出雲日御碕灯台が照らし出すもの

日御碕神社を染めるもの

出雲大社からくるまで15分あまり、県道29号を北に進むと朱色に塗られた見事な権現造の日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)に至る。現在の社殿は三代将軍、徳川家光の命により日光東照宮の…、

「いやあ、立派ですなあ。だいだい色、きれいわ。伏見稲荷と一緒や。」誰なんだ、行く手を阻むこのおやじ。大声で、ところかまわずに勘弁してほしい。

かかわらないで通り過ぎよう。「なあ、大将!」

つかまった。

「はあ…」

「わしな、前からここ、いっぺん来たい来たい思もてましたんや。ヨメがここえらい好きでなあ…。あっちがな、アマテラスまつってますねん。ほんでこっちがスサノオ。御存じでしたか。」

「いや……」どうしてなのだろう。なぜここで関西弁なんだ。「今日は奥さんは」

「なんかこう、身が引き締まるような気持ちになりますなあ。厳粛な気持ちって言いますんかな」

なったかもしれない。あなたがいなくてひとりきりなら。

「ご病気かなにかですか」

「いや、離婚しましてん。二年前」

「……」

「それにしてもきれいわ。だいだい色。ここ、あれですやろ。もうちょっとむこう行ったら、水平線にダーッとおひさん沈んでいくのん見れますんやろ。その夕日に染められたみたいですわな。もともと古代にはその夕日を拝んでたんですやろな。日沈の宮、言うぐらいですさかいな」

そんなわけで、わたしはいま日御碕神社にいた。

そして海岸を目指して歩いて行った。

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出雲日御碕灯台

180度ひろがる水平線が見えた。

小さな子供をつれた家族連れ、岩場に腰を下ろす恋人たち。そのうしろを海鳥がてくてくと歩く。まるで若い二人をはやし立てているみたいだ。お幸せに!そして正面には白亜の出雲日御碕灯台。さきほどの男性ならきっと、京都タワーみたいやと、大声をあげていたに違いない。

あいにくの曇天のせいで、夕日は見えなかった。しかし広がるのは見事な海。わたしの両腕いっぱいに、ただ海だけが広がっていた。立ち尽くすうちに、波の音に包まれるうちに、この海がわたしから虚栄や不安などの一切の雑味を洗い流してくれるのではないかと、そんな思いにとらわれた。裸のわたしがそこにいるはずだった。

わたしは日暮れまでそこにいた。

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あの日、出雲日御碕灯台が照らし出したわたしは、どんな風に生まれ変わったわたしだったのだろう。

海亀とバイパスと出雲大社と

大社町で神賀詞についての講演会が開かれると聞きつけて、それならたとえ末席でもいいから、是非とも話を聞いてみたいと思った。今となっては変な話だ。でもその時は、もう居ても立っても居られなくなって、急いで家を飛び出したんだ。本当の話だ。

うそではない…。

 

出雲国造神賀詞

そんなわけで、クルマに飛び乗ると、新しくできた出雲バイパスを西に向かってはしった。信号が多い。きっとこんな風に言うひとがいるんだろう。これではバイパスって呼べないよな。一般道と変わらないよなと。でも、そんな風に言うもんじゃない。こいつが肩身を狭くすることはないんだ。車線を減らせたりしなくていいんだよ。役所が決めた名前だ。堂々と出雲バイパスって名乗っていればいいんだ。地図にもそう記載されているじゃないか。

うそであるはずがない。

それに、まっすぐではしりやすい道だ。なんなら出雲高速って名付けてもいいぐらいだ。でも調子に乗ってると、違反切符をちょうだいすることになる…。

 

出雲バイパスって信号が多いの?

これは、まだ一部しか開通していなかった頃のはなしさ。ながい工事が終わって、2022年10月に出雲バイパスは完全4車線化が完了しているよ。

わたしは国道431号線に入り、島根ワイナリーを通り過ぎた。(帰りにあそこで土産を買って帰ろう。乾杯! 安いのもありますように) 会場まであといくらの距離もない。まず大社に参拝し、それから徒歩で向かおうか。

出雲国造神賀詞(いずものこくそうかむよごと)は、8世紀から9世紀にかけて、国造が、代替わりのたびに大和へ出向いて天皇家に対して奏上した祝詞(のりと)だ。口語訳を一読しても、わたしには理解できたと言い切れないほどに難解だが、わたしが魅了されるのは、この祝詞の言葉が持つ旋律のようなもの、魂の律動のようななにかだった。

