろ戦争遺族の数はどんどん少なくなっているわけだからさ」

新なにわ筋と住之江通がまじわる住之江公園前交差点にかかる、少々古ぼけた歩道橋のうえで旧友は言った。むかしの職場の同僚だ。こんなところで再会するとは驚きだった。

「おたがいこの歳になるとじつにきついねえ、歩道橋。ちょっとした山登りだ」

わたしは言葉を返さなかった。

「そしていよいよ参拝するヒトもまばらになって、やがて護国神社そのものがみんなの記憶から消え去ってしまう。そのときこそ真の平和な時代の到来と言えるんじゃないのかな」

いったいなにを忘れ去れというのだろう。

おまえも食うか、と言ってかれは手づかみで甘い匂いのするパンを差し出してきた。あるいはチーズケーキだろうか。りくろーおじさんの店。すぐそこで買ってきたものだろう。食べながら歩くのを許してもらえるほど、もう若くはないはずだ。

わたしは手でさえぎった。

「そうか。じゃあここでな。もういくぞ。こんどゆっくりメシでも食おうや」

かれの背中を見送るわたしのまえに、大阪護国神社の緑濃い鎮守の杜がひろがっていた。

英霊の整列

わたしは石造の巨大な鳥居 (府下最大の大きさという) をくぐった。

参道の左右、すこし奥まったところにたくさんの慰霊碑、忠魂碑が整然と並んでいる。

木々の枝葉が日光をさえぎる薄暗いそこには、死が充溢しているように思われた。英霊はいまも一寸の隙もなく列をなしていた。



拝殿へと進んでいく。

このお社には明治維新期の天誅組西南の役をはじめ、日清、日露、大東亜にいたる10万5千余柱の英霊がおまつりされている。ここに大塩平八郎烈士の御霊を加えられないだろうか。世の惨状を嘆き、天照皇大神の御代に復することを熱烈に希求した烈士の御霊を。

左手に手水舎を見るころになると、いっきに陽光がふりそそいできた。

向かって右手に、車いす用のスロープが設けられていた。

わたしは柏手を打ち、御神鏡と静かに正対した。

戦前の研磨技術で製作可能な最大サイズといわれるそれは、この地でこれからさき、とわにとわにと、いったいどんな風景をうつしだすのだろう。

御神木を仰ぎ見て

神域から出ようとしたとき、鳥居のわきに桜の切り株を見つけた。そこからあらたに二本の細い幹がのびていた。そのどちらが枯れ、どちらが大きくなるのか。あるいは両方ともに枯れてしまうのか、わたしに見当のつくはずがなかった。いずれにせよ、それがわかるのはもっとずっとさきのこと…。

わたしは喧騒のなか、新なにわ筋を北に向かって歩いて行った。

「ねえ、この木どうしてロープしてんの」
女の子が傍にいる母親にたずねる。

「ロープじゃないよ。これは御神木っていうの」

御神木・夫婦桜、と刻まれたプレートがたっている。

二本の幹が注連縄のように絡まりあって、そらへそらへとのびている。

桜の舞い散る頃には、あたり一面、新雪がふるようにきらきらとひかるだろう。

 

 

 

【大阪府太子町】敏達天皇陵、見上げる空から慈愛の声がきこえるところ

敏達天皇はその在位中、まさに難問山積だった。

外にあっては任那再興をはかるがおもうにまかせず、国内では崇仏・廃仏の争いが大きくなっていった。

585年、崩御のあと、母、石姫皇女の墓であるこの磯長 (科長・しなが) の陵に追葬された。

生前、物部守屋らの奏上をうけいれて、はっきりと廃仏の側に立っていた自身の陵のすぐそばに、後年、仏教の強力な庇護者である聖徳太子の墓がもうけられ、さらに時を経てこのあたりが太子町と名付けられるとは、なんという皮肉だろう。

ふたりはいま、なにを語らうのか。

そこには美酒と、尽きせぬ笑い声があるといい。

敏達天皇陵参拝道へ

府道33号線 (富田林・太子線) からのびる細い脇道を、ひたいから汗をたらしながら、まるで丘の上を目指す棄権寸前のマラソンランナーよろしく、一歩一歩のぼっていった。

