【大阪府羽曳野市】河内源氏、壷井八幡宮、そして効果的な水分補給の一方法

月が替わり八月になった。

夏も盛りというわけで、この暑さも当然なのかもしれない。

しかし、夕方4時すぎ、クルマの車外温度計が36度をしめしているのは、いくらなんでもやりすぎだと感じていた。

我慢の限界をこえていた…。

運転中ずっと理不尽だ、無茶苦茶だ、文句を言ってやるなどと、そんな言葉がつぎつぎとあたまに浮かんでは消えていった。

カラダが熱っぽく、さきほどから視界もぼやけ始めてきたようだった。まさか、いま猛威を振るっているウイルスの症状なのか。

カップホルダーのアイスコーヒーに手をのばす。

エアコンの液晶表示が33度になっていた。

どうして…。

いつ手が触れたんだ。

コーヒーを置いたときだろうか。それともⅮⅤⅮを入れ替えたときなのか。

ずっと温風を浴びながら運転をしていたのだ。

息苦しいのも当然だった。

蒸し焼きにもなろうというものだ…。

クルマは外環状線を突っ切って、道なりに進んでいく。

やがて羽曳野大橋を通り過ぎた。

この時期、下を流れる石川の水量はめっきり少なく、川幅は狭くなっている。だだっ広い両側の河川敷が、そのことをいっそう強調していた。

目的地まで、もうすぐだった。

 

壷井水のこと、壷井八幡宮に詣でて

ふたつの峰をもつ双耳峰・二上山を横目で見やりながら、そちらへは曲がらずに、南阪奈道路のしたをくぐりブドウ畑のなかを直進する。

 

そこから、ほんの数分で壷井八幡宮に到る。

しかし、道幅はせまい。

わたしはゆっくりとはしった。

軽自動車のコーナーセンサーがピーピーとうるさかった。

うしろから、ミツビシ・デリカD-5が迫ってきて、たちまち追いつかれた。

こんな大きなクルマで…。

まったくアグレッシブなヒトもいたものだ。

こういうアウトドア志向のクルマに乗るようなヒトは、すべからくそうなのか。

こんな狭い道を行くこと自体がアドベンチャーだというのか。

ただ単に、自宅が壷井にあるというだけかもしれないわけだが。

わたしは社務所前の駐車場を通り過ぎて、鳥居のわきにある第二駐車場にクルマをとめた。

日陰になっていることも、なんの助けにもなっていなかった。

沸騰したような、ねっとりとした空気がまとわりついてきた。

このままもう、わたしは崩れ落ちてしまうかもしれない。

すぐそばに壷井水 (つぼいみず・清泉壷井) が見えた。

この地に館を構え、河内源氏の祖となった源 頼信 (よりのぶ)、その嫡男、源 頼義 (よりよし) が「前九年の役」に際して奥州へと赴いた際に大干ばつに見舞われ、飲み水にもことかくありさまだった。兵の士気もさがるなか、頼義は馬をおり跪くと、身に着けていた鎧を脱いでそれを両手で高々と天に掲げて、どうか飲み水をと祈った。そして弓をぎりぎりと引いて放つと、矢の当たった岸壁から清水が噴き出したという。

渇きをいやし、みごと戦に勝利した頼義はその清水を壺に入れて凱旋し、当地に井戸を掘ると感謝の念のあかしにその壺を底に沈め「壷井水」と称した。

以来、この地もまた壷井と言われるようになったと伝えられている。

壷井八幡宮は、その頼義が石清水八幡宮から神霊を勧請して創建されたものだ。
わたしは鳥居のすぐそばに壷井水があることから、てっきりこれが八幡宮の手水舎を兼ねているものだと思い込んでいた。