わたしは大鳥居をくぐり、参道を歩いた。

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海亀たちの行進

平日の昼間だというのに、参拝者が多い。玉砂利を踏みしめる音が境内に響きわたる。さすがに出雲大社だ。まっすぐの参道を歩いていくと、ひざまずき、両腕を天にむかってひろげている大国主命の像が見えた。そして、その先に4本の木の杭を立て、わらのロープで囲っている。玉垣ではない。なんだろうか。看板が立てられ、こう書かれていた。

 

立ち入らないでください。海亀が卵を産みました。

 

うそ…、だよね。

西に行けば、あの稲佐の浜だ。しかし1キロはあるぞ。途中には商店もあれば、住宅もある。なにより自動車道だって何本もある。ほんとうにここまで海亀がやってきたのだとしたら、それこそ建御名方神(たけみなかたのかみ)も裸足で逃げ出すだろう。

これはいったい何なんだ。

ここがもし、浦嶋子(浦島太郎)をまつった宇良神社だというのなら、ちょっとした余興とでも思えたかもしれない。しかし、これはどう理解すればいいんだ。

水路なのか…。稲佐の浜からここまで、地下水路か何かが通っているのか。いや、バイパスだよ。そうか、自動車用といっしょに、海亀用のもつくったんだと思ってすぐに、あまりのばかばかしさに失笑した。

それにしても、看板の前で立ち尽くすわたしの横を、ほかの参拝者たちは何事もないとでも言いたげに通り過ぎていく。こちらに一瞥さえくれない。なぜなんだ。

これは、わたしにはまるでティラノザウルスが市街地を闊歩していますなどといったたぐいのはなしだ。

いったいなにが起きているんだ。

わたしは参拝をおえると(宇佐神宮同様、四柏手だ)、ふたたび看板のところまで戻ってきた。

講演会の時刻が迫っていた。わたしは足早に通り過ぎた。

背後で、一匹の海亀が卵の殻を破り、玉砂利のうえをヨチヨチとわたしのあとを追いかけてきているような気がした。

わたしは叫びそうになった。おい、おまえら、なぜ気にとめないんだ。海亀だぞ。なぜ驚かないんだ。なぜなんだ。

そして、孵化したおおぜいの赤ちゃん海亀たちがわたしを追いかけ、まさにいま、わたしの背によじ登ろうとしている、そんな気配がした。

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新年 あけましておめでとうございます

丹生川上神社(中社)

去年に続いて、ことしも初詣のいきさきには、ちょっとした思慮が必要だった。このウイルス騒ぎのせいだ。一の宮や総社は人出のことを考えると、どうしても足を運ぶのを躊躇してしまう。さて、どこに行こうか。大寒波を裂いてクルマをはしらせる。助手席に放り込んだのは週刊文春。原色美女図鑑は綾瀬はるかだ。これで三年連続かな。確かそう。新年合併号の巻頭を綾瀬が(呼び捨て。しかも名字だけ!)飾るのは。これを見ると、ああ、正月なんだなあと、しみじみ思ってしまう。圧倒的に美しい…。三年と言わず、どうかあと三十年はやってください。

家を出て30分もすすむと、たちまち渋滞で動かなくなった。みんな橿原神宮にむかうクルマだろう。さて、脇道にそれてみたところで、そのままの方向にすすめば、今度は大神神社だ。さらに大変なことになっているだろう。わたしはUターンして、京奈和道に入り南にむかった。

すぐに背後に巨大な影が…。新年早々あおられてるよ。赤い軽自動車なんぞにのってると、ドライバーは若い女の子とでも思われるのか、たまにこんなことが…、こら、パッシングはやめなさい! こっちは綾瀬(ふたたび呼び捨て)を乗せてんだぞ!

