【奈良県橿原市】大和三山・天の香久山訪問記、登山道、磐座、神社、国見台からの眺め。

香久山、耳成山畝傍山…。大和三山の中でも、古よりしばしば「天の」と尊称を冠して呼びあらわされ、一等神聖視されてきたのが香久山だ。

天照大御神の天岩屋戸神話、神武東征のさい香久山の埴土 (はにつち) で祭器をつくり、天神地祇 (あまつかみくにつかみ) を敬いまつったという伝承。

やまとの国の始源の物語に、この山は深くかかわってきた。

 

天香山神社

香久山に到着した。

遠くから眺めているうちはあれほど美しい山容を見せていたものが、いざ目前まで来てみると、なんだかぼんやりとした姿に映ってしまう。

遠くから眺めるにとどめておくにかぎるなどと軽口をたたいたなら、なにやら高慢ちきな美人のようになってしまう。

でも実際に、すこし離れた、右手に見える耳成山は凛と整った姿をしめしていた。

わたしはまず、「月の誕生石」と名付けられた、香久山にいくつも残る磐座のひとつにむかった。

これは奈良市東部の柳生の里にある、柳生宗厳が刀で真っ二つに切り裂いたと伝わる巨石「一刀石」にそっくりだ。
その柳生の里も、本殿をもたずに三つの巨石を御神体と崇める天乃石立神社 (あめのいわだてじんじゃ)をはじめとして、磐座信仰のようすを色濃くのこすところだ。

天香山神社の鳥居をくぐると、右手に波波迦 (ははか・植物の名称とも、香久山の場所の名前とも) の木が見える。
天照大御神が天岩屋戸にお隠れになったあと、布刀玉命 (ふとたまのみこと) がこの木を用いて占いをしたという。

令和への御代替わりの大嘗祭に際しても、ここの波波迦が宮中三殿に献進されている。
わたしは拝殿へと進み、参拝をおえると、参道横にある登山道から山頂を目指した。

ふりしきる雨音が、いっそう激しくなってきた。

それでも頭上を覆う木々の枝葉のおかげで、傘なしで歩けたことは幸いだった。

それにしても、この急勾配の階段状の登山道、20日ほど前に登った二上山・雌岳のそれと瓜二つだ。一瞬、自分はまだ二上山にいるのかと思ってしまったほどだった。

 

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國常立神社そしてミカドの国見

山頂に到着した。
わずかにひらけた平らな土地に坐す國常立神社 (くにとこたちじんじゃ) がわたしを迎えてくれた。

遠くに目をやると、畝傍山が見えた。

国見だ!

舒明天皇はここからやまとの国を眺め、あちこちから立ち上がるかまどの煙を見て、民の豊かな生活を大層お喜びになり、神武天皇の国見歌を踏まえながら「あきづ島 大和の国は」というあのよく知られたうたを詠まれたのだ。あるいはそうあれと願ったことほぎのうただったのだろうか。

国土神・國常立尊を迎えた山頂で、やまとの国の安寧を願った舒明天皇に思いをはせながら、わたしは反対側の登山道から山をくだっていった。

まだ、肩で息をしていた。

標識があった。

ここから4分ほどくだったところに、国見台跡があるという。

山頂から国見をしたのではなかったのか。

これはもう、なにがなんでもその場所を見ておかねばならない。

しかし、生い茂る下草のせいで、もはやどこが道なのかも判別できないありさまだった。しかもますます、地面はぬかるんできていた。

いったいどこをどう行けばいいのか…。

それでもわたしは歩みをとめることはしなかった。

困難にあたっても決して逃げることなく愚直に突き進み、たとえこの身が尽きようとも、初志貫徹、思いを遂げること。それが大和魂

4分ほど歩くと、登山道口に出てしまった。
いったいどこから国見を…。
ここからなのか。

大きな石碑の裏手あたりが、台形上に開けている。

あるいはそこが国見台だというのか。

そこから眺める畝傍山は、ちいさな踏み台の上から見たように、ずいぶん身近に感じられた。

わたしも日々、このやまとの国を見ている。

10日ほど前、元首相が奈良市内で銃撃されて亡くなった。ウイルスの感染者数が過去最高を更新した。連日、食料品値上げのニュースが報じられている。数日おきに国のどこかでゲリラ豪雨が発生し、災害被害がでている。