そして左手に参拝道入り口を見つけたとき、すこし意外な感じがした。へえ、ほんとうにこんなところにあるんだ…。

天皇陵というと、わたしはまず、頭上にひろがる大空を連想する。

しかしここに来るまでの道すがら、目にしたのはいくつもの事業所の建物と、道を覆うようにのびる木々だけで、なにやら空はちいさく切り取られたようにしか見えなかったから。

わたしはクルマが乗り入れられないようにと渡してある赤茶けた鎖の横から、先へと歩いていった。

両脇は木々で覆われている。しかしその切れ目から、ビニールハウスの枠のようなものが見える。ほかにも、人の手が加えられたとみられるあともある。

道には、所々途切れているとはいえ玉砂利が敷かれ、それを踏みしめる靴音がする。お社に詣でているような気分になる。

奥に拝所が見えてきた。

わたしはさらに進んでいき、そして立ち尽くした。

わずかに届く木漏れ日。

耳を圧するセミの鳴き声。暦の上ではもうすっかり秋だというのに。

慈愛の声がきこえるところ

わたしは母子の眠る陵を後にした。

玉砂利を踏みしめる足元に、十ほどの赤とんぼが前になり、うしろになりしてまとわりついてきた。秋の訪れを待ちくたびれたと言わんばかりの様子だった。

そしてあれほど小さくしか見えなかった空が、帰路、正反対の方向から見上げるととても大きく見えていた。

わたしは振り返った。

拝所の鳥居が、どこからか差し込んできた一条の光にあてられて、鏡のようにきらきらと輝いていた。そしてその輝きはどんどん強くなってきているように感じられた。

気づくと、セミの声も止んでいるようだった…。

「おかえりなさい。わたしのいとしい御子よ」

【京都府笠置町】浄土を頂くやすらぎの里・笠置を繰り返し訪れるこれだけの理由

笠置山登山道の急な坂道をクルマはのぼっていった…。

ここをはじめて訪れたのは17歳のときだった。そのときは歩いてここをのぼっていったのだ。もし、いまおなじことをしたなら、さぞや苦行と感じることだろう。

当時のわたしは、JR奈良駅 (あるいは当時はまだ国鉄 奈良駅だったろうか) のホームで、さてつぎはどの路線に乗り換えようかと思案中だった。売店の新聞はどれも、ジョンレノンが射殺されたのだと知らせていた。

結局、あてもなくとまっていた列車に飛び乗り、笠置駅でおりると、あっという間に笠置山を登りきり、笠置寺の山門をくぐっていた。

進んでいくと、見上げるような巨岩があちらこちらにある。

わたしはせまい岩と岩のあいだをくぐりぬけ、いちばんはしにある岩によじ登って腰をおろした。

いましがた、自分が乗ってきた関西本線の列車がマッチ箱のように小さく見えていた。

木津川沿いの国道に、ときおりクルマがはしる以外、移動するものとてなかった。

そんな静止画像のような風景を見続けているうちに、はて、自分は何を悩んで家を飛び出したのか、さっぱり思い出せなくなっていた…。

きじ料理はいかがでしょうか

以来、毎年のように笠置を訪れるようになった。

それがここ数年のウイルス騒ぎのせいで、外出がはばかられるようになり、気がつくとずいぶんあしが遠のいてしまっていた。

しかし笠置に行こう。

この一年、とくにその思いはつのっていった。

笠置に行こう!

