変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ―

玉手山遊園地…。なんと懐かしい響きだろう。

1,908年 (明治41年) に西日本初の遊園地として開園され、昭和30年代の最盛期には、年間数万人の来園者をかぞえ大変な賑わいをみせていたこの遊園地も、しかし、その後は少子化などの影響から徐々に来園者数が減少し、1998年 (平成10年) 5月、ついには惜しまれながらの閉園に至った。

現在、その跡地は柏原市立玉手山公園・ふれあいパークと装いを新たにし、多くの市民に親しまれている。

玉手山公園の魅力とは

玉手山公園 (玉手山遊園地) の魅力のひとつに、その立地をあげてもいいだろう。

北を流れる大和川と西の石川との合流地点から南にひろがる狭い玉手山丘陵には、多くの古墳が点在し、玉手山古墳群をなしている。

玉手山古墳群の範囲については様々な提言があるが、それを玉手山公園周辺の範囲だけに限って考えるならば、玉手山1号墳 (小松山古墳) から玉手山10号墳 (北玉山古墳) まで、いずれも10基の古墳時代前期の前方後円墳で構成されていることになる。

その約半数がすでに破却されてしまっているとはいえ、玉手山遊園地について語るとき、昭和レトロな遊具や梅林とならんで「ああ、あの古墳の!」と目を輝かせる年配者がいるのもうなずけるだろう。

玉手山公園の来園について

アクセス

近鉄大阪線河内国分駅、同じく道明寺線道明寺駅のどちらからも1.2キロ、徒歩で約20分の道のりになる。
柏原市では公共交通機関の利用を推奨している。

しかし、それは少々骨が折れると思われたので、わたしはクルマでむかった。

駐車場

カーナビゲーションをセットすると、駐車場のある南入口まで導いてくれた。

警備員が2名いた。

尋ねてみれば、常駐ではなく、今日が祝日だからだという。

見れば、ほぼクルマで埋め尽くされていたが、わたしは辛うじてとめることができた。

これは予想に反して嬉しいことだった。

すっかり寂れてしまっていて、人影もまばらであったら、暗い気持ちになっていただろう。

公園と聞いて賑わいや楽しさを期待するのは、なにも子供に限ったことではない。

 

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ここが満車の場合は、少し離れた第二駐車場を案内するという。

入園料・休園日

駐車場、入園料ともに無料。

開園時間は午前9時~午後5時。

休園日は年末年始と毎週水曜日。

ただし水曜日が祝日の場合は開園し、翌木曜日が休みとなるほか、梅と桜が見頃となる2月初旬から4月下旬までは水曜日も開園される。

園内案内

園内を登って行く。
かなりののぼり勾配だ。

不意にあがった子供たちの歓声に振り向いた。

子供たちがそりに乗って斜面を滑り降りている。

わたしもやってみたくなって、おりていった。

しかし小学生までの利用で、大人はダメだという。

なぜだろう。

なぜ年齢制限なんだろうか。

体重制限ならともかく…。

恥ずかしさのあまり照れ笑いを浮かべながら引き返して、さらに園内を登っていく。

そして最近では、休日に出かけるたびに、いつもおなじめにあう。

膝が笑って動けなくなった…。

息も絶え絶えになって、その場にうずくまった…。

手すりの有難さが身に染みた…。

このときも、まさにそのとおりだった。

ここを訪れたという小林一茶の句碑があった。

玉手山丘陵は、大坂夏の陣のなかでも主要な戦闘にあげられる小松山の戦い (国分・道明寺の戦い) が繰り広げられたところだ。

要衝、小松山の争奪をめぐって伊達政宗隊、本田忠政隊、松平忠明隊、水野勝成隊の徳川方2万3千の兵を、後藤又兵衛基次が2千8百の軍勢を引き連れて迎え撃った。

数で圧倒する徳川方のまえに後藤隊は壊滅。

基次は手傷を負ったのち自害した。

歴史の丘には『後藤又兵衛基次之碑』が建てられている。

となりには後藤又兵衛しだれ桜。

春には美しい花を咲かせる。

さらにそばには、柏原市長 (建立当時) の揮毫による、自害した基次を介錯したと伝えられている吉村武右衛門の碑。

歴史の丘の一番高いところには、豊臣方、徳川方双方の戦死者を弔う両軍戦死者供養塔が建つ。

これは安福寺の珂憶上人によるもの。

そしてこの場所は、玉手山7号墳のちょうど後円部にあたる。

前方部は公園に隣接する安福寺の境内となり、そこには尾張藩二代藩主・徳川光友公の墓所がもうけられている。

供養塔の先に出て北西方向を眺めると、大和川の向こうに標高わずか65メートルの高井田山が見えた。

 

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日が暮れかけてきた。

先を急ごう。

蛍の光

野外劇場なるものが見えてきた。

遊園地時代、賑やかだった頃にここで行われていたのは着ぐるみを着たヒーローショーだったろうか。あるいはもっと別の、手に汗握るなにかだったのだろうか。

しかしいまは、人っ子一人いない。

不意にいたずら心が頭をもたげてきた。

わたしはステージにたつ。

なんと滑稽な思い付きだろう。

その隣には『昆虫館・貝 化石館』『おもちゃ館・歴史館』がある。

さらに先に、音楽堂があった。
これは遊園地開園当時に建てられたという貴重なもの。
ここで楽団の奏でる音楽が、園内中に鳴り響いたのだろう。
当時の演奏リストがどうだったのか、わたしには知る由もないが、5時の閉園時間が迫っているいまなら、さしずめ蛍の光だろう。