きのう、古い友人から連絡があって、ひさかたぶりに会った。

冷凍うなぎを三尾、もらった。

 

安倍晋三元首相の死を悼む。異質なものを「はぶく」風潮に怒りを。

昨日7月8日、午前11時半ごろ、奈良市近鉄西大寺駅前で、安倍晋三元首相が銃撃された。心肺停止状態で奈良県立医科大学附属病院に搬送されたが、同日午後5時3分、死亡が確認された。

想像だにできない蛮行だ。

各党は直ちに声明を発表した。

いわく……、

参議院選挙のさなかに、民主主義の根幹を揺るがす暴挙だ」

「暴力によって自由な言論が抹殺されるようなことがあってはならない」

「いかなるテロにも屈しない」

間違ってないよ。

でも、現行犯逮捕されたオトコが、そんな大上段に構えたことを考えていたとは到底思えないな。

動機について、元首相の政治信条に対しての反感からではない、と早々に供述してるじゃないか。

元首相が自分とは違うクラスにいて、違う団体を信じ、自分とは違って雄弁に語る。そんなことにすこしづつ違和感を感じつづけ、それが積もり積もってどんどん大きくなって、ついにはこの異質なものを「はぶく」しか自分の生きる世界はない、と思うに至ったのではないのか。

 

近鉄西大寺駅

近鉄西大寺駅といえば、近くに秋篠寺があり、また、すぐ東には平城宮跡がひろがる。

そんなのどかなところと、銃撃という言葉とが、どうにも結びつかない。

わたしはこの目で確かめたくて、ほんの2時間ほど前まで、そこにいた。

現場が駅の北側なのか、南側なのかと迷うことはなかった。

花を手にした多くのヒトが向かうほう、そこが悲しみの場所だった。

夜、10時半を過ぎてなお、目を閉じて手を合わせるヒトが絶えなかった。

花が手向けられていた。

そのなかには、元首相の故郷の銘酒、獺祭 (だっさい)もあった。

地球儀を俯瞰する

ときどき、ひまにまかせて紙ひこうきを折っている。

それがきらきらひかる海の上を飛んでいるところを想像しながら。

馬鹿みたいだ。

でも今夜だけは、どうかこの書斎で飛んでくれないか。

ふわふわと天井までのぼっていって、俯瞰してください。地球儀を。

 

【奈良県葛城市】七夕の夜空に願うこと、棚機(たなばた)神社

子供のころの七夕の記憶といっても、なにやら願い事を書いた短冊を笹竹に結びつけたかな、といった非常にぼんやりとしたものでしかない。

五節句のひとつとはいえ、大人になってからはすっかり意識のすみに追いやられて、織姫と彦星の名前を口にすることもなくなり、いつしか夜空を仰ぎ見ることさえしなくなっていたと、いまさらのように気づいた…。

 

棚機(たなばた)神社

「棚機神社ってどこにあるの。はじめて聞く名前だ」

そんな風にたずねるヒトには、南阪奈道路の側道沿い、葛城インターチェンジのすぐそば、と言えばわかってもらえるのだろうか。それとも道の駅・葛城の裏手あたり、と説明するほうが適当だろうか。

奈良県葛城市太田の棚機神社に詣でると、御由緒を記された説明版が目にはいった。

五世紀、この地に大陸から最新の織機「棚機」とともに「牽牛と織女の七夕の物語」や機織り技術の向上を願う棚機の儀式が伝えられた。

そして、織物の専門集団である倭文氏 (しどりし) の祖神をまつる「葛木倭文坐天羽雷命神社・かづらきしどりにいますあめのはづちのみことじんじゃ」が創建されたと言い伝えられているが、葛城市加守に遷座された後は、天羽雷命と対になる天棚機姫神 (あめのたなばたひめのかみ) を村人が細々と、石祠にまつってきた。

