屯鶴峯。奈良県のインスタ映えスポット、次に来るのはここだ!

近鉄南大阪線上ノ太子駅と次の二上山駅のあいだは、わずか5キロあまり。その短い距離のあいだに、じつは戦前まで、もうひとつ駅があったとつい最近になって知って、たいへん驚いたものだ。どこにあったにせよ、それは山深いところにポツンと駅があったことになる。いまでは周辺のどこにも、その面影をみいだすことは難しい。

屯鶴峰駅 (どんづるぼうえき) は1937年 (昭和12年) 12月、屯鶴峯 (屯鶴峰とも) を訪れる行楽客の便を図るためにつくられた。しかし1945年 (昭和20年) 運用を停止。そして1974年 (昭和49年) 応神御陵前駅などとともに、正式に廃駅にいたったという…。

奇勝・屯鶴峯

太子町の観光みかん園を眺めながら、穴虫峠をクルマはのぼっていった。

大阪と奈良の府県境を越えて、今度はすぐにくだり坂になる。

ハイキング姿の四人連れが、屯鶴峯の入り口で楽しそうに記念写真を撮っていた。わたしと同年配の男女、夫婦だろうか。そして若い女性ふたり、かれらの娘だろう。

こんなウイルス騒ぎのさなかでも、(だからこそ) ここは根強い人気があるようだった。

雨上がりの曇り空。気温のあがりきらない今日のような日は、歩くには好都合といえる。

わたしはクルマをとめて、かれらのあとに続いた。

屯鶴峯は金剛生駒紀泉国定公園の一角を占める、奇岩群・奇勝地である。
二上山の火山活動 (最終活動期は1400万年前とも) により堆積、その後、隆起して露出し、長い年月の風化、浸食を経た白色の凝灰岩のみせる景観は、まさにまれにみるものだ。そして、これが鶴が屯 (たむろ) しているさまを想わせることが命名の由来だという。

わたしは首をかしげるばかりだった。

いくら目をこらしても、どこにも鶴はいない。

上半身をひねって眺めたり、天橋立よろしく股のあいだからみてみても、おなじだった   (上半身をもとに戻したとき、頭がくらくらした) 。いまもまだらに斜面に雪ののこる春の雪山にしかみえなくて、わたしはくすくすと笑いだした。

しかし、白色が目にあざやかなここの眺望景観がみごとに美しいことに異を唱えるかたは、おそらくおられないだろう。

二上山から切り出された石材は、高松塚古墳の石棺をはじめ、おおくの古墳に使われていることが、近年の調査結果で明らかになっている。
鶴が、石切り場から運んだわけではあるまいが…。

暗闇の中で

その夜、暗闇をみた。

あれは明かりを消した部屋の天井だったのか、タバコを吸うために外へ出たときに眺めた夜空だったろうか。それともわたしの瞼の裏だったのか。

赤茶色の、四両編成の近鉄電車が、左手からななめ上方にゆっくりと、音もなくのぼってきた。そしてぐるぐると、おなじところをまわりはじめた。ぐるぐると、いつまでも…。

自分の停まるべき駅がみつけられなくて、所在なさげに、いつまでも、いつまでも。

 

大阪府太子町、飛鳥戸神社と観音塚古墳に行ってきた。うかつにも子供のころの甘い思い出がよみがえってきた。

「近つ飛鳥博物館」「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」「飛鳥ワイン」「飛鳥橋」…。

遠方から大阪府太子町周辺にはじめて来たヒトのなかには、首をかしげるむきもおられるだろう。

ねえ、飛鳥って奈良じゃなかったかな、飛鳥ナンバーのクルマって奈良だよね、と。

飛鳥という地名自体は全国あちこちにあり、とりたてて特殊な名称ではない。

古事記は、その由来をつぎのように記述している。

いのちを狙われ、難波 (なにわ) から石上神宮に退避した履中天皇のもとへ向かう弟の水齒別命 (みずはわけのみこと・後の反正天皇) が、仮宮をたて最初に宿泊したあたりを近つ飛鳥 (難波から近いほうの飛鳥)、翌日やまと入りし、神宮にむかうまえに泊まったところ周辺を遠つ飛鳥 (現在の奈良県の明日香村) と呼ぶと。