しかし、境内にそれとは別に手水舎はあった。

八幡宮は鎮守の杜がことのほか見事で、それだけでも一見の価値がある。

境内は清浄の気に満ちていた。

しかしそれよりもなによりも、わたしはただ暑さのせいでおかしくなりそうだった。

喉がふさがれて、呼吸がうまくできていないかんじだった。

戦の果てに眠るところ


参拝をおえたわたしは、壷井のまちを歩いた。

白壁に格子戸をそなえたふるい家屋が、あちらこちらにのこっていた。

もしもはるか遠くにあるPL教団の白亜の塔 (まるで岡本太郎がデザインした東京スカイツリーといったかんじの、奇抜なあれ) が見えていなかったら、ここが現実の世界とは思えなかったかもしれない。

しばらく進むと、河内源氏菩提寺、通法寺跡にでた。

寺自体は明治の廃仏毀釈によって取り壊されて、いまは礎石がのこるばかり。
ここに頼義公の墓所がある。

そして「前九年の役」に父とともに奥州に付き従った義家公の墓所は、すぐ近く、小山の上に築かれている。

けっこうなのぼり勾配だ。
真新しい手すりの設置されていたことが、わずかな救いだった。
そして頂上まで登ると、義家公の円丘墓よりも、まず、一直線に二十基ほど並べられた墓石が目に飛び込んでくる。おもに通法寺の歴代住職のものだという。

ふたたび壷井水のこと

わたしは来た道をもどりはじめた。

足元がおぼつかない。

すでに、汗さえ出なくなっていた。

皮膚がつぎつぎと剥離していくような感覚に襲われた。

溝の上を水色の背をしたとんぼが飛んでいた。

とんぼは、はて、脱皮をするのだったか。

ここでは一台もジュースの自動販売機を目にしていない。

普段なら、いやというほどあちこちにあるものが…。

 

いま、目の前に壷井水がある。

近年まで飲料水として供されていたと聞いていたが、残念ながら枯れ果てていた。

背後の鎮守の杜が、強烈な西日にあぶられていた。

わたしは壷井水で跪き、首を垂れてバンバンと両手で敷かれた石を激しく叩く。

今度はなんども額をそこに打ちつける。

やがて石が割れ、そこから清水が噴き出すだろう。

そのさきに見えるのは、頬がこけ、髪をふりみだして片手に鎧を引きずるように持って立ち尽くす武者の姿。

【葛城一言主神社】一言の願いならなんでも成就の関西最強パワースポット!

あるとき、雄略天皇葛城山に多くのお供の官人を従えて登られていたところ、向こうの尾根を行くヒトたちがいた。それが天皇の行列と人数も装束もまことに似通っていた。

天皇はお尋ねになられた。

「この国に、わたしのほかに王はいない。あなたは誰か」

すると相手も、おなじ言葉を返された。

「この国に、わたしのほかに王はいない。あなたは誰か」

天皇は大変お怒りになり、御自身も、お供の官人たちもいっせいに弓矢をかまえられた。

すると向こうの尾根のヒトたちも、みな弓矢を構えた。

天皇は仰せになった。

「名を名乗れ。そしてお互いに名乗ってから矢を放とう」

「わたしがさきに尋ねられたので、まずこちらから名乗ろう。わたしは悪事 (まがごと) も一言、善事 (よごと) も一言で言い放つ言離神 (ことさかのかみ)、葛城の一言主大神 (かつらぎのひとことぬしのおおかみ) である」

「畏れ多い大神よ。ヒトの姿でお出でになられたのでわからなかったのです」

天皇は御自身の刀と弓矢、そして官人たちの着ていた衣服を脱がせて献上した。

大神は柏手を打ち、それらを受け取られた。

 

葛城一言主神社

 

葛城一言主神社 (葛城坐一言主神社・かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ、奈良県御所市) の創建年は不詳とはいえ、狩りをする雄略天皇一行のまえに、大神が御姿をあらわされた地に社殿を創建したのが始まりと伝えられている。

その際に、大神が仰られたお言葉から、一言の願いならどんなことでも叶えてくださるありがたい神としてひろく信仰を集め、全国各地の一言主大神を奉斎する神社の総本社となっている。
延喜式神名帳 (927年) では名神大社に列せられた。