わたしは駐車場にクルマをとめると、徒歩で山頂を目指した。

すでに日は暮れかけていた。

ようやく山頂にたどりついた。いよいよ最後の石段をのぼっていく。が、笠置寺の山門はしまっていた。

夕方6時過ぎ。無理もなかった。

わたしはいま来た道を引き返していった。

山門からすぐのところに、松本亭という料理旅館があった。

まだ灯りがついていた。

きじ料理の看板が見えた。

浄土を頂くところ

山中のいたるところ、巨岩が露出する笠置山京都府南部、木津川のほとりに位置する標高300メートルに満たないちいさな山だ。

古代より巨石崇拝、磐座信仰が執り行われていたとされ、それはやがて仏教や修験道へと移行していく。

高さ15メートルの巨石に彫られた笠置寺の御本尊、弥勒摩崖仏はしかし、光背 (御仏のお姿の外枠) を残すのみとなっている。

後醍醐天皇鎌倉幕府とのあいだで緊張の高まるなか、天皇は京の御所を脱出し笠置山を行宮 (あんぐう・かりみや) とさだめられ、幕府軍と激突。この元弘の乱の戦火で笠置寺は炎上。その炎は御本尊へも迫って、その熱で石の表面が剥離した。ほかの多くの摩崖仏も同様に焼かれてしまい、現在、往時のすがたをとどめているのは唯一、虚空蔵菩薩像のみとなる。

山頂の後醍醐天皇行在所跡も碑が立ち、柵を巡らせているばかりで、建物等は現存していない。

その先にある巨岩がいくつも折り重なっているところ、わたしが初めて訪れた際に腰を下ろしたところあたりが、修験道の行場になろうか。

歴史を重ね、苦難にも耐えていまにつづく笠置山。この信仰の山は、春は桜、秋は紅葉とその山容を息をのむほどに美しく染め上げる。

ここが浄土でなくて、なんとするのだろうか…。

天然温泉・笠置いこいの館

クルマにもどったわたしは意気消沈して山をくだっていった…、わけではなかった。

笠置のたのしみは、麓にもたくさんある。

木津川のほとりにはキャンプ場が整備され、また、最近ではボルタリングの聖地としても名を上げている。

しかし、日が暮れてからのソロキャンプはありえなかった。(明日はしごとだ) それにボルタリングはご免こうむりたいところだった。つい先日、二上山で思いがけなく岩登りをする羽目になってしまったばかりだった。

 

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ずばり、温泉だ。

天然温泉・笠置いこいの館の湯は、その独特のぬめり感がすばらしい。しかしそれにもまして声を大にして言わなければならないのはサウナ施設だ。

わたしは自分のことをサウナ愛好家だと自負してきた。

しかしこのウイルス騒ぎがおきて以降、すっかりあしが遠のいていた。

その間、サウナを取り巻く環境は様変わりしていた。

サウナハット、テントサウナ、熱波師…。

そんな流行に右往左往することなく、このサウナマイスター (自称) が本物のサウナ魂を見せてやる!

そして復帰第一戦はどうしても、ここ笠置いこいの館でなければならない理由があった。

ここには水風呂がない!

外気浴のスペースはある。が、水風呂がないのだ。

ワサビ抜きの握り寿司、マヨネーズ抜きの冷やし中華というのはどうだろう。すこし頼りないが食べられないことはない。しかし握り寿司抜きのワサビ、冷やし中華抜きのマヨネーズならいかがか。

水風呂のないサウナとは、つまりそういうことだ。

それは握り寿司抜きのワサビ。ただのワサビチューブ。

その高いハードルにわたしは挑むのだ。

わたしは覚えのある道を進んでいった。

あの角を曲がり、それから直進して…、

口にくわえたワサビチューブを吸いつくす覚悟はできていた。

カーブを過ぎると、広い駐車場が見えてくる。

もうすぐだった。

 

 

(追記) 天然温泉・笠置いこいの館は温浴施設 (風呂、サウナ) 、食堂施設の営業を令和元年9月1日より休止中です。

 

 

 

 

【島根県松江市】八重垣神社・鏡の池で恋の行方を占える! 稲田姫の思慕

水占い、というものが全国あちこちの神社仏閣に存在する。

試されたかたもおられよう。

授与所で拝受した用紙を境内の池や沢に浮かべる。あるいは流れ落ちる清水をかける。

するとそこに神託の文字が浮かびあがってくる。

おみくじの一種ともいえるわけだが、邪気を清める水をもちいることで、なにやらありがたみも増して感じられてくる。

島根県松江市佐草に鎮座する八重垣神社の鏡の池と名付けられた小さな池のまわりも、そんな占いに興じるヒトたちでにぎわっている。

水面に浮かべた用紙に、そっと硬貨を置く。早々に沈めば早い時期に、長く浮かんだ後に沈めばずっと遅い時期に相手と結ばれる。遠くで沈めば遠方にいるヒトと、近くで沈めば、いま身近にいるヒトと…。