そして、近つ飛鳥を飛鳥戸 (あすかべ) ともいい、近年では河内飛鳥ともいう。

ここは不思議なところだ。

あたりを見回してみる。

遠くの山並みを見ているときには、なんの違和感もない。しかしひとたび視点をちかくに移すと、駅舎、神社、コンビニ、古墳…、薄い膜をとおして風景を見ているような奇妙な気持になる。なにやら退行して母体にまい戻ったような、あるいは前世を見ているような。

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だからわたしは、なんども繰り返しこのあたりをよく散策する。

また、ちょっとした驚きに出会いたくて。

飛鳥戸神社に詣でて

太子町に来た。

丘陵地のいたるところ、ビニールに覆われたブドウ畑でしめられている。

遠くに二上山のふたつの峰がはっきりと見えた。あの山を越えると奈良県になる。

わたしは近鉄上ノ太子駅前を通り過ぎ、すぐさきにある飛鳥戸神社 (あすかべじんじゃ) を目指していた。

もう、なんどめかの参拝になる。

駐車場のないことはわかっていたので、近くにクルマをとめて徒歩でむかった。

飛鳥戸神社は創建年は不詳。

元々は飛鳥戸造 (飛鳥戸氏) の祖神、百済の昆伎王 (こんきおう) を祀っていたとされている。延喜式神名帳では名神大社に列せられている格式高いお社だが、明治41年、近隣の壷井八幡宮に合祀された。そして昭和27年、分祀され、以前の社地近くの現在地に再建された。そのような経緯から、いまでは名神大社の格式と結びつかないほどこじんまりとしているが、そこからずいぶんと離れたところにある石造りの鳥居が、かつての広大な神域を偲ばせてくれる。

短い参拝道に咲く花が、わたしを出迎えてくれた。

石段のさきで、わたしと同年代の夫婦が、ほうきを持って落ち葉を掃いていた。

「こんにちは」

「ごくろうさまです。ようお参りで」

拝殿の奥に引き戸があり、本殿にすすむには、そこを通らなければならない。わたしはなぜかしら引き戸を開けるのがためらわれ、いつも拝殿で柏手を打って、そこを辞する。

本殿のまわりに、幾本かのちいさな木が植樹されていた。

数年前、夕刻にここの参拝をおえて背後から流造の本殿を見返したとき、ぎょっとしたものだ。

鎮守の杜のないむきだしのそれは、まるで墓標のように、卒塔婆のように見えた。

いつの日か、植えられた木々が大きく成長し、杜となって、その見事さにわたしは息をのむことになるのだろうか。

観音塚古墳

飛鳥戸神社をあとにして、わたしはすぐ近くにある観音塚古墳にむかった。

めったにない経験だった。ナビゲーションをたよりに進んで、道に迷うのは。

南河内グリーンロード (広域農道) を突っ切って、そのまま直進する。

すぐに左手にため池が見えてくる。

そこを左折しなければならない。

うかつにもまっすぐに行った場合、どんどん道が狭くなっていく。Uターンするにも決死の覚悟がいる。もしもあなたが、すこしくらいクルマのボディーに傷がついても、ぜんぜん気にしないぜ、というのであれば、いちど行かれてみるといい。

