【祇園祭】前祭、後祭。あなたは今年もただ山鉾巡行を眺めていただけ?

7月の京都は、祇園祭一色になる。

連日のように祭りの様子が話題になり、なかでもその前祭 (さきまつり) 後祭 (あとまつり) のクライマックスとも目される山鉾巡行の当日は、多くのヒトたちがまちに繰り出し、浴衣姿の人波がゆっくりと押し寄せるなか、市街の中心部には大規模な交通規制が敷かれて、そこではアジール (聖域) さながら、非日常的な、喜びの充溢をいたるところで見ることになる。

~目次~  

祇園祭の歴史

祇園祭のはじまり

2022年 7月撮影

平安時代、京のみやこに疫病が蔓延するなか、ときの朝廷は863年 (貞観5年) 神泉苑において御霊会 (ごりょうえ・死者の怨霊を鎮めるためのまつり) を執り行った。御霊会とされたからには、陰陽寮陰陽師による卜占があったのだろう。非業の死を遂げた早良親王らの怨霊のによるものと見做されていたとされている。

 

tabinagara.jp

 

tabinagara.jp

しかし疫病がおさまることはなく、さらに翌864年 (貞観6年) には富士山の大噴火、869年 (貞観11年) には陸奥国での地震など自然災害が次々とおきて、怨霊は鎮まる様子をみせなかった。

そこで869年 (貞観11年) に神祇官・卜部日良麿 (うらべのひらまろ) が神泉苑に当時の国 (律令国) の数と同じ66本の鉾をたて、それに悪霊を移して祇園社 (八坂神社の旧名) にまつられている牛頭天王に病魔退散を祈る祇園御霊会をひらいた。

これが公式な祇園祭のはじまりとされている。

2019年 (令和元年) には祇園祭1150周年が祝賀された。

 

国の数と同じ鉾をたてる…。
これ、荒神谷遺跡を連想させるね。

ああ…、ほんとだ。

荒神谷遺跡■
1983年 (昭和58年) 島根県斐川町神庭 (現、島根県出雲市斐川町神庭) における広域農道敷設工事にともなう調査で、須恵器の破片が見つかったことから、翌年より、本格的な発掘調査が実施され、最終的には銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
それまでに全国で出土した銅剣は約300本。それを上回る数の銅剣が一度に発掘されるという、考古学上の画期となる発見だった。
358という数は、出雲国風土記に記載された神社の数とほぼ同じとなる。

山鉾巡行の変遷

やがて鎌倉時代にはいると、移動する鉾を取り囲むようにして歌い踊る人々があらわれだし、鷺舞などの神事芸能もうまれてくるようになる。

さらに室町時代になると、鉾と屋台が一つになった今に続く鉾車が見られるようになる。

戦乱による中断や疫病による延期などを経ながらも、山鉾巡行は古くから町衆によって支えられて続いてきた。

今では祇園祭の最重要神事・神輿渡御 (みこしとぎょ・練りだした八坂神社の神をのせた神輿が、市中を清め巡る) よりも人々の耳目を集めているかもしれない。

山鉾の作りについて

2022年 7月撮影

美しい彫刻、精緻を極めた細工、タペストリー…。そんな美しい衣装を脱ぎ捨てると、昔ながらの、くぎを使わずに組まれた骨組みを見ることができる。

ウイルス禍をこえて

2022年 7月撮影

昨今のウイルス禍によって、2020年、2021年と神輿渡御、山鉾巡行ともに中止になり、祇園祭は賑わいを欠いた、大幅に縮小されたかたちでの実施となった。

2022年においても、一部の鉾の拝観が見合されるなどした。

そして2023年、祇園祭はいよいよ完全な形で復活の運びとなった。

疫病退散の祈りを起源にはじまった祇園祭が、未だウイルス禍のあけきらぬ2023年、完全復活する意義は大きい。

こころに鉾を立てよ

京都市内は、大規模な交通規制が実施されていた。

ハンドルを握りながら、わたしは煙草に火をつけた。

煙が目の前でゆらめく。

たくさんの浴衣姿、笑顔の列。

わたしはウインドウ越しに、賑わいを取り戻した京都の夏を眺めていた。

いまこそ、こころに鉾を立てよう。

そう、立てるのだ。

すべてが、後の祭りとならないうちに。

 

【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて

失われた古代祭祀の全容を知ることは容易ではない。

周知のように銅鐸などはなんらかの祭祀につかわれていたのでは、と考えられているが、それについての詳細な記述は、記紀のような古典においても見ることができない。ただ土の中に埋められて、語られることさえ憚られたとでもいうように忘れ去られてしまい、後世、偶然に掘り返されたときには、みなが首をかしげて言う。

どうしてこんなところに埋めたんだ?

これにはどんな意味があるんだ?

なにに使った?

また荒神谷遺跡 (出雲市斐川町) から、1984年 (昭和59年)に358本もの銅剣が出土したとき、世間はその数の多さから世紀の大発見と騒ぎたてたが、実際に現地に足を運び、遺跡を目前にしたものは、そこが言うべき特徴のない、何の変哲もない谷の斜面であることに驚いたことだろう。

新たな祭祀が生まれるとき、その執行者は、先行する祭祀の伝承を認めることはなかったのだと、想像にかたくない。

しかしそれでも、古典を子細に読み込めば、往古の信仰の残り香を感じ、小さな断片を拾い集めることができる。

~目次~

高木のはなし

古事記仁徳天皇の条に、高木のはなしがみえる。

古事記・要約■
兎寸川の西に一本の高木があった。その影は朝日があたると淡路島にとどき、夕日があたると高安山を越えた。その木を切り倒して作った船は速くはしった。その船は名付けて枯野という。朝夕淡路島の清水を汲んできて、天皇に献上した。
やがて船が破損すると、その材をもって琴をつくった。その音は七里さきまでとどいたという。
『兎寸』はトノキあるいはトキと読むとされ、それは旧河内国兎寸村、現在の大阪府高石市取石あたりと見做されている。いまでは正式な行政名としてはトノキという地名は存在しない。わずかにJR阪和線富木駅、富木筋という道路の名前、それに等乃伎神社 (とのきじんじゃ・とのぎじんじゃ) などの名称にわずかに残るにとどまっている。

高木を切り倒し、それで御用水を運ぶ船をつくったというのは、それはとりもなおさず先行する高木崇拝、巨樹祭祀の否定と、兎寸の地が天皇 (大王) 家が推す祭祀を受け入れたことを意味するのだろう。
しかし、わたしたちは巨樹を敬う気持ちをもち続けてきた。
いまも神様を一柱、二柱と「柱」でもってあらわすのは、その反映に他ならない。