公園の出入り口付近にでた。
楽しそうな遊具がたくさんあった。

こちらのほうは大人でも利用できるのでしょうか、などと尋ねる度胸は、わたしにあるはずもなかった。




【高井田横穴公園】古墳を頂く史跡公園の魅力を解説。駐車場、アクセス情報も

大阪府柏原市にある高井田横穴公園は、6世紀中ごろから7世紀前半にかけて築造された高井田横穴群を史跡公園として整備し、平成4年 (1992年) 5月に開園された。

現在までに確認されている横穴は162基。

そのうちの27基から線刻壁画が発見されている。

しかし、この公園のもうひとつのハイライトは、園内のもっとも標高の高いところにある。

~目次~

 

高井田山古墳 

標高わずか65メートルの高井田山の山頂には、斜面に掘られた横穴群に先行すること約1世紀、5世紀後半の築造と考えられる高井田山古墳がある。

直径約22メートルの円墳。ただし小さな前方部が接続されている可能性を指摘する声もある。

現在では墳丘部は取り払われ、石室は透明のアクリル板で覆われており、外から石室内部を見ることが可能となっている。

石室から出土した数々の副葬品は史跡公園に隣接する柏原市立歴史資料館 (後述) で保管、展示されており、現在、石室内にはそのレプリカが置かれている。

副葬品のなかでも、もっとも目を引くものとして、古代のアイロン、火熨斗(ひのし) があげられる。

火熨斗は小型のフライパンのような形状で、椀の部分に熱した炭をいれ、底を衣類に押し当ててしわを伸ばすように使用されたもの。国内での出土例はわずか数例で、高井田山古墳から出土したものと類似の火熨斗が、武寧王陵から発見されている。

武寧王陵■
大韓民国広州市にある宗山里古墳群にある古墳。1971年、そのなかのひとつから墓誌が出土し、そこが武寧王とその妃の陵であると特定された。日本書紀によれば百済第25代の王、武寧王 (462年~523年) は筑紫の各羅嶋 (かからのしま・加唐島) で生まれ、百済に送り返されたとされている。
石室内のふたりの棺が、日本にしか自生していない常緑樹、高野槙 (こうやまき) でできていたことも話題となった。 

これも資料館に展示されている。

この高井田山古墳は、石室の造りや出土品が百済との関連を思わせることから、その被葬者には、昆伎王 (こんきおう) と同妃がしばしば擬せられる。

 

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■昆伎王■
昆伎王 (?~477年)は百済の王族。日本書紀によると雄略天皇5年 (461年) に日本に遣わされたとされている。朝鮮の正史『三国史記』によると武寧王の祖父にあたる。
古代の飛鳥戸郡 (安宿部郡・あすかべのこおり) に勢力を持っていた渡来系氏族、飛鳥戸氏の祖とされており、かつては飛鳥戸神社 (大阪府羽曳野市) にその御魂がまつられていたとも (現在の祭神は素戔嗚尊) 考えられている。 
なお、昆伎王と称されているが、正式に百済の王位に就いたことはない。

高井田横穴群

6世紀中ごろから築造の始まった、現在までに162基が確認されている高井田横穴群は、東から順に第1支群から第4支群へと、大きく四つの支群に分けることができる。

第1支群は、わたしは未見ではあるが、比較的大きな横穴が多いとされている。ここは史跡公園の外、府立学校の敷地内にあり、通常は見ることができない。

第2支群は高井田横穴群のなかで、最も早くから築造が始まったと考えられている。

第3支群には『船に乗る人物』と題された線刻壁画をもつ、有名な第3支群5号横穴がある。

 

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公園内の一番西に位置する横穴群は、第4支群と称されている。

ここ柏原市には、ほかにも太平寺横穴群、安福寺横穴群、玉手山東横穴群がある。最近になってアゼクラ遺跡 (大阪府枚方市) が発見されるまでは、大阪府内で横穴群のあるのは柏原市が唯一だった。

とはいえ、柏原市のすぐ東、金剛・生駒山地をこえて奈良県に入れば、多くの横穴群が存在している。

駐車場、アクセス情報

ここを訪れるには、断然、公共交通機関がおすすめだ。

公園の目の前にJR高井田駅があり、これを利用しない手はない。

ほかに、近鉄河内国分駅で下車するという選択もある。

この場合は、公園入口までは約800メートル、途中の信号を考慮すれば、徒歩で10分はみておきたい。

そしてクルマでとなると、公園自体には駐車場が未整備なので、隣接する柏原市立歴史資料館の駐車場を利用することになる。
しかし台数にかぎりがあり (7台分) 休館日には利用できない。

その場合には高井田駅、河内国分駅のちかくにある民間の駐車場にとめることになる。

公園周辺はすぐそばまで民家がたてこんでいる。

路上駐車などは厳につつしみたい。

柏原市立歴史資料館

平成4年 (1992年) 5月の高井田横穴公園の開園から遅れること半年、同年11月に柏原市立歴史資料館はオープンした。

高井田山古墳や高井田横穴群から出土した副葬品などを、保管、展示するのみならず、期間をもうけて様々な企画展なども随時ひらかれている。

休館日は年末年始と毎週月曜日。

入館料無料。

園内散策

それにしても、この公園の緑の濃密さはどうだろう。
なんと美しいことか。

園内には、いくつも東屋が設けられている。

気ままなひとりでの散策にも、家族連れの行楽にも向いている。

なにだろうか。

道になにかの実がいっぱい落ちている。

近づいてみた。

園内のあちこちに、出土品のレプリカがさりげなく置かれている。

また、線刻壁画をもつ横穴群の全国分布図や、横穴墓内の玄室の様子を再現した模型なども設置されており、散策のうちに、自然と横穴群や古墳時代について学習できるよう配慮されてもいる。

 

全国的に見ても、線刻壁画のある横穴墓ってめずらしいんだよね。

そうなるね。
ここ柏原以外では、熊本に多くあるんだ。古代の熊本の石工たちが東進してきて高井田横穴群を築造したって説を唱えるヒトもいるくらいなんだ。

 

ふーん。
ところで、もう歴史資料館にもどろうよ。駐車場に向かって北進開始!