現在では「棚機神社保存会」のもと、境内は常に掃き清められ、古来よりの伝統祭祀も欠かさず執り行われている…と。

織姫の星に願いを

きょうは七夕。日本晴。

織姫と彦星のふたりがどうか会えますように。

青(緑)・赤・黄・白・黒(紫)の五色の短冊に願い事を書こうか。

そして夜空にひかる織姫の星に祈る。

 

 

二上山・雌岳に実際に登ってみた。山の神の息づかいを濃密に感じた。

おなじ山頂を目指すにしても、そこにいたる登山ルートは幾通りも存在する。

よく整備され、舗装の行き届いたおだやかなルート。山中行軍とでも嘆きたくなるような急勾配のみち。そして文字通りのけもの道…。北から、南から、西からと起点を違えたさまざまなルート。

奈良と大阪の府県境にある二上山は、やさしい山容を見せている。ふもとの穏やかな田園風景ともあいまって、雄岳・雌岳のふたつの峰をもつこの山が、かつて火山であったとは、なかなかすぐには納得できない。

わたしは大阪府太子町側にある二上山登山口から、まず、雌岳にある鹿谷寺跡 (ろくたんじあと) を目指した。

そこからなら、「ろくわたりの道」という整備された登山道を行くのが一般的だ。

しかしわたしは、そこよりもすこし東寄りのルートを選んだ。

登山はよく、人生にたとえられる。

正規ルートではなく、そんな裏道を選んでしまうあたり、これまでのわたしの人生の歩みが、推して知れるというものだ。

鹿谷寺跡

ろくわたりの道をすこし東にそれると、道がふたてに分かれていた。

右手に進めば、岩屋や古代池があるはずだ。そして短い渡し板をこえて左手に進むと、鹿谷寺跡にいたる。

まちがいはない。

ちゃんと標識がでている。

しかし薄暗く、いかにも険しい山中に入っていくかんじだ。気が進まなかった。しかしすぐそばにたつ石仏のありがたい、慈悲深いお姿に後押しされた。

道はいちおう階段状に整備されていた。

しかし、一段一段の幅が広すぎて、一歩では登れない。しかも急勾配だ。

ここは「大阪近郊のファミリー向けハイキングコース」をうたっているが、それはろくわたりの道のはなし。

これは断じてハイキングなどではない。ロッククライミングだ。もう壁をよじ登っているかんじ。

そもそもこの道に入るとき、スマホのナビは「目的地まであと5分」と告げていた。おかしいではないか。もうかれこれ10分は経っているのに、表示はまだあと5分のままだ。たとえ10分のうち、6分は息も絶え絶えにへたり込んでいたにしても。

わたしは振り向いた。

背後に識別不能な石造物がたっていた。

元々はやはり仏が彫られていたのだろうか。

わたしは先を急いだ。

ますます道は険しくなっていき、やがて岩壁が行くてをふさいだ。

 

これを登って行けというのか。

ジャージと安物のスニーカーで来てるんだぞ!

ロープもハーネスも持っちゃいない。

目的はハイキングがてらの仏教遺跡巡りなんだ、ロッククライミングじゃない!

しかしどうやら御仏 (みほとけ) の加護があったようだ。

鹿谷寺跡は、8世紀、奈良時代の石窟寺院跡だ。

付近からは、土師器、須恵器や和同開珎などの出土物が確認されている。

詳しい創建年などの由来は明らかではない。しかし、インドや中国の敦煌など大陸で盛んだった石窟寺院が当時のわが国で認められるのは、ここ二上山山麓が唯一であること。また、その時代、この近つ飛鳥周辺 (現在の太子町、河南町羽曳野市)では渡来系豪族が勢力を誇っていたことなどから、かれらの関与は濃厚だろう。

十三重の石塔がまず目にはいった。そして、すぐそばの岩窟に線刻された三尊仏座像。

 

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わたしはしばしそれらに見入ったのち、こんどは反対側、ろくわたりの道のほうへと抜けて、山をくだっていった。

