大和三山のひとつ畝傍山ときいて、人々はなにを思い浮かべるのだろうか。
万葉集に収められた優美なうたのかずかず。あるいは近代にはいって山麓に整備された神武天皇陵や橿原神宮だろうか。
また、わたしのように真っ先に畝火山口神社の名をあげるかたも大勢おられることだろう。
~目次~
御祭神

祭神は気長足姫命、豊受比賣命、表筒男命である。
宝永年間(1704年~1711年)成立と目されている住𠮷松葉大記では、同神ながらもそれぞれ神功皇后、伊勢(大神)、住𠮷(大神)と表記されている。
当社名が畝火明神、畝火山神功社、などと時代とともに変遷していったように、祭神の呼ばれようも変わっていったものだろう。
延喜式神名帳には一座と記されていることから、創建当初は他の山口神社と同様、現在では境内摂社にまつられている大山祇命のみを奉斎していた、とするのが王権側の認識であったことは間違いないが、当初より住𠮷大神をまつっていたものが、律令制が整備されていくにともなって、あとから大山祇命をお迎えした、と考えることもできるだろう(c)。

飛鳥誌(佐藤小吉 昭和19年)では、里人がここを住𠮷神と呼んでいるとしている。これは埴土神事(後述)の影響によるものだろう。
二度の御遷座
二度目の御遷座


畝火山口神社は二度、遷座を行っている。
そのうちの畝傍山山頂から現社地への二度目のそれは、まだ記憶に新しいところだ。
畝傍山山麓には幕末に神武天皇陵が、また明治23年(1980年)には橿原神宮がそれぞれ整備され、国と奈良県は畝傍山と周辺の神苑化をすすめていく。こうして皇国史観が時勢となるなかで、神武陵や神宮を「見下ろす」位置にあることを問題にする声を受けての下山遷座となった。
最初の御遷座

畝火山口神社のもともとの創建の地は、現社地より西に数百メートルのところであった。現在更地となったそこには、それをしめす記念碑がたてられている。中世にそこから畝傍山山頂へと遷座し、昭和15年(1940年)、現社地へとふたたびの遷座となった。
境内に掲げられた由緒書によると、文安3年(1446年)成立の「五郡神社誌」には畝傍山の西麓に鎮座するとされていて、また天正3年(1575年)の「畝傍山古図」では山頂にあるよう描かれていることから、その間に、畝傍山の南、貝吹山に築城した越智氏が真北に神社を見下ろすことを恐れて、山頂への遷座を願い出たのだとされている。
この経緯に対する疑問の声をわたしは未だ聞くことがないので、僭越は承知のうえで、以下に卑見を述べてみたいと思う。

当時の国人、武人たるものの行動規範は、およそ神仏を見下ろすことを畏れ多いと感じるようなナイーブな心情をもとにしたものではなかったと断言してよい。自らの権勢を大きくするためには、相手が寺社といえども容赦はなかった。さらに時代は降るが、神功皇后の関連でいえば坐摩神社が現社地(大阪市中央区)に移ったことはよく知られているし、そもそも貝吹山城自体、越智氏は山頂にある牛頭天王の塚と地元で伝わる円丘(円墳あるいは経塚だろう)のうえに築城しているのだ(詳細は未調査のため不明だが、円丘のうえにたとえば櫓などを設けたと考えてよいだろう)。
もしも口碑(言い伝え)が伝えるように遷座が越智氏の意を受けてのものだったとするならば、それはもっぱら戦略上の理由によるものだったと考えてみてはどうか。
畝傍山はその北側で南北にのびる中街道と東西にはしる伊勢街道、初瀬街道が交差する交通の要衝に位置しており、山頂からは眼下にそこでの動きをいち早く知ることができた。そしてそれこそが北に勢力を伸ばしつつあった当時の越智氏が知りたかったことであったはずだ。
事情のわからぬ里人たちは口々に言い合ったことだろう。
「越智様かて、慈明寺山を恐れおおいて思うてはるんや」
「神功はんはえらいもんやで」
「住𠮷っさんはたいしたもんや」
そしてその時期は畝傍山周辺の忌部庄、箸喰庄が越智氏方に押領された明応年間(1492年~1501年)とみるのが妥当ではないか(e)(f)。
特殊神事
埴土神事

埴土神事(埴使い神事)とは、住吉大社(大阪市住吉区)の神事に供する土器の原料となる土(埴土)を畝傍山山頂において採取する神事。
神話伝承においては、神功皇后の御代に起源を求めることができる。
天平3年(731年)の奥書きを記す住吉大社神代記には、住𠮷大神が神功皇后に以下のように神託したとされている。
現代語私訳での引用をご勘弁いただきたい。
『天香山の埴土をもって天平瓮をつくり、我を奉斎せよ。そうすればこの国をかたむけるようなはかりごとが起きたとしても、敵は必ずや平服するであろう』
ながらく秘中の書とされ、宝庫ではなく神殿に納められていた(諸神事次第記)ことからも、この書が御神体と同様に崇められていたことが想像される。
この本は裏表紙も貴重で、昭和10年、畝火山口神社の大谷宮司が埴土神事(住吉大社の祭事でつかう土器の原料となる埴土を畝傍山山頂より採取する神事)にのぞまれている様子が全面に掲載されている。#畝火山口神社 #住吉大社 pic.twitter.com/gMbo4hcYFE
— 松野文彦 (@ma2no_z32) 2024年12月1日