どうにか一般道におりて難を逃れたが、まわりは見たことのない景色だ。どうやらもう吉野らしかった。そして、ここまで来たのなら丹生川上神社・中社に行ってみようかと思った。以前、上社に参拝したおりに、いつか中社、下社と参拝して三社参りをしてみたいと思ったのだ。

下社・中社・上社と称しているが、これは元宮・上の宮・下の宮(里宮)ということではなく、もともとそれぞれ別のお社であったものが、さまざまな経緯、考証を経て、大正11年丹生川上神社・下社・中社・上社を称し、官幣大社に列せられたものだ。

もう2時間近くはしってないか。奈良と言っても広いものだ。これでは以前、和歌山県かつらぎ町の丹生都比賈神社(にうつひめじんじゃ)に行った時と、たいして変わりがないぞ。もっとも、この山系を越えたらかつらぎ町ではあるわけだが。

中社まであとすこしというところまで来たとき、ニホンオオカミの像が目に入った。生きたニホンオオカミが最後に目撃されたのは、あるいはこの辺りだったか。

そしてやっと到着した。

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すこし配慮に欠けたヒト

想像通りの美しい自然に囲まれていた。

目前を流れる清流、高見川をすこし上流に歩くと、蟻通橋のあたりで(ここ中社は中世には蟻通明神と称していた)、三本の川が合流する「夢淵」と名のついた深渕がある。一面、瑠璃色エメラルドグリーンの水をたたえたそこは、東征のおり、神武天皇が戦勝を祈念したところとも伝えられている。ちかくの小さな滝「東の滝」ともども、大地を流れる水の尽きせぬ生命力を感じさせてくれる。多くの神社では、御祭神は何度か、今風に言うと上書きされてきている。しかし、ここでは創建以来一貫して水神を祭ってきたのだろうと、容易に納得できた。

境内もまた美しかった。造営事業中のため、拝殿の大部分は工事用のシートで覆われていたが、それは別段残念なことではなかった。残念なヒトは拝殿の前にいた。

無意識のうちに、Vサインで自撮りしてしまったのだ。我々の世代、カメラを向けられると条件反射のようにVサインをする人がたくさんいる。このご時世、あちこちの施設の入り口には、体温測定用のカメラが設置されているが、わたしなどその前を通り過ぎるときにもいつもVサインだ。

ほかの参拝客たちも、こころなしか眉をひそめているような気がして、ずいぶん恥じ入ってしまった。新年の祝祭気分の中、たとえ自分のこととはいえ、あまりあしざまには言いたくないのだが、どんなに言葉を選んでも、すこし配慮に欠けた振る舞いだったかもしれない。

人前でVサインを掲げるのは、第二次世界大戦中のウィンストン・チャーチルが嚆矢になる。この苦難を跳ね返そう。我々はドイツに勝利する。Vサインは勝利(ビィクトリー)へのこころからの希求、レジスタンスの象徴であったはずだから。

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わたしは拝殿の前で柏手をうち、すべての人に心の平安が訪れますように、そして、すこし配慮に欠けたヒトにもどうか幸あれと、ミズハノメノカミにいつまでも願った。

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鹿児島 東南東の風 快晴

火山灰と雪

鹿児島に、最後に雪が降り積もったのは、いったいいつのことなのだろうか。

晴れた日に桜島を眺めるのは気持ちのいいものだ。県外者などは、ついつい荒々しいとか、男性的な、生命力に溢れたといったイメージをそこに抱きがちだ。いちめん、それは的外れではないだろう。しかし、波静かな鹿児島湾が鏡面のように空の青をうつし、ただ桜島を抱いているさまを見たものは、その優美な姿に、誰もが魂を激しく揺すられる。まわりの人たちは、おお、などと感嘆の声をあげ、さかんにシャッターを押していたが、わたしは魅入られ、茫然として立ち尽くすばかりだった。全国、景勝地は数多くあるが、どれほど美しい風景を見ても、それと似た別の場所を思いつくことは、さほど難しくはない。しかしここ桜島だけは、唯一のものだ。いまから未聞の生(せい)が始まる予感に、わたしは打ち震えた。

「あの火山灰ってどうするのかしら」

「みんなが集めたやつを自治体が回収するらしいよ。ゴミみたいに」

「へえ。燃えるゴミの日、燃えないゴミの日、プラ製リサイクルの日、空き缶の日、それと火山灰の日!」

「そんな週一とかではないでしょう。桜島が噴火した時だけだよ。不定期でしょう」

「そうなの。でもちょっとロマンティックね。雪かきみたいで」

雪かきがロマンティックだって!その会話をうしろで聞いていたわたしは、思わず声を上げそうになった。一晩で身の丈近くも降り積もる雪。あれは厄災以外の何物でもない。はやく屋根の雪をおろさなければ!うまく屋根にのぼれたとしても、うっかり足を滑らせでもすれば、命の危険さえある…。