あっけないほど簡単に登山口まで戻ることができた。

岩屋と石切り場跡

つぎに、わたしは岩屋へとむかうことにした。

こちらの道は舗装が行き届いている。

しかし、きつい上り坂であることに変わりはない。

ぜいぜい息せき切ってのぼるわたしのうしろから、ヒトの気配が近づいてきた。話し声が聞き取れるようになる。

十代半ばの少年二人だった。

「こんにちは。おとうさん、岩屋ってこの近くですか」

「もうすこし先かな。若いのに仏教遺跡とは渋いねえ」

「いえ、ボクたちカブトムシを捕りにきたんです。岩屋のそばにたくさんいるってきいて」

「ああ、それで網なんか持ってんのか」

最近、見ず知らずの年下の者から、おとうさんと呼びかけられることがめっきり増えた。もう孫がいるような歳なのだから、それもさもありなんだ。わたしはそのたびに、いつも何食わぬ顔をして返事を返している。でも、ほんとうはこう言ってやりたいのだ。

「わたしはただのいちども、おとうさんになったことはないよ。ましてやきみたちのおとうさんじゃない」

登山道のまわりでは、あちこちでアジサイの花が、いまが盛りと咲き誇っていた。

岩屋まであとすこしのところまで来たとき、石切り場跡が左手にあった。

ぺらぺら、ぼこぼこのブリキ板。

もうすこしなんとかならないものかと思いながら、わたしは石切り場跡へとのぼっていった。

ここから高松塚の石室に使用した石材を切り出して、さて、この急斜面をいったいどうやっておろしたんだろう。

この登山道に足を踏み入れて以来、わたしに寄り添うように何者かが森の中でうごめく気配をずっと感じていた。下草をゆらして地面を這いまわり、木の枝から枝へと飛び移っているようだった。先程の少年たちであるはずはない。

それは岩屋が近づいてきたいま、いよいよ数を増やして、濃密に感じられるようになった。

山の神なのか。

まさか山の神がわたしに迫り、わたしと同体になろうとしているというのか。わたし自身がこの山になる!あとはもう、無上の法悦があるばかりだ。

岩屋は鹿谷寺跡とおなじく、奈良時代の石窟寺院跡だ。

大小ふたつの石窟からなり、大きいほうには三層の多層塔があり、壁面には三尊立像が彫られている。

すぐ手前には、杉の倒木が横たわっており、近づくにはそこをくぐらなければならない。

わたしは山をおり、クルマに乗り込むと家路についた。

きょうは裏道、けもの道まがいと、いろいろな道を歩いた。

明日からは、王道だけををまっすぐに歩んでいきたいものだ。

二上山山中に眠る古代信仰の跡、N君の思い出、大阪府太子町

休日の朝、庭先の白い花が芳香を放つ。

その花をつけた木は、玄関からガレージにむかうあいだにある。大豪邸ではあるまいにほんのわずかな距離、前日も、前々日も、毎日そのよこを通っていたのに、気づいてやれなかった。

元々、そこには背の高いハナミズキが植わっていた。

リードをつけて、庭でひなたぼっこをするしまこ (愛猫) が、よくそのそばで寝そべっていたものだ。

しかし、しまこが亡くなると、翌年、ハナミズキの木も後を追うように枯れてしまった。

かわりに植えたのがいまの木だ。

ガレージのすみにあったちいさな鉢植え。

最初の数年間は、花をつけなかった。

それがどんどん大きくなり、やがて白い花を咲かせるようになった。

この木の名前をわたしは知らない。

我が家では「しまこの木」と呼んでいる。

「しまこの木に花咲いてる!」

「このこ、白い花を咲かすんやったんや!」

花に顔を近づけてみた。

こんなかおりはいままで知らなかった。どんどんアタマがクリアになっていく。

いつまでもこうしていたかった。

 

N君のこと

ちょっとした日帰り旅行が好きで、休日にはよくドライブをする。

東に向かうときは針の温泉につかったあとで、名張にまであしを伸ばすことが多い。南なら吉野になる。吉野川のゆったりとした流れを日がな一日眺めている。西なら、何といっても大阪府の太子町だ。陵墳を巡ったあとで、ブドウ畑のなかをきょろきょろして歩く。盗人 (ぬすっと)に間違われやしないかと、すこしだけ不安になりながら。

 