ちょっと待って。
竹林広場にも行ってみたい。

さっき通ったよ。
第二支群に行くとき。

そうだったかな。
でも、きみが言うんならきっとそうだ。そうだよ、もどろう。

わたしは歴史資料館のほうへ顔を上げた。

そこに続くコンクリート製の階段が見えた。

おわりに

階段のわきに、小さな石碑があるのが目に入った。

近寄ってしゃがんで見てみる。

すでに肉眼では読み取りづらくなっているが、柏原市教育委員会 編集・発行の「国史高井田横穴」によると、正面には『李王並同妃両殿下台覧横穴』そして背面には『昭和十六年四月十八日建之』と刻されていると説明されている。

これは1926年 (大正15年) に王位を継いだ最後の李王 (すでに韓国皇帝ではない。韓国併合は1910年) 昌徳宮 李垠 (李王垠) 殿下と李方子 (梨本宮方子女王) 妃殿下のことにほかならないだろう。

李垠殿下は日本陸軍所属。

1940年 (昭和15年) には大阪へ赴任。陸軍中将となっている。

おそらくこの頃に、お出ましの機会を得たのだろう。

 

 

【高井田横穴群】横穴墓を築造したのはどのような集団だったのか。彼らの死生観とは。

高井田横穴群の存在をはじめて知ったときの、あの高揚した気持ちを、言葉で表現することはむずかしい。

高井田山は標高わずか65メートル。その丘と呼びたくなるような小さな山に、6世紀中ごろから掘られ始めた横穴墓が、いまもたくさん残っているという。

わたしは魅せられて、これまで何度足を運んだことだろう。

そして秋晴れのなか、いままたそこに向かっていた。

ランカシャーブラックバーンに4000の穴があいていると歌ったのはビートルズだ。

わたしは久方ぶりに、大阪府柏原市高井田で160余の横穴と対峙した。

~目次~

史跡 高井田横穴公園へ

大和川にかかる国豊橋を北に進もうとするころ、顔をあげると、ちょうど高さのそろった四軒の民家の屋根のうえあたりに『史跡 高井田横穴公園』という看板が見えてくる。

高井田横穴公園は高井田横穴群 (高井田横穴墓群) を史跡公園として整備し、平成四年 (1992年) に開園したもの。

 公園の外周道路に面したところには、石室内部の線刻壁画や土器などの副葬品を模したものを刻んだ陶板が飾られている。

わたしはそれらを眺めながら、ゆっくりとクルマをはしらせた。

高井田横穴群

概要

高井田横穴群は、高井田山に残る、かつての二上山の噴火によって形成された (異説あり) 凝灰岩層に掘られた横穴墓。

二上山
大阪と奈良の府県境にある、雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の2つの峰をもつ双耳峰。

築造時期は6世紀中ごろから7世紀前半にかけてであり、現在までに確認されている横穴の数は162基。しかし未調査部分を含めるとゆうに200を超えると考えられている。

そして、そのうちの27基の横穴から線刻壁画が見つかっている。

しかし、すでに確認されている横穴には多くの壁画が見られているものの、新たに見つかった横穴からは発見例がすくないなど、そのすべてを横穴築造当時のものと考えることには慎重であらねばならない。

前の戦争時には、いくつかの横穴は防空壕として利用されていた、との地元住民の証言もある。 

そのようななかでも、1917年 (大正6年) 道路工事の際に見つかった第3支群5号横穴の『船に乗る人物』と題された線刻壁画は、発見時の状況や、人物埴輪の容姿との共通性を感じさせる船上の人物の服装ともあいまって、これは築造当時のものであると見做されている。

現在、その横穴の前には、二枚の線刻壁画のレプリカがたてられている。

 

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高井田横穴群のすぐ北側には、総数2000基とも目されている平尾山古墳群が迫っている。

その築造時期も、おおむね高井田横穴群と重なることから、高井田横穴群を平尾山古墳群の支群のひとつと考えることもできる。

しかし、目覚ましい違いは平尾山古墳群の大半が直径10メートル程度の円墳であるのに対して、高井田横穴群は横穴墓であることだろう。

横穴墓を築造したのは誰か

ここに眠るのは渡来系の人々だと考えられていた時期もあった。

横穴群よりも先行すること約1世紀、高井田山の頂につくられた円墳・高井田山古墳の被葬者が、石室のつくりや副葬品などから渡来系、なかでも百済系だと考えられていることと関連づけられたことも一因だが、現在では、その考えはほぼ否定されている。

かわりに強く支持されるにいたった仮説は、九州の石工集団の移住という考えだ。

阿蘇溶結凝灰岩のなかでもピンク色に発色したものは、とくに阿蘇ピンク石と呼ばれている。

5世紀末ごろから、6世紀前半にかけて、それは畿内の古墳の石棺に用いられるようになるのだが、(九州の古墳からの発見例はひとつもない。ヤマト王権が独占していたか) それ以降は高松塚古墳の石室をはじめ、二上山の凝灰岩が使われることが多くなっていく。

いまも二上山の山中には、石切り場の跡が残る。

 