とにかく、そこで左折する。

ちいさいが、標識がたっている。

すると、コンクリート製の階段が見えてくる。

そこをのぼって行く。

そのさきに、観音塚古墳がある。

かなりののぼり勾配だ。

わたし (60歳目前、体脂肪多し) は、途中でいちど足を止めなければ登り切れなかった。

この観音塚古墳は発掘調査がおこなわれていないため、詳細はわからないまでも、7世紀に築かれた、円墳ないし方墳とされている。

ぽっかりとあいた古墳の穴。

わたしはそれを眺めるうちに、小学生時代に夢中になった無数の穴のことを思い出した。

「こっちへこいよ。いいものみせてやる」

小学校一年生、集団下校の途中で、級友が声をはずませて言った。

下校ルートを外れるのは悪いことだと思いながらも、好奇心には勝てなかった。

われわれ5,6にん。かれのあとに続いた。

「ほら、これ!」

目の前の、粘土質の切り立った斜面に多くの横穴が開いていた。30ばかりだったろうか。

級友はハナの穴をひろげて続けた。

「これ、原始人のイエなんだ。ここでマンモスとか、食べてたんだよ。骨がでてきたって、お兄ちゃんが言ってた」

それからは、いつも下校時にはその穴に寄り道をしたものだ。

めいめいが、ここはボクの穴と勝手に決めて、そこにお気に入りのおもちゃを隠したり、駄菓子を持ち寄って食べたりした。

しかしクラス替えがおこなわれて、二年もすると、次第に横穴へは行かなくなった。

四年生になっていた。

わたしは例の級友に、横穴のことをもちだしてみた。

かれの返事は、意外だった。

「違うんたよ。あれは防空壕だったんだ。まえの戦争のときのね」

あれから半世紀たった。

近鉄生駒駅のすぐそば、あのあたりにも何度か再開発の波が来たことだろう。もう、残ってはおるまい。もっとも、ほんとうに原始人のイエや、防空壕であったとしたら別だが。

いま、この観音塚古墳の穴を、これは自分の穴だとひとり宣言したところで、もうあの頃にはもどれない…。

 

大阪府太子町はお勧めの観光スポットがいっぱい。二上山のむこうにいのちの再生を見た。

二上山 (にじょうざん・ふたかみやま) は雄岳 (標高 517メートル)、雌岳 (標高 474メートル)の二つの峰を持つ双耳峰である。

先週の休日、わたしは長いあいだ、その山を奈良県香芝市の千股池のほとりから眺めていた。

暑かった。

まだ五月だというのに、天気予報は夏日だと告げていた。背中がうっすらと汗ばんでいた。

もう二時間もして、二上山の稜線に夕日がかかる頃には、いくぶんかは涼しくなるだろう。

やがて山の向こうに日が沈み、夜が来て、そしてまた東から泰然と朝日が昇る…。

輪廻する太陽の運行の道すじに、二上山があった。

雄岳山頂付近に大津皇子の墓がもうけられたことが象徴的なように、古 (いにしえ) の都びとたちは二上山を生と死の境をなすところ、そして現生と他界とをへだてるところと考えていたことだろう。そして、山のむこうにいのちの再生を凝視していた。

その現在は大阪府太子町となるところには、推古、孝徳、敏達、用明の各天皇陵や、聖徳太子小野妹子といった貴人たちの墓が、エジプトの王家の谷よろしく数多く密集している。

いまは静寂のなかにたたずむ陵墓群は、むしろその静けさゆえに、当時のひとびとの強い想念をわたしたちにはげしく照射してくる。

 

太子町にて

太子町…。ミカン狩り、いちめんにひろがるブドウ畑、ワイナリー、太子温泉。そして日本最古の官道、竹内街道 (たけのうちかいどう) のはしるこの地に、いまは南阪奈道路が通る。ここを訪れるには「太子IC」「羽曳野東IC」でおりるのがよい。
町の玄関口、近鉄上ノ太子駅前のロータリーには聖徳太子立像が立てられ、駅の乗降客を見守っている。

駅からクルマで10分ほどのところに、推古天皇陵がある。

わたしはさらに、小野妹子の墓を目指した。
道がどんどん狭くなる。
いくら軽自動車だとて、その先の道が不安になり、わたしはクルマを乗り捨てて、徒歩でむかった。

スマートフォンのナビ画面がもうそろそろだと告げたとき、道がわかれた。

石段をのぼったさきに小野妹子の墓があることは、すぐに見てとれた。

しかし左手のお社には、いかにも歴史を重ね、すくなからず物語を生み出してきたであろう古社の風格がある。こちらも素通りするにはしのびない。

さて、どちらに行ったものか。

これはいうなれば、このような感じだろうか。

まったくタイプの異なる、とびきり魅力的なふたりの異性が突然目のまえにあらわれ、同時に求愛される。

あるいは大好物の二皿 (わたしのばあい、たこ焼きとお好み焼きに決まっている) をバーンとテーブルに置かれて、おいしそうなにおいにくらくらしながら、ひたすら目移りしてしまう…とか。

いままでのわたしなら、ロングヘアのコも素敵だが、ボブのコもいいな、などとオロオロして迷うばかりで、結局、両方から愛想をつかされてしまう、といった塩梅だった。

しかしもう、そんな笑いまみれの後悔とはおさらばだ。

男なら、人間なら思いのまま突き進め。

両方とも行けばいいんだ‼

科長神社 (しながじんじゃ) はもともとは二上山上に鎮座していたものが、13世紀、当地に遷座された。主祭神は科長津彦命・科長津姫命の二神。記紀に登場する風神とされる。

