名勝・長門峡をまぢかにして、まどろみながら思った3つのこと

やれやれの、車中泊

阿東(あとう)までにしか進めなかった。

本当なら、日の高いうちに島根県との県境をこえ、津和野に至っていたはずなのに…。こんな風になるのは、しょっちゅうだ。余裕をもって出発しても、途中であれやこれやと目移りする。あっちへふらふら、こっちへ立ち寄り、あげくにタバコをふかせて一服してしまう。この日もそうだった。国道3号線を車ではしり福岡市内に入ると、そうだ、香椎宮に立ち寄ろうと思ってしまった。前から行きたかったのだし、この機会を逃す手はない。霊廟を起源とするという、そのめずらしい成り立ちの神社のことを考えると、わくわくした。香椎造りの、荘厳で変化にとんだ本殿。みどりのトンネルをぬける勅使道…。

ああ、でもどうしてこんなに道が混んでるんだ。

明治のころに再建された、見上げるような楼門。天高く起立する御神木・綾杉…。よし、やっと。でも駐車場はどこなんだ。不老水、古宮、それから、それから…。

ついに車内は煙でいっぱいになって、すっかりいじけて、道路わきにとめた車の中で、またあたらしいタバコに火をつける。結局、参拝は果たせぬまま、すっかり時間だけを無駄にして、赤茶色のレンガ造りの建物を見やりながら関門トンネルに入る頃には、もうすっかり疲れ果てていた。

山口市阿東にある道の駅・長門峡は、国道9号線に沿った細長い敷地に、人々を迎え入れてくれる。文字通り名勝・長門峡のすぐ近くにあり、国道と並行するJR山口線には、観光用のSLがはしる。

あたりはすっかり薄暗くなっていた。わたしは駐車場に車を止めてまず思ったのは、なぜいつもこんな風になるのかな、ということだった。昼間の行き当たりばったりの行動を反省してみるものの、そんな後悔があまりにも日常すぎてか、さっぱり答えの見当がつかなかった。やれやれ、今夜はここで車中泊になる。昨晩は天皇陛下のお宿に泊まったというのに。

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天皇陛下のお宿

大分県耶馬渓(やばけい)は、日本新三景のひとつに数えられる景勝地だ。

「一目八景(ひとめはっけい)」と称される、新緑、紅葉と季節ごとに色を変える目にあざやかな自然。日本最長の石造アーチ橋「耶馬渓橋」そして「古羅漢」「青の洞門」さらに、さらに…。いたるところ、まるで前衛芸術のオブジェのようにそびえる、奇岩、巨岩。

わたしは「山国屋」というところに宿をとった。リーズナブルな宿泊代が理由だっただけに、その立派な日本家屋にたいへん驚いたものだ。玄関を入ると、左手に昭和天皇の御影が掲げられている。うしろに写るのはいま見たばかりの、まさにこの建物。

「こちらに天皇陛下が…」

「はい。そのお部屋にお泊りいただくことはできませんが、見学なら承りますよ。ご覧になられますか。」

それは恐れ多いと早々に辞退したが、その夜、つまり昨夜は心和む一夜だった。気立てのいい上品な女将。家庭的な温かな料理。遠くできこえる虫の音。

だからこそ、いま長門峡で力尽きているこの奇妙な偶然に、たいへん驚いたものだ。ここは長門峡と名付けられる以前は、そのそっくりな景観から長門耶馬渓と呼ばれていた歴史があった…。

窓をすこし開け、タバコに火をつけた。そして、やはり旅を続けようと強く思った。意外なよろこびや、奇妙な偶然に次々に出会うのは旅ならではだ。その思いは、数年前にあの山国屋が長い歴史に幕を下ろしたと、風の便りに聞いたいまでも変わらない。たとえさみしい知らせに接したとしても、旅には旅でしか出会えない驚きに満ちている。

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シュッシュッ、シュッシュッと蒸気機関の力強い音、線路をはしるけたたましい音が近づいてきた。先頭車両のあかりが前方を照らしている。景気よく汽笛を鳴らし、真っ黒なSLが道の駅の横を過ぎていった。

わたしは疲れ果てていた。

もう寝ようとしたが、なかなか寝付けなかった。空腹のせいかもしれない。なにか腹に入れよう。建物のあかりが消えて、食堂が閉まる前に、とわたしは思った。

神武東征御進発の地で、人生の船出について考える

日本海軍発祥の地

名高い神武東征の御船出の地は、いまの宮崎県美々津からだと伝えられている。

初代天皇神武(イワレヒコ)は途中、宇佐などに立ち寄りながら瀬戸内海を東進、生駒山を越えて大和入りを目指すもナガスネヒコと衝突して敗走。再び海路、紀伊半島をまわり熊野に再上陸すると、幾多の苦難をはねのけ、霊剣・布都御魂(ふつのみたま)を授かり、ヤタガラスに導かれるなどしてついに大和入りをはたし、畝傍山(うねびやま)の麓、橿原宮で初代天皇として即位する。  