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彼らなのだろうか。

九州各地に横穴墓を残した (なかでも熊本県人吉市の大村横穴群はとくに有名) 石工たちが、東進してきたのだろうか。

線刻壁画に見る死生観

ここに眠る人々、高井田の横穴墓を築造した人々の死生観を探ることは容易ではない。

横穴墓という墓制と、そこに刻まれた数々の線刻壁画から想像する以外に、現時点では手だてがない。

現代を生きるわたしたちは、生と死を別のもの、対立するものと捉えがちだが、彼らは、おそらく両者を連続するもの、違った表情をしたに過ぎない同一のものと考えていたのではないか。

わたしには、そんな気がしてならない。

『船に乗る人物』や『騎馬人物』などの線刻壁画は、だからこそ死者たちが、この先もいままでどおり自由に動き回れるようにと願いながら、刻まれたのではないか。

「みなさん、お手元の明かりをどうか消してみてください」

そこにいた参加者たちは、次々にスマートフォンの明かりを消した。

普段は金属製の扉で閉じられている横穴墓も、年に2回、特別公開日を設けている。

そのとき、横穴のなかには10名程度の人間がいた。

内部は成人がゆうに立ち上がれるほどの高さが確保されていることに驚いたり、排水用の細い溝が掘られていることに感心したりしながら、わたしは、この公開日をとらえて参加できたことを喜んでいた。

 

「いかがですか、真っ暗でしょう」

わたしは振り返った。

羨道とそれに続く墓道の先には光が見える。しかしそれは玄室内部にとどくことがない。

引率の解説員の男性が言葉を続けた。もっとも、その表情はまったく見えない。

「こんな中で、線刻壁画は刻まれたんですよ。火をつかった? いい質問ですね。しかしどの横穴からも、すすの類は検出されないんです」

稚拙な絵のタッチも、それで合点がいく。

闇黒のなか、死者のすぐそばで線刻壁画を刻むものが、かつてこの場にいた…。

わたしは戦慄を覚えた。

祭りのあと

見学を終えて、ポストカードやボールペンなどの記念品を受け取ると、参加者たちはみな、散り散りに帰って行った。
わたしはなぜかその場を去りがたく、また、公園内をぶらぶらと歩きだした。
見学コースから外れた壁画のない横穴は、普段通りに扉が閉じられていて、今日、あえてそこを見てみようとする者もいないようだった。

静まり返っていた。祭りのあとのように…。

それにしても、わたしは子供のころから横穴が大好きだった。

近鉄生駒駅のちかくにあった横穴、よくそのなかに入ったものだった。

母体回帰というか、むき出しの感覚というか、妙に気持ちが落ち着いて、わくわくした挙句に、そのまま眠ってしまうことさえあった。

あれは何だったのだろうか。

高井田同様の横穴墓だったのだろうか。戦争時の防空壕だったのだろうか。

ずっと後年になって、わたしはそこを訪れようとした。

しかし駅前は再開発の波にのまれてすっかり変貌し、場所さえもわからなくなっていた。

もう、とうになくなっているのだろう。

 

寝ちゃえば?

えっ?

 

寝ちゃえばいいのよ。半世紀ぶりに。

無理だよ。扉が閉まってる。

 

どうして無理って言い切れるの?
扉に手をかけさえしないうちに。

もう、子供じゃないんだよ。

寝ちゃえ! 寝ちゃえ!

わたしは歩み出て、黒い鉄製の扉に手をかけた。

ひんやりとした感覚が伝わってきた。

線刻壁画をめぐる5つの断章

騎馬人物 (第2支群3号墳)

男は馬に揺られ続けたせいで、尻に痛みを感じていた。
長い旅だ。

「どこまで行くつもりだって、馬に訊いてみたいさ。でも、どう言えばいいのかさっぱりわからないな」

手足をひろげた人物 (第2支群10号墳)

気持ちがいいと、手足をひろげてみたくなるもんだ。

今日は気持ちがよかったな。

きのうもそうだった。

その前もな。

明日も気持ちがいいのだろうか。

その次の日はどうだ。

鳥 (第2支群3号墳)

鳥になれぬものか。

凛とした姿で空を行く、みなの憧れる鳥に。

片手をあげる人物 (第3支群5号墳)

高く高くと手を上げて、どれほどの高みにある、何を手にしようとしているのだ。

船に乗る人物 (第3支群5号墳)

舟が川面を進んで行く。

何処へ行くともわからぬまま、どんどんと遠ざかり、小さな点となって、やがては白く光る水平線ににじんだ。

 

 

後記

古い時代には、古(いにしえ)人の墳という意味で古墳という言葉が用いられていたこともあった。しかし現代では墳丘のある墓を指す言葉として定着している。よってここも高井田横穴古墳ではなく、史跡指定名称は高井田横穴であり、高井田横穴群、高井田横穴墓群などと称されている。

しかしこのブログでは、読者の利便性を考慮し、カテゴリー欄を古墳と記し、また古墳とタグをつけた。諸賢のご理解を得たい。

【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし

大阪府千早赤阪村の不本見神社 (ふもとみじんじゃ) 周辺には不思議な話が伝わる。

むかし、子供たちが不本見山で相撲をとっていたところ、樹々のうえのほうから「ヤーホ、ヤーホ」と声がした。見上げるが誰もいない。ただ風が吹くばかり。そしてどこからか笑い声が聞こえてきた。

子供たちは怖くなって逃げかえり、大人たちをつれて山に戻ってきた。

みなで手分けしてあたりを探しまわるが、誰もいない。

ふと見ると、子供たちが脱ぎ捨てておいた衣服が、きれいに畳まれていたという。

ああ、これはきっと相撲好きの神様が、子供たちの取り組みを楽しみに見に来られたのだということになり、以来、不本見神社では子供たちによる奉納相撲が行われるようになった。