鳥居のすぐ後ろ、人目につきにくいところに蜘蛛塚がある。

ここに限らず、葛城山周辺には蜘蛛塚 (土蜘蛛塚) と称されるものが多くある。

拝殿へと向かう長い石段のわきに、亀石がある。

役行者が悪行絶えぬ黒蛇を調伏し、そのうえに亀の形をした石を置いたものと伝えられている。御利益を求めて、多くの参拝者がそこから滴り落ちる水で身を清めるという。

境内に高くそびえる銀杏の御神木は樹齢千二百年ともいわれ、子宝の御利益があるとされている。

拝殿横に、雄略天皇像がある。
大神との問答のときをイメージしたような緊張した表情だ。

わたしの願いは…

雄略天皇が大神と出会われたとき、じつはこっそりとなにか一言お願いをされていたのならどんなに面白いだろう。そんなことを思いながら、わたしは静寂のなか拝殿へと歩み出た。

さて、わたしはなにをお願いするつもりでここに来たのだったか…。

いったいわたしはなにを願っているというのだろう。

【奈良県橿原市】大和三山・天の香久山訪問記、登山道、磐座、神社、国見台からの眺め。

香久山、耳成山畝傍山…。大和三山の中でも、古よりしばしば「天の」と尊称を冠して呼びあらわされ、一等神聖視されてきたのが香久山だ。

天照大御神の天岩屋戸神話、神武東征のさい香久山の埴土 (はにつち) で祭器をつくり、天神地祇 (あまつかみくにつかみ) を敬いまつったという伝承。

やまとの国の始源の物語に、この山は深くかかわってきた。

 

天香山神社

香久山に到着した。

遠くから眺めているうちはあれほど美しい山容を見せていたものが、いざ目前まで来てみると、なんだかぼんやりとした姿に映ってしまう。

遠くから眺めるにとどめておくにかぎるなどと軽口をたたいたなら、なにやら高慢ちきな美人のようになってしまう。

でも実際に、すこし離れた、右手に見える耳成山は凛と整った姿をしめしていた。

わたしはまず、「月の誕生石」と名付けられた、香久山にいくつも残る磐座のひとつにむかった。

これは奈良市東部の柳生の里にある、柳生宗厳が刀で真っ二つに切り裂いたと伝わる巨石「一刀石」にそっくりだ。
その柳生の里も、本殿をもたずに三つの巨石を御神体と崇める天乃石立神社 (あめのいわだてじんじゃ)をはじめとして、磐座信仰のようすを色濃くのこすところだ。

天香山神社の鳥居をくぐると、右手に波波迦 (ははか・植物の名称とも、香久山の場所の名前とも) の木が見える。
天照大御神が天岩屋戸にお隠れになったあと、布刀玉命 (ふとたまのみこと) がこの木を用いて占いをしたという。

令和への御代替わりの大嘗祭に際しても、ここの波波迦が宮中三殿に献進されている。
わたしは拝殿へと進み、参拝をおえると、参道横にある登山道から山頂を目指した。

ふりしきる雨音が、いっそう激しくなってきた。

それでも頭上を覆う木々の枝葉のおかげで、傘なしで歩けたことは幸いだった。

それにしても、この急勾配の階段状の登山道、20日ほど前に登った二上山・雌岳のそれと瓜二つだ。一瞬、自分はまだ二上山にいるのかと思ってしまったほどだった。

 

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國常立神社そしてミカドの国見

山頂に到着した。
わずかにひらけた平らな土地に坐す國常立神社 (くにとこたちじんじゃ) がわたしを迎えてくれた。

遠くに目をやると、畝傍山が見えた。

国見だ!