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N君と知り合ったのは、その太子町にある道の駅でだった。

「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」わたしは赤い軽自動車で。N君は四代目の黒いフェアレディZ (形式名 Z32)で。

Z32 は1989年デビュー。2000年まで生産された息の長いモデルだ。20年以上前のクルマを、30代半ばとおぼしきN君が新車で買えるはずはない。憧れのクルマを、中古車店巡りのすえに手に入れたのか。あるいは親父さんの、アニキのものなのだろうか。

伝統の三連メーターを排して操作系を左右のサテライトスイッチに集約した内装は未来的で、流麗なスタイルの外観と相まって、さながら宇宙船のようだ。

人目を惹くクルマなので、わたしはいつも気になっていた。

そうしてなんどか顔を合わすうち、わたしたちはどちらからともなく、短いながらも言葉をかわすようになっていった。

最初わたしは、きちんとした身なりのN君のことを失業中だと決めつけていた。会社の倒産を家族に告げることができずに、今までどおりに家を出て、夕方、笑顔で帰宅する。そんなかわいそうなヒトの記事を安手の週刊誌で読んだばかりだったせいだが、なんど会っても、N君からはそんな悲惨さは微塵も感じられなかった。ただ、わたしと同様に休みが平日、というだけのことだったのだ。家業の工場を手伝っているのだという。すっかり気心が知れるようになったころ、わたしはN君に、その誤解をあやまりながら打ち明けてみた。すると、かれのほうでもわたしのことを同様に思っていたのだと知らされて、わたしたちはゲラゲラと笑いあった。

大きな笑い声は、広い駐車場にえんえんと響いた。

腹がよじれそうだった…。

快晴。平日の午後、駐車場はいつものようにすいていた。

二上山山中の史跡について

その日、いつものように道の駅にクルマを乗り入れると、さきに来ていたN君が、待ちかねたとばかりに近づいてきた。目にちからがこもっている。

何事だろうか。

「ああ、すいません…。唐突なんですが、すぐそこの二上山登山口、ご存じですか」

「おう、わかるよ。この国道のすぐさき」

「勘弁してくださいよ、国道なんて味気ない言葉は。官道と言ってくださいよ。せめて竹内街道って」

いつものシャイなN君ではない。普段わたしたちは、当たり障りのないことしか話さなかった。天気のこと、コーヒーのこと、タバコのこと、そしてフェアレディZのこと…。会話は面白かった。

「今朝、すごく早くにここに来たもんで、あそこから二上山に登ってみたんですよ。清明な朝の空気に誘われたってところでしょうか。で、この山はすごい。二上山は」

いったいなにを言いたいんだろう。

「この山中には、史跡がいっぱい点在してるんですよ、石造の。ご存じでしたか。この山に入ったこと、おありですか」

「いや、山中にはいったことはないな。でも、すこしは知ってるよ。岩屋とか、ほかにも…」

「そうそう、それに鹿谷寺跡 (ろくたんじあと)」

わたしは二度、小さくうなずいた。

「どちらも奈良時代の仏教遺跡ですよね。見事でしたよ。それにしても鹿谷寺跡、ボクはあれをまぢかに見て、カラダが震えました。あの十三重の石塔。高さは5メートルでしたか。あれはよそで造った塔をあの険しい山中に持ち込んで、組み立てて設置した、そんなもんじゃないんです。それだって途方もないことだ。でもそうじゃなくて、まわりの凝灰岩の岩盤を掘り込んで、掘り下げていって、最後にあの石塔を残したんですよ!つまりあの塔は、足下の岩盤と同体ってわけです。これって人力のなせる業なんでしょうか。なにを想えば、そんなことができるんですかね」

「それは違うと思うよ。最初から石塔の建立だけを意図してたんじゃなくて、そこはもともとは石切り場だったはずなんだ。さんざん石を切り出し、運び出して、最後にのこった部分を石塔に加工したんじゃないかな」

「石切り場。そう、岩屋のすぐそばにも石切り場跡が残っていましたよ。高松塚の石棺はここから切り出されたんだって、プレートがありました。つまりこの二上山は、古墳文化仏教文化のあいだのミッシング・リンクってわけなんですよ」