いまも秋祭りには「ヤーホ相撲」がにぎやかにひらかれている。

このはなしを知ってからというもの、わたしはこの神様を相撲の神様「ヤーホ様」と呼び、ひそかに親しみを寄せている。

ヤーホ様に会いたい。

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~目次~

不本見神社について

間近に千早川の流れる、不本見山の美しさは格別だ。

お椀を伏せたような、いかにも甘南備然としたその低い山容は、一夜にしてあらわれたとの言い伝えがある。
その山頂に坐す不本見神社役行者による創建とされている。

ながらく修験道蔵王権現を御本尊としていたが、維新期の廃仏棄釈の流れのなか、天御柱命国御柱命の風神二柱を勧請し、それをもって現在まで御祭神としている。

ちなみに隣町の太子町の式内社、科長神社も風神を御祭神としている。

この一帯にはかつて、風に親しみを感じる、風俗、心情のようなものがあったのだろうか。

 

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不本見神社へのルート

① わたしの進んだルート

 

千早赤阪村楠木正成公ゆかりの、としばしば称される。

村内のいたるところで楠公に関する史跡を目にすることになる。
府道705号線 (正式には、大阪府道・奈良県道705号富田林五條線) をクルマではしっていると、赤阪城 (下赤阪城) を案内する看板が見えた。

そのまま、さらに南東に進んでいくと、ナビゲーションが坂本橋を渡るようにと告げてきた。

渡ってすぐに左折する。

すると行き止まりになった。

「目的地に到着しました」

画面を見ると、ここからは徒歩だという。

この距離感ならほんの数分だろう。

でも、道はどこにあるというのか。

画面の示す方向に歩いてみる。

しかしこれ、農地だよ。

いかにも私有地だ。

ちょっとマズい感じになってきた。

日の暮れかけた夕刻、白髪の初老の男がスマートフォンを握りしめ、他人の土地に不法侵入したばかりか、あたりをきょろきょろしながら歩いている。

不審者以外の、いったいなにに見えるだろう。

さて、どうしたものかと思っていると、すぐ前の民家の庭に、わたしと同年配の女性がでてきているのが見えた。彼女はきれいに植えられた花々に手をやり、顔もまっすぐにそちらを見ている。が、明らかにこちらを警戒しているようすが、びんびん伝わってくる。

機先を制しよう。

「こんにちは。不本見神社に行きたいんですけど、どう行けばいいんでしょうか」

「ああ、ちょっと、道ややこしいですで」

お互い、相手のでかたをうかがっていた。

気まずい沈黙がながれる。

5秒…10秒…。

わたしは口をひらいた。

「あそこにはまえから一度、どうしても行ってみたかったんですよね。…ほら、ヤーホ相撲とか」

すると彼女はとつぜん饒舌になった。

それなら、そこの石段をのぼって行きはったらよろしいねん。のぼりきったら道があるから、そこを右に行く。そしたらまた道があるから、今度は左に行く。そしたら正面に見えてきますわ…。足元が悪いから気をつけろ、枝が盛大にでているところでは気を抜くな、ちゃんと前を見ろ…。

「もうすぐ秋祭りやよってな、そのときにもまた来はったらよろしいねん」

わたしは丁寧に礼を述べた。

それにしても、彼女の言うそこの石段とはどこだ。

さらに進んでいく。

これか…、これなのか。

生い茂る雑草をかき分けて、左右から覆い被さる木の枝を押しのけると、なるほど狭い石段が見えた。

しかし、いままでこんなにも急な石段にお目にかかったことはない。

これはもう、ほとんど垂直にかかる梯子と言いたくなるようなあんばいだった。

絶対に無理だ。

なんとか言い訳をして、退散することにしよう。

すぐに、とっておきの理由を思いついた。

 

どうせ、よくない理由だよね。

さあ、どうだか…。

「ああ、そうだ。忘れてました。むこうの橋のところにね…」わたしは指さして言った。「クルマを停めっぱなしにしてたんでした。御迷惑になってもあれなんで、今日のところは帰って出直してきますよ」

「そんなんかめへん。もしも誰かなんか言ってきたらな、 そのヒトやったらいま、不本見さんに参ってはるよってにな、ちょっと待っときなはれって、ちゃんと説明しときますわ。せやから遠慮しやんと、はよ行ってきなはれ」

外堀は埋められた。

元弘元年 (1331年) 9月、後醍醐天皇を奉じた楠公が、鎌倉幕府軍に対して最初に兵をあげた赤阪城 (下赤阪城) は一重の塀をめぐらせただけの、堀さえもない急ごしらえの城だったという。

二段、三段と石段をのぼってみた。そもそも石段に盛大に覆いかぶさってきている木の枝のせいで、立って歩くことも難しい。子供なら可能か。

もう何年も利用されていないのではないか。

それにこれ登って行ったら、もう、ぜんぜん趣旨が変わってしまうところだ。

神社参拝ではなく、ボルダー (ボルダリング) あたりになってしまう…。

わたしは暫くそこにいたが、もうどこにも彼女の姿がないことを確認すると、そそくさとクルマのほうへと戻っていった。

② 橋本橋をわたって右折するルート

しかしどうしても、参拝をはたしたい。
わたしは安全なルートを調べてみた。

一度くらいのダメ出しで、諦めてどうする。

志操堅固、赤阪城から退却した楠公はこんどは千早城にこもり、元弘3年 (1333年) 打ち寄せる鎌倉幕府の大軍と対峙する。そして100日にもわたり幕府軍をみごと釘付けにし、この間に鎌倉幕府は滅亡。ついに建武の新政への道はひらかれた。