舒明天皇はここからやまとの国を眺め、あちこちから立ち上がるかまどの煙を見て、民の豊かな生活を大層お喜びになり、神武天皇の国見歌を踏まえながら「あきづ島 大和の国は」というあのよく知られたうたを詠まれたのだ。あるいはそうあれと願ったことほぎのうただったのだろうか。

国土神・國常立尊を迎えた山頂で、やまとの国の安寧を願った舒明天皇に思いをはせながら、わたしは反対側の登山道から山をくだっていった。

まだ、肩で息をしていた。

標識があった。

ここから4分ほどくだったところに、国見台跡があるという。

山頂から国見をしたのではなかったのか。

これはもう、なにがなんでもその場所を見ておかねばならない。

しかし、生い茂る下草のせいで、もはやどこが道なのかも判別できないありさまだった。しかもますます、地面はぬかるんできていた。

いったいどこをどう行けばいいのか…。

それでもわたしは歩みをとめることはしなかった。

困難にあたっても決して逃げることなく愚直に突き進み、たとえこの身が尽きようとも、初志貫徹、思いを遂げること。それが大和魂

4分ほど歩くと、登山道口に出てしまった。
いったいどこから国見を…。
ここからなのか。

大きな石碑の裏手あたりが、台形上に開けている。

あるいはそこが国見台だというのか。

そこから眺める畝傍山は、ちいさな踏み台の上から見たように、ずいぶん身近に感じられた。

わたしも日々、このやまとの国を見ている。

10日ほど前、元首相が奈良市内で銃撃されて亡くなった。ウイルスの感染者数が過去最高を更新した。連日、食料品値上げのニュースが報じられている。数日おきに国のどこかでゲリラ豪雨が発生し、災害被害がでている。

きのう、古い友人から連絡があって、ひさかたぶりに会った。

冷凍うなぎを三尾、もらった。

 

安倍晋三元首相の死を悼む。異質なものを「はぶく」風潮に怒りを。

昨日7月8日、午前11時半ごろ、奈良市近鉄西大寺駅前で、安倍晋三元首相が銃撃された。心肺停止状態で奈良県立医科大学附属病院に搬送されたが、同日午後5時3分、死亡が確認された。

想像だにできない蛮行だ。

各党は直ちに声明を発表した。

いわく……、

参議院選挙のさなかに、民主主義の根幹を揺るがす暴挙だ」

「暴力によって自由な言論が抹殺されるようなことがあってはならない」

「いかなるテロにも屈しない」

間違ってないよ。

でも、現行犯逮捕されたオトコが、そんな大上段に構えたことを考えていたとは到底思えないな。

動機について、元首相の政治信条に対しての反感からではない、と早々に供述してるじゃないか。

元首相が自分とは違うクラスにいて、違う団体を信じ、自分とは違って雄弁に語る。そんなことにすこしづつ違和感を感じつづけ、それが積もり積もってどんどん大きくなって、ついにはこの異質なものを「はぶく」しか自分の生きる世界はない、と思うに至ったのではないのか。

 

近鉄西大寺駅

近鉄西大寺駅といえば、近くに秋篠寺があり、また、すぐ東には平城宮跡がひろがる。

そんなのどかなところと、銃撃という言葉とが、どうにも結びつかない。

わたしはこの目で確かめたくて、ほんの2時間ほど前まで、そこにいた。

現場が駅の北側なのか、南側なのかと迷うことはなかった。

花を手にした多くのヒトが向かうほう、そこが悲しみの場所だった。

夜、10時半を過ぎてなお、目を閉じて手を合わせるヒトが絶えなかった。

花が手向けられていた。

そのなかには、元首相の故郷の銘酒、獺祭 (だっさい)もあった。

地球儀を俯瞰する

ときどき、ひまにまかせて紙ひこうきを折っている。

それがきらきらひかる海の上を飛んでいるところを想像しながら。

馬鹿みたいだ。

でも今夜だけは、どうかこの書斎で飛んでくれないか。

ふわふわと天井までのぼっていって、俯瞰してください。地球儀を。

 

【奈良県葛城市】七夕の夜空に願うこと、棚機(たなばた)神社

子供のころの七夕の記憶といっても、なにやら願い事を書いた短冊を笹竹に結びつけたかな、といった非常にぼんやりとしたものでしかない。

五節句のひとつとはいえ、大人になってからはすっかり意識のすみに追いやられて、織姫と彦星の名前を口にすることもなくなり、いつしか夜空を仰ぎ見ることさえしなくなっていたと、いまさらのように気づいた…。

 