そして、船の廃材でつくったのが琴であるという。
古来、琴は神器、祭器と見做されてきた。

大国主命が、スセリビメ根の国から連れ出すときに持ち出したのも琴であり、出雲国風土記は琴引山の峰にある窟 (いわや) に、所造天下大神 (あめのしたつくらししおおかみ・大国主命) の御琴がおさめられていると記す。

 

tabinagara.jp

七里さきまで届いたというその琴の音は、巨樹祭祀を奪われた兎寸の人々の慟哭を思わせる。

わたしはクルマをはしらせながら、『兎寸』を現在の大阪府泉南市の『兎田・うさいだ』とする説のあることを思い出した。その場合、兎寸川は樫井川を指しているということになる。

しかしながら神話、なかんずく古事記神話の場合、相容れぬ二つの説を俎上にあげて白黒つけようとすると (そもそも不可能なことだ)、延々とおなじはなしを繰り返しては、結局決着をみないということになる。

国生み神話は、淡路島、四国、隠岐の島の順に国土を生んだとする。

地理的事実として、その順番に国土ができたわけでは無論ない。その順番に国生みされたとするなんらかの歴史的背景や、隠れた伝承があってのことだろう。

因幡の白兎は素朴な白兎の冒険譚に、大国主命の求婚の物語が接続されている。

 

tabinagara.jp

クルマが表通りからそれると、急に静かになった。

看板が見えてきた。

 

等乃伎神社

等乃伎神社を訪れた。
式内社。しかし、とりわけ南北朝時代にはこのあたりは戦場となり、社殿等焼失したとされている。

それでも、高木を切り倒した跡にたてられたと目されているこのお社に、巨樹祭祀の残像を見てみたくて、わたしは来た。

授与所にはにぎやかにお守りが並んでいる。

『よそでは手に入りにくいお守り』

看板に偽りなしだ。

しかしわたしはお守りは遠慮して、本を頂戴した。

六月の風が心地よかった。
静かに時が流れるとは、まさにこの境内のようすを指す言葉だと思われた。

拝殿で柏手をうつ。

あいにくの薄曇りの中、太陽は見えなかった。

ここからの日の出の推移のようすをあらわした力作動画を、Tamao氏がツイッター上に公開しておられる。

拝殿前には梅の木があり、熟した実がたくさん落ちていた。

いい梅酒ができそうだ。

境内のベンチに腰掛けて『等乃伎神社と古代太陽祭祀』を読む。

和泉黄金塚古墳が、この神社との関わりのなかで語られている。

興味深い。

行ってみようか。

クルマに戻り、ナビをセットする。

1.4キロ、4分。

すぐそこだ。

和泉黄金塚古墳

どうやら、あれのようだ。
しかし道が細くなって、これ以上は進めそうにない。

困った。

通りがかりのヒトに道をたずねる。

「ここからは歩きですな。お墓がありましたやろ。あのまえの細い道を入っていく。しばらく行ったら右手にまた細い道がでてきますんや。けものみちみたいな、えっ、こんなとこ人間行けるんかいな、みたいな。そこ、入って行ったら直ぐですわ」

お墓。

お墓の前の細い道。

近づいてきたのかな…。

けものみち…。

これを行くのか。

本当なのかな。

戻ってもいいか…。

正面に説明版のようなものが見える。

しかし胸くらいの高さまで草木が茂っている。

慎重に、でも勇気をもって。

さんざん、あたりの写真を撮ってから、わたしは来た道をもどって行った。

ふと見ると、梅の実が落ちていた。

またしても…。

あたりを見回しても、いったいどれが梅の木なのか、わたしには判別できなかった。

 

 

参考書籍

等乃伎神社と古代太陽祭祀 金子明彦

参考資料

おりがみの時間

https://origaminojikan.com/36782

【信太の森】葛の葉姫伝承をうんだ悠久の森を行く。聖神社を中心に

関西地方に住まうものにはとくによく知られているように、信太の森 (しのだのもり) は大阪府和泉市にひろがる、古来よりいまに至るまでつづく悠久の森だ。

森は信太の森」と清少納言枕草子において称えたそこにも、しかし近年においては開発の波が押し寄せて、信太山丘陵の斜面にも家々など建ち並び、豊かな自然はすこしずつ浸食されるに及んでいる。

しかし、人々がこの地に魅了され集うのは、故なきことではないのかもしれない。

はるか昔より、そこでは日々の営みといえるものが盛んにおこなわれていた。

信太山丘陵をくだってすぐのところには、国内屈指の規模を誇る弥生時代中期の環濠遺跡、池上・曽根遺跡が間近にせまっている。当時にあっては、海岸線はいまよりもさらに近く、森に入れば食用のどんぐりなども取れたとされている。

平安時代になると、京のみやこの皇族、貴人たちが熊野詣に向かうための街道 (熊野街道) が信太を通る。街道沿いにはその参拝者たちの庇護を願い、奉幣や読経をおこなう王子社、篠田王子 (信太王子・しのだおうじ) がたてられた。

そして、在りし日に篠田王子があったと目されているところからほど近くに、聖神社 (ひじりじんじゃ) の、石造りの見事な一の鳥居がたっている。

~目次~

境内案内

二の鳥居

一の鳥居をぬけて500メートルほどクルマで住宅街のなかを駆け上がっていくと、二の鳥居が見えてきた。

平日の午後、人影のない長い参道はやがて左に折れ曲がった。

境内の全景が見える。

正面遠くに朱色の末社がたっていた。

左手に本殿。

そのいずれもが、なにやら隅の方へと追いやられているような印象をうけた。

境内の中央にはなにもない。

空虚、という言葉があたまをよぎる。

その開けた空間は、傾きかけた日の光に照らされるにまかせていた。

本殿

聖神社の本殿は豊臣秀吉の根来攻めの際に焼失、所領も没収となったが、1604年 (慶長9年)、豊臣秀頼の命により、再建された。
現在では2019年の修復工事を経て、極彩色も鮮やかによみがえっている。

末社

向かって右が三神社、左が瀧神社。

末社

平岡神社。
聖神社本殿と同時期に再建。春日造り。

大阪府指定有形文化財

 

不動明王

神仏習合時代の名残り。
かつては神宮寺・万松院が存在したが、明治期初頭の神仏分離の流れの中で廃寺となった。

お塚

数多くのお塚がたち、あまり一般には馴染みのないたくさんの神仏がまつられている。

ここから1.5キロほどさきにある、信太森葛葉稲荷神社 (信太森神社) との類似にはっとさせられる。

安倍保名と白狐は信太の森で出会い、その白狐が化身した葛の葉姫とのあいだに生まれたのが安倍晴明公であるとする歌舞伎や浄瑠璃で有名な話がうまれる素地が、信太にはあった。