橋本橋を渡ってわたしは左 (赤いクルマの見えるほう) へと進んで、行き止まりとなってしまった。

反対に右のほうへ進むと、もうすこしクルマで不本見神社のそばまで行くことができる。

しかし道は非常に狭く、軽自動車がやっとだろう。

行けるところまで行って、クルマを乗り捨てる場所を探すにも、苦労するだろう。

おすすめできるルートではない。

盲導犬訓練センター前を通るルート

府道705号線を富田林市街方面から (わたしが来たのと同じほうから) 進んでくると、富田林警察署 東阪駐在所を過ぎたあたりで左に折れる脇道に入ると、ライトハウス 盲導犬訓練センターのまえにでる。そして、その前の一本道を桝形城跡のわきを抜けるように進んでいくと、不本見神社にいたる。ただし、こちらも道は狭い。しかも一方通行ではないために、万がいち対向車とでも出くわすようなことがあれば、かなり難儀するに違いない。

それになによりも、不本見神社には駐車場がないことから、クルマでの参拝は避けたほうがいいだろう。

ではどうすればよいのか。

④ 道の駅「ちはやあかさか」から徒歩で向かうルート

道の駅「ちはやあかさか」を拠点に、そこから徒歩で向かうというのが、現実的なルートになろうかと思われる。道の駅には「村立 郷土資料館」や「楠公誕生地遺跡」が隣接している。

資料館にはヤーホ相撲に関するパネルも掲示されており、また同村内に伝わる昔話を収録した冊子なども販売されている。


そこから不本見神社までは約2キロ、40分ほどの道のりになる。
最終的には③の盲導犬訓練センターの前の道に出るのが、わかりやすい。

 

40分とか、ほんとに歩けるの?

歩けるさ。

 

うそでしょ。

このルートなら、比較的起伏がおだやかなうちに進むことができるよ。

⑤ 金剛バスを使用するルート

金剛バス・千早線「東阪」バス停下車。

そこからは徒歩で。

やはり盲導犬訓練センターの前の道で向かう。

ヤーホ、ヤーホ、

あの日、クルマへ戻るとき棚田が見えた。

そして視線をあげて不本見山を見た。

風が吹いてきた。

ヤーホ様の声は聞こえず、もちろん姿が見えるはずもなかった。

わたしはただ、棚田のうえを飛び回るトンボを眺めていた。

静寂の中で聞く声とは、いったい誰の声なのだろう。

 

※追記※

本日、金剛バスが路線バス事業から年内いっぱいで撤退するというニュースが飛び込んできた。今後は、バスで不本見神社ちかくまで行くことがかなわなくなる。

残念な知らせだ。  (2023年 9月 11日)

https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230911/2000077770.html

 



 

【壷阪寺】眼病封じの御利益、壺坂霊験記の夫婦愛をいまに伝える

奈良県のほぼ中央に位置する高取町を象徴するものとはなにだろう。

「くすりの町 高取」

日本書紀推古天皇の段にみられるように、古くからこのあたりでは薬猟 (くすりがり・鹿の角や薬草を集めること) がおこなわれていた。土佐街道 (飛鳥時代に土佐高知から移ってきたヒトたちが住まうようになったことが、命名の由来するとされる) 沿いにある、黒の外壁に白い六角形の亀甲型が施された古い蔵を改装したくすり資料館を訪ねれば、薬の歴史を体感することができる。

~目次~

 

また、高取城も忘れることができない。

壺阪山にあって、かつて山城としては異例なほどの荘厳なすがたをみせていた高取城、その城址には、いまも多くの観光客が訪れる。

そして壺阪寺もまた、よく知られるところだ。

壷阪寺へ

壷阪寺を参拝した。

入山料をおさめているあいだ、じっとこちらをうかがっていたネコたちが見送ってくれた。

「ようお参りです。ごゆっくりと」

静かだった。

無理もない。

午後四時、閉山まで、あと一時間しかなかった。

寺院参拝に際しては、いつも夕方の慌ただしい時間になってしまうのは何故だろう、思わず苦笑した。

 

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西に目をむける。

あいにくの曇り空とて、盆地のむこうの二上山生駒山がはっきりと見えた。

どこまでも、のどかな風景がひろがる。

わずか150年あまりまえ、この高取の地が天誅組の変に見舞われたなどとは、いまとなっては想像するのも難しくなってきている。

 

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境内案内

朱色の大講堂を右手に見ながら、わたしは進んでいった。

まず、瀧蔵権現で柏手をうつ。

この地の地主神をまつっているとされる。

つぼさか茶屋。

ここのうどんは美味いのだが、この時間ではどうしようもない。

仁王門をくぐる。

礼堂までは、まだかなりのぼって行かなければならない。

しかし、リフトが設置されている。

わたしもいつかは利用することになるのだろうか。

三重塔が見えた。

そのむこうに礼堂。

もはや息があがっていた。ひざが笑っていた。

ありがたや、ありがたや。

靴を履きなおし、さらに進んでいく。

「釈迦一代記」のレリーフ

スジャータだろうか。

さらに進んでいく。

大観音石像。

唯我独尊。

大涅槃石像。

釈迦入滅の様子。

壺坂霊験記

壷阪寺が眼病封じの寺としてつとに有名になったのは、明治時代初期に成立した浄瑠璃、壺坂霊験記によるところが大きい。

■壺坂霊験記■
「壺阪霊験記」「壺坂観音霊験記」とも。実話をもとにしているとの説もあるが、定かではない。
演目によって筋の細部に違いはあるが、壷阪寺の本尊、十一面観音の霊験によって盲目の澤市の目が見開かれるというところは共通している。
毎日のように明け方になると家を抜け出すお里に不信をもった盲目の澤市は、ほかにおとこでもできたのかと問いただす。しかしお里の返事は、澤市の目が見えるようになりますようにと、壷阪寺に参っていたというものだった。邪推を恥じた澤市は、それ以降、お里とともに壷阪寺に通うようになった。しかし盲目の自分がいてはお里の足手まといになると考えた澤市は身を投げて死んでしまう。そしてお里もまた、あとを追って身投げする。
それを知った十一面観音はふたりの命をよみがえらせ、澤市の目は見開かれた。