棚機(たなばた)神社

「棚機神社ってどこにあるの。はじめて聞く名前だ」

そんな風にたずねるヒトには、南阪奈道路の側道沿い、葛城インターチェンジのすぐそば、と言えばわかってもらえるのだろうか。それとも道の駅・葛城の裏手あたり、と説明するほうが適当だろうか。

奈良県葛城市太田の棚機神社に詣でると、御由緒を記された説明版が目にはいった。

五世紀、この地に大陸から最新の織機「棚機」とともに「牽牛と織女の七夕の物語」や機織り技術の向上を願う棚機の儀式が伝えられた。

そして、織物の専門集団である倭文氏 (しどりし) の祖神をまつる「葛木倭文坐天羽雷命神社・かづらきしどりにいますあめのはづちのみことじんじゃ」が創建されたと言い伝えられているが、葛城市加守に遷座された後は、天羽雷命と対になる天棚機姫神 (あめのたなばたひめのかみ) を村人が細々と、石祠にまつってきた。

現在では「棚機神社保存会」のもと、境内は常に掃き清められ、古来よりの伝統祭祀も欠かさず執り行われている…と。

織姫の星に願いを

きょうは七夕。日本晴。

織姫と彦星のふたりがどうか会えますように。

青(緑)・赤・黄・白・黒(紫)の五色の短冊に願い事を書こうか。

そして夜空にひかる織姫の星に祈る。

 

 

二上山・雌岳に実際に登ってみた。山の神の息づかいを濃密に感じた。

おなじ山頂を目指すにしても、そこにいたる登山ルートは幾通りも存在する。

よく整備され、舗装の行き届いたおだやかなルート。山中行軍とでも嘆きたくなるような急勾配のみち。そして文字通りのけもの道…。北から、南から、西からと起点を違えたさまざまなルート。

奈良と大阪の府県境にある二上山は、やさしい山容を見せている。ふもとの穏やかな田園風景ともあいまって、雄岳・雌岳のふたつの峰をもつこの山が、かつて火山であったとは、なかなかすぐには納得できない。

わたしは大阪府太子町側にある二上山登山口から、まず、雌岳にある鹿谷寺跡 (ろくたんじあと) を目指した。

そこからなら、「ろくわたりの道」という整備された登山道を行くのが一般的だ。

しかしわたしは、そこよりもすこし東寄りのルートを選んだ。

登山はよく、人生にたとえられる。

正規ルートではなく、そんな裏道を選んでしまうあたり、これまでのわたしの人生の歩みが、推して知れるというものだ。

鹿谷寺跡

ろくわたりの道をすこし東にそれると、道がふたてに分かれていた。

右手に進めば、岩屋や古代池があるはずだ。そして短い渡し板をこえて左手に進むと、鹿谷寺跡にいたる。

まちがいはない。

ちゃんと標識がでている。

しかし薄暗く、いかにも険しい山中に入っていくかんじだ。気が進まなかった。しかしすぐそばにたつ石仏のありがたい、慈悲深いお姿に後押しされた。

道はいちおう階段状に整備されていた。

しかし、一段一段の幅が広すぎて、一歩では登れない。しかも急勾配だ。

ここは「大阪近郊のファミリー向けハイキングコース」をうたっているが、それはろくわたりの道のはなし。

これは断じてハイキングなどではない。ロッククライミングだ。もう壁をよじ登っているかんじ。

そもそもこの道に入るとき、スマホのナビは「目的地まであと5分」と告げていた。おかしいではないか。もうかれこれ10分は経っているのに、表示はまだあと5分のままだ。たとえ10分のうち、6分は息も絶え絶えにへたり込んでいたにしても。

わたしは振り向いた。

背後に識別不能な石造物がたっていた。

元々はやはり仏が彫られていたのだろうか。

わたしは先を急いだ。

ますます道は険しくなっていき、やがて岩壁が行くてをふさいだ。

 

これを登って行けというのか。

ジャージと安物のスニーカーで来てるんだぞ!

ロープもハーネスも持っちゃいない。

目的はハイキングがてらの仏教遺跡巡りなんだ、ロッククライミングじゃない!