かつて信太の地には声聞師 (しょうもじ) と称された民間の陰陽師・職業芸人が集っていた。

かれらが自らの姿を実在の安倍晴明公に仮託し、葛の葉姫伝承をうんだ、と考えるのはうがちすぎだろうか。

 

tabinagara.jp

創建の由来

675年 (白鳳3年) 天武天皇の勅願によって、百済系渡来氏族の信太首 (しのだのおびと) が聖神 をまつったのが始まりであるとされている。

助松浜 (大阪府泉大津市) に上陸した聖神は信太の森まで布を敷き、いまの聖神社に坐 (いま) すに至ったという布引の道伝承が、いまも地元にのこる。

 

レッドカーペットみたいだね。

泉南地方はいまに至るまで繊維産業がさかんだからね。それとの関連も気になってくるね。

なお聖は聖なる意とも、また「日知り」の意とも目されている。

現在の大阪府奈良県のあいだには山々が連なっている。

北より、生駒山高安山信貴山二上山葛城山金剛山…。

どの頂から朝日が昇ったかで季節を知ったであろうと、想像することもできる。

聖神
古事記によると、大年神伊怒比売とのあいだに生まれた五神 (大国御魂神・韓神・曾富理神白日神聖神) の末の神とされている。

 

相撲はいかが

境内を散策していても、その真ん中にひろがるなにもない空間がずっと気になっていた。

もう帰ろうか。そう思いながら、わたしは木々のあいだを覗き込んだ。

土俵だ。
奉納相撲がおこなわれていた証だろうか。

わたしは嬉しくてたまらなくなった。

 

tabinagara.jp

 

さあ、見合って見合って。

見ますとも。あなただけを、永遠に。

 

えーっ!

晴れているというのに、急に雨がふりだしてきた。

ここで雨がふるなどというのは、なにかの作為かしらと勘繰りたくなるところだ。

狐の嫁入り

わたしは急いでクルマにもどった。

聖なるものを求めて

明治維新はこの国の姿を一変させた。

聖神社の場合も、神宮寺が姿をけしている。

それは文化の面でも例外ではなく、外国から怒涛のようにやってくる新たな知識、概念を咀嚼することに追われた。

「宗教」という言葉もそのとき「Religion」の訳語として採用された。


www.youtube.com

 わたしはこの曲が好きで、運転中によく聴く。

オールドロックファンはR.E.Mも「ドキュメント」までだったよね、などと言う。わからなくもないが、この曲は異彩を放っている。もっともこのタイトルは宗教とは関係はないのだが。(宗教心、信じるものを失ったように)取り乱してしまった、我を忘れてしまった、という意味。

 

すみっこにいるのはぼくだ。

スポットライトを浴びているのはぼくなんだよ。

われを忘れちまったんだ。

        (ルージング マイ レリジョン)


クルマは一の鳥居を過ぎて、北に向かった。

その道が、以前の熊野街道であるのかどうか、わたしにはわからなかった。

雨があがった。

きらきらと光を反射させたアスファルトの路面は、真夏の砂浜のようだった。

遠くに虹がかかるだろうか。

 

                                                                              (最終更新日 2023.7.10)

【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~

京都の晴明神社というと、なにやら魑魅魍魎の跋扈するといったイメージを抱くヒトもおられるのだろうか。曰く、陰陽師安倍晴明公、式神…。

しかし、それらは人気の歌舞伎や映画などの創作の世界にに引きずられたものだ。

実際の晴明神社の坐すのは、京都御所から西にわずか1キロ足らず、様々な伝承をもつ一条戻り橋からすぐのところになる。

 

鬱蒼とした鎮守の杜に囲まれているのではなく (しかし立派な御神木はある)、境内は日の光をいっぱいにうけて、突き抜けるように明るい。そして、清浄な風が吹き抜けている。

京都を南北にはしる幹線道路、堀川通に面し、日々多くの参拝者が訪れている。

~目次~

晴明神社の創建

清明公屋敷跡

晴明神社は1005年 (寛弘2年)、清明公が没すると、その死を悼んだ一条天皇の命により、2年後の1007年 (寛弘4年)、公の屋敷跡に創建されたとされている。

 

いきなりだけど、ちょっと待って。京都ブライトンホテル!
たしか京都御所晴明神社のあいだくらいにあったよね。もうちょっと南か…。土御門(つちみかど)町。あそこの敷地が屋敷跡じゃなかったの?

おお!

 

あのホテル、セイメイってカクテルを出してくれるんだよ。友達が飲んだって。

すごいね。
たしかに『今昔物語』にも清明公の屋敷は「土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東」と書かれているからね。それに中世のほかの書物も、おおむねそれに準じた記述になってる。
いまでは土御門町のそのあたりだったと考えることに、ほぼ定まってるとみていいね。

■土御門家■
安倍晴明公の子孫は室町時代になると、家名を「土御門」と称するようになった。江戸時代中期の当主、土御門泰福土御門神道 (安倍神道) を大成させた。明治維新後は華族となり、子爵に列せられた。
土御門の名は大内裏に設けられた屋根を持たない築地を開いただけの簡便な門、土の門、土御門に由来する。

晴明神社陰陽道

平安京造成時、大内裏 (だいだいり) の北西の「天門」の方角に、陰陽道信仰にあって重要な方忌に関する神、大将軍神をまつる大将軍堂 (現在の大将軍八神社) が建てられた。それと同様に、北東の「鬼門」を封ずるために、現社地に晴明神社を建てたとする考えも成り立つだろう。その際には、いまにのこる清明公は稲荷神の生まれ変わりとする伝承を考えると、稲荷社であった可能性もあるだろう。

創建とされる1007年、一条天皇には厳重に鬼門を封じたいという強い思いが確かにあった。

元々は平安京における天皇の在所である内裏のことを大内裏と称したが、やがて宮城全体を大内裏と称するようになり、こちらが一般化した。内裏には天皇の住居である清涼殿をはじめ、後宮などが配され、内裏の外に朝堂院や豊楽院などのまつりごとに関する施設がおかれた。
しかし大内裏・内裏はたびたび焼失にみまわれた。
そのたびに天皇は仮宮 (里内裏という) での暮らしを余儀なくされた。やがて焼亡から再建までの期間がのびる傾向が顕著になり、天皇の里内裏暮らしが常態化するようになっていく。
現在の京都御所北朝初代の天皇光厳天皇 (在位1331年~1333年) の里内裏であった土御門東洞院殿の後裔にあたる。