わたしはまず拝殿で参拝し、続いて鳥居の奥にあるちいさな流造の本殿でも柏手をうった。

そののち、小野妹子の墓へと石段をのぼっていった。

荒れ果てているな、というのが第一印象だった。

自然のまま、とも言えるわけだが。

竹内街道の果てに

竹内街道推古天皇の治世、難波宮 (なにわのみや) と飛鳥の京 (みやこ) を結ぶために整備された「大道・だいどう」を祖とする。沿道には昔のひとびとの息遣いが聞こえてきそうな古い町並みがあちらこちらにのこる。

路面にあらわに見える、マンホールのふたが少々残念な感じだ。が、それとて聖徳太子のありがたい遺徳をいまを生きるわたしたちに伝えてくれている。

わたしのクルマのタイヤは、不敬にも、そのマンホールのふたのうえをなんど通っただろうか。

今度は孝徳天皇陵に向かうつもりが、道は狭い、クルマをとめる場所はないで、おなじところをぐるぐるとまわる羽目になった。結局、すぐそばの道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にクルマをとめて、徒歩で行くことにした。10分ほどで着くだろう。

わたしは道の駅の奥にある飛鳥橋を渡って、大道をくだっていった。 (そのときにはマンホールのふたをさけて歩いた)

陵 (みささぎ) の参拝道はけっこうな勾配で、かなりの距離があった。

足元の石は少々滑りやすく、注意して登らなくてはならない。

そして宮内庁は、別のものにも注意するよう呼び掛けていた。


うえまで登り切ったわたしは、息をととのえ顔をあげた。
木々の揺らぐかすかな音さえもせず、無音だった。
しかし、なにか規則正しい律動のようなものが迫ってくるのを感じていた。
それは古代からここにつづく山の音…。

なお、参拝道入り口のむかいには、かやぶき屋根の美しい国登録文化財・旧山本家住宅があり、一般に開放されている。

この町にはまだまだ見どころや、ぜひともひとに勧めたい観光スポットが目白押しだが、そろそろ時刻だった。また日をあらためて再訪しよう。

わたしは道の駅までもどった。

ところで、この街道の終着点は正確にはどのあたりなのか確かめたくなって、そこにある大きな案内地図に目をやった。

しかし、たとえどの道を行ったとしても、それがオトコであれオンナであれ、子供であれ、わたしであれ、ほかのだれであったとしても、すべてのヒトの行きつくさきはどうやら笑いまみれの後悔でしかない。

そう思えてきて、わたしはそこから目をそらした。

 

 

 

 

ゼレンスキー・カプチーノの夜、58歳ドールハウス製作にいそしむ (2)

禁煙をしようと思った。

きのうの午前9時、最後の一本に火をつけると「さあ、やりますか!」

わたしは禁煙について語らせれば、日本でも屈指の存在かもしれない。なにしろ過去に百回以上はチャレンジしてきた。

まず家を出るとき、安易にタバコを購入できないようにするために、財布の中身を空にしておく。ピッとスマホ払いだとか、シュッとカード払いであるとか、そういうこじゃれたこととはいっさい無縁だ。そして口寂しさを紛らわせるための、飴とチョコレートをじゅうぶんに用意しておく。コンソメあじのポテトチップスも必須だ。

結果はというと、今回もダメだった。

けさ10時、まる一日達成できた自分へのご褒美のつもりで (いつものことだ) ひと箱買ってしまった。空のはずの財布に、タバコ代程度の小銭ははいっていた。それもいつものこと…。

そんなわたしも、30歳のとき、一度だけ禁煙に成功したことがある。

喉があまりに痛くなって、吸いたくても吸えなくなったからなのだが、あのときの感動は忘れられない。それまで、ニコチンがどれほど自分の神経をスポイルしていたものか、つくづく思い知らされた。

たとえばコーヒーを飲む。

それまでは、にがくて甘い、といったすごく単調な味にしか感じられなかったものが、禁煙して数日たつと、にがさと甘さのあいだに、豆の持つ渋みや苦味、フルーティーなかおりなど、いままでわからなかった奥深い味わいを感じ取れるようになった。

あれは新鮮な驚きだった。

万葉人形劇シアターのいま

三か月前、ドールハウスの製作を思い立ち、それに「万葉人形劇シアター」と名付けることを宣言した。

 