 

覗き込んだが、木々が生い茂り谷底は見えない。

礼堂からすこし奥に慰霊碑がたつ。

歌舞伎や浪曲にもなってるね。

そうだね。浪曲妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ…って名調子はよく知られているね。

そろそろ時刻だった。

戻らなければならない。

光のほうへ

わたしは来た道を戻って行った。

あいにく、もうネコたちのすがたは見えなかった。
右手に昔の慈母園の建物がが見えた。
慈母園は昭和36年、盲老人ホームとしてこの山内に開園したが、令和にはいり、おなじ高取町の「たかとり文教福祉ゾーン」に移転を果たしていた。
ネコたちはこの無人の老人ホームへと帰っていったのかもしれない。
 

【祇園祭】前祭、後祭。あなたは今年もただ山鉾巡行を眺めていただけ?

7月の京都は、祇園祭一色になる。

連日のように祭りの様子が話題になり、なかでもその前祭 (さきまつり) 後祭 (あとまつり) のクライマックスとも目される山鉾巡行の当日は、多くのヒトたちがまちに繰り出し、浴衣姿の人波がゆっくりと押し寄せるなか、市街の中心部には大規模な交通規制が敷かれて、そこではアジール (聖域) さながら、非日常的な、喜びの充溢をいたるところで見ることになる。

~目次~  

祇園祭の歴史

祇園祭のはじまり

2022年 7月撮影

平安時代、京のみやこに疫病が蔓延するなか、ときの朝廷は863年 (貞観5年) 神泉苑において御霊会 (ごりょうえ・死者の怨霊を鎮めるためのまつり) を執り行った。御霊会とされたからには、陰陽寮陰陽師による卜占があったのだろう。非業の死を遂げた早良親王らの怨霊のによるものと見做されていたとされている。

 

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しかし疫病がおさまることはなく、さらに翌864年 (貞観6年) には富士山の大噴火、869年 (貞観11年) には陸奥国での地震など自然災害が次々とおきて、怨霊は鎮まる様子をみせなかった。

そこで869年 (貞観11年) に神祇官・卜部日良麿 (うらべのひらまろ) が神泉苑に当時の国 (律令国) の数と同じ66本の鉾をたて、それに悪霊を移して祇園社 (八坂神社の旧名) にまつられている牛頭天王に病魔退散を祈る祇園御霊会をひらいた。

これが公式な祇園祭のはじまりとされている。

2019年 (令和元年) には祇園祭1150周年が祝賀された。

 

国の数と同じ鉾をたてる…。
これ、荒神谷遺跡を連想させるね。

ああ…、ほんとだ。

荒神谷遺跡■
1983年 (昭和58年) 島根県斐川町神庭 (現、島根県出雲市斐川町神庭) における広域農道敷設工事にともなう調査で、須恵器の破片が見つかったことから、翌年より、本格的な発掘調査が実施され、最終的には銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
それまでに全国で出土した銅剣は約300本。それを上回る数の銅剣が一度に発掘されるという、考古学上の画期となる発見だった。
358という数は、出雲国風土記に記載された神社の数とほぼ同じとなる。

山鉾巡行の変遷

やがて鎌倉時代にはいると、移動する鉾を取り囲むようにして歌い踊る人々があらわれだし、鷺舞などの神事芸能もうまれてくるようになる。

さらに室町時代になると、鉾と屋台が一つになった今に続く鉾車が見られるようになる。

戦乱による中断や疫病による延期などを経ながらも、山鉾巡行は古くから町衆によって支えられて続いてきた。

今では祇園祭の最重要神事・神輿渡御 (みこしとぎょ・練りだした八坂神社の神をのせた神輿が、市中を清め巡る) よりも人々の耳目を集めているかもしれない。

山鉾の作りについて

2022年 7月撮影

美しい彫刻、精緻を極めた細工、タペストリー…。そんな美しい衣装を脱ぎ捨てると、昔ながらの、くぎを使わずに組まれた骨組みを見ることができる。

ウイルス禍をこえて

2022年 7月撮影

昨今のウイルス禍によって、2020年、2021年と神輿渡御、山鉾巡行ともに中止になり、祇園祭は賑わいを欠いた、大幅に縮小されたかたちでの実施となった。

2022年においても、一部の鉾の拝観が見合されるなどした。

そして2023年、祇園祭はいよいよ完全な形で復活の運びとなった。

疫病退散の祈りを起源にはじまった祇園祭が、未だウイルス禍のあけきらぬ2023年、完全復活する意義は大きい。

こころに鉾を立てよ

京都市内は、大規模な交通規制が実施されていた。

ハンドルを握りながら、わたしは煙草に火をつけた。

煙が目の前でゆらめく。

たくさんの浴衣姿、笑顔の列。

わたしはウインドウ越しに、賑わいを取り戻した京都の夏を眺めていた。

いまこそ、こころに鉾を立てよう。

そう、立てるのだ。

すべてが、後の祭りとならないうちに。

 

【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて

失われた古代祭祀の全容を知ることは容易ではない。

周知のように銅鐸などはなんらかの祭祀につかわれていたのでは、と考えられているが、それについての詳細な記述は、記紀のような古典においても見ることができない。ただ土の中に埋められて、語られることさえ憚られたとでもいうように忘れ去られてしまい、後世、偶然に掘り返されたときには、みなが首をかしげて言う。

どうしてこんなところに埋めたんだ?