一条天皇と怨霊伝説

菅原道真公の怨霊伝説はわたしたちもよく知るところだ。

讒言を受け入れた醍醐天皇によって、道真公は大宰府へと排されて (昌泰の変・しょうたいのへん)、903年 (延喜3年)、かの地で憤死する。

京のみやこでは908年 (延喜8年)、参議・藤原菅根 (ふじわらのすがね) が落雷をうけ絶命すると、その後も皇族、貴人たちの死が相次ぐようになった。

みやこびとたちは、これを道真公の怨霊によるものだと噂しあい、恐れた。

絶え間なく平安京を襲う水害、旱魃、疫病、火災…。

そして、あろうことか930年 (延長8年)、 天皇の住居、清涼殿が落雷をうける (清涼殿落雷事件)。

藤原清貫 (ふじわらのきよつら)、平希世 (たいらのまれよ)など7名もが、惨たらしい姿で亡くなった。

惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、体調を崩し、皇太子・寛明親王に譲位。そして出家した醍醐上皇はその日のうちに崩御された。

道真公は天神となって雷をあやつり怨念を晴らそうとしている。

みやこの恐怖はきわみにまで達した。

 

天神様がみやこを焼き尽くすぞ!

静かにしてよ。お願いします。

■天満大自在天神■
晩年の道真公が天拝山にのぼり、無実を訴えていると、天から「天満大自在天神」と記された祭文が降ってきたとの伝承があるように、道真公は天満大自在天神となったとされるようになり、それが北野 (現・京都市上京区) の火之御子社の火雷神と結びついて、公は雷神とも見做されるようになっていった。
947年 (天暦元年)、 道真公をまつる北野天神社 (現・北野天満宮) が創建された。
987年 (永延元年) には初めての勅祭 (ちょくさい・天皇の勅使が派遣されて執行される祭祀) が執り行われ、一条天皇より「北野天満天神」の神号が贈られている。
それでも怨霊はしずまる気配をみせなかった。
一条天皇 (980年・天元3年~1011年・寛弘8年) は日本の第66代天皇花山天皇の出家により、わずか7歳で即位。在位は986年・寛和2年~1011年・寛弘8年。一条の名は長く暮らした里内裏・一条院 (一条大宮院) の名による。
999年 (長保元年) 、1001年 (長保3年)、1005年 (寛弘2年) と三度までも内裏は焼亡。一条天皇は里内裏と再建なった内裏への遷御を繰り返すこととなる。
「天門」に道真公をまつるだけでは怨霊は鎮まることはなかった。厳重に「鬼門」を封じなければならない。
やがてみかどは譲位の意を口にするようになったと伝えられている。

境内案内

一の鳥居

堀川通に面した一の鳥居に掛けられた扁額には社紋の五芒星。

二の鳥居

二の鳥居に掛かる「晴明社」の扁額は1854年 (安政元年)、土御門晴雄が奉納したものを忠実に再現したものとされている。
 
■土御門晴雄■
土御門晴雄 (つちみかど はれたけ) は江戸時代末期の公卿。江戸幕府14代将軍・徳川家茂の将軍就任に際しては勅使として江戸城に赴いた。1869年 (明治2年没)。翌年、新政府は陰陽寮を解体、1872年 (明治5年) には太陽暦に移行したことから、事実上、公式な陰陽道家としての土御門家最後の当主となった。
 

一条戻り橋

境内を進んでいくと、左手にミニチュアサイズの一条戻り橋が再現されている。
数々の怨霊伝説に登場し、また清明公ともゆかりの深いこの橋のレプリカが当地にあることは意義深いと言うほかない。
レプリカとはいえ、以前の戻り橋で実際に供されていた欄干の親柱 (一條、戻橋と彫られている左右の柱)を移築したもの。
その横には式神のすがた。
清明公は普段はこの橋のしたに式神を住まわせていたという。
式神とは■
陰陽師が占いで用いる式盤と関わりがあるとされる、鬼神の一種。

五芒星



いたるところで、五芒星 (晴明桔梗) を目にする。

清明

清明公の法力によって湧き出たとされている。
上部は可動式で、毎年立春の日にその年の恵方の方角に向けられる。
その水を飲むと、大きな御利益があるという。

聚楽屋敷跡

かつての聚楽第そばにあった千利休の屋敷は、いまの晴明神社のあたりであったともされている。
すると、利休の末期の茶は清明井の水でたてられたことになるのだろうか。

またしても、利休だ。

 

どういうこと?

葛葉稲荷神社を覚えてるよね。

 

葛の葉姫だ。 安倍晴明公御母君の古里。

 

tabinagara.jp

 

そう。あそこも利休ゆかりの社なんだ。
利休が寄進した灯篭、ふくろうの灯篭がある。

 

どこにあったの? 知らない。

子安石のとなりだよ。

 

えっ、真っ暗でなにも見えなかったよ。

 

あれからひとりで行ったんだ。いつ行ったの?
じぶんひとりで行った!

うーん。
とにかく、利休についてもいろいろと知りたいことが出てきたね。あちこち訪ねてみたい。

 

利休にたずねよ

うーん。

死後、利休の首は一条戻り橋に晒された、とも言われている。

■利休切腹?■
利休は秀吉の勘気をこうむり、大徳寺山門から引きずり降ろされた利休の等身大の木像は一条戻り橋で磔にされた。やがて利休は切腹。その首は木像に踏みつけられるかたちで晒された…。
映画などでは、利休の最後は切腹というのがお決まりになっているが、はたしてそうだろうか。
当時の人々の日記には「利休は逐電された」「行方不明になった」「高野山に上った」などと記されたものも複数存在する。
また、木像に踏みつけられたことが事実なら、その像は間違いなく、即座に派手に破却され、その様子はいまに伝聞として残っていたことだろう。
大徳寺にあった木像が、その後、どのような経緯を経たかは定かではない。現在では茶道の裏千家が秘匿しているとも、また、いまも大徳寺のどこかに匿われているともされている。