なぜ、そうなるんだ。

「大阪と奈良の府県境には、山々が連なってますよね。北から、生駒山信貴山二上山葛城山金剛山…。この一連の山系には…」

山中でおかしなガスでも吸ったのかい、などとは言わなかった。

「ちょっとコーヒーブレイクにするか。歴史談義、興味深いよ。なにか買ってこよう」

売店にむかうわたしの背後で、N君の声がした。

「この山系で修験道がおこったこと、これは必然だったんですよ」

屯鶴峰駅を夢見て

わたしはN君にコーヒーを差し出した。N君はブラック一本やりだが、わたしは甘いのを好む。

さあ、Zの話でもしようじゃないか。もうすぐ新型がでる。プロトタイプを見たぞ。すごくいかしてる。

それにしても、いつもピカピカにしているZ32、きょうは埃まみれだ。どうしたんだろう。

N君はひとくち飲むと、言葉を続けた。今日はどうしてもこの山のことを話したいらしい。

「ここには、ひとつ気になることがあるんです。上ノ太子駅二上山駅のあいだに、むかし、もうひとつ駅があったってご存知でしたか」

「屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) だね。最近ウィキで知ったよ」

「ボクもおなじく…、です。それって正確にはどのあたりにあったんでしょうかね。ボクは屯鶴峯の駐車場のあたりじゃないかって思ってるんですよ。ちょうど線路のすぐ横ですしね。あそこに駅があって、にぎやかな家族連れがおおぜいおりてくる。そんなところを想像すると、なんかワクワクしてきませんか。それでみんなして白い岩の上に腰を下ろしてお弁当をひろげるんです。なんか楽しくありませんか」

わたしのほうから誘ってみた。

「いまから行ってみるか、屯鶴峯」

 

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ちょうど山の反対側になるとはいえ、20分ほどで二台のクルマは屯鶴峯の駐車場に着いた。

わたしたちはクルマからおりて、あたりを見まわした。ほかのクルマはなかった。道路をはさんだ向かい側に、ちいさなため池があった。

 

すでに日は暮れかけていた。

遠くから、はしる列車の音が近づいてきた。

突然、N君は駐車場の柵を飛び越え、線路のうえに立った。

笑っていた。

「おい、なんの真似だ!」

N君はわたしのほうに向きなおると、右手を腰に当て、左手を真横に伸ばすと、近づく列車のほうを指さした。

「思ったとおりだ。やっぱりここなんだ!」

おい!わたしは叫んだ。

迫りくる列車のライトが、一瞬N君の姿を照らし出す。そしてすぐさま、その強烈で、猛々しい白い光。激烈で、有無を言わせぬ強い光がわたしの視界を覆いつくした。

「みんなどうして気づかないんだ!いまもここが駅なんだ!無くなってなんてなかったんだ!列車はここにとまるんだ!」

しかし、列車はとまらなかった。

屯鶴峯。奈良県のインスタ映えスポット、次に来るのはここだ!

近鉄南大阪線上ノ太子駅と次の二上山駅のあいだは、わずか5キロあまり。その短い距離のあいだに、じつは戦前まで、もうひとつ駅があったとつい最近になって知って、たいへん驚いたものだ。どこにあったにせよ、それは山深いところにポツンと駅があったことになる。いまでは周辺のどこにも、その面影をみいだすことは難しい。

屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) は1937年 (昭和12年) 12月、屯鶴峯 (屯鶴峰とも) を訪れる行楽客の便を図るためにつくられた。しかし1945年 (昭和20年) 運用を停止。そして1974年 (昭和49年) 応神御陵前駅などとともに、正式に廃駅にいたったという…。

 