しかしどうやら御仏 (みほとけ) の加護があったようだ。

鹿谷寺跡は、8世紀、奈良時代の石窟寺院跡だ。

付近からは、土師器、須恵器や和同開珎などの出土物が確認されている。

詳しい創建年などの由来は明らかではない。しかし、インドや中国の敦煌など大陸で盛んだった石窟寺院が当時のわが国で認められるのは、ここ二上山山麓が唯一であること。また、その時代、この近つ飛鳥周辺 (現在の太子町、河南町羽曳野市)では渡来系豪族が勢力を誇っていたことなどから、かれらの関与は濃厚だろう。

十三重の石塔がまず目にはいった。そして、すぐそばの岩窟に線刻された三尊仏座像。

 

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わたしはしばしそれらに見入ったのち、こんどは反対側、ろくわたりの道のほうへと抜けて、山をくだっていった。

あっけないほど簡単に登山口まで戻ることができた。

岩屋と石切り場跡

つぎに、わたしは岩屋へとむかうことにした。

こちらの道は舗装が行き届いている。

しかし、きつい上り坂であることに変わりはない。

ぜいぜい息せき切ってのぼるわたしのうしろから、ヒトの気配が近づいてきた。話し声が聞き取れるようになる。

十代半ばの少年二人だった。

「こんにちは。おとうさん、岩屋ってこの近くですか」

「もうすこし先かな。若いのに仏教遺跡とは渋いねえ」

「いえ、ボクたちカブトムシを捕りにきたんです。岩屋のそばにたくさんいるってきいて」

「ああ、それで網なんか持ってんのか」

最近、見ず知らずの年下の者から、おとうさんと呼びかけられることがめっきり増えた。もう孫がいるような歳なのだから、それもさもありなんだ。わたしはそのたびに、いつも何食わぬ顔をして返事を返している。でも、ほんとうはこう言ってやりたいのだ。

「わたしはただのいちども、おとうさんになったことはないよ。ましてやきみたちのおとうさんじゃない」

登山道のまわりでは、あちこちでアジサイの花が、いまが盛りと咲き誇っていた。

岩屋まであとすこしのところまで来たとき、石切り場跡が左手にあった。

ぺらぺら、ぼこぼこのブリキ板。

もうすこしなんとかならないものかと思いながら、わたしは石切り場跡へとのぼっていった。

ここから高松塚の石室に使用した石材を切り出して、さて、この急斜面をいったいどうやっておろしたんだろう。

この登山道に足を踏み入れて以来、わたしに寄り添うように何者かが森の中でうごめく気配をずっと感じていた。下草をゆらして地面を這いまわり、木の枝から枝へと飛び移っているようだった。先程の少年たちであるはずはない。

それは岩屋が近づいてきたいま、いよいよ数を増やして、濃密に感じられるようになった。

山の神なのか。

まさか山の神がわたしに迫り、わたしと同体になろうとしているというのか。わたし自身がこの山になる!あとはもう、無上の法悦があるばかりだ。

岩屋は鹿谷寺跡とおなじく、奈良時代の石窟寺院跡だ。

大小ふたつの石窟からなり、大きいほうには三層の多層塔があり、壁面には三尊立像が彫られている。

すぐ手前には、杉の倒木が横たわっており、近づくにはそこをくぐらなければならない。

わたしは山をおり、クルマに乗り込むと家路についた。

きょうは裏道、けもの道まがいと、いろいろな道を歩いた。

明日からは、王道だけををまっすぐに歩んでいきたいものだ。

二上山山中に眠る古代信仰の跡、N君の思い出、大阪府太子町

休日の朝、庭先の白い花が芳香を放つ。

その花をつけた木は、玄関からガレージにむかうあいだにある。大豪邸ではあるまいにほんのわずかな距離、前日も、前々日も、毎日そのよこを通っていたのに、気づいてやれなかった。