一条戻り橋を越えて

わたしは晴明神社をあとにした。
晴明神社バス停 (正式名称は一条戻り橋・晴明神社前) を横目で見ながら、一条戻り橋のほうへと歩いて行った。
ほんの数分で橋を渡ることになるだろう。
行くあてなどなかったが、不意に、話に聞く京都ブライトンホテルの「セイメイ」というカクテルを口にしてみたくなった。
■セイメイとヒロマサ■
京都ブライトンホテルではセイメイ (安倍晴明) とヒロマサ (源 博雅) という二種類のオリジナルカクテルを供している。
いにしえに想いを馳せながらグラスを見つめれば、みやびなうたげの気分にひたれるだろう。是非。

kyoto.brightonhotels.co.jp

一条戻り橋まで来ると、子供の泣き声が聞こえてきた。
したを流れる堀川の両岸は、遊歩道として整備されている。
のぞきこむと、幼い女の子が泣きじゃくりながら歩いていた。その前を進むのは母親らしき女性。子供のことが心配でたまらない、といった表情。しかし、こころを鬼にしてうしろを振り向かない、といった様子。
どんな悪さをして、お母さんをおこらせたのだろう。

 

現代の式神はよく泣く。

そして母式神は、子供を泣きやませるのに難儀している。

 

【大阪市阿倍野区】安倍晴明神社。清明公御生誕伝承の地で葛の葉姫に出会う

平安時代陰陽師 (おんみょうじ)、天文博士安倍晴明公の人気は、現代にいたり世上ますます高まっているように思われる。幾たびも小説や映画に取り上げられ、先日 (2023・4・2~2023・4・27) も、東京銀座の歌舞伎座において、市川猿之助、脚本・演出の『新・陰陽師』が披露されていた。

そんな清明公の生涯には謎が多い。

伝えられている生年や出自にも確たるあかしはなく、御生誕の地としてあげられているところも複数存在する。常陸、讃岐などと並んで、摂津国の、現在では大阪市阿倍野区とされるところもそのうちのひとつだ。

阿倍野区元町に坐す安倍晴明神社は社の由緒書きによると、寛弘4年 (1007年) 花山法皇の命により清明公御生誕の地に創建されたとされる。

しかし江戸時代末には衰微し、明治になる頃には祠と「安倍晴明誕生地」の石碑が残るばかりとなったが、大正14年 (1925年) 阿倍王子神社飛地境内社として、現在の社殿が再建された。

平成17年 (2005年) には安倍晴明公一千年祭が斎行され、現在では清明公の遺徳に触れようと、多くの参拝者が訪れている。

常陸と讃岐の御生誕伝承■
遣唐使として唐に渡った吉備真備が唐で客死した阿倍仲麻呂の霊力の助けを得て、占術の専門書『簠簋内伝・ほきないでん』を日本に持ち帰り、常陸国にいた仲麻呂の子孫、若き日の清明公にその書を譲り渡した。清明公は筑波山で修業を重ね、霊力を得て京にのぼったとされる。
讃岐守護の由佐氏は、もともとは常陸の出。益戸氏は由佐に城を構えて、名を由佐と改めた。常陸にあった清明公御生誕伝承が、讃岐に持ち込まれたのではないか。
他にも、安倍文殊院のある奈良県桜井市を御生誕地とする説もある。

 

安倍晴明神社

神社周辺

あべの筋からすこし奥まっただけだというのに、喧騒からはずいぶんと離れていた。

まわりは閑静な住宅街だ。

日本一高いビル、あべのハルカスが薄緑色にぴかぴかと輝いて威容を誇るさまが、まじかにみえた。

奇妙なかんじがした。

 

いよいよだね。安倍晴明神社。

さっそく境内に入ってみよう。

境内案内

清明公の霊力のなしたことではあるまいが、拝殿に向かう石畳が、右下がりになっている。

そして、背後の流造銅板葺の本殿。

神社の東側をはしる現在の幹線道路、あべの筋 (府道30号線) とは反対の、西向きに建てられている。

それは古来、すぐ西側に熊野街道が通っていたためだろう。

熊野街道とは■
平安時代中期ごろから、京のみやこの皇族、貴人たちのあいだで盛んとなった熊野詣のための、熊野三山へといたる街道。

葛の葉姫

清明公の没後に成立した出生説話に登場する、葛の葉姫の碑がたっていた。

ある時、清明公の父、安倍保名 (あべのやすな) が信太 (しのだ・大阪府和泉市) の森で狩人に追われていた白狐をたすけた。

■安倍保名■
安倍保名は江戸時代中期初演の浄瑠璃芦屋道満大内鑑・あしやどうまんおおうちかがみ』に清明公の父として登場する、創作上の名前。
実際の清明公の父はだれであるか、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)とする説などがあるものの、確たるものではないために、清明公の誕生説話などを語るときには、父としては保名の名前が表記されることが多い。

狐は人間の女 (葛の葉姫) に姿をかえ、保名とともに暮らし童子丸 (後の清明公) を授かった。

しかし童子丸五歳のとき、姫の正体が知られてしまう。

姫は家の障子に和歌をのこし、信太の森へと帰って行った。

恋しくは 訪ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

 ※怨みではなく、裏見。

 

なんだ創作か。これと似たような話、あちこちにあるね。

もちろん狐が人間の子供を産むなんていうのは事実ではないよ。でも神話、民話、説話が生まれる背景には、必ずそれを物語りたいと願った人々の強い動機があるんだ。
その気持ちは真実なんだよ。

 

どういうこと?

つまり清明公は信太とゆかりがあってほしい、と強く願ったヒトがいたんだと思う。たぶん信太の民がそう考えたんだと思うよ。

 

難しい話をするね。

難しい話もするさ。

■葛の葉姫■
それまでは単に「信太妻」と呼ばれていた白狐に「葛の葉」の名前がつけられたのは、江戸時代中期の歌舞伎『しのだづま』が初出とされている。

阿倍王子神社

安倍晴明神社から50メートルほどさきにある阿倍王子神社にも参拝した。

熊野街道に面していたという西側の鳥居をくぐり、境内にはいる。

社伝によると、仁徳天皇の創建とされている。

そして、当地は古代豪族・安倍氏の居住した土地であり、往古にはその氏寺・阿部寺があったとされる。

しかし平安時代にはいると、阿部寺は四天王寺に吸収されてなくなり、あとには氏神社 (うじがみのやしろ) だけが残されることとなったが、ちょうど四天王寺住吉大社の中間に位置することから王子社へと姿をかえた。

おりから盛んになってきた熊野詣のための街道が社の西側に整備された。

■王子社とは■
熊野詣の途上において参拝者の庇護を願い、奉幣や読経がおこなわれた場所。熊野の修験者によって組織化されたとされており、神仏習合的。もともとは在地の神をまつっていた社に熊野権現御子神 (王子神)を勧請するなどした。
なお九十九王子 (つくもおうじ・くじゅうくおうじ) などとも称されるが、実際の王子の数が九十九あったのではなく、たくさんあることの例え。短い期間で姿を消す王子もあったことから、その実数には諸説あるが、百余ともされている。

えっ、王子ってそんな意味だったんだ。

どんな意味だと思ってたの?
まあ、察しはついてるけどね。

 

清明公が若いころ阿倍王子 (あべのおうじ) って呼ばれていたからだって思ってた。
だって映画やドラマにでてくる清明公はみんなイケメン。

そんなふうに勘違いしているヒトは、案外多いよ。
ちなみに「の」はいらないんだ。あべおうじじんじゃ。

左右に二本ずつ、四本の見上げるような御神木に囲まれて、参道が続いていた。

正面に社務所が見えた。

由緒書きを頂戴する。

開いてみる。

おお!