奇勝・屯鶴峯

太子町の観光みかん園を眺めながら、穴虫峠をクルマはのぼっていった。

大阪と奈良の府県境を越えて、今度はすぐにくだり坂になる。

ハイキング姿の四人連れが、屯鶴峯の入り口で楽しそうに記念写真を撮っていた。わたしと同年配の男女、夫婦だろうか。そして若い女性ふたり、かれらの娘だろう。

こんなウイルス騒ぎのさなかでも、(だからこそ) ここは根強い人気があるようだった。

雨上がりの曇り空。気温のあがりきらない今日のような日は、歩くには好都合といえる。

わたしはクルマをとめて、かれらのあとに続いた。

屯鶴峯は金剛生駒紀泉国定公園の一角を占める、奇岩群・奇勝地である。
二上山の火山活動 (最終活動期は1400万年前とも) により堆積、その後、隆起して露出し、長い年月の風化、浸食を経た白色の凝灰岩のみせる景観は、まさにまれにみるものだ。そして、これが鶴が屯 (たむろ) しているさまを想わせることが命名の由来だという。

わたしは首をかしげるばかりだった。

いくら目をこらしても、どこにも鶴はいない。

上半身をひねって眺めたり、天橋立よろしく股のあいだからみてみても、おなじだった   (上半身をもとに戻したとき、頭がくらくらした) 。いまもまだらに斜面に雪ののこる春の雪山にしかみえなくて、わたしはくすくすと笑いだした。

しかし、白色が目にあざやかなここの眺望景観がみごとに美しいことに異を唱えるかたは、おそらくおられないだろう。

二上山から切り出された石材は、高松塚古墳の石室をはじめ、おおくの古墳に使用された。
鶴が、石切り場から運んだわけではあるまいが…。

暗闇の中で

その夜、暗闇をみた。

あれは明かりを消した部屋の天井だったのか、タバコを吸うために外へ出たときに眺めた夜空だったろうか。それともわたしの瞼の裏だったのか。

赤茶色の、四両編成の近鉄電車が、左手からななめ上方にゆっくりと、音もなくのぼってきた。そしてぐるぐると、おなじところをまわりはじめた。ぐるぐると、いつまでも…。

自分の停まるべき駅がみつけられなくて、所在なさげに、いつまでも、いつまでも。

 

飛鳥戸神社と観音塚古墳に行ってきた。うかつにも子供のころの甘い思い出がよみがえってきた。

「近つ飛鳥博物館」「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」「飛鳥ワイン」「飛鳥橋」…。

遠方から大阪府太子町や隣接する羽曳が丘 (大阪府羽曳野市) のあたりにはじめて来たヒトのなかには、首をかしげるむきもおられるだろう。

ねえ、飛鳥って奈良じゃなかったかな、飛鳥ナンバーのクルマって奈良だよね、と。

飛鳥という地名自体は全国あちこちにあり、とりたてて特殊な名称ではない。

古事記は、その由来をつぎのように記述している。

いのちを狙われ、難波 (なにわ) から石上神宮に退避した履中天皇のもとへ向かう弟の水齒別命 (みずはわけのみこと・後の反正天皇) が、仮宮をたて最初に宿泊したあたりを近つ飛鳥 (難波から近いほうの飛鳥)、翌日やまと入りし、神宮にむかうまえに泊まったところ周辺を遠つ飛鳥 (現在の奈良県の明日香村) と呼ぶと。

そして、近つ飛鳥を飛鳥戸 (あすかべ) ともいい、近年では河内飛鳥ともいう。

ここは不思議なところだ。

あたりを見回してみる。

遠くの山並みを見ているときには、なんの違和感もない。しかしひとたび視点をちかくに移すと、駅舎、神社、コンビニ、古墳…、薄い膜をとおして風景を見ているような奇妙な気持になる。なにやら退行して母体にまい戻ったような、あるいは前世を見ているような。

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だからわたしは、なんども繰り返しこのあたりをよく散策する。

また、ちょっとした驚きに出会いたくて。

 

飛鳥戸神社に詣でて

羽曳野市に来た。

すぐむこうは太子町になる。

丘陵地のいたるところ、ビニールに覆われたブドウ畑でしめられている。

遠くに二上山のふたつの峰がはっきりと見えた。あの山を越えると奈良県になる。

わたしは近鉄上ノ太子駅前を通り過ぎ、すぐさきにある飛鳥戸神社 (あすかべじんじゃ) を目指していた。

もう、なんどめかの参拝になる。

駐車場のないことはわかっていたので、近くにクルマをとめて徒歩でむかった。

飛鳥戸神社は創建年は不詳。

元々は飛鳥戸造 (飛鳥戸氏) の祖神、百済の昆伎王 (こんきおう) を祀っていたとされている。延喜式神名帳では名神大社に列せられている格式高いお社だが、明治41年、近隣の壷井八幡宮に合祀された。そして昭和27年、分祀され、以前の社地近くの現在地に再建された。そのような経緯から、いまでは名神大社の格式と結びつかないほどこじんまりとしているが、そこからずいぶんと離れたところにある石造りの鳥居が、かつての広大な神域を偲ばせてくれる。