わたしはそんな彼女たち (そこにいるのはほとんどが女性だった) のようすを、ただうしろから眺めていた。

 

八重垣神社に関する備忘録

  • 意宇六社の一社、旧称は佐久佐神社。
  • 社殿の様式は大社造
  • 八重垣神社の名称は八岐大蛇を退治したあと素戔嗚尊が詠んだというよろこびのうた「八雲立つ 出雲八重垣妻込みに 八重垣造る其の八重垣を」に由来する。
  • 主祭神素戔嗚尊稲田姫命の二柱。
  • 境内奥にひろがる佐久佐女の森は素戔嗚尊が八岐大蛇と対峙するあいだ、稲田姫をかくまったところと伝えられる。
  • その佐久佐女の森に鏡の池がある。素戔嗚尊を待つあいだ、稲田姫が鏡代わりに御身を映していたという。

稲田姫の思慕

拝殿で参拝をし、宝物殿の見学を終えると、いよいよわたしは社殿のうしろ、佐久佐女の森に入っていった。

二本の木柱に細い注連縄を渡しただけの簡素な鳥居をくぐると、それまでとは明らかに空気感が変わった。

木漏れ日さえ通さぬほど、木々が生い茂っていた。

静謐な気に、わたしは圧倒された。

それは、いま思えば不思議なことだ。

そのすぐさきの鏡の池では大勢の女性たちが、占いに一喜一憂していたわけだから。

さらにあゆみを進めると、鏡の池を見守るように建てられたちいさな天鏡神社が見えた。

御祭神の稲田姫命は、ああ、素戔嗚尊を慕い待ちつつ、この池を鏡代わりにしていたのか、と思うと感慨もひとしおだった。しかし水面に顔を映したとて、さぞ見づらかったことだろう。アマテラスを困らせ、八岐大蛇を成敗するほどの勇ましい素戔嗚尊ならば、この池を持ち上げてすこし手前に傾けてやってもよかったものを。もっともそんな勇敢な素戔嗚尊はあくまで記紀に描かれたものであって、出雲国風土記には、英雄譚とは無縁の、朴訥な印象の神として登場している。

十人程の現代の稲田姫たちが、いづれも真剣な表情で白い用紙の行方を見つめていた。

そんなに肩にチカラを入れなさんな。オレなら空いてるぜ、と軽口をかけられる雰囲気ではなかった。

あれから、十五年が過ぎた。

恋占いの行方は

鴨川の流れはおだやかだった。

京都市内もこの一条のあたりまで北に来ると、喧騒はずっと遠くになる。

このすぐ近くに吉田神社がある。

わたしはクルマのラジオをつけた。

「さて、あすいちばんのラッキー星座はかに座です!」

やけに調子のいい、甲高い男の声は続けた。

「とくに恋愛運が絶好調。超強力です。うらやましいなあ」

うらやましがられているのか。

59歳、独身、結婚歴なし…。

恋愛運、星五つと告げられて、それははたして喜ぶべきことなのかどうか、わたしにはさっぱりわかりかねた。

【大阪府羽曳野市】河内源氏、壷井八幡宮、そして効果的な水分補給の一方法

 

