【大阪市住之江区】大阪護国神社、桜の舞い散る頃に

護国神社ってのは年々参拝者が減少しているんだろうねえ。なにしろ戦争遺族の数はどんどん少なくなっているわけだからさ」

新なにわ筋と住之江通がまじわる住之江公園前交差点にかかる、少々古ぼけた歩道橋のうえで旧友は言った。むかしの職場の同僚だ。こんなところで再会するとは驚きだった。

「おたがいこの歳になるとじつにきついねえ、歩道橋。ちょっとした山登りだ」

わたしは言葉を返さなかった。

「そしていよいよ参拝するヒトもまばらになって、やがて護国神社そのものがみんなの記憶から消え去ってしまう。そのときこそ真の平和な時代の到来と言えるんじゃないのかな」

いったいなにを忘れ去れというのだろう。

おまえも食うか、と言ってかれは手づかみで甘い匂いのするパンを差し出してきた。あるいはチーズケーキだろうか。りくろーおじさんの店。すぐそこで買ってきたものだろう。食べながら歩くのを許してもらえるほど、もう若くはないはずだ。

わたしは手でさえぎった。

「そうか。じゃあここでな。もういくぞ。こんどゆっくりメシでも食おうや」

かれの背中を見送るわたしのまえに、大阪護国神社の緑濃い鎮守の杜がひろがっていた。

 

英霊の整列

わたしは石造の巨大な鳥居 (府下最大の大きさという) をくぐった。

参道の左右、すこし奥まったところにたくさんの慰霊碑、忠魂碑が整然と並んでいる。

木々の枝葉が日光をさえぎる薄暗いそこには、死が充溢しているように思われた。英霊はいまも一寸の隙もなく列をなしていた。



拝殿へと進んでいく。

このお社には明治維新期の天誅組西南の役をはじめ、日清、日露、大東亜にいたる10万5千余柱の英霊がおまつりされている。ここに大塩平八郎烈士の御霊を加えられないだろうか。世の惨状を嘆き、天照皇大神の御代に復することを熱烈に希求した烈士の御霊を。

左手に手水舎を見るころになると、いっきに陽光がふりそそいできた。

向かって右手に、車いす用のスロープが設けられていた。

わたしは柏手を打ち、御神鏡と静かに正対した。

戦前の研磨技術で製作可能な最大サイズといわれるそれは、この地でこれからさき、とわにとわにと、いったいどんな風景をうつしだすのだろう。

御神木を仰ぎ見て

神域から出ようとしたとき、鳥居のわきに桜の切り株を見つけた。そこからあらたに二本の細い幹がのびていた。そのどちらが枯れ、どちらが大きくなるのか。あるいは両方ともに枯れてしまうのか、わたしに見当のつくはずがなかった。いずれにせよ、それがわかるのはもっとずっとさきのこと…。

わたしは喧騒のなか、新なにわ筋を北に向かって歩いて行った。

「ねえ、この木どうしてロープしてんの」
女の子が傍にいる母親にたずねる。

「ロープじゃないよ。これは御神木っていうの」

御神木・夫婦桜、と刻まれたプレートがたっている。

二本の幹が注連縄のように絡まりあって、そらへそらへとのびている。

桜の舞い散る頃には、あたり一面、新雪がふるようにきらきらとひかるだろう。