裏返した。

拝殿に歩み出て、柏手を打つ。

許可なく境内の撮影をすることを禁ずる旨の看板が立てられていた。

もう、若い頃のようにあれもこれもと記憶しておくことは難しくなってきた。最近では、神社仏閣を訪れたときには、いつも備忘録的に写真を撮ることにしている。

しかし、社務所にわざわざ申し入れるのもなんだか憚られた。

わたしはスマートフォンをズボンのうしろのポケットにねじ込んで、となりに建つ入母屋造のちいさな社を見た。

前面の朱色が鮮やかだ。

葛之葉稲荷神社。

葛の葉姫がおまつりされていた。

もっと姫を身近に感じたくなった。

いまから信太の森に向かおうか。

■あべのせいめい?■
清明公が実在の人物であったことは確実だが、存命中、どういう名で呼ばれていたかさえ、実は定かではない。音読みが本来の読みだとは考えづらいので、おそらくは「はれあき」「はるあき」「はるあきら」などというのが本来の読み方だろう。しかし多くのヒトの口にのぼり、その名がひろく世間にひろまるうちにいつしか「せいめい」と呼ばれるようになっていったのだろう。
このようなことはめずらしくはない。
『神賀詞・かむ(の)よごと』は現代ではしばしば「しんがし」と呼ばれるようになった。また、その編纂時にはおそらく「ふることぶみ」「ふることのふみ」などと呼ばれていたであろう書物は、いまでは『古事記こじき』としか呼ばれなくなっている。
こうして単なる固有名詞であったものは、公然たる一般名詞へと昇華されていく。

信太の森へ

聖神社

演目によって設定は様々だが、保名 (やすな) が信太の森で白狐と出会ったのは、信太明神 (現在の聖神社大阪府和泉市) に参拝していたおりだとされている。

聖大神 (ひじりのおおかみ)、渡来人、信太首 (しのだのおびと)…。

興味は尽きなかった。

 

聖神社、いまから行くの?

いや、今日はやめておくよ。別のところに行く。
ところで、聖神社の住所を調べてみてよ。

 

えーっと。
大阪府和泉市王子町…、あっ!

そうなんだよ、そこもまた篠田王子  (しのだおうじ) という王子のあったところなんだ。

 

すると清明公ゆかりの神社が、ことごとく熊野街道でつながっていたってことになるね。

そうなんだ。
聖神社も、安倍晴明神社や阿倍王子神社と同様に熊野街道がすぐ前を通っていた。
そこは修験の道、はるか熊野三山へとつづく密教の道だったんだ。
修験道陰陽道密教三者は親和性が高い。

 

清明公の伝承には熊野信仰の影響がある…、ってせっかく盛り上がってきたのに、ここをスルーしていったいどこに行くの?

それはね…、

信太森葛葉稲荷神社

わたしは、聖神社から1.5キロほど離れた信太森葛葉稲荷神社を訪ねた。

いまでは周辺もずいぶんと開発がすすみ、家屋なども建ち並ぶようになったが、ほんの百年も遡れば、二つの神社はおなじ信太の森に坐す社として知られていたことだろう。

その正式名称は信太森神社。

いまでは関西三大稲荷にも数えられる信太森葛葉稲荷神社だが、もともと聖神社末社のひとつを起源とするここに稲荷神を勧請したのは18世紀半ばと、それほど古いものではない。

特筆すべきは、そのひろい境内にまつられた幾多の神仏だろう。

案内図によると、その数じつに68にものぼる神仏ではあるが、巧みに図られた周回路によって、そのすべてに手を合わせることが出来るようになっている。

このような景観をみせる神社は、なかなかほかに例を見ない。

はじめてここを訪れたヒトは、きっと神仏のテーマパークといった感想を抱くだろう。

すっかり日は傾いていた。

参道を進み、本殿にむかう。

本殿わきには、楠の御神木。

樹齢二千年とも言われている。

そのうしろには、ブランコ、滑り台などの遊具が照明に照らされていた。

周回路を巡る。

「姿見の井戸」

白狐が葛の葉姫に化身したときに、御身を鏡代わりのこの井戸に映し見たとされている。

 

tabinagara.jp

 

すごいね。
伝承に出てくるようなところがちゃんと残ってるなんてね。

むしろ反対だろうね。
ここにあるものを伝承に擬した。あるいは伝承にあわせて作り上げた。
ここがながらく個人所有の神社だったからなしえたことなんだね。
幾多の神仏を勧請できたのもおなじ理由でしょう。

 

ふーん。

社名に葛葉とあることからも知れると思うけど、江戸時代中期に披露された歌舞伎や浄瑠璃で人気を集めた葛葉伝承に、お社自身を寄せていった、整備していった。そうして安倍晴明公御母君の古里、と称するにいたった。
そこには非常に強い想いがあったはずなんだ。それが多くのヒトを惹きつけているんだね。
いまも古典芸能や演劇の関係者の参拝が絶えないそうだよ。

清明公由来の「子安石」

 

暗くてなんにも見えないよ。

もっとあかりを。

 

もっと早い時間に来たかった。暗くなるまえに。
それにこんどは聖神社にも行きたい。

そうだね。明るいうちに来れればよかったね。
神様はいっぱい。それに遊具もあって公園みたいだ。
一日中過ごせそうだね。
次はお子さんも連れてくるといいよ。

 

そうしようかな。
ここすごく楽しそう。

それがいい。
社務所では葛葉にかけて葛餅を販売しているらしいよ。
それもワクワクだね。

わたしは社務所のまえで立ち尽くしていた。

ここにとめておいたはずのクルマがない。

わたしの赤いクルマ。

きょろきょろと見回すが、どこにもない。

大きなショッピングモールの駐車場でどこにとめたか思い出せずに、探し回った経験はある。

しかしこの状況で、いったいなにを思い出せというのか。

わたしは境内を出て、来た道をもどっていった。

表通りの、朱色の鳥居が見えてきた。

その先で、見覚えのあるクルマがハザードを点滅させていた。

絶対に、こんなところに駐車などしていない。

しかしドアには鍵がかかっている。

わたしなのか。

そして神社まで歩いたとでも…。

よもや狐に化かされたのではあるまいが。

                                                                                                   