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建設途中の、現在のすがたがこれ。

ホームセンターで購入した三枚の板をただ組み合わせたばかりで、工事などと呼べるものは、まだなにひとつ始まってはいない。

明日やろう、明日やろうと思い続けて三か月。

最近では、これ別の用途でどうだろうかと思い始める始末。

たとえば本棚。

あるいはCDラック。

当初は「59歳ドールハウス製作にいそしむ」にさえならなければいいとのんびりと構えていたのだが、誕生日まで、あとひと月あまりしかない。

期限は6月22日。

ゼレンスキー・カプチーノ

ロシア軍がウクライナに侵攻して、はや数か月。

ニュースでは連日、ウクライナのゼレンスキー大統領を称賛している。

各国の議会でリモートで演説し (日本でも) 、また、報道のテレビカメラのまえで、レンズをじっと見据えて自国への支援を切々と訴える。

この大統領がヒーローだとでもいうのか。

ただの喜劇役者じゃないか。

彼我の国力の差もかえりみず、国際政治のパワーゲームには無頓着で、前後脈略のない理想論を放言し続けたあげくに、国土は蹂躙され、多くの戦死者をだして、自国民に塗炭の苦しみをあじあわせている…。

二つの国が戦争をしている。

一方はか弱い被害者とされ同情をあつめ、他方はただ悪の権化のごとく報道されている。これを日々見せられることへの強烈な違和感と、いったいどう折り合いをつければいいのだろう。

喜劇を悲劇にすり替えようとしてはいないか。

わたしは、夜、自分で淹れたコーヒーを飲むことを習慣にしている。
いつも、三十年近く愛用のマグカップで飲む。

黄土色の本体に描かれたイラストが、熊であるのか、はたまたねずみであるのか、いまもってわからないのはご愛嬌。

このマグカップは不思議だ。

コーヒーであろうと、牛乳であろうと、水でも、緑茶でも、なんであれ、わたしに極上のあじわいを与えてくれる。

今夜も、テレビでゼレンスキー大統領のひとり芝居を見せられるのだろうか。

そのゼレンスキー・カプチーノ、そこにはにがみも、深みも、渋みもない。ただ甘いだけのすごく単純なあじわいだ。芳醇な香りが立ちのぼってくることもない。

愛用のマグカップにいれたとて、わたしの口にはあいそうにない。

 

 

 

 

奴奈川姫 (ぬなかわひめ) の大車輪、得点10・00

我が家の廊下の板には、傷んでいるところが一か所ある。階段のしたあたり。そこを歩くと、かすかにキュッと音をたてる。

この五年来、わたしは帰宅してリビングに向かうとき、いつもわざわざその板を踏む。…ただいま。

ドーン!

テレビを見ていると、廊下で大きな音がした。

扉を開けると、妹だ。

大車輪からみごと着地をきめた鉄棒選手のように、膝をまげ前かがみになって両腕を横にひろげている。

階段の途中から飛んだ…、のかな。

毎朝スーツに身をつつんで有名企業にご出勤のレディーが、自宅では大車輪…。

見ないほうがいいものを見たのかな。

新潟紀行

左手に日本海を眺めながら、国道8号線をすすみ、新潟との県境をすぎて糸魚川にはいった。

糸魚川静岡構造線、ヒスイの産地。

やがて親不知子不知 (おやしらず・こしらず) の奇岩のなかをクルマは過ぎていった。大分県耶馬渓にそっくりなながめだ。わたしには、岩の多い景勝地はどこもおなじに見えてしまう。