短い参拝道に咲く花が、わたしを出迎えてくれた。

石段のさきで、わたしと同年代の夫婦が、ほうきを持って落ち葉を掃いていた。

「こんにちは」

「ごくろうさまです。ようお参りで」

拝殿の奥に引き戸があり、本殿にすすむには、そこを通らなければならない。わたしはなぜかしら引き戸を開けるのがためらわれ、いつも拝殿で柏手を打って、そこを辞する。

本殿のまわりに、幾本かのちいさな木が植樹されていた。

数年前、夕刻にここの参拝をおえて背後から流造の本殿を見返したとき、ぎょっとしたものだ。

鎮守の杜のないむきだしのそれは、まるで墓標のように、卒塔婆のように見えた。

いつの日か、植えられた木々が大きく成長し、杜となって、その見事さにわたしは息をのむことになるのだろうか。

観音塚古墳

飛鳥戸神社をあとにして、わたしはすぐ近くにある観音塚古墳にむかった。

めったにない経験だった。ナビゲーションをたよりに進んで、道に迷うのは。

南河内グリーンロード (広域農道) を突っ切って、そのまま直進する。

すぐに左手にため池が見えてくる。

そこを左折しなければならない。

うかつにもまっすぐに行った場合、どんどん道が狭くなっていく。Uターンするにも決死の覚悟がいる。もしもあなたが、すこしくらいクルマのボディーに傷がついても、ぜんぜん気にしないぜ、というのであれば、いちど行かれてみるといい。

とにかく、そこで左折する。

ちいさいが、標識がたっている。

すると、コンクリート製の階段が見えてくる。

そこをのぼって行く。

そのさきに、観音塚古墳がある。

かなりののぼり勾配だ。

わたし (60歳目前、体脂肪多し) は、途中でいちど足を止めなければ登り切れなかった。

この観音塚古墳は発掘調査がおこなわれていないため、詳細はわからないまでも、7世紀に築かれた、円墳ないし方墳とされている。

ぽっかりとあいた古墳の穴。

わたしはそれを眺めるうちに、小学生時代に夢中になった無数の穴のことを思い出した。

「こっちへこいよ。いいものみせてやる」

小学校一年生、集団下校の途中で、級友が声をはずませて言った。

下校ルートを外れるのは悪いことだと思いながらも、好奇心には勝てなかった。

われわれ5,6にん。かれのあとに続いた。

「ほら、これ!」

目の前の、粘土質の切り立った斜面に多くの横穴が開いていた。30ばかりだったろうか。

級友はハナの穴をひろげて続けた。

「これ、原始人のイエなんだ。ここでマンモスとか、食べてたんだよ。骨がでてきたって、お兄ちゃんが言ってた」

それからは、いつも下校時にはその穴に寄り道をしたものだ。

めいめいが、ここはボクの穴と勝手に決めて、そこにお気に入りのおもちゃを隠したり、駄菓子を持ち寄って食べたりした。

しかしクラス替えがおこなわれて、二年もすると、次第に横穴へは行かなくなった。

四年生になっていた。

わたしは例の級友に、横穴のことをもちだしてみた。

かれの返事は、意外だった。

「違うんたよ。あれは防空壕だったんだ。まえの戦争のときのね」

あれから半世紀たった。

近鉄生駒駅のすぐそば、あのあたりにも何度か再開発の波が来たことだろう。もう、残ってはおるまい。もっとも、ほんとうに原始人のイエや、防空壕であったとしたら別だが。

いま、この観音塚古墳の穴を、これは自分の穴だとひとり宣言したところで、もうあの頃にはもどれない…。