「あら、風が吹いてきた。噴火したら、こっちに灰が飛んできちゃう。嫌ねえ。」雪かきオンナは振り返って言った。わたしと同年配の女性だった。「ねえ」

なぜ、隣にいるつれとおぼしき男性にではなく、わざわざ振り向いて、見ず知らずのわたしに同意を求めたのだろうかと、いま、しみじみ不思議に思う。あの風はわたしが吹かせた訳ではないのに。はるかむかし、この星が自転を始めたときから、絶えることなく風は吹いていた…。

「まったくですねえ」わたしは答えた。

確かに、東南東の風が吹いていた。

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東南東の風が

神代のころ、豊玉姫が朝に夕にと玉乃井で水を汲んでいた時にも、その風は井戸のまわりに吹いていた。そして、そこを訪れた彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)の肩にも、擦過するように吹き付けた。

沖永良部島で、瘦せこけた西郷公が静かに瞑想している時にも、目前をその風は吹き抜けていった。

知覧の空に、軽量の戦闘機が一機、また一機とトンボの群れのように飛び立っていったときにも、上空に風は吹いていた。悲哀と慟哭(どうこく)と…。

風は桜島の周りをぐるぐるとまわり、鹿児島市街に向かう。国道3号線を北上し、無数に分かれて、気ままにすすんでいく。山を越え、霧島神宮を過ぎて、高千穂峰に向かって風は吹いた。

永遠に生きたいと思うものがいれば、その風は笑うだろう。

風は草地にやさしく吹き、葉のうえで休んでいたカナブンの小さなからだにも吹いた。

鹿児島県庁の旗をはためかせ、肝属川のかわもを波立たせた。

そして上白石萌歌のスカートのすそをひらひらと揺らした…、はずだ。

センセーショナルだ!

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名勝・長門峡をまぢかにして、まどろみながら思った3つのこと

やれやれの、車中泊

阿東(あとう)までにしか進めなかった。

本当なら、日の高いうちに島根県との県境をこえ、津和野に至っていたはずなのに…。こんな風になるのは、しょっちゅうだ。余裕をもって出発しても、途中であれやこれやと目移りする。あっちへふらふら、こっちへ立ち寄り、あげくにタバコをふかせて一服してしまう。この日もそうだった。国道3号線を車ではしり福岡市内に入ると、そうだ、香椎宮に立ち寄ろうと思ってしまった。前から行きたかったのだし、この機会を逃す手はない。霊廟を起源とするという、そのめずらしい成り立ちの神社のことを考えると、わくわくした。香椎造りの、荘厳で変化にとんだ本殿。みどりのトンネルをぬける勅使道…。

ああ、でもどうしてこんなに道が混んでるんだ。

明治のころに再建された、見上げるような楼門。天高く起立する御神木・綾杉…。よし、やっと。でも駐車場はどこなんだ。不老水、古宮、それから、それから…。

ついに車内は煙でいっぱいになって、すっかりいじけて、道路わきにとめた車の中で、またあたらしいタバコに火をつける。結局、参拝は果たせぬまま、すっかり時間だけを無駄にして、赤茶色のレンガ造りの建物を見やりながら関門トンネルに入る頃には、もうすっかり疲れ果てていた。

山口市阿東にある道の駅・長門峡は、国道9号線に沿った細長い敷地に、人々を迎え入れてくれる。文字通り名勝・長門峡のすぐ近くにあり、国道と並行するJR山口線には、観光用のSLがはしる。

あたりはすっかり薄暗くなっていた。わたしは駐車場に車を止めてまず思ったのは、なぜいつもこんな風になるのかな、ということだった。昼間の行き当たりばったりの行動を反省してみるものの、そんな後悔があまりにも日常すぎてか、さっぱり答えの見当がつかなかった。やれやれ、今夜はここで車中泊になる。昨晩は天皇陛下のお宿に泊まったというのに。

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天皇陛下のお宿

大分県耶馬渓(やばけい)は、日本新三景のひとつに数えられる景勝地だ。

「一目八景(ひとめはっけい)」と称される、新緑、紅葉と季節ごとに色を変える目にあざやかな自然。日本最長の石造アーチ橋「耶馬渓橋」そして「古羅漢」「青の洞門」さらに、さらに…。いたるところ、まるで前衛芸術のオブジェのようにそびえる、奇岩、巨岩。