月が替わり八月になった。夏も盛りというわけで、この暑さも当然なのかもしれない。

しかし、夕方4時すぎ、クルマの車外温度計が36度をしめしているのは、いくらなんでもやりすぎだと感じていた。

我慢の限界をこえていた…。

運転中ずっと理不尽だ、無茶苦茶だ、文句を言ってやるなどと、そんな言葉がつぎつぎとあたまに浮かんでは消えていった。

カラダが熱っぽく、さきほどから視界もぼやけ始めてきたようだった。まさか、いま猛威を振るっているウイルスの症状なのか。

カップホルダーのアイスコーヒーに手をのばす。

エアコンの液晶表示が33度になっていた。

どうして…。

いつ手が触れたんだ。

コーヒーを置いたときだろうか。それともⅮⅤⅮを入れ替えたときなのか。

ずっと温風を浴びながら運転をしていたのだ。

息苦しいのも当然だった。

蒸し焼きにもなろうというものだ…。

クルマは外環状線を突っ切って、道なりに進んでいく。

やがて羽曳野大橋を通り過ぎた。

この時期、下を流れる石川の水量はめっきり少なく、川幅は狭くなっている。だだっ広い両側の河川敷が、そのことをいっそう強調していた。

目的地まで、もうすぐだった。

壷井水のこと、壷井八幡宮に詣でて

ふたつの峰をもつ双耳峰・二上山を横目で見やりながら、そちらへは曲がらずに、南阪奈道路のしたをくぐりブドウ畑のなかを直進する。

 

そこから、ほんの数分で壷井八幡宮に到る。

しかし、道幅はせまい。

わたしはゆっくりとはしった。

軽自動車のコーナーセンサーがピーピーとうるさかった。

うしろから、ミツビシ・デリカD-5が迫ってきて、たちまち追いつかれた。

こんな大きなクルマで…。

まったくアグレッシブなヒトもいたものだ。

こういうアウトドア志向のクルマに乗るようなヒトは、すべからくそうなのか。

こんな狭い道を行くこと自体がアドベンチャーだというのか。

ただ単に、自宅が壷井にあるというだけかもしれないわけだが。

わたしは社務所前の駐車場を通り過ぎて、鳥居のわきにある第二駐車場にクルマをとめた。

日陰になっていることも、なんの助けにもなっていなかった。

沸騰したような、ねっとりとした空気がまとわりついてきた。

このままもう、わたしは崩れ落ちてしまうかもしれない。

すぐそばに壷井水 (つぼいみず・清泉壷井) が見えた。

この地に館を構え、河内源氏の祖となった源 頼信 (よりのぶ)、その嫡男、源 頼義 (よりよし) が「前九年の役」に際して奥州へと赴いた際に大干ばつに見舞われ、飲み水にもことかくありさまだった。兵の士気もさがるなか、頼義は馬をおり跪くと、身に着けていた鎧を脱いでそれを両手で高々と天に掲げて、どうか飲み水をと祈った。そして弓をぎりぎりと引いて放つと、矢の当たった岸壁から清水が噴き出したという。

渇きをいやし、みごと戦に勝利した頼義はその清水を壺に入れて凱旋し、当地に井戸を掘ると感謝の念のあかしにその壺を底に沈め「壷井水」と称した。

以来、この地もまた壷井と言われるようになったと伝えられている。

壷井八幡宮は、その頼義が石清水八幡宮から神霊を勧請して創建されたものだ。
わたしは鳥居のすぐそばに壷井水があることから、てっきりこれが八幡宮の手水舎を兼ねているものだと思い込んでいた。

しかし、境内にそれとは別に手水舎はあった。

八幡宮は鎮守の杜がことのほか見事で、それだけでも一見の価値がある。

境内は清浄の気に満ちていた。

しかしそれよりもなによりも、わたしはただ暑さのせいでおかしくなりそうだった。

喉がふさがれて、呼吸がうまくできていないかんじだった。

戦の果てに眠るところ


参拝をおえたわたしは、壷井のまちを歩いた。

白壁に格子戸をそなえたふるい家屋が、あちらこちらにのこっていた。

もしもはるか遠くにあるPL教団の白亜の塔 (まるで岡本太郎がデザインした東京スカイツリーといったかんじの、奇抜なあれ) が見えていなかったら、ここが現実の世界とは思えなかったかもしれない。

しばらく進むと、河内源氏菩提寺、通法寺跡にでた。

寺自体は明治の廃仏毀釈によって取り壊されて、いまは礎石がのこるばかり。
ここに頼義公の墓所がある。

そして「前九年の役」に父とともに奥州に付き従った義家公の墓所は、すぐ近く、小山の上に築かれている。

けっこうなのぼり勾配だ。
真新しい手すりの設置されていたことが、わずかな救いだった。
そして頂上まで登ると、義家公の円丘墓よりも、まず、一直線に二十基ほど並べられた墓石が目に飛び込んでくる。おもに通法寺の歴代住職のものだという。