元々、そこには背の高いハナミズキが植わっていた。

リードをつけて、庭でひなたぼっこをするしまこ (愛猫) が、よくそのそばで寝そべっていたものだ。

しかし、しまこが亡くなると、翌年、ハナミズキの木も後を追うように枯れてしまった。

かわりに植えたのがいまの木だ。

ガレージのすみにあったちいさな鉢植え。

最初の数年間は、花をつけなかった。

それがどんどん大きくなり、やがて白い花を咲かせるようになった。

この木の名前をわたしは知らない。

我が家では「しまこの木」と呼んでいる。

「しまこの木に花咲いてる!」

「このこ、白い花を咲かすんやったんや!」

花に顔を近づけてみた。

こんなかおりはいままで知らなかった。どんどんアタマがクリアになっていく。

いつまでもこうしていたかった。

 

N君のこと

ちょっとした日帰り旅行が好きで、休日にはよくドライブをする。

東に向かうときは針の温泉につかったあとで、名張にまであしを伸ばすことが多い。南なら吉野になる。吉野川のゆったりとした流れを日がな一日眺めている。西なら、何といっても大阪府の太子町だ。陵墳を巡ったあとで、ブドウ畑のなかをきょろきょろして歩く。盗人 (ぬすっと)に間違われやしないかと、すこしだけ不安になりながら。

 

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N君と知り合ったのは、その太子町にある道の駅でだった。

「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」わたしは赤い軽自動車で。N君は四代目の黒いフェアレディZ (形式名 Z32)で。

Z32 は1989年デビュー。2000年まで生産された息の長いモデルだ。20年以上前のクルマを、30代半ばとおぼしきN君が新車で買えるはずはない。憧れのクルマを、中古車店巡りのすえに手に入れたのか。あるいは親父さんの、アニキのものなのだろうか。

伝統の三連メーターを排して操作系を左右のサテライトスイッチに集約した内装は未来的で、流麗なスタイルの外観と相まって、さながら宇宙船のようだ。

人目を惹くクルマなので、わたしはいつも気になっていた。

そうしてなんどか顔を合わすうち、わたしたちはどちらからともなく、短いながらも言葉をかわすようになっていった。

最初わたしは、きちんとした身なりのN君のことを失業中だと決めつけていた。会社の倒産を家族に告げることができずに、今までどおりに家を出て、夕方、笑顔で帰宅する。そんなかわいそうなヒトの記事を安手の週刊誌で読んだばかりだったせいだが、なんど会っても、N君からはそんな悲惨さは微塵も感じられなかった。ただ、わたしと同様に休みが平日、というだけのことだったのだ。家業の工場を手伝っているのだという。すっかり気心が知れるようになったころ、わたしはN君に、その誤解をあやまりながら打ち明けてみた。すると、かれのほうでもわたしのことを同様に思っていたのだと知らされて、わたしたちはゲラゲラと笑いあった。

大きな笑い声は、広い駐車場にえんえんと響いた。

腹がよじれそうだった…。

快晴。平日の午後、駐車場はいつものようにすいていた。

二上山山中の史跡について

その日、いつものように道の駅にクルマを乗り入れると、さきに来ていたN君が、待ちかねたとばかりに近づいてきた。目にちからがこもっている。

何事だろうか。

「ああ、すいません…。唐突なんですが、すぐそこの二上山登山口、ご存じですか」

「おう、わかるよ。この国道のすぐさき」

「勘弁してくださいよ、国道なんて味気ない言葉は。官道と言ってくださいよ。せめて竹内街道って」

いつものシャイなN君ではない。普段わたしたちは、当たり障りのないことしか話さなかった。天気のこと、コーヒーのこと、タバコのこと、そしてフェアレディZのこと…。会話は面白かった。