ただ明らかに違うのは、糸魚川には美しい海があることだった。

青い海、どこまでも広がる水平線。そこに青空が接続すると、海と空の境はあいまいになって、視界は他には何もない、ただ単色の青になる。

神代のころ、奴奈川姫 (ぬなかわひめ) もこの風景を見ていたのだ。

大国主の妻問い。

これが冬、豪雪のころには眺めが一変する。

すこし郊外に出ると、まばらな家屋は雪に覆われ、その輪郭さえ吹きすさぶ雪が見えなくして、そこにどんよりとした雪雲が覆いかぶさって、今度は一面、白一色の世界になる。

クルマですすむには、最徐行以外にない。

どこに側溝があるのか、ガードレールがあるのかわからず、道がまっすぐなのか、カーブしているのかさえわからないで、ただ慎重に、夏の記憶を頼りにいくしかない。

漆黒は美しい

上越市内でひと眠りして、食事をとったあと、さてどこをどうはしったのか。

とにかく北を目指していた。

南魚沼市」という標識が見えた。わたしはさらに山のなかをすすんでいった。

深夜、日付はとうに変わっていた。

行けども行けども、ヘッドライトが漆黒を切りさくばかりだった。

夜は暗い、とその時までわたしは思っていた。しかし違うのだ。夜は黒い。

いっさい照明などない山のなか、月明かり、星明りもさえ鬱蒼としげる木々にさえぎられてとどかぬそこは、まさに漆黒あるのみだった。

もしもいま、クルマをとめてライトを消したなら…。

わたしはたちまちのうちに漆黒に飲み込まれて、同化していたに違いない。

新潟県の県旗がどのようなものか、わたしは知らないが、青、白、黒の三色旗こそふさわしい。

帰宅して

わたしは今日も、明日も、あさってもあの板を踏もう。

我が家の奴奈川姫はもう帰っているのだろうか。

こんどはこのアニが、みごと大車輪を決めてみせるさ。



 

北緯34度47分、東経135度71分に祈りを

7日前、葛城坐火雷神社 (かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ) に参拝した時のようすをしるしたブログを投稿した。そこがいまや鬼滅の刃の聖地と目されていて、多くの若者たちが訪れていること。火雷大神 (ほのいかづちのおおかみ) と天香山命 (あめのかぐやまのみこと) の二神をおまつりしていること。境内には日露戦争当時のロシア製の大砲がおかれていることなどを、つたない文章で紹介した。

そして次の日の朝、OTSHOKOPAN (id:ot_nail) 様より、それに関してブックマークコメントを頂戴した。

 

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わたしはいったいなにを忘れているのだろう

同氏のコメントはロシア製の大砲について触れたのち、こう続いていた。

 今だからこそ、過去を省みるため、平和を祈るためのオブジェとして役立ちそうです。

わたしはそれを読んで、わが意を得たり、と膝を打ったのではなかった。なにやら痛いところをつかれたと言おうか、なにかを言い忘れていたと言おうか、なんとも名状しがたい気持ちになった。

この気持ちは、なんなんだろう。

この7日間、わたしはずっと自分のこころの内を探っていた。

わたしはなにを痛いと感じ、なにを忘れているのだろう…。

わたしは葛城坐火雷神社に詣でる数日前に行った高天彦神社のことが、妙にひっかかっていたのだ。

ふたつの神社はクルマで15分あまり。

山麓線は葛城市を過ぎ御所市にはいると、急なのぼり勾配がしばらくつづいていく。クルマのフロントガラス越しに空を眺めながらすすんでいくと、天へ、天へと駆けのぼっているような錯覚にとらわれる。

主祭神タカミムスビノカミ。

しかし元々は社殿背後にそびえる白雲峰 (標高 694メートル) を崇めていたことだろう。

ここを訪ねるのは、三度目だろうか、四度目になるのだろうか。

参拝のあとは、きまって土蜘蛛塚に頭 (こうべ) をたれることにしている。

しかし今回、神社の周辺を歩き回ったが、塚を見つけることができなかった。

神社のすぐそばにあったはずなのだが、思い出せない。

ただ無骨な岩が置かれただけの、土蜘蛛の墓。それと気づくヒトがいないと困るから、とでも言うかのように土蜘蛛塚と彫られたちいさな石碑がわきに立っていたはずだ…。

最近、どうにも物忘れがひどくなってきた。

歩き回るうちに、塚のかわりに水車を見つけた。

以前にはなかったものだ。

何が起きようとも、水車の回るごとぐ時は流れていく。

土蜘蛛たちのあとに

土蜘蛛、まつろわぬ人々。いまを生きるわれわれは、かれらの習俗、信仰について詳しく知るすべを持たない。かれらは追いたてられ、迫害され、いくたりかは殺され岩のしたに葬られて、あとには蔑称だけが残された。もしも大王 (おおきみ) がかれらと手をたずさえてまつりごとを行っていたなら、記紀神話はいまとは違った、どれほど豊かなものになっていただろう。

そして、それは遠い昔話ばかりだけではない。

いまも連日、新聞の一面に載っている。

ロシアとウクライナのことだ。

「土蜘蛛たちを殲滅せよ!」

「土蜘蛛たちを国境線のむこうへ押し戻せ!」

「土蜘蛛を排除せよ!」

そこに日露戦争当時のロシア製の大砲だ。

そうだ。わたしはこの前に立ち、土蜘蛛塚の前で自然とそうしていたように、ただ頭を垂れていたかったのだ。

そして、これからはどこにいようとも葛城坐火雷神社のほうを見据えて、できるかぎり祈っていこう。

いつの日にか、平和の号砲が鳴り響くことを願おう。

北緯34度47分、東経135度71分、何時でも、そのお社のほうへ向き直り祈りを、とわたしは思った。

 