 (最終更新日 2023.5.20)

【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで

相撲の起源はいつどこに求めればよいのだろう。

向きあった力士どうしが呼吸を合わせ、両手を土俵につけるや、立ち合いの一瞬、バシンッ、と凄まじい音を立ててぶつかりあう二つの巨きなからだ。隆起する二の腕の筋肉、四つの足が土俵にめり込まんばかりになる。

見るものを陶酔と熱狂へと連れ去る、そんな相撲の始まりは、いったいどのようなものだったのだろうか。

 

国譲り神話

神話の世界にまで遡ってみると、古事記における出雲の国譲り神話の、大国主神の子、建御名方神 (たけみなかたのかみ) と天津神・建御雷神 (たけみかづちのかみ) との伊耶佐之小濵 (いなさのおはま・稲佐の浜) でのちからくらべを相撲の起源とみることができる。

■それぞれの国譲り神話■
古事記では、天照大御神は建御雷神に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を付き添わせて天下らせている。しかし日本書紀ではそれが経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)となる。また出雲国造神賀詞では天穂日命が自身の子、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に布都怒志命(経津主神)を従わせ、天下らせて葦原の瑞穂国を平定したとされている。そして出雲国風土記では大穴持命(おおなむぢのみこと・大国主神)が、我が造り坐す八雲立つ出雲の国は青垣山を廻らし賜いて守るとし、出雲以外の国を自らてばなしたとしている。

 

tabinagara.jp

 

そして敗れた建御名方神は科野 (信濃) の国に去ったとされている。

野見宿禰當麻蹶速

初の天覧相撲

しかし、より現代の相撲に近い形での伝承となれば、日本書紀に記された垂仁天皇の御前でおこなわれた野見宿禰當麻蹶速の取り組みとなる。
この初の天覧相撲に勝利した野見宿禰は、二上山麓の當麻蹶速の所領を賜ったとされている。

野見宿禰と土師氏■
垂仁天皇32年、皇后日葉酢媛命を葬るにあたって、野見宿禰は殉死をやめ、代わりに土物(はに・埴輪)を埋めるよう奏上した。これをもって野見宿禰は埴輪の製作や陵墓の造営などの葬送儀礼をつかさどった土師氏の祖と見做されている。ながく陵墓の石棺などの切り出し供給地であった二上山麓の土地を賜ったとされるのは、そのような文脈のなかでとらえることができる。

 

tabinagara.jp

 

腰折田

當麻蹶速は腰を踏み折られ絶命したことから、没収された所領に「腰折田」があると、日本書紀は記す。

江戸時代の地誌「大和志」はその所在地を良福寺 (現在の奈良県香芝市良福寺) としている。

近年、国道168号線の良福寺交差点からほど近いところに「相撲発祥伝承之地 腰折田」の碑がたてられ、小さな公園として整備されている。しかしながら、そこはたんに「腰折田伝承之地」としたほうが理解されやすかったかもしれない。

実際、現地の案内板のほうはそのようになっている。

そこには現在の土俵 (15尺) よりも小さな、古い時代の土俵 (13尺) が再現されている。

當麻蹶速之塚

 腰折田伝承地からほど近い、奈良県葛城市當麻には當麻蹶速の墓とされる五輪塔がある。

しかし、當麻寺の開山に携わった當麻国見の墓とする異説もある。

いずれにしても、五輪塔自体は、その様式から平安時代末期ないしは鎌倉時代のものとみなされている。

五輪塔のとなりの「葛城市相撲館 けはや座」では、相撲に関する様々な貴重な資料を見ることができる。

 

tabinagara.jp

奈良時代から江戸時代まで

相撲節会

野見宿禰當麻蹶速の取り組みが、垂仁天皇7年7月7日と日本書紀に記されるなど、宮中にあっては、相撲は七夕の神事、あるいは七夕行事の余興としておこなわれていたと考えられている。

そして聖武朝 (724年~749年) の頃には相撲節会 (すまひのせちえ) として年中行事として定着。射礼 (じゃらい・弓儀式。歩射の一種)、騎射 (きしゃ・馬に乗っての弓競技)とならんで三度節とされた。

やがて桓武朝に健児 (こんでい)の制がはじまると、健児の鍛錬に相撲技が取り入れられるなど、相撲は肉体の鍛錬という面を強くしていくようになる。

■健児の制■
律令制下における各地の軍団に代わり、桓武朝中期の792年、一部の諸国をのぞき新たに布(し)かれた徴兵制度。

その後、平安京にみやこが移ると、相撲節会は次第に優雅な宮中行事へと性格を変えていき、ついには平安時代末期の1174年の開催を最後に相撲節会は廃絶となった。

武家相撲と勧進相撲

肉体の鍛錬としての相撲を、武士が好むのはごく自然なことだった。

鎌倉時代吾妻鏡に記されているように、源頼朝はことのほか相撲を好んだ。鶴岡八幡宮の祭礼には相撲がおこなわれるのが習わしだった。

織田信長豊臣秀吉もたびたび上覧相撲をひらいている。

しかし徳川の天下泰平の世となると、武家相撲は次第に存在意義をうしなって衰退し、代わりにいまに続く民間の勧進相撲が盛んになった。

■お抱え力士■
江戸時代になると、藩の威信を示すために勧進相撲の有力力士を家臣の身分で取り立てることが盛んにになった。雷電為衛門や陣幕久五郎をお抱え力士とした雲州松江藩などが有名。

 

松江は相撲が盛んだったんだね。やはり野見宿禰と関係があるのかしら。

そうかもしれないね。亨和元年 (1801年) の番付表では西の大関以下、上位6名が松江の力士だったんだよ。

横綱は違ったの?