この東征神話には、どのような史実が反映されているのだろう。史実などなにひとつない。天皇家の権威づけのための壮大な創作だ、と言うひとがいる。饒速日(ニギハヤヒ)の九州からの東進譚をなぞったものだと言うひとがいる。銀を求めて移動したという説もあれば、いや、すべてが史実だ。神武こそは神の御子なのだと、声高に叫ぶひともいる。

神武天皇が御船出に先立ち、住𠮷三神、すなわち底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を奉斎し、航海の無事を祈念したとして、第十二代景行天皇の御代、この地に立磐神社が創祀された。境内には「神武天皇御腰掛之磐」があり、注連縄をかけ、玉垣を巡らせて御神体としている。そしてすこし離れたところに、東征神話に因んで「日本海軍発祥之地」という石碑が誇らしげに、高々と建っている。こちらは米内光政、元内閣総理大臣・海軍大将の揮毫(きごう)による。

しかし実際の美々津は「東征」「日本海軍」といった勇ましいいずれの言葉とも、いっけんかけ離れた穏やかなところだ。

耳川が波おだやかな日向灘にそそぐ河口付近には、かつて「美々津千軒」とも称された京風、上方風の白壁に出格子をそなえた多くの町屋が、江戸時代から明治、大正と海運で栄えた当時のおもかげをいまに伝えている…。

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船出せよ

その古い町並みを、わたしはゆっくりと歩いた。何軒かの建物はカフェに改装されて、営業していた。石畳の通りは、日々、磨かれているのではないかと思わせるほどなめらかで、周囲の風景を映している。まるで一個の虹色のジオラマのように美しい、美々津の町は。すると、ここに立ち尽くしているわたしは、その中の小さなオブジェでしかないのか。ふとそんなことを考えると、急に、自分のことがちっぽけな存在に思えてきた。

…船出せよ

わたしは、いままでに何度の船出を経験しただろうか。若いころ、どこにも出かけず雨戸をしめて自室にこもり、寝食を忘れて何年も好きな小説を読み耽(ふけ)っていた。あれは船出だったろうか。しかしどこにも橿原宮は見えなかった。あるいは転勤で見知らぬ山陰の地にながくいたこと。あれが船出なのか。ついぞおきよ丸は現れなかった。

…船出せよ

船出のない人生にいったいどんな価値を見出せばいいのか。

いま、海原に漕ぎ出そう。錨をあげて、ちからの限り大声で叫ぶのだ。たとえ1メートル、また1メートルだとしても、船は前へと進んでいくはずだ。たとえ待ち受けるのが難破や遭難だとしても、恐れるな。船出だ。

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わたしは、国道わきにとめていたクルマのほうにあるいていった。

不意にうしろから吹きつけた風に背中を押され、早足になった。

潜伏キリシタンの資料館は、森のなかにひっそりとたたずんでいた

森の奥深くに

「あった!」

薄暗い森のなか、わたしは満面の笑顔で声をあげた。思わず指さした先にある建物が、予想にたがわず、小さくて華奢だったからだ。それはまるで、絵本にでてくる魔法使いの老婆が住んでいる小屋のように、静かにたたずんでいた。ほかには誰もいない土の道を、入り口に向かって歩いていく。波の音が聞こえていた。かすかに、潮の香りが運ばれてくる…。

長崎県平戸市にある「切支丹資料館」は、この地方の潜伏キリシタンの歴史的遺物を展示し、禁教令のもと、いちずにキリスト教の信仰をつらぬこうとした彼等の受難や、その後の信仰の変容過程を紹介している。時の流れのうちに、マリヤ像は着物を着たふくよかな顔のマリヤ観音となり、薄暗い納戸の中にキリシタンの母体を秘蔵し、納戸神としてこれを祭った。わたしはそれらを眺め、ただ立ち尽くしていた。からだが硬直し、動かなくなった。館内は生(せい)への熱烈な希求で充溢していた。こころのよすがをなくしては、ひとは生きていけない。それは、棄教を拒んで死をえらんだ殉教者たちには自明のことだったのであろう。

そんな資料館が駅前の繁華街にあったとしたら、どうだろうか。やはりなにかが違うとかんじたはずだ。それがひとりひとりの潜伏キリシタンさながらに、森のなか、ひっそりとたたずんでいた。