わたしは「山国屋」というところに宿をとった。リーズナブルな宿泊代が理由だっただけに、その立派な日本家屋にたいへん驚いたものだ。玄関を入ると、左手に昭和天皇の御影が掲げられている。うしろに写るのはいま見たばかりの、まさにこの建物。

「こちらに天皇陛下が…」

「はい。そのお部屋にお泊りいただくことはできませんが、見学なら承りますよ。ご覧になられますか。」

それは恐れ多いと早々に辞退したが、その夜、つまり昨夜は心和む一夜だった。気立てのいい上品な女将。家庭的な温かな料理。遠くできこえる虫の音。

だからこそ、いま長門峡で力尽きているこの奇妙な偶然に、たいへん驚いたものだ。ここは長門峡と名付けられる以前は、そのそっくりな景観から長門耶馬渓と呼ばれていた歴史があった…。

窓をすこし開け、タバコに火をつけた。そして、やはり旅を続けようと強く思った。意外なよろこびや、奇妙な偶然に次々に出会うのは旅ならではだ。その思いは、数年前にあの山国屋が長い歴史に幕を下ろしたと、風の便りに聞いたいまでも変わらない。たとえさみしい知らせに接したとしても、旅には旅でしか出会えない驚きに満ちている。

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シュッシュッ、シュッシュッと蒸気機関の力強い音、線路をはしるけたたましい音が近づいてきた。先頭車両のあかりが前方を照らしている。景気よく汽笛を鳴らし、真っ黒なSLが道の駅の横を過ぎていった。

わたしは疲れ果てていた。

もう寝ようとしたが、なかなか寝付けなかった。空腹のせいかもしれない。なにか腹に入れよう。建物のあかりが消えて、食堂が閉まる前に、とわたしは思った。

神武東征御進発の地で、人生の船出について考える

日本海軍発祥の地

名高い神武東征の御船出の地は、いまの宮崎県美々津からだと伝えられている。

初代天皇神武(イワレヒコ)は途中、宇佐などに立ち寄りながら瀬戸内海を東進、生駒山を越えて大和入りを目指すもナガスネヒコと衝突して敗走。再び海路、紀伊半島をまわり熊野に再上陸すると、幾多の苦難をはねのけ、霊剣・布都御魂(ふつのみたま)を授かり、ヤタガラスに導かれるなどしてついに大和入りをはたし、畝傍山(うねびやま)の麓、橿原宮で初代天皇として即位する。  

この東征神話には、どのような史実が反映されているのだろう。史実などなにひとつない。天皇家の権威づけのための壮大な創作だ、と言うひとがいる。饒速日(ニギハヤヒ)の九州からの東進譚をなぞったものだと言うひとがいる。銀を求めて移動したという説もあれば、いや、すべてが史実だ。神武こそは神の御子なのだと、声高に叫ぶひともいる。

神武天皇が御船出に先立ち、住𠮷三神、すなわち底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を奉斎し、航海の無事を祈念したとして、第十二代景行天皇の御代、この地に立磐神社が創祀された。境内には「神武天皇御腰掛之磐」があり、注連縄をかけ、玉垣を巡らせて御神体としている。そしてすこし離れたところに、東征神話に因んで「日本海軍発祥之地」という石碑が誇らしげに、高々と建っている。こちらは米内光政、元内閣総理大臣・海軍大将の揮毫(きごう)による。

しかし実際の美々津は「東征」「日本海軍」といった勇ましいいずれの言葉とも、いっけんかけ離れた穏やかなところだ。

耳川が波おだやかな日向灘にそそぐ河口付近には、かつて「美々津千軒」とも称された京風、上方風の白壁に出格子をそなえた多くの町屋が、江戸時代から明治、大正と海運で栄えた当時のおもかげをいまに伝えている…。

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船出せよ

その古い町並みを、わたしはゆっくりと歩いた。何軒かの建物はカフェに改装されて、営業していた。石畳の通りは、日々、磨かれているのではないかと思わせるほどなめらかで、周囲の風景を映している。まるで一個の虹色のジオラマのように美しい、美々津の町は。すると、ここに立ち尽くしているわたしは、その中の小さなオブジェでしかないのか。ふとそんなことを考えると、急に、自分のことがちっぽけな存在に思えてきた。