「今朝、すごく早くにここに来たもんで、あそこから二上山に登ってみたんですよ。清明な朝の空気に誘われたってところでしょうか。で、この山はすごい。二上山は」

いったいなにを言いたいんだろう。

「この山中には、史跡がいっぱい点在してるんですよ、石造の。ご存じでしたか。この山に入ったこと、おありですか」

「いや、山中にはいったことはないな。でも、すこしは知ってるよ。岩屋とか、ほかにも…」

「そうそう、それに鹿谷寺跡 (ろくたんじあと)」

わたしは二度、小さくうなずいた。

「どちらも奈良時代の仏教遺跡ですよね。見事でしたよ。それにしても鹿谷寺跡、ボクはあれをまぢかに見て、カラダが震えました。あの十三重の石塔。高さは5メートルでしたか。あれはよそで造った塔をあの険しい山中に持ち込んで、組み立てて設置した、そんなもんじゃないんです。それだって途方もないことだ。でもそうじゃなくて、まわりの凝灰岩の岩盤を掘り込んで、掘り下げていって、最後にあの石塔を残したんですよ!つまりあの塔は、足下の岩盤と同体ってわけです。これって人力のなせる業なんでしょうか。なにを想えば、そんなことができるんですかね」

「それは違うと思うよ。最初から石塔の建立だけを意図してたんじゃなくて、そこはもともとは石切り場だったはずなんだ。さんざん石を切り出し、運び出して、最後にのこった部分を石塔に加工したんじゃないかな」

「石切り場。そう、岩屋のすぐそばにも石切り場跡が残っていましたよ。高松塚の石棺はここから切り出されたんだって、プレートがありました。つまりこの二上山は、古墳文化仏教文化のあいだのミッシング・リンクってわけなんですよ」

なぜ、そうなるんだ。

「大阪と奈良の府県境には、山々が連なってますよね。北から、生駒山信貴山二上山葛城山金剛山…。この一連の山系には…」

山中でおかしなガスでも吸ったのかい、などとは言わなかった。

「ちょっとコーヒーブレイクにするか。歴史談義、興味深いよ。なにか買ってこよう」

売店にむかうわたしの背後で、N君の声がした。

「この山系で修験道がおこったこと、これは必然だったんですよ」

屯鶴峰駅を夢見て

わたしはN君にコーヒーを差し出した。N君はブラック一本やりだが、わたしは甘いのを好む。

さあ、Zの話でもしようじゃないか。もうすぐ新型がでる。プロトタイプを見たぞ。すごくいかしてる。

それにしても、いつもピカピカにしているZ32、きょうは埃まみれだ。どうしたんだろう。

N君はひとくち飲むと、言葉を続けた。今日はどうしてもこの山のことを話したいらしい。

「ここには、ひとつ気になることがあるんです。上ノ太子駅二上山駅のあいだに、むかし、もうひとつ駅があったってご存知でしたか」

「屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) だね。最近ウィキで知ったよ」

「ボクもおなじく…、です。それって正確にはどのあたりにあったんでしょうかね。ボクは屯鶴峯の駐車場のあたりじゃないかって思ってるんですよ。ちょうど線路のすぐ横ですしね。あそこに駅があって、にぎやかな家族連れがおおぜいおりてくる。そんなところを想像すると、なんかワクワクしてきませんか。それでみんなして白い岩の上に腰を下ろしてお弁当をひろげるんです。なんか楽しくありませんか」

わたしのほうから誘ってみた。

「いまから行ってみるか、屯鶴峯」

 

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ちょうど山の反対側になるとはいえ、20分ほどで二台のクルマは屯鶴峯の駐車場に着いた。

わたしたちはクルマからおりて、あたりを見まわした。ほかのクルマはなかった。道路をはさんだ向かい側に、ちいさなため池があった。

 

すでに日は暮れかけていた。

遠くから、はしる列車の音が近づいてきた。

突然、N君は駐車場の柵を飛び越え、線路のうえに立った。

笑っていた。

「おい、なんの真似だ!」

N君はわたしのほうに向きなおると、右手を腰に当て、左手を真横に伸ばすと、近づく列車のほうを指さした。

「思ったとおりだ。やっぱりここなんだ!」

おい!わたしは叫んだ。

迫りくる列車のライトが、一瞬N君の姿を照らし出す。そしてすぐさま、その強烈で、猛々しい白い光。激烈で、有無を言わせぬ強い光がわたしの視界を覆いつくした。

「みんなどうして気づかないんだ!いまもここが駅なんだ!無くなってなんてなかったんだ!列車はここにとまるんだ!」

しかし、列車はとまらなかった。