水取り神事


国道169号線を西にすすむ。近鉄・越部駅を左手に見やると、すぐに細い路地が南に延びている。徒歩なのはなによりだった。クルマでなら見過ごしていただろう。
路地を行き、近鉄吉野線の線路を渡る。
踏切さえない線路を横切るのは妙な気がした。
正面一面に枝をひろげるのはケヤキの巨樹。通称、土田のケヤキ。神武天皇、あるいは神功皇后お手植えとの伝承をもつ。


その横にある稲荷社が住𠮷稲荷社であるのは、畝火山口神社と住𠮷大神の縁ゆえだろう。

ここ、土田のケヤキの樹下、吉野川において水取り神事が執り行われる。
水そして土…。このいのちの根源とも思われるふたつを丁寧におまつりする畝火山口神社。その境内に立つと、そこにあるのは大山祇命でななく、神功皇后そして住𠮷大神でもない、もっとふるくからの祈り、畝傍山を仰ぎ見て捧げられたであろう始源の祈りの息づかいかと思われるものをわたしはいつも感じる。
境内を進むうちに、はるか古層からたちあがってくる祈りが迫ってくる。
境内案内






畝火山口神社といえば、第一に安産、子宝を授かることの御利益をもとめて遠方からも参拝者が訪れる。神功皇后の御神徳によるものだろう。陰陽石をなで、一心に祈るひとが後を絶たない。
畝傍山は生、あるいは性への希求が充溢しているようにわたしには思えてならない。
丸山宮祉を抱く旧 洞村(大正時代に廃村)の洞の清水しかり、八井神社(八幡神社)の陽物石像しかり、御陰井(みほとい・下掲の八井神社のブログ参照)しかりで興味は尽きない。


一時期の世界的なウイルス禍をうけて、先年、手水舎は他の神社仏閣がそうなったようにセンサー感知式となった。

すっかりお身ぬぐいもすまされていた。以前は苔むしていて、それが古社の趣きと言おうか、厳粛な雰囲気言おうか、たちまち目を奪われるような魅力があって、わたしは大好きだった。威厳の奥に親しみをかくしているようで、ながくあしを止めてよく話しかけたものだ。こちらの話しかけるどんな戯言、尽きない愚痴をも受けとめてくれそうな寛容さが感じられた。
たまらなく好きだった。
『顔色悪いけど大丈夫?』#畝火山口神社 の手水舎。#畝傍山 #橿原市 pic.twitter.com/jy6NsfDQrq
— 松野文彦 (@ma2no_z32) 2024年3月17日



御神馬の腹に揚羽蝶の神紋が見える。
えっ、これ蝶なの?
そうだよ
ずいぶんと以前、もう何年もまえだけどこんなことを言ってたひとがいたよ
どんな?
一目瞭然、これは三枚の帆を図案化したものだよ。帆船だね。素晴らしいデザインだ。大海原へのリスペクトが伝わってくるね。三座の御祭神を表現しているんだ
ほう
こうも言ってたかなあ。あるいは住𠮷三神、つまりツツノオ三神をあらわしているのかもしれないね。航海の神様だからさ
ああ
素晴らしいデザインだねえ! リスペクトが伝わってくるねえ!
勘弁してください



畝火山口神社は美しい。
春には春の、冬には冬のと季節によってことなった表情をみせて、ここを訪れるひとを魅了する。
そして一等美しいのは、なんと言っても秋だろうか。

モミジがいっせいに、赤く染まった葉を境内一面に落とすと、そこはまるで鳥居から拝殿へと人々をいざなうように敷き詰められた深紅の織物の様相となる。
そこにはちょうどベンチも置かれていて、この光景をのんびり眺めていることもできる。
おわりに

わたしはひさびさの参拝を終えて、緩やかな下りの境内を進んで行った。朱色の鳥居が目前にせまると、背後で不意に葉のすれる音、細い枝のしなる音が聞こえてきた。
風だ…。
わたしの足取りは、小躍りせんばかりに軽やかになった。
周囲に人影のないことは幸いだった。この姿を見られたなら、きっと不審がられていたことだろう。

幾百、幾千もの神蝶がからだを寄せ合い、群れとなって、龍のごときにらせん状に畝傍山を取り巻いている。その羽の躍動がこの風を起こしているのだとしたら……。
わたしはそんなことを想像しては有頂天になっていた。
参考文献・参考資料
(a)住𠮷松葉大記 皇學館大学出版部 昭和59年7月
編輯/土師 惟朝 復刻監修/真弓 常忠
(b)飛鳥誌 天理時報社 昭和19年5月
編著/佐藤 小吉
(c)天香山と畝火山 学生社 昭和46年7月
著/真弓 常忠
(d)住吉大社神代記の研究 国書刊行会 昭和60年12月
著/田中 卓
(e)忌部山遺跡 発掘調査報告書 奈良県都市計画地方審議会 昭和52年8月
編著代表/網干 善教
(f)大和志料(下) 歴史図書社 昭和45年12月
編纂/奈良県・斎藤 美澄