…船出せよ

わたしは、いままでに何度の船出を経験しただろうか。若いころ、どこにも出かけず雨戸をしめて自室にこもり、寝食を忘れて何年も好きな小説を読み耽(ふけ)っていた。あれは船出だったろうか。しかしどこにも橿原宮は見えなかった。あるいは転勤で見知らぬ山陰の地にながくいたこと。あれが船出なのか。ついぞおきよ丸は現れなかった。

…船出せよ

船出のない人生にいったいどんな価値を見出せばいいのか。

いま、海原に漕ぎ出そう。錨をあげて、ちからの限り大声で叫ぶのだ。たとえ1メートル、また1メートルだとしても、船は前へと進んでいくはずだ。たとえ待ち受けるのが難破や遭難だとしても、恐れるな。船出だ。

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わたしは、国道わきにとめていたクルマのほうにあるいていった。

不意にうしろから吹きつけた風に背中を押され、早足になった。

潜伏キリシタンの資料館は、森のなかにひっそりとたたずんでいた

森の奥深くに

「あった!」

薄暗い森のなか、わたしは満面の笑顔で声をあげた。思わず指さした先にある建物が、予想にたがわず、小さくて華奢だったからだ。それはまるで、絵本にでてくる魔法使いの老婆が住んでいる小屋のように、静かにたたずんでいた。ほかには誰もいない土の道を、入り口に向かって歩いていく。波の音が聞こえていた。かすかに、潮の香りが運ばれてくる…。

長崎県平戸市にある「切支丹資料館」は、この地方の潜伏キリシタンの歴史的遺物を展示し、禁教令のもと、いちずにキリスト教の信仰をつらぬこうとした彼等の受難や、その後の信仰の変容過程を紹介している。時の流れのうちに、マリヤ像は着物を着たふくよかな顔のマリヤ観音となり、薄暗い納戸の中にキリシタンの母体を秘蔵し、納戸神としてこれを祭った。わたしはそれらを眺め、ただ立ち尽くしていた。からだが硬直し、動かなくなった。館内は生(せい)への熱烈な希求で充溢していた。こころのよすがをなくしては、ひとは生きていけない。それは、棄教を拒んで死をえらんだ殉教者たちには自明のことだったのであろう。

そんな資料館が駅前の繁華街にあったとしたら、どうだろうか。やはりなにかが違うとかんじたはずだ。それがひとりひとりの潜伏キリシタンさながらに、森のなか、ひっそりとたたずんでいた。

あまりにも、なにやら出来すぎのように思われて、わたしは笑ったのだ。

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海の道を往く

はじめての長崎行きだった。午前5時過ぎ、ここは長崎市内随一の目抜き通りと思われるが、路面電車の線路が、朝日を受けてぎらぎらと光るのが目立つばかりで、まだ人影は見られない。長崎は観光名所に事欠かないが、どこに行くにしても、時間が早すぎると思われた。気ままにドライブといきますか!わたしはアクセルを強く踏んだ。お団子しっぽの猫が、気持ちよさそうに長々とのびをしていた。

正午前、左手に海をのぞみながら県道10号線をすすんでいくと、「切支丹資料館」と書かれた小さな案内板が目に入った。長崎は著名な観光名所に事欠かない。大浦天主堂、グラバー邸、ハウステンボス稲佐山…。しかし切支丹資料館とはいったい…。わたしは車を降りて森のほうを見た。背後で波の打ち付ける音がした。

長崎はいにしえの昔から、海外との玄関口であった。平戸から朝鮮半島までは200キロ余り。島伝いに海の道を往った古代の人々は、はたしてどんな思いをいだいていたのだろうか。

壱峻島、対馬島社格の高い神社が多くあることは、地元の人以外には、あまり知られていない。壱峻には、月読神社、天手長比売神社などの名神大社をはじめ、式内社24座。対馬には、和多都美神社などの名神大社6座、小社23座で、式内社29座。

小舟には何人が乗り込んでいたのだろう。本人ひとりだけか、あるいは家族全員だったろうか。ときに海流にまかせ、ときには逆らって往く海の道。無事を願い、希望を思い続けたそれはまた祈りの道。

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わたしは資料館を出て、車に乗り込んだ。

平戸。この信仰の十字路に、いまを生きるわたしたちは、いったいどのような想いをかさねていけばいいのだろう。