 

 

 

 

 

 

だれが大和三山を眺めながら鬼滅の刃を耽読するのか、葛城坐火雷神社をあとにして

赤面確実とは、こういうことを言うのだろう。

二上山葛城山山麓を南北にはしる県道30号線 (御所・香芝線、通称山麓線)の周辺には、葛城坐一言主神社、高鴨神社、高天彦神社などの名だたる古社をはじめ、多くの古墳が点在している。また、そこからは奈良盆地を一望でき、大和三山がまるで手を伸ばせば届くのではと思わせるほど近くに見ることができる。

わたしはこの道を「祈りの道」とひそかに命名し、ひとり悦に入っていた。当地に居を移した30年近くまえのことだ。

普段の生活に、この道を利用することはなかった。

しかし、気分転換をしたいときにはふらりと家を出て、よくここをクルマでのんびりとながすのだった。

つねに同乗者のいないことはさいわいだった。

わたしはきっと小鼻を膨らませ、得意げな顔でいたことだろう。

曇天の葛城坐火雷神社にて

祈りの道 (もうやめておこう。山麓線、だ) からクルマでほんの数分、西へ入ったところに、葛城坐火雷神社 (かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ) はある。地元では、笛吹神社と通称されることのほうが多い。

笛吹連 (ふえふきのむらじ) の祖先神・天香山命 (あめのかぐやまのみこと) と火の神・火雷大神 (ほのいかづちのおおかみ) はもとは別々にまつられていたはずだが、現在は合祀され、主祭神二座となっている。「延喜式神名帳」にはすでに葛城坐火雷神社二座とあることから、平安時代にはすでに合祀されていたことになろうか。

以前ここを訪れたときには、名神大社にふさわしく、静謐、清明な気に満ちていたものだった。

しかし最近ではようすが変わったという。

コスチューム・プレイヤーたち

アニメ「鬼滅の刃」が人気だという。

単行本の売り上げは記録的だそうだ。海外にもファンが多いときく。

そのなかの「我妻善逸・あがつまぜんいつ」という登場人物が作中で繰り出すワザに「火雷神」というのがあるのだと、新聞の奈良県版が伝えていた。それがここの御祭神と一字違いなことから、聖地巡礼よろしく、鬼滅の刃風の衣装 (それがいったいどんな衣装だというのか、後日写真を見るまで、わたしには想像さえできなかった) を身に着けた若者たちが境内を闊歩し、さかんに記念撮影に興じているのだと。

葛城市の公式ホームページでかれらの姿を見て、わたしは唖然とした。

かつらをかぶり、薄っぺらな衣装を着ておどけたポーズをとる男の子。

拝殿に上がり、柏手を打つ若い女性たち…。

かれらの身に着けているものといえば、慎重に言葉を吟味していうならば、色鮮やかだった。

奇妙奇天烈な世界…。

しかしかれらは、なんと真剣だろう。なんて楽しそうな表情をしているのだろう。

これほど世上にぎわせている「鬼滅の刃」について、わたしはなにひとつ知らなかった。そればかりか、なんの関心さえ持てないでいた。

すっかり好奇心さえなくしたことが歯がゆく、わたしは自分に腹を立てていた。

10年ぶりに訪ねたお社に「かれら」の姿はなかった。

無理もなかった。平日の午後、いまにも雨が降りだしそうな空模様だ。

境内におかれた、ロシア製の大砲が見えた。

日露戦争当時のものだという。戦利品ということになろうか。

「我妻善逸」が繰り出す「火雷神」は、この大砲よりも凄まじいのだろうか。

バッグパッカー

きょう、山麓線から眺める大和三山はどんなようすだろうか。

曇り空のせいで、はっきりとは見えないかもしれない。

そのときには、道路わきにクルマをとめようか。

そして後部座席にいつも積みっぱなしにしているリュックサックから、きのうレンタルショップで借りてきた「鬼滅の刃・1巻・2巻」を取り出して、読んでみればいい。

とんだバッグパッカーなんだ。