午後、生駒神社で見えたもの。絶頂の焔(ほのお)、秋祭り、甘南備、既視感、その他…。

休日の午後、ぽっかりと時間があいた。

スーパーの買い出しからもどってきたのが正午過ぎ、歯医者の予約は夕方の6時だった。歯医者にはもう1年も通っているが、まだまだ終わりそうにない。

すべては、このウイルス騒ぎのせいだ。

前歯が抜けた。これまでなら、見苦しいのですぐに治療をしたものだ。でも、急ぐことはないさ、マスクが隠してくれる。

やばい、寝過ごした。歯磨きなんてはぶいて、すぐに着替えて家を飛び出せ。口臭なんて気にするな。マスクをしてるじゃないか。ばれないさ。

そうして気づいたときには、あちらの歯もこちらの歯も抜けてしまい、いよいよものも噛めなくなって、すっかりしょげかえり、もうどうしようもなくなって、泣く泣く歯医者の門をたたいた。

そんなわけで、夕方には歯医者にいかなければならなかった。

これがなければ、はんにちの自由を手にしていたのだ。

しかし5時間少々で、一体何ができるだろう。

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春の生駒神社へ

生駒神社(往馬大社、往馬坐伊古麻都比古神社)は奈良県の西部、生駒市にある。

もとより生駒山(標高642メートル)を御神体としてあがめていたはずだが、その山は、山頂付近にテレビ局の電波塔等が立ち並び、いまは、甘南備の面影をとどめていない。

創建当時の御祭神は伊古麻都比古、伊古麻都比賣の二神。その後、武家の興隆にともなって八幡神五神を春日造の本殿に合祀し、現在に至っている。

鎮守の杜は奈良県の天然記念物に指定されている。

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自宅から生駒神社まで30分あまり。これほど近いというのに、生まれ故郷の生駒の地に、ここを離れて以来、いちども行くことがなかった。

生駒神社は火祭りで名高い。

火は木のくぼみにやはり木の棒をこすりつけておこすことから、男女の和合の暗喩として説明されることが多い。当社の祭りがどうなのか、わたしは寡聞にして知らない。わたしの知る生駒の火祭りは、にぎやかに露店の並んだ、子供のころのわくわくした思い出でしかない。

ひさしぶりに訪れたお社は、ひろい駐車場が整備されていた。まだきれいな舗装の状態からみて、それほど以前のことではないのだろう。大型バスのスペースもあるが、この細い道を通ってくるのは大変だろう。

それ以外、変わるところはなかった。

鎮守の杜で見たもの

長い石段をのぼり、参拝をおえると、わたしは右手に回り、鎮守の杜をくだっていった。

木漏れ日が降り注ぐ。

わたしは立ち止った。

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これは以前に見たことがあるぞ。

子供のころだろうか。いや、違う。あのときは小遣いの硬貨を握りしめ、露店を巡ったにすぎない。ここにまで踏み入ることはなかったはずだ。ではいったい…。

わたしはあたりを見まわした。

ああ、これは春日大社だよ。

大社のまわりにひろがる春日山原始林。大きさこそ違えど、あそこの風景にうりふたつなんだ。ここが春日造だからでもあるまいが。

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わたしは家路についた。

国道168号線をクルマではしった。散り始めた桜並木の向こうに竜田川がながれている。こころが休まる、穏やかなながめだった。

いつか遠い将来、川沿いの穏やかな風景に出会ったとき、これはむかし見た竜田川の眺めにそっくりだと思うのだろうか。

わたしはじぶんのこころが揺らぐのを感じた。

今見ているこの眺めは、ほんとうに今のものなのだろうか。

いましがた見た、鎮守の杜はどうだ。

ほんとうに春日山原始林に似ていたのか。そもそも、春日山のことなど、わたしははっきりと覚えているのか…。

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竜田大橋を過ぎるころ、カンカンとけたたましい音を立てて、消防車が何台もわたしの横を通り過ぎて行った。クルマのなかに、焦げ臭いにおいが流れ込んできた。

どこかで火の手があがったのだろう。