これにはどんな意味があるんだ?

なにに使った?

また荒神谷遺跡 (出雲市斐川町) から、1984年 (昭和59年)に358本もの銅剣が出土したとき、世間はその数の多さから世紀の大発見と騒ぎたてたが、実際に現地に足を運び、遺跡を目前にしたものは、そこが言うべき特徴のない、何の変哲もない谷の斜面であることに驚いたことだろう。

新たな祭祀が生まれるとき、その執行者は、先行する祭祀の伝承を認めることはなかったのだと、想像にかたくない。

しかしそれでも、古典を子細に読み込めば、往古の信仰の残り香を感じ、小さな断片を拾い集めることができる。

~目次~

高木のはなし

古事記仁徳天皇の条に、高木のはなしがみえる。

古事記・要約■
兎寸川の西に一本の高木があった。その影は朝日があたると淡路島にとどき、夕日があたると高安山を越えた。その木を切り倒して作った船は速くはしった。その船は名付けて枯野という。朝夕淡路島の清水を汲んできて、天皇に献上した。
やがて船が破損すると、その材をもって琴をつくった。その音は七里さきまでとどいたという。
『兎寸』はトノキあるいはトキと読むとされ、それは旧河内国兎寸村、現在の大阪府高石市取石あたりと見做されている。いまでは正式な行政名としてはトノキという地名は存在しない。わずかにJR阪和線富木駅、富木筋という道路の名前、それに等乃伎神社 (とのきじんじゃ・とのぎじんじゃ) などの名称にわずかに残るにとどまっている。

高木を切り倒し、それで御用水を運ぶ船をつくったというのは、それはとりもなおさず先行する高木崇拝、巨樹祭祀の否定と、兎寸の地が天皇 (大王) 家が推す祭祀を受け入れたことを意味するのだろう。
しかし、わたしたちは巨樹を敬う気持ちをもち続けてきた。
いまも神様を一柱、二柱と「柱」でもってあらわすのは、その反映に他ならない。

そして、船の廃材でつくったのが琴であるという。
古来、琴は神器、祭器と見做されてきた。

大国主命が、スセリビメ根の国から連れ出すときに持ち出したのも琴であり、出雲国風土記は琴引山の峰にある窟 (いわや) に、所造天下大神 (あめのしたつくらししおおかみ・大国主命) の御琴がおさめられていると記す。

 

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七里さきまで届いたというその琴の音は、巨樹祭祀を奪われた兎寸の人々の慟哭を思わせる。

わたしはクルマをはしらせながら、『兎寸』を現在の大阪府泉南市の『兎田・うさいだ』とする説のあることを思い出した。その場合、兎寸川は樫井川を指しているということになる。

しかしながら神話、なかんずく古事記神話の場合、相容れぬ二つの説を俎上にあげて白黒つけようとすると (そもそも不可能なことだ)、延々とおなじはなしを繰り返しては、結局決着をみないということになる。

国生み神話は、淡路島、四国、隠岐の島の順に国土を生んだとする。

地理的事実として、その順番に国土ができたわけでは無論ない。その順番に国生みされたとするなんらかの歴史的背景や、隠れた伝承があってのことだろう。

因幡の白兎は素朴な白兎の冒険譚に、大国主命の求婚の物語が接続されている。

 

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クルマが表通りからそれると、急に静かになった。

看板が見えてきた。

 

等乃伎神社

等乃伎神社を訪れた。
式内社。しかし、とりわけ南北朝時代にはこのあたりは戦場となり、社殿等焼失したとされている。

それでも、高木を切り倒した跡にたてられたと目されているこのお社に、巨樹祭祀の残像を見てみたくて、わたしは来た。

授与所にはにぎやかにお守りが並んでいる。

『よそでは手に入りにくいお守り』

看板に偽りなしだ。

しかしわたしはお守りは遠慮して、本を頂戴した。

六月の風が心地よかった。
静かに時が流れるとは、まさにこの境内のようすを指す言葉だと思われた。

拝殿で柏手をうつ。

あいにくの薄曇りの中、太陽は見えなかった。

ここからの日の出の推移のようすをあらわした力作動画を、Tamao氏がツイッター上に公開しておられる。

拝殿前には梅の木があり、熟した実がたくさん落ちていた。

いい梅酒ができそうだ。

境内のベンチに腰掛けて『等乃伎神社と古代太陽祭祀』を読む。

和泉黄金塚古墳が、この神社との関わりのなかで語られている。

興味深い。

行ってみようか。

クルマに戻り、ナビをセットする。

1.4キロ、4分。

すぐそこだ。

和泉黄金塚古墳

どうやら、あれのようだ。
しかし道が細くなって、これ以上は進めそうにない。

困った。

通りがかりのヒトに道をたずねる。

「ここからは歩きですな。お墓がありましたやろ。あのまえの細い道を入っていく。しばらく行ったら右手にまた細い道がでてきますんや。けものみちみたいな、えっ、こんなとこ人間行けるんかいな、みたいな。そこ、入って行ったら直ぐですわ」

お墓。

お墓の前の細い道。

近づいてきたのかな…。

けものみち…。

これを行くのか。

本当なのかな。

戻ってもいいか…。

正面に説明版のようなものが見える。

しかし胸くらいの高さまで草木が茂っている。

慎重に、でも勇気をもって。

さんざん、あたりの写真を撮ってから、わたしは来た道をもどって行った。

ふと見ると、梅の実が落ちていた。

またしても…。

あたりを見回しても、いったいどれが梅の木なのか、わたしには判別できなかった。

 

 

参考書籍

等乃伎神社と古代太陽祭祀 金子明彦

参考資料

おりがみの時間

https://origaminojikan.com/36782