当時は大関が最高位だったんだ。そのころには雲州の力士がいなければ興行が開けないと言われていたそうだよ。

奉納相撲の跡をたずねて

腰折田とおなじ香芝市内の穴虫にある大坂山口神社に向かった。

かつては、盛んに奉納相撲がおこなわれていたという。

鳥居の向こうに、石垣を組んだ桟敷席が設けられているのが見えた。

割拝殿をくぐると、鹿が描かれた額が目に飛び込んできた。

安政六年ということは江戸時代の1859年、安政の大獄があったころだ。
奈良に鹿はつきものとはいえ、奈良公園からずいぶんと離れたここで鹿と出会えるとは思わなかった。

振り返ると、反対側には相撲の額。

奉納されたのは昭和のようだが、描かれている土俵のサイズはどうやら小さい、昔の13尺のようだ。

さらに石段をのぼって参拝。

参拝を終えると、わたしは石段を下りて行った。

その左手に、かつては土俵が設けられていたという。

しかし、いまではその取り壊されてひらけた更地を桟敷席だけが無言で見つめるばかりだ。

わたしは土俵があったとおぼしき場所に立ち尽くしていた。

桟敷席を埋め尽くすにぎやかな歓声に負けじと、力んだ大声で「はっけよい、のこった!」と叫ぶ掛け声が聞こえたような気がした。

 

おもしろそうね。こんど行ってみようかな。

いいね。ちょっと注意してほしいのは、香芝市内には大坂山口神社というのが、この穴虫以外にもう一か所、逢坂というところにもあるんだ。どちらも式内・大坂山口神社の論社と目されているんだ。

 

ややこしいね。

ふたつは歩いて10分程しか離れていないんだ。両方参拝するのがおすすめさ。 

■「はっけよい」と「のこった」■
相撲には、野球における「プレイボール」のような開始の合図は存在しない。二人の力士の両手が土俵についたそのとき、取り組みが開始されることになる。よく「はっけよい、のこった」をそうだと誤解している向きもあるが、あれはまだ勝負のついていない両力士に、はやく決着をつけるよううながしているにすぎない。
「のこった」は相手のからだがまだ土俵上に残っているぞ、あるいはあなたのからだはまだ土俵上に踏みとどまっているぞ、という意味だとすぐに理解できる。では「はっけよい」とはなにか。
諸説ありそのどれもが決定打に欠けるが、相撲がその起源から神事としての側面を持ち合わせてきたことを考えると「八卦よい」にその語源を求める説には、一定の説得力がある。
 

おわりに

腰折田、大坂山口神社と香芝市内の相撲ゆかりの地を巡ったあとに、さあ、こんどは食事だと思ったなら、香芝市内にぜひとも立ち寄りたい店がある。
近鉄大阪線・関谷駅のすぐ目の前にある「相撲茶屋 ちゃんこ好の里」だ。
かつての井筒部屋の力士、好の里関が店長をつとめるこの店でおもいきり胃袋を満たしたいものだ。
 

ちょっと待って。相撲の歴史を教えてくれるって言ったのに、神事相撲についてはあまり触れてないね。相撲節会についても通りいっぺんだった。どうして?

現存する資料がすくないからさ。でももっと詳しく知りたいなら、愛媛県今治市大山祇神社に行くといいよ。いまでも神事として一人角力がおこなわれているんだ。

 

一人角力 (ひとりずもう) ?

そう。稲の精霊相手に角力をとるんだよ。もちろん精霊のすがたは見えないので、まるで一人で角力をとっているように見えるんだ。

 

へえ、一人角力って言葉、神事が語源だったんだ。

いまみたいに空回りみたいなネガティブな意味で使われるようになったのは、明治以降のことなんだ。

 

なるほどね。
じゃあ、はやくちゃんこを食べに行きましょうよ。日が暮れてしまう。ところで、この旅ながらの日々ってブログ、ずいぶん空回りな一人角力ってことはないかしら。

えっ?

 

 

ごっつあんです。

ごっつあんです。

 

行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて

我が国最古の天覧相撲の記録は、日本書紀によると、第11代垂仁天皇の御前での大和の當麻蹶速 (たいまのけはや) と出雲の野見宿禰 (のみのすくね) のとりくみとなる。

もっともこの時代の捔力 (すまひ)、現代の角力 (すもう) とは少々異なっている。

なにしろ野見宿禰は、敗れた當麻蹶速の腰骨を踏み折ったというのだから、いまならさしずめデスマッチのレスリングといったところか。

また、そのとりくみの日が「垂仁天皇7年7月7日」とされているなど、相撲が七夕を中心とした一連の行事のひとつであったとも考えられている。

 

へえ、野見宿禰って出雲のヒトなんだね。

そうなんだ。ただ、山陰の出雲国とする説と、大和国の出雲、現在の奈良県桜井市出雲とする説の二説があるね。

どちらかはわからないのね。

日本書紀を読むと、七夕の7月7日に呼ばれてすぐに来たように読めなくもないから、大和の出雲とするほうが説得力があるかもしれないね。

tabinagara.jp

奈良県葛城市にある、そんな當麻蹶速の名を冠した葛城市相撲館「けはや座」を訪問した。

先月、當麻寺近くにあるそこに着いたときには、すでに閉館時間まぎわで入館をあきらめたのだ。

 

tabinagara.jp

今回は再訪ということになる。

 

葛城市相撲館「けはや座」

さあ、行こう。

入館料、大人300円ときわめて良心的。

入り口をはいると、いきなり「闘士」と名づけられた力士像が出迎えてくれた。

このウイルス騒ぎのご時世、しっかりとマスクをつけている。

どこに行っても見慣れた光景とはいえ、その律儀さに感心した。

館内には、大相撲で使われるのとおなじ規格の土俵が設営されている。

非常に立派だ。
客席も充実していて、二階は資料の展示スペースになっている。

携帯電話で友人に小声で言った。

「いま、相撲館に来てるんだ」

「へえ、相撲をとってるのか」

そんなわけがないだろう。

ここではしゃぎまわるなんていうのは、子供くらいのものだ。

静かに見学してきただけだ。

非常にいい施設だった。

小粋で、展示物も充実している。

それにしても驚いたのは「土俵婚」だ。

これ、何組もやっているのだろうか。
盛況とかだろうか。

仲人は行司さんと呼ばれているに違いない。

「ヒガーシー」「ニシ―ッ」の呼び声とともに新郎新婦が入場してくるあたりまでは、あるいはお決まりだろうか。

ふたりががっぷりよつに組むことはあるまいが、クライマックスでは (どのあたりだろう) 升席から投げ込まれた座布団が宙を舞うことだけは間違いあるまいと思われた。 

わたしは外に出た。

すでに日は暮れかけていた。

當麻蹶速之塚

相撲館のすぐまえに、當麻蹶速の塚がある。

一般に蹶速の塚とされているが、これを當麻寺の開山にかかわった當麻国見の塚とする異説もある。

そして、塚のすぐ横には鉄砲柱があった。


わたしは腰をおとして突いた。

一度、二度と突くと、なにやらおもしろくなってきて、声を出していつまでも突き続けた。

「どすこい、どすこい、どすこい!」

鉄砲柱のむこうの植え込みに、たしかつくしがアタマを出しているのが見えた。

そう、あれはたしかにつくしだった。