あまりにも、なにやら出来すぎのように思われて、わたしは笑ったのだ。

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海の道を往く

はじめての長崎行きだった。午前5時過ぎ、ここは長崎市内随一の目抜き通りと思われるが、路面電車の線路が、朝日を受けてぎらぎらと光るのが目立つばかりで、まだ人影は見られない。長崎は観光名所に事欠かないが、どこに行くにしても、時間が早すぎると思われた。気ままにドライブといきますか!わたしはアクセルを強く踏んだ。お団子しっぽの猫が、気持ちよさそうに長々とのびをしていた。

正午前、左手に海をのぞみながら県道10号線をすすんでいくと、「切支丹資料館」と書かれた小さな案内板が目に入った。長崎は著名な観光名所に事欠かない。大浦天主堂、グラバー邸、ハウステンボス稲佐山…。しかし切支丹資料館とはいったい…。わたしは車を降りて森のほうを見た。背後で波の打ち付ける音がした。

長崎はいにしえの昔から、海外との玄関口であった。平戸から朝鮮半島までは200キロ余り。島伝いに海の道を往った古代の人々は、はたしてどんな思いをいだいていたのだろうか。

壱峻島、対馬島社格の高い神社が多くあることは、地元の人以外には、あまり知られていない。壱峻には、月読神社、天手長比売神社などの名神大社をはじめ、式内社24座。対馬には、和多都美神社などの名神大社6座、小社23座で、式内社29座。

小舟には何人が乗り込んでいたのだろう。本人ひとりだけか、あるいは家族全員だったろうか。ときに海流にまかせ、ときには逆らって往く海の道。無事を願い、希望を思い続けたそれはまた祈りの道。

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わたしは資料館を出て、車に乗り込んだ。

平戸。この信仰の十字路に、いまを生きるわたしたちは、いったいどのような想いをかさねていけばいいのだろう。

宇佐神宮を目前にして、苦笑まみれになったたったひとつの残念な理由

車窓から

初めて宇佐神宮に参拝することになったその日、わたしは朝から居住まいをただし、ずいぶんと身構えていたものだ。それはそうだろう。全国4万社あまりある八幡社の総本宮神仏習合発祥の地。(そしてまたお神輿発祥の地でもあるそうだ。)この地もまた、奈良や京都と同様に、日本人の心のふるさとと呼びうるところだろう。

だからこそ、カーナビゲーションが目的地まであと5分と告げた頃、国道10号線の両側にたくさんの星条旗がはためいているのが見えたとき、いったい何が起こっているのかと首をかしげるばかりだった。

極めつけは、右のこぶしを高々と突き上げた、身長5メートルはあろうかという巨大なバラク・オバマ氏の人形の上半身が、ビルの3階の窓を突き破り、いまにも大空へ飛び立とうとしているかのようだったことだ。

いったいなにがそんなに楽しかったのか。彼は上機嫌に笑っていた。あれは、もうどれくらい前のことだったか。ちょうど、オバマ氏が次期合衆国大統領に決定したというニュースが、テレビ画面をにぎわせていた頃だ。「チェインジ!」彼はまっすぐに前を見据えて熱弁をふるっていた。「チェインジ!」

神宮の杜(もり)

大分県宇佐市、たしかにアルファベット表記ならUSAに違いない。「だからってなあ…」と口をついたかどうかは覚えていないが、苦笑を禁じえなかった。わたしは、もっと厳粛で、もっと信仰一色な町の様子を想像していた。すべての会話、すべての建物、ありとあらゆるものが、ただ祈りにのみ捧げられているとでもいったような。例えば天理駅前のような…。

わたしは神宮の駐車場に車を進め、正面を仰ぎ見た。神宮の杜が起立している。それは一瞥しただけだは視界に収まりきらないほど大きく、圧倒的だった。濃密な緑が密集し、そのはるか奥、高いところにある本殿を厳重に隠していた。わたしは両目を見開いた。口をあんぐりとあけてもいただろうか。

突然、まるで目前に古代の城塞が現れたようだった。八幡神が、ながらく武神として崇められてきた理由の一端を垣間見たような気がした。

怖気づいたのでもなかろうが、わたしは正面ではなく東のほうへとまわって行った。

どれほど歩いた頃だっただろうか、小さな本屋が店をあけていた。背の高い本棚にかこまれた通路は狭く、日光をうまく取り込めていない。子供のころ、よく通っていた本屋もやはりこんな風だった。そこはいつも薄暗く、紙のにおいがした。最近では、小ざっぱりとした明るい感じの店ばかりになったが、それらさえも、今では閉店に追い込まれるところが後を絶たない。出版不況というらしい。「チェンジ!」すべてはそういうことなのだろう。

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一年、また一年と、時の移ろいとともに多くのものが変わっていく。そんななかにあって、いつまでも変わらずにあってほしいと思うものも、またあるものだ。まだやっているのだろうか。あの小さな本屋は。