ふたたび壷井水のこと

わたしは来た道をもどりはじめた。

足元がおぼつかない。

すでに、汗さえ出なくなっていた。

皮膚がつぎつぎと剥離していくような感覚に襲われた。

溝の上を水色の背をしたとんぼが飛んでいた。

とんぼは、はて、脱皮をするのだったか。

ここでは一台もジュースの自動販売機を目にしていない。

普段なら、いやというほどあちこちにあるものが…。

 

いま、目の前に壷井水がある。

近年まで飲料水として供されていたと聞いていたが、残念ながら枯れ果てていた。

背後の鎮守の杜が、強烈な西日にあぶられていた。

わたしは壷井水で跪き、首を垂れてバンバンと両手で敷かれた石を激しく叩く。

今度はなんども額をそこに打ちつける。

やがて石が割れ、そこから清水が噴き出すだろう。

そのさきに見えるのは、頬がこけ、髪をふりみだして片手に鎧を引きずるように持って立ち尽くす武者の姿。








 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【奈良県御所市】どんな願いも叶えてくれる関西随一のパワースポット!葛城一言主神社

あるとき、雄略天皇葛城山に多くのお供の官人を従えて登られていたところ、向こうの尾根を行くヒトたちがいた。それが天皇の行列と人数も装束もまことに似通っていた。

天皇はお尋ねになられた。

「この国に、わたしのほかに王はいない。あなたは誰か」

すると相手も、おなじ言葉を返された。

「この国に、わたしのほかに王はいない。あなたは誰か」

天皇は大変お怒りになり、御自身も、お供の官人たちもいっせいに弓矢をかまえられた。

すると向こうの尾根のヒトたちも、みな弓矢を構えた。

天皇は仰せになった。

「名を名乗れ。そしてお互いに名乗ってから矢を放とう」

「わたしがさきに尋ねられたので、まずこちらから名乗ろう。わたしは悪事 (まがごと) も一言、善事 (よごと) も一言で言い放つ言離神 (ことさかのかみ)、葛城の一言主大神 (かつらぎのひとことぬしのおおかみ) である」

「畏れ多い大神よ。ヒトの姿でお出でになられたのでわからなかったのです」

天皇は御自身の刀と弓矢、そして官人たちの着ていた衣服を脱がせて献上した。

大神は柏手を打ち、それらを受け取られた。

葛城一言主神社

 

葛城一言主神社 (葛城坐一言主神社・かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ) の創建年は不詳とはいえ、狩りをする雄略天皇一行のまえに、大神が御姿をあらわされた地に社殿を創建したのが始まりと伝えられている。

その際に、大神が仰られたお言葉から、一言の願いならどんなことでも叶えてくださるありがたい神としてひろく信仰を集め、全国各地の一言主大神を奉斎する神社の総本社となっている。
延喜式神名帳 (927年) では名神大社に列せられた。

鳥居のすぐ後ろ、人目につきにくいところに蜘蛛塚がある。

ここに限らず、葛城山周辺には蜘蛛塚 (土蜘蛛塚) と称されるものが多くある。

拝殿へと向かう長い石段のわきに、亀石がある。

役行者が悪行絶えぬ黒蛇を調伏し、そのうえに亀の形をした石を置いたものと伝えられている。御利益を求めて、多くの参拝者がそこから滴り落ちる水で身を清めるという。

境内に高くそびえる銀杏の御神木は樹齢千二百年ともいわれ、子宝の御利益があるとされている。

拝殿横に、雄略天皇像がある。
大神との問答のときをイメージしたような緊張した表情だ。

わたしの願いは…

雄略天皇が大神と出会われたとき、じつはこっそりとなにか一言お願いをされていたのならどんなに面白いだろう。そんなことを思いながら、わたしは静寂のなか拝殿へと歩み出た。

さて、わたしはなにをお願いするつもりでここに来たのだったか…。

いったいわたしはなにを